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冥姫  作者: 大雪
第一章 忘却の罪
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第五十話 足音


「おはよう、響子」

「おいおい、今日はいつもよりねぼすけだな」

「お父さんってば酷い! いつもより五分遅くなっただけなのに」


 響子は父に小さく舌を出すと、そのまま自分の席に座り込む。

 幼稚園の頃に買ったダイニングテーブル。

 小さい頃は椅子に座るのも一苦労だったが、今では軽々と座り足もつく。

 それを父親は感慨深そうに新聞を畳みながら見守った。


「あなた、今日の帰りは何時になるの?」

「ん? そうだな、今日はいつも通りだが……何かあるのか?」


 その言葉に凍り付く居間の空気。

 発信源はもちろん――。


「お、お父さん!」

「え、あ」

「えあ? 空気がどうしたのっ! って、それより今日だよ今日っ」


 響子は慌てて父に思い出させようとする。

 しかし、父は思いつかない、というよりは母の怒気に凍り付いていた。


「そう、覚えてないの」

「お、お母さん!お、おおお父さん! 今日! 大切な日でしょう!」

「大切? ……あ」


 ようやく父は思い出した。


「結婚記念日か……」

「そう、あなたの記憶の片隅にも留まっていなかった結婚記念日なの」


 母の持つ皿がピシリと音を立て、広がるヒビに響子は恐怖した。

 このままでは、父が血祭りにあげられる。


 学生時代からの関係で、そのまま恋愛結婚で今もラブラブ。

 なくせして、記念日を大切にする母と疎い父という構造から実は喧嘩も多かったりする。

 とはいえ、その喧嘩の殆どは関わるのもバカらしく、それこそ「好きにしてください」と娘があきれ果てる始末だ。


 両親の友人達や親戚からも「好きにさせておいた方がいいよ」と助言を受けた響子は基本的には喧嘩勃発と同時に避難する。


 ただ、それでも時折今みたいな放置したら血を見るような場合には響子も関わらざるを得ない羽目となるが。


 だって、帰ってきたら父が血の海に沈んでいた――なんてなったら大変だし。

 父は中高大学と空手部だったが、母は母でダーツ部だった。


 ダーツ部より空手部の方が強いのではないか?と思われるかもしれないし、実際父は全国大会に出場する程だったが、響子がまだ幼稚園だった時に母の投げた小物が見事父の額を一撃した瞬間は今も忘れられない。

