第四十五話 両親の友人達
それは神有家の最奥にある禊ぎの間。
ひんやりとした静謐な空気が漂う場は、人を容易に寄せつけない神秘的な聖域という言葉が相応しい。
その空間に広がる澄み切った泉は、一目で神聖なものだと悟るだろう。
同時に、そこに身を浸せるのは、選ばれし者のみ。
神かそれに近しいものだけが入ることの許される、そんな場所だった。
そこに今、一人の存在が身を清める為に泉の中心に立っていた。
長い黒髪の先が水の上で舞う。
白く艶めかしい裸体は淡い燐光を放っているようにも見えた。
その光景を見た者は誰もが呟くだろう。
女神――と。
「柚緋様」
泉の前で傅く女性達の中で、最も高位の巫女が前に進み出て頭を垂れる。
「用意ができました」
「そうか……香奈は?」
「姫様は先に」
その言葉に、柚緋は巫女達の方へと足を勧める。
泉からあがると、巫女達が柚緋の体を白い清潔の布で覆う。
ただそれだけなのに、間近にある神々しいまでの雪花石膏の肌に巫女達はため息をつき、続いて目眩を覚える。
触れがたいほど神々しく、けれど思わず触れたい、穢したいと強く願ってしまう。
艶めかしい肢体、蠱惑的な色香。
清らかな筈なのに、どんな巫女姫よりも美しい筈なのに、どこまでも扇情的で相手を惑わす。
神々すらもこの美しさに抗えないかもしれない。
ああ、どうしてこの方が男なのか。
いや、もはや性別など関係ない。
美しさに、性別など関係ない。
欲しい。
この方が。
しかし、そんな彼女達を一瞥する事なく柚緋はさっさと禊ぎの間を後にしたのだ。
その頃、神有家客間では簡単な自己紹介が行われていた。
「夢見 咲と言います。どうぞよろしくお願いします」
まるで日だまりの様な笑顔を浮かべる咲を香奈はじっくりと見つめた。
纏う空気は温かく柔らかく本当にお日様そのもので、自分のせいで一緒に池に落ちたのに逆に心配までされてしまった。
ぶつかった事はもちろんすぐに謝った。
どう考えても香奈の方が悪いから。
けれど、下手すれば溺れてしまう危険性があった事でも、笑顔で許してしまえる彼女はきっととても懐の大きい人なのだろう。
そんな事を思いながら、香奈は咲の隣の相手へと視線をずらした。
咲が日だまりなら、彼は吹雪。
決して溶けることの無い、永久凍土の上に覆い被さる万年雪を思わせる。
その美貌は、手を触れれば壊れてしまいそうなほど儚く、触れることの許さない高貴な氷の結晶の華を思わせる。
人ならざる美貌とはこういうのを言うのだろう。
柚緋と並んでもなんら遜色のない程であるばかりか、どこか人形めいているが、咲が話しかければ途端に人間臭くなる。
それは、誰もが傅く天高き場所に存在する神が、突然隣に住むおばちゃんになってしまったかのような……そんな印象を受けた。
といっても、隣に住むおばちゃんなど比較にならないほど一つ一つの動きが鮮麗されているが。
貴族――という言葉が香奈の脳裏に浮かんだ。
「あ、隣にいるのは玲珠と言うの」
「玲珠と言います。咲の夫です」
「お――」
なぜか咲が慌てだした。
いや、慌てるというよりは顔を真っ赤にして恥ずかしがっている。
「……新婚さん?」
「いえ、もう結婚して長いです」
そう答える玲珠はどこか嬉しげに見えた。
「え~と、玲珠さんと、咲さん。で、二人は夫婦なんですね」
「……まあ」
「まあってなんだ」
「え、う、その……は、恥ずかしくて」
「ああ、照れてるんですね」
香奈がぽつりと呟けば、咲が余計に慌てだした。
「て、照れ」
「そうか」
「玲珠っ!」
最初はどこか近寄りがたかった硬質な空気は消え、にこにこと満足げに笑う玲珠の様子になかなかの愛妻家だと香奈は判断した。
「そ、それより、清奈ちゃんの娘さんがこんなに大きくなったのね」
「母を知っているんですか?」
「ええ、同級生だったの」
咲の言葉に香奈は驚いた。
いや、自分の両親もとうてい三十には見えない。
だが、咲はもっと見えない。
玲珠でも二十代半ばに達するかどうかで、咲に至っては確実に二十代前半だ。
「凄く若く見えます」
「ありがとう、でももうおばちゃんなのよ?」
そう言いながらも嬉しそうに笑う咲は、優しい眼差しを香奈へと向ける。
「でも、あんなに小さかった香奈ちゃんがねぇ」
咲は昔を思い出しながら呟く。
あの時は、自分と玲珠も居なくなってしまった清奈を必死に探していた。
そうしてようやく見つかってまもなく、狂った連理の暴走が始まったのだ。
清奈は小さな赤子だった香奈を胸に抱き、狂った荒ぶる神となった連理の元に向かい、彼を納めた。
彼だけではない。
強引に連理と結婚させられかけた事で連理と共に狂った清奈の妹も、神有家の主立った者達の暴走も清奈は納めてしまった。
