第五十六話 救い
――なあ、聞いたか? あの女性の事
――ってか無理だろ、もうああなったら
――だよな、あんな状態で生きているなんてぞっとするよ
――しかも、凄まじい痛みらしいしな。それにもう意識もないとか
――俺なら無理だ。いや、誰だってあの姿で生きてくぐらいなら
あれほど五月蠅い虫の音が聞こえない。
いや、生き物の気配が一つもない。
今まで何度か来ていた母の実家。
五月蠅いほどの虫の音どころか、一切の生ある音が聞こえなかった。
けれど、香奈にとってそんな事はどうでも良かった。
一度だけ、目覚めた。
この目覚めの前に。
ぼんやりとまどろむ意識の中で聞いた言葉。
ずっとずっと聞いていた。
聞こえていた。
「……咲、さん」
寝かされていた布団から体を起こす。
障子を開けて、外に出る。
いつの間にか着替えさせられていた白い浴衣の裾を引きずりながら、長い廊下に足を踏み入れた。
ギシギシと鳴る板の音。
廊下の奥が見えないほどの闇に、ようやく明かりが一つも灯っていない事に気づく。
普通の少女なら、それこそぽっかりと口を開けた闇に足を踏み出すことは難しい。
けれど、香奈はものともせず、ゆっくりと歩き出した。
ヒラヒラと靡く白い袖。
身に纏う白い浴衣は、まるで――装束。
カタンと、何かが落ちる音が聞こえた。
カラカラと、何かが闇の奥から近づいてくる。
カラカラ――
カラカラ――
カラカラ……
十メートルほど向こうに、着物姿の女が立っていた。
その横には、小学生ぐらいの女の子。
白いを通り越した青白い顔。
けれど、一番あり得ないのはその――。
ねぇ、なにしてるの?
少女が聞く。
なにしているんですか?
女性が聞く。
ケタケタと笑う声。
けれど、その顔は口すらも動いていなく無表情そのもの。
香奈は知らない。
『穢呪』となった咲から拡散した呪いが引き起こした波紋。
それがもたらす穢れが神有家の聖域を揺るがし、普段は遠ざけている悪しき者達をまるでブラックホールの様にこの場に吸い込んでいる事を。
そして今や、不浄なるものは入る事の赦されない聖域を悪しき者達が我が物顔で徘徊している事を。
悪霊――少女と女性はそう呼ばれる存在だった。
彼女達は自分達の作り出したテリトリーに入った哀れな獲物を嘲笑う。
ねぇ、なにしてるの?
なにしているんですか?
少女と女性が聞く。
たいていの獲物が、これだけで発狂した。
無駄な抵抗をして、必死に逃げ回るのだ。
でも、あっという間に捕まってしまう。
そして、ばりばりと喰らうのだ。
けれど、女性と少女の思いとは裏腹に、獲物はそれに答える事なく、こちらに向かって歩き続ける。
まるでそこに居る二人に全く気づいて居ないかのように。
ねえ、なにしてるの?
なにしているんですか?
やはり動かない口元で、無表情のままで。
二人は獲物を呼び止めるように手を伸ばした。
骨となった手で。
けれど、その手がバチンと弾かれる。
今まで多くの命を摘み取ってきた手が、拒まれる。
これは何?
女性と少女は砕け散った自分の手を見た。
気づいた時、ここに居た。
女性と少女は親子だった。
どこにでも居る、普通の母と子。
小さな村で家族三人で幸せに暮らしていた。
けれど、父は始まった戦争で取られ、母と子だけが家に残された。
それは村のどこも同じ。
若い男達は兵士として戦地に趣き、残されたのは年老いた者達と女子供だけ。
それからどうなったのだろう。
気づいた時、こうやって彷徨っていた。
違う。
覚えている。
忘れていただけ。
暑い。
倒れた。
血。
吐いた、苦しい。
流行病。
隔離。
火。
焼き討ち。
生きたまま。
落ちた。
爆弾。
みんな。
飲みこま。
女性と少女は自分達の手を見る。
そこにあったのは。
笑い声が絶叫に変わる。
こんな、こんな姿に。
漂っていた、闇の中。
時折、笑いながら近づく相手を引きずり込み。
みんなで喰らっていた。
お腹が空くから。
食べないと、生きていけないから。
だって、待たないと。
夫が。
お父さんが帰ってくるのを。
じゃないと、びっくりするから。
ここはどこ?