 というか、完全にトラウマになるような父の吹っ飛び方だった。


 父は「お母さんの愛は激しいんだ」とか言っていたが、額に絆創膏を貼った姿はどう見ても間抜け以外の何者でもなかった。


「け、けけけ結婚記念日か! な、ななななならお祝いをしないとなっ! そうだ! 何か食べに行くかっ」

「食べるって何処行くの。どこにも予約してなかったんでしょう?」


 良く使われるデートスポットのレストラン関係は殆どが予約制であり、今からでは九割方無理だろう。


「い、いやいや! 響子、料金の高さだけが全てじゃない! 大切なのはおいしさだ! 実はこの前美味しい店を見つけたんだ」


 そうして父は一生懸命に母の機嫌をとっている。

 しかし一度凝り固まった母の心に父の言葉は中々響かないようだった。






 覚えていてね



『誰の心にもあなたの声が響くように。そういう意味を込めて、あなたの名前をつけたのよ』



 だから、あなたの名前は響子なのよーー






 チャイムが授業の終わりを告げる。

 教科担当が教室を出ていくと同時に、解放感に満ちた生徒達の談笑と椅子のひかれる音が聞こえてきた。


 この後は担任を待ち、帰りのHRが行なわれる。


「響子、今日のクラブだけど最後に話し合いがあるんだって」

「え~?!」


 同じクラブに入る友人の言葉に響子はげんなりとした。

 中学に入ると同時に入部した吹奏楽部。

 厳しい練習にいつも帰りが遅くなるのは別に良かったが、その後の話し合いだけは未だに苦手だった。


 部長や先輩達だけで全てを決定するのでなく、後輩達も交えて物事を決定する。

 吹奏楽部に長く伝わるその考え方は嫌いではないが、全員での話し合いを進めていくには、いかんせん現部長達の力量が足りなかった。


 特に、今年の一年生には気の強い者達も多く、温厚で穏やかな先輩達の方が押されている事が多々あった。


 しかも、今回は夏の大会に出場するメンバーの選出についてだ。

 まだ本決まりではないとはいえ、これはきっと荒れる。


 その響子の予想は裏切られることはなかったーー。






「くぅぅうっ! 遅くなっちゃった!」

「本当よ! もう最悪っ」


 響子と友人は、すっかり暗くなってしまった夜道を走っていた。

 クラブの話し合いは予想通りに紛糾し、結局は答えを出さないまま終わった。

 その時点ですでに午後七時。

 いくら日が長くなって来ているとはいえ、中学一年生が帰る時間ではない。

 とっくに他のクラブは終わって皆帰宅しており、吹奏楽部のメンバー達は学校の戸締まりをする教師に追い出されるようにして家路へとついた。


 時折車がライトと共に駆け抜けていく国道に面した道。

 周囲には、すでに営業の終わった個人商店が建ち並ぶ。

 帰宅ラッシュの時間から外れたせいか、人気も殆ど無かった。


 そのうち、友人と別れる場所までたどり着いた。


「また明日ね」

「って響子、明日は祝日でしょうが」

「あ、忘れてたっ」


 全く、と苦笑する友人の呆れ顔もいつもの事だった。


「響子はドジな所があるからね。見た目は文学少女って感じなのに」

「う、そこは言わないのっ」

「けど、本当に気をつけてね。私としては、いつかそのドジっぷりで響子が痛い目をみないか心配よ」

「うぅ~~」

「まあ、でもそれが響子の良いところでもあるんだけどね」

「伊都花」


 響子は先ほどとは違う温かい笑みを浮かべる友人を見つめた。

 しかし、その友人がふと弾かれたように後ろを振り返った。


「伊都花?」


 その顔がどこかこわばったように見えた。

 外灯の光のせいか、青白く見えた伊都花の顔を見ながら響子もその視線の先を見つめた。

 しかし、誰も居ない。


 横の道路を車が二、三台続けて通り過ぎた。


「……気のせいか」

「へ?」

「いや、なんか視線というか……足音聞こえなかった?」

「足音?」


 と言われても、周囲には人気はなく、足音を発する相手がそもそも居ない。


「……伊都花、誰も居ないよ?」

「……そうね」


 まだ何かしっくりと来ない伊都花だったが、何かを振り切るように頭を横に振った。


「まあ、とにかく早く帰ろう。それに、今は妙な事件も起きているし」

「妙な事件?」

「ほら、『火曜日の切り裂きジャック』!」


 その言葉に、響子はある事件を思い出した。

 今年の六月から始まったそれは、毎週火曜日に起きていた。

 被害者は様々だが、殺してから四肢をバラバラにするという残虐なもので、人々は姿の見えない犯人に戦々恐々としていた。


 学校でも、毎朝のHRでその話がされ、早く帰る様に言われていた。

 しかし、生徒達の中には所詮他人事という雰囲気も強く、ましてや響子達の所属するクラブの生徒達など尚更だった。

 彼女達、特に同級生達にとっては、遠くの殺人事件よりも夏の大会のメンバーに選ばれる方が大切なのだ。


 でなければ、こんなに遅くまで残ったりはしない。

 というか、今日は火曜日だったか。


 せめて火曜日だけでも早く帰して欲しかったーーと、今更ながら響子は心の中で愚痴を吐いた。


「前回の犯行現場はここからそう遠くないらしいし、気をつけなきゃね」

「そうだね」