一歩間違えれば確実に死んでいた。
荒ぶる神はそれほどに恐ろしい。
しかもそれが連理であればなおさらだった。
冥界の神々の中でも、それこそ歴代の冥界大帝すら足下に及ばない彼を止めるのは神々でも骨が折れる事だった。
十三の世界からなる神々の世界――天界十三世界。
その一つである炎水界の大国――玲珠の祖国である凪国すらも荒れ狂う水を治めるだけで精一杯だった。
かの国は凪と時化、すなわち水を司る。
連理の暴走を受けたのは、火、水、土、風、雷。
どれもが人間界を構成する大きな要素であり、凪国は清奈の援護にまわる事はできなかった。
たった一人で立ち向かうしかなかった清奈。
いや、違う。
清奈と香奈、その二人で立ち向かったのだ。
その時の小さな赤ん坊の成長に、咲はそっと目元をぬぐった。
あれから、自分も夫と共に凪国に行くことが多く、清奈と連理の二人に会うことはあっても香奈に会うことはほとんど無かった。
また普通の娘として育てたいという連理の方針もあり、神の世界に近い自分や完全なる神である玲珠が近づくことは躊躇われ、結局は自ら会いに行く勇気も持てなかった。
「大きくなったわ……本当に」
暴走した連理にとって、清奈と香奈は間違いなく宝物である。
当時、清奈の腕の中で可愛らしく笑った顔が、目の前の香奈と重なる。
そうして咲が感慨深い面持ちを浮かべる一方、香奈は咲と玲珠を交互に見た。
「玲珠さんも、母の同級生なんですか?」
「いや、俺は違う――けど、知り合いではあるな」
「玲珠」
「ああ、うん。友人だよ、清奈と連理のね」
氷の様な冷たい美貌が、微笑むことで驚くほど柔らかく優しいものとなる。
「父と母の」
「ああ。咲と一緒に、夫婦揃っての付き合いをしてる。因みに、先に仲良くなったのは咲の方で、咲が連理と清奈の二人と知り合った後に俺が咲を通じて知り合ったという感じかな」
「あの時は色々と大変だったものね」
「う~ん、確かにな」
くすくすと笑う二人に、香奈は羨ましさを感じた。
自分もいつか好きな人ができて結婚できたらこういう夫婦になれるだろうか。
「で、君の事も、赤ん坊の頃から知ってる」
「それで、今日は両親に会いに来たんですか?」
「いいえ、あなたに会いに来たの」
「え?」
咲の穏やかながらも強いまなざしに香奈は気圧される。
「私に?」
「ええ。といっても、友人の子に会いに来たのではなく、あなたに教えなければならない事を伝授する為に」
「……教える?」
その時、背後でスッと軽い音を立てて障子が開いた。
振り向けば、そこには相変わらず艶やかな着物を身に纏った柚緋が立っていた。
鴉の濡れ羽の様な黒髪は背中に垂らされ、動く度に妖しく揺れ動く。
華奢な輪郭とすっきりとした目鼻立ち、黒曜石の瞳からなる白皙の美貌は、相変わらず日本人形よりも麗しかった。
滑らかな繊手が流れるように障子を閉め、滑るように畳の上を歩く一連の優雅な動きに目を奪われないものは一人も居ない。
華奢な肢体を包む紫色の着物の柄は、大ぶりの牡丹と蝶。
柚緋の妖艶さをいっそう引き立てるそれは、香奈の目から見ても最高級品の着物だった。
というか、男なのに振り袖をここまで見事に着こなす存在はなかなか居ない。
香奈も七五三で着物を着たが、予算の関係から一番安い着物で、しかも着こなすのではなく完全に着られていた状態だった。
また、髪の毛も短く、綺麗な髪飾りが逆に浮きまくる始末で、その時の写真は厳重に香奈自身の手で封印されていた。
と、そんな部分もまた柚緋に会いたくない理由の一因となっていた。
自分よりも完璧に着物を着こなし、完璧な和風美少女となってしまう従兄弟にわざわざ好き好んで会いたいものがいるだろうか。
いるかもしれないが、香奈はイヤだ。
その完璧な女顔も、壮絶な色香も、たおやかで淑やかな仕草と柔らかい物腰も、深層の汚れ無き巫女姫と呼ばれるよ相応しい美貌も、全てが腹立たしい。
そして香奈はその感情が何かを知っていた。
嫉妬だ。
ただでさえ人をおちょくりからかい虐め倒す相手が、女の自分よりも綺麗だなんて腹立たしい。
だから、香奈は柚緋を避ける。
からかわれたり酷い目にあわされたりする事よりも、男なのに女よりも綺麗なんて。
自分の立つ瀬があまりにもないではないか。
『柚緋様は本当にお綺麗ですね』
『本当に! その着物もとてもお似合いですわ』
『あ、香奈様――ああ、その、はい』
『か、香奈様の着物も、その、似合ってますね』
『というか、安物をそこまで着こなせるのは素晴らしいですわ』
嘘つき。
香奈は過去に自分を褒め称えた者達に向けて吐き捨てた。
七五三で、七歳のお祝いに着物を着て神有本家に出向いた。
そこで、