第五十二話 哀絶
視ちゃダメーー
咲の叫びと共に、のばされた手によって香奈は抱きしめられていた。
けれどそれでも香奈は視続けていた。
なぜならその光景は最初から『目』で見ていたのではない。
『魂』で視ていたのだから。
香奈と咲の前に、響子が立っていた。
先ほど、男によってめちゃくちゃに切り刻まれた響子が。
傷一つない姿で。
最期に身に着けていた制服姿で。
虚ろなまなざしをそれに向けていた。
ボロボロとなった自分の『体』。
魂が抜け、その繋がりが断ち切れただの肉塊と化した、遺体。
えぐられてぽっかりと空いた片目。
皮一枚で繋がる首の大きな傷口。
切断された片腕。
最初に両足を刺された。
次に喉をつぶされ、目をえぐられた。
そして片腕を切断された。
最後は、首を皮一枚残して切断された。
その時にはもう、出血で響子の魂は体から抜け出ており、繋がりは切れていた。
それでも男は笑いながら響子を切り刻んだ。
何度も、何度も、何度も。
狂ったように叫びながら響子を切り刻み、そして男は姿を消した。
満足しながら。
それこそ、もう一人いた獲物のことすら忘れて、鼻歌交じりに陽気にスキップしながら工場跡から出て行った。
そんな男にすら気づかず、響子は自分の惨殺死体を前に佇んでいた。
夜が明け、隠されていた場所からふらふらと這い出た女性。
彼女がそのままおぼつかない足取りで工場跡を立ち去り、トンネルに入りそこを出てしばらく歩いたところで倒れ、そこを通りがかった者に助けられた時も。
女性を襲った変質者を探してトンネルを超え、工場跡で響子の遺体を警察が発見した時も。
響子がようやく自我を取り戻したのは、警察官達が自分の遺体を収容した後の事だった。
『あれ?』
キョロキョロと周囲を見回す。
いつの間にか周囲が明るい。
それに、沢山人がいる。
ああ、彼らは警察官だ。
警察官が来てくれた。
ようやく涙が出そうなほどの安心感を覚え、響子は一人の警察官に駆け寄った。
これで助かる。
いや、もう助かったのだ。
あの男も姿がないし、いや、もう捕まったのかもしれない。
自分は逃げ切れたのだ。
そう、だからあれは夢だ。
警察官に声をかけようとした時、呼びさまされた恐怖の悪夢。
あれは、すべて、夢ーー。
響子は警察官に声をかけながら手を伸ばしーー
するりとその体をすり抜けた。
『えーー?』
その後、響子は何度も警察へと手を伸ばし、声をかけた。
けれど、警察官の誰もがそれに気づかず、作業を終えるとその場から去って行った。
一体何が起きているのかーー
響子の中に嫌な予感がこみ上げる。
警察官達がテープで囲んだ場所に見えるあれはなんだろう。
地面にしみ込んだ、あの大きな赤黒いものは。
そして、この場所は。
この、瓦礫と金網に囲まれた場所は。
響子が、サイゴに居たーー
あの悪夢がよみがえる。
違う、あれは夢だ。
あんな怖いのは、夢だ。
響子は焦る気持ちで走り出す。
警察官達の去った方向へと。
『はぁ……はぁ……』
駆けて、駆けて、駆け抜けて。
響子は自分の家にたどり着いた。
そこは、普段と変わらない家。
そう、何も変わるはずがない。
響子は扉を開けようと手を伸ばした。
『あれ?』
扉を開けようとのばした手をそのままに、いつの間にか玄関に立っていた。
その状況にゾワリと奇妙な違和感を抱くものの、響子はそれを振り払い中へと進んだ。
今は一刻も早く両親の顔が見たい。
昨日家に帰らなかった娘をさぞ心配しているだろう。
いや、怒られるかもしれない。
特に母は怒ったらとても怖い。
それは父も同じだ。
だから沢山沢山謝ろう。
そして両親に抱き着き、久しぶりに甘えるのだ。
これが、すべて悪い夢だと思えるように。
けれど、そこに両親はいなかった。
いつもは居間で新聞を読む父と、料理の支度をする母の姿はない。
日が沈んでも、夜になっても両親は帰らなかった。
そんな父と母がようやく帰ってきた時、響子の目に信じられないものが運ばれてきた。
それに縋り付く母は半狂乱だった。
「嘘、こんなの嘘よ、嘘嘘嘘おぉぉぉぉっ」
母は縋り付く。
布団に寝かされ、白い布を顔にかぶった存在を抱きしめる。
いつもなら母を宥める父も呆然と座り込んでいた。
だから宥めるのは周囲に居た者達の役目で、そこには親戚やら近所の人やらが居た。
その全員が涙ぐんでいた。
「どうして、どうして、どうしてよおぉぉぉぉおっ」
「奥さん、落ち着いてっ」
「なんで、なんでなんでうちの子が……こんなの嘘だあぁぁっ」
抑えようとする周囲を拒み泣き叫ぶ母を呆然と見ながら、響子は視線を布団の上のそれに移した。
なぜなら、それは、それは……。
響子だからだ。
あまりに損傷の激しすぎるそれは、白い包帯でぐるぐる巻きにされていた。
それでも、かすかに包帯の巻いていない部分を見て響子はわかってしまった。
あれは自分だと。
気づかなければよかった。
なのに気づいてしまった。
そして周囲の会話から響子は更なる衝撃を受けた。
自分はもう死んでしまっているのだという事を。
『う、そ、だぁ……』