 確か、もうすでに四件起きており、犠牲者はそれ以上に及んでいる。

 しかし不思議なことに怖がっているのは大人達だけで、子供達の日常はそれほど変わらない。


 それは、子供達の中でそれが現実のものとして捉えられていないからだろうか。

 それとも、現実自体が希薄なものとなってきているのだろうか。


 この近辺でも、有名校へのお受験戦争が広まっていき、夜遅くまで塾通いする小学生達も増えてきた。


 そんな事を怖がっていたら塾などに通えない。

 ましてや、部活動だってやっていけない。


 だが、それは果たして良い事なのだろうかーー。



「響子、響子っ」

「へ?!」

「へっ?! じゃないっ! どこにトリップしてたのっ!」


 どうやら考えこんでいて伊都花の声が聞こえなくなっていたらしい。

 少し怒った顔の伊都花に慌てて謝れば、友人は溜め息混じりに告げた。


「とにかく、早く家に帰るわよ。って事で、私はこっちだから、響子も気をつけてね」

「あ、うん」


 そう言うと、伊都花はすぐに家に向って走り出してしまった。

 光の溢れる、人気の多い道へと向って。

 それを見送りながら、響子は自分の進むべき道へと走り出した。


「伊都花の言葉じゃないけど、早く帰らないとな~」


 一人で人気の少ない道を走り続ける。

 いつもなら近くまで父が迎えに来てくれる。

 しかし、今日は母との結婚記念日のお祝いとして外食する予定であり、直接そっちの待ち合わせに向っているはずだ。


 普通なら帰りの遅くなった娘の方を世間一般では優先するかもしれないが、今日ばかりは響子も父と連絡を取る気はなかった。


 父達の二人っきりの時間を邪魔したくはないーー。


 いつも自分を優先してくれる父と母。

 帰りが遅くなれば迎えに来てくれるし、休日は娘の為に時間を割いてくれる。

 大好きな両親。

 結婚後もラブラブなのは続行中だが、やはり娘を抜きにして二人っきりの時間だって欲しいだろう。


 だから、今日は一人で留守番だ。

 今まで留守番などは難度もしていたし、遅くても十時頃には両親も帰ってくるから何の問題もない。

 が、伊都花から聞いた『火曜日の切り裂きジャック』の話が頭によぎる。

 聞かなければ良かったーーと少しだけ後悔する。 

 けれど、両親を二時間も早く帰らせるのは忍びないとして、響子は夜道を一人進んでいった。


 大丈夫、何の問題もない。

 気をつけてさえいれば、何の問題もないのだ。

 変な足音だって聞こえないし、不審な人影だって見えないし。


 それに、もう少しすれば夜遅くまでやっているお気に入りの書店にたどり着く。

 その付近は道も明るく、まだ営業している店も幾つかあり、そこから響子の家までは五分もかからない。


 ああーーどうせだから、そこで何か本とお菓子でも買って行こう。

 明日は祝日だから休みだし、今日は両親も遅くまで帰ってこない。

 そう思うと、心が浮きだった。


 それから間もなく、本屋にたどり着いた。

 その隣には、普段食料品などを買い込む大型スーパーもあった。

 響子は慣れた足取りで書店へと向った。


「きゃっ!」

「わわっ」


 自動ドアが開き向こうから女性が出てきた。

 それを横に避けて避けた筈だが、ふらりとバランスを崩した女性が響子にぶつかった。


「ご、ごめんなさいっ」


 慌てて謝る女性に響子は気にしていないと告げようとした時、それに気づいた。

 女性のお腹がふっくらと膨らんでいる事に。


「あの、大丈夫ですか?!」


 お腹にぶつかっては居ないだろうか?


 青ざめる響子に相手が微笑んだ。


「大丈夫よ。それよりごめんなさいね、ちょっとふらついてしまって」

「ふら……もしかして、貧血とかですか?」

「そうね、妊娠してから多くて……ああ、でも大丈夫よ。いつもの事だから。それにもう家にも帰るし」


 そう言うと、相手の女性はもう一度響子に謝ってから書店を出て行った。

 そんな彼女をしばし見送った後に中へと足を向けた響子は、何かを踏んづけた。


「ん? あ、これって」


 響子はそれを拾い上げた。


「母子手帳?」


 目に飛び込んできた文字に、響子はハッとした。

 さっきの女性のものだ。


「ちょっ! ま、待って!」


 慌てて外に飛び出した響子は手帳を片手に周囲を見渡す。

 しかし、すでにそこには先ほどの女性は居ない。

 丁度通りかかったカップルに響子は先ほどの女性の事を聞けば、先ほど響子が歩いてきた道の方向へと歩いて行ったらしい。


 響子は走り出した。

 その女性に手帳を届けるために。



 しかし、それが後に響子を絶望の淵へ追いやると誰が予想しただろうか。

 母子手帳には住所が記載されていた。

 だから、明るくなってから改めて届けに行けば良かったのだ。

 それこそ、暗く人気の無い道へと向わず、次の日に父と共にその女性の家に向えば。


 なのに、響子はそこまで考える事は出来なかった。

 ただ、一刻も早くその手帳を届けたい。


 その思いが、響子を。



 響子を



 響子をーー



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