村よりも心地の良い闇だった筈。
ようやく見付けた、食べ物。
なのに伸ばした手が変になった。
かさかさの手。
水分を失った手にびっしりとあるのは。
少女が叫ぶ。
女性が叫ぶ。
自分達を苦しめた、流行病の証。
かかったら死ぬしか無いそれに、近隣の村に助けを求めた者達は殺された。
その病を持ち込まれる事を恐れて、村に閉じ込められた。
縛られ、それでも抵抗すれば手足を切られ、生きたまま焼かれた。
苦しい。
恐い。
助けて。
憎い。
誰か。
助けを求める声は炎にかき消され、喉が焼かれていく。
流行病の苦痛。
生きながら焼かれる苦痛。
仲良くしていた近隣の村人達の悪鬼の形相。
自分達の命を守る為に、自分達の村を守る為に。
助けを求めた手を払われた。
刀で切られ、焼き殺された。
病で満足に動けない体に与えられた苦痛。
酷い、酷い、酷い。
私達のせいじゃないのに。
私達が病を持ち込んだわけじゃないのに。
そう、そうだ。
お前達が、私達を生け贄にしたくせに。
だから、私達は病にかかった。
なのに、全ての罪と共に焼き払ったお前達。
ははは、だから、爆弾、落ちた。
全て、吹っ飛んだ。
近隣の村も、全て。
飲み込まれた。
ははは、はは、はははははは!!
ナンニモナクナッタ
でも
それで終わり。
滅んだ村で、女性も少女も、いや、みんなどこにもいけなくなった。
死んだのに、死んだ筈なのに、苦しい、痛い、恐い。
死んでも我が身を焼き焦がす業火。
体を蝕む病の痛み。
死んだのに。
死んだのに。
それでも、自分達は、ここに居る。
そして今、忘れていたのに、思い出す。
マシ――
少女が叫ぶ。
ナノ――
女性が叫ぶ。
村で、死んでもなお、留まり続けた。
あの滅んだ村で。
時折来る、哀れで愚かな若者達を喰らい続けながら。
他の村人はどこに行ったのだろう。
苦しい。
恐い。
痛い。
気づけば、筵の上に転がっていた。
あちこちに、転がりながら苦しむ村人達の姿が見える。
ああ、あれはお隣の。
ああ、あれは裏の家の。
ここは村の中。
流行病で苦しむ村人達があちこちでのたうち回っている。
苦しい。
苦しい。
苦しさに喉をかきむしりながら、地面を血だらけの爪でかきながら。
願う。
こんな、こんな――。
こんなに、苦しいなら――。
そっと、頬に何か触れる。
え?
見上げたそこに居たのは――。
ああ――
焼かれても、私達の苦しみは終わらなかった。
死んでも、終わらなかった。
いつまでも苦痛の中に留められた。
死は、安らぎではない。
死は、新たな苦痛の始まり。
なのに
なのに
私達を見捨てたそれが、私達を――。
あ り が と う――
香奈の手の中に収まった二つの光の玉が淡く輝き、消えていく。
開かれた隠り世の門。
向こうに待つ、冥府の神に誘われてその魂は遙か彼方へと飛翔する。
多くの命を食い散らかした先に待つのが安寧とはほど遠いものだとしても。
彼女達にとっての救いは与えられたのだから。
悪鬼達がもたらした苦痛の死ではなく。
――がもたらした救いの……。
耳に聞こえた、吐息のような礼の言葉。
囲っていた光の玉が消え、空っぽになった両手を香奈は見つめる。
そして、ポツリと呟いた。
「ラクニ、ナレタンダネ」
シンダホウガマシ
流れ込んできた、思い。
狂わんばかりの壮絶な過去。
マシ。
マシだ。
アンナノ。
シンダホウガマシ。
その願い通り、満足そうに微笑みながら逝った二人。
香奈はゆっくりと両手を降ろすと、歩き出した。
目指すは屋敷の奥。
この先に居る、今、最も安らぎを求めている相手の元に向かって。