響子は泣いた。
誰にも届かない声で泣き喚いた。
どうして自分が死ななければならなかったのか。
どうして死ぬのが自分だったのか。
生きたい。
まだまだ生きたかった。
葬式が行われ、告別式が始まり、自分の体が火葬場へと運ばれていく。
鉄の扉の向こうで体が焼かれ、骨となった自分に縋り付く両親の横で泣き続けた。
死にたくなかった。
生きたかった。
でも、もうどうにもならない。
「ごめんね、響子……助けてあげられなくて」
母の声が聞こえてきた。
目を真っ赤にしながら仏壇の前にある骨壺に語りかける母。
響子がまるでそこにいるかのように泣き崩れる母の姿に、響子は母に縋り付いた。
生きたい。
生きたかった。
その思いは今もある。
でも、母の方が心配だった。
日がな一日ぼんやりとする母。
父は崩壊した家庭を何とか維持しようと必死に働いたーー陰で泣きながら。
時には仏壇の前で、時には四十九日が過ぎて娘のお骨を埋葬した墓の前で。
雨の日も、風の日も、雪の日も。
死にたくなかった。
生きたかった。
でも、両親の方が心配だった。
だから響子は自分の哀しみをこらえて両親を見守った。
それに、十分だったから。
響子が死んでも、両親は響子を忘れないでいてくれる。
友人達も近所の人も響子の仏壇や墓前にお参りしてくれた。
今日はこんな事があった。
誰誰がこんな事をした。
こんな事もあったよね。
テレビでも新聞でも連日のように取り上げてくれて、全国からお見舞いの手紙も届いていた。
ああ、自分の事を覚えていてくれる。
忘れないでいてくれる。
死んだけれど、ずっとみんなの心の中にいる。
いつしか、響子はそれだけで満足していた。
犯人が捕まらない事も、捜査が行き詰っている事も、どうでもよくなっていた。
それからどれだけ時間が流れただろうーー。
次第に友人達は来なくなった。
生きている友人達にはやるべき事が沢山ある。
いつまでも響子の事にだけかまっていられない。
響子は悲しかったけれど、我慢した。
いつしか、テレビや新聞もその事件を取り上げなくなっていった。
新しい事件が次々と起きていたから。
あれほど来ていた慰めや応援の手紙が来なくなった。
新しい犠牲者の遺族に彼らの意識は移って行ったから。
絶える事のなかった墓前と仏壇の花はいつしか枯れ果てた。
枯れたものさえ、無くなった。
響子は死んだ。
それでも、世間は回っていく。
でも、響子は我慢した。
寂しいけど、苦しいけど。
まるで、響子の事なんかなかったかのように回っていく世間を。
響子がいてもいなくても同じというようにふるまう周囲を。
すでに体が滅び、伝える術の全てを失った響子は見ながらも我慢した。
なのにーー
「っ?!」
突然、視界がぐにゃりとゆがむ。
テレビの様な砂嵐が周囲に発生する。
「な、これはっ」
「咲さんっ」
ザザ、ザザザザ
音が、途切れ途切れになる。
見えなくなる、聞こえなくなる。
大事なのに。
響子が、なぜこうなったのか。
満足し、我慢していた筈の響子が。
どうして、どうして。
ああなったのかーー
ゆがむ視界。
飛ぶ音。
その中で、香奈は必死に『視た』。
響子は泣いていた。
どうして、どうして、どうして
母の言葉。
父の言葉。
周囲の言葉。
そして、響子の代わりにそこに居る存在に彼女は叫ぶ。
どうしてっ……
「そこまでだよ」
耳元で囁かれたそれが、ケラケラと笑い出す。
「ああぁぁぁぁぁああああっ!」
続いて耳を貫く絶叫に、香奈は咲の方を向く。
「あーー」
後ろから肩を貫く刃。
それが、香奈の頬を切り裂く。
少しずれていれば、顔面を貫かれていただろう。
「まさかここまで視られるとはねぇ。でも、ここまで」
それはニタリと笑った。
「後は料金を払ってもらわないとーー命でね」
「ダメっ香奈ちゃん逃げてっ」
「煩い」
それが、咲の背中を切り裂く。
「あーー」
「とっとと死ねよ」
再度振り下ろされる刃が、香奈の目に映りこんだ。
「はい、終わり」
刀をあっさりと振り下ろし笑う。
だが、空振る感触に首をかしげた。
「あれ?」
確実に仕留めた筈なのに、手ごたえが全くない。
その時だった。
それの目に、ありえないものが映り込んだのは。
「へ……」
のばされる二本の腕。
黒い、黒いものが首に絡み付く。
途端に脳裏に飛び込む。
死、死、死、死、死。
「がぁっ」
その腕を振り払った途端に、それは霧散した。
女達はいない。
どこにも。
けれど追いかける事は出来なかった。
後に残されたそれの脳裏にいまだ焼きつく『死の恐怖』。
払っても払ってもそれは消えない。
すぐ目の前にあった『絶対なる死』。
「な、なんだ、これは」
わからない、わからない、わからないーー。
しばしそれは動けなかった。
ドンッと、何かに勢いよく叩きつけられるような衝撃に香奈は目を開けた。
「香奈っ」
「え……ゆ、柚緋?」
呆然と従兄弟の名を呼ぶ。
その隣で、それは聞こえてきた。
「咲っ」
その声に振り向いた香奈の目に映ったのは、玲珠に抱きかかえられ、青白い顔で背中から血を流す咲の姿だった。