第五十四話 貴婦人
現当主夫人――神有 歌子。
旧姓は囃 歌子という一般家庭の娘である彼女は、霊力も人並み程度だった。
少女時代は平凡な学生として生きていた歌子の人生を変えたのは、現神有家当主である彼女の夫。
神有 柚姫の妻になった事で、彼女の未来は変わった。
今ではその世界に名高く、社交界でもその名を轟かす麗しき貴婦人。
そして一族の者達全てが敬意をもって頭を垂れる神有家の聖母。
柚緋はこの祖母を慕っていた。
いや、孫達の中で慕わない者は居ないだろう。
十人並みの容姿だが、浮かべる微笑みは固く凍てついた万年雪でさえ溶かすほど温かい。
「お、ばあ、ちゃん」
香奈の言葉に柚緋はそっと目元を着物の袖でぬぐった。
祖父は嫌煙されているが、祖母はきちんと香奈に祖母認定されている。
これはあれか――構い過ぎて嫌われるパターン。
まあ、あの祖父は変態だし。
家のしきたりとはいえ、若い頃はのりのりで女装していたし。
そしてその女装姿で祖母と運命の出会いをした祖父。
祖母はどう思っただろう。
当時、『天の姫』と謳われた、見た目だけは完璧な清楚可憐にして姫系ロングヘアの美少女である祖父との出会いを。
聞いてみたい。
けれど、時折耳にする祖母の噂に柚緋は口を噤み続けてきた。
『柚姫様と歌子様の出会いはのう……うん、まあ、うん。それは素晴らしい相手の意思を無視した略奪結婚じゃった。ん? もちろん無視されたのは歌子様に決まっているじゃないか』
と、祖父の某友人の言葉に、とりあえず祖母にとって祖父との結婚は不本意極まりないものだったのだろう。
まあ、祖父が女装を完全に止めたのは自分の父が生まれてから。
当時は女同士の結婚とかで騒がれたそうだ。
むしろ、祖母が花婿と言われていたとか。
「傷はどう?」
歌子の手が香奈の頬を撫でる。
触れればまだ痛みはあるが、祖母に触れられると逆に痛みが和らいだ気がした。
能力者でも治癒が難しい呪いの傷。
もちろん呪いは全て咲へと向かったが、それでも呪いを帯びていた傷は治りにくく、こうして普通の人間達が行う治療法しかなかった。
しかし、その方法に柚緋は不満を覚えていた。
その方法は確かに有効であり傷を治す事は出来るだろう。
だが、傷を治すだけしか出来ない。
傷跡が残る可能性は非常に高かった。
香奈の頬に傷が残る――そんな事、柚緋には我慢出来なかった。
しかも、どこかのバカによってつけられた傷なんて――。
「おばあちゃん……私」
「咲さんの事ね」
そう言うと、香奈は歌子に抱き締められていた。
ふわりと甘く優しい香に包まれる。
これは祖母が好んで使うお香の香りだった。
「心配なのは当然だわ。でも、いつまでも香奈が哀しい顔をしていたら咲さんの方が困ってしまうわ」
「……」
「ねぇ? 香奈。咲さんの能力の事は聞いたでしょう? 彼女が能力を発現させたのは、彼女がまだ高校生の頃よ。その時から、彼女は『夢見』としてその能力を使ってきた」
歌子の言葉に柚緋は静かに目を閉じる。
「そんな彼女だからこそ、今回の事に対する危険性は熟知していたわ」
「……私を、守ったから」
「だから逃げられなかった、呪いを受けたと言いたいのね、香奈は。自分の代わりに」
香奈はこくりと頷いた。
「そうね、確かにそれはあるわ」
「おばあさまっ」
焦る柚緋の言葉を制止、歌子は言葉を続けた。
「確かに咲さんだけなら逃げられたでしょうね。でも、逃げなかった。それはたとえ我が身を犠牲にしてでも香奈を助けたいと彼女が願ってくれたからだわ」
「……」
「彼女にだって大切なものは沢山ある。それでも、香奈を、私の愛しい孫娘を守ってくれたわ」
「私が、神有家の孫だから……でしょう?」
神有家と距離は置いているが、それでもその名が持つ力を香奈は何となくだが分かっている。
すると歌子がゆっくりと首を横に振った。
「確かにあなたは神有家の孫娘。母の清奈は家を出たとはいえ、直系の姫よ。でも、咲さんの方が実はよっぽど凄いのよ。なんたって、あの方は『神の花嫁』ですもの」
「神の、花嫁?」
「――話が逸れたわね。でも、咲さんが凄いのは本当の事。それこそ、この神有家よりもずっとずっと。そんな方が、自分の危険を顧みずあなたを助けてくれた。つまり、そうしても良いというぐらい、香奈は凄い子だって事よ」
「違う、そんな事ない。私は」
否定しようとする香奈の頭を歌子が優しく撫でる。
「いいえ、あなたは私達の自慢の孫娘。そして、咲さんはそんな大切な私達の香奈を守ってくれたの。そう、だからこそ失えない」
「……おばあちゃん?」
「香奈、あなたは神有家の家訓を知っている?」
その言葉にぶんぶんと首を横に振る香奈に歌子が微笑んだ。
「目には目を、歯には歯を、悪意には悪意、そして――恩は百倍返し」
柚緋がふっと苦笑する。
昔両親から教えられた家訓。
その家訓どおりに生きてきた。
刃向かうものには容赦せず、受けた恩は――
「神有家が受けた恩はどんな事をしても返すわ」
美しい黒の双眸に宿る意思の光に、香奈は息をのんだ。
いつも優しく嫋やかな祖母が見せた凛々しく凜とした眼差しに魅入られる。
「咲さんは死なせないわ、神有家の総力をもって助けます。だから香奈、あなたも気をしっかりと持ちなさい」
「……」
「それに、命がけで彼女が守ったんですよ? 彼女が元気を取り戻した時にあなたがぐったりとしていたら、咲さんはとても哀しくなってしまうわ」
その言葉に、香奈の瞳から涙が流れ落ちる。
『夢見』から目覚め、咲の悲惨な状態を見てから初めて、香奈は泣いた。
泣き喚いたわけではない。
それでも止まることのない涙は、今まで抑えていた全てを溢れさせていた。
「ったく、世話をかけさせやがって……」
「柚緋、女の子には優しくしてあげてね」
祖母の優しい嗜めに柚緋はぷいっと顔をそらせたが、その頬が紅くなっている事には気づかれているだろう。
「それで、おばあさま。咲さんの方は」
「先程少し状態が安定したそうよ。ただ、まだ世界渡りは出来ないけれど」
「向こうからは来られるのですか?」
「連理さんが向こうに連絡を試みて下さっているんですけどねぇ」
「ああ、呪いが邪魔してますか」
拡散した呪いは敷地内を漂っている。
結界のおかげで外には出られていないが、その分中に溜まってしまい、磁場を歪ませているのだ。
その為、電話やテレビ、ラジオ、その他の通信機器は使えなくなっているばかりか、通信系の術はモロにその余波を喰らって発動が困難になっていた。
そもそも、通信系の術は移転系に比べると断然マシだが、それでも他の術と比べると非常に不安定な代物と言われている。
フルパワー時の連理ならまだしも、力の大半が封印されている状態では出来ても時間がかかる。
逆にいえば、高位能力者を越える力を持つ連理でさえも手こずる様な呪いを放つ相手だという事だ――今回の相手は。
『本当に厄介だよ、向こうは。蛇のように狡猾で、なおかつ実力もある』
そう言って笑った連理だが、目は全く笑っていなかった。
『それでいて、完全に楽しんでいる快楽狂ジンシャ』
それがどちらを示すのかは分からない。
けれど、たぶん柚緋の予想通りだろう。
咲の身体と魂を蝕む呪い。
『夢見』中とはいえ、幾つもの結界網を強いた筈なのに――あらゆる妨害を突破して直接魂に傷を付け、それはそのまま体にも影響を及ぼした。
魂だけでなく、そのダメージを体にも伝えてしまう程の傷を易々と与えられる相手。
それだけなら高位能力者という答えが出るが、今までの事を総合すればもはや相手は……。
柚緋は溜め息をつくと、そのまま祖母に頭を下げる。
「柚緋」
「おばあさま、しばし御前を失礼いたします。香奈を頼みます」
そう言って、そのまま駆け出そうとした柚緋の足下が揺れた。
「え?」
その途端、柚緋の魂を揺さぶる様な悲鳴に息をのんだ。
そしてそれを感じたのは、柚緋だけではない。
「これは――」
人並みの霊力しかない祖母すらも気づいた。
嫌な予感が渦巻く。
それがドロリと流れだそうとした時、柚緋の前に現れた家人。
高位能力者の一人でもある彼は、震える声でそれを告げた。
「つい先程、咲様の容体が――」
咲の容体の悪化。
最悪な状況だった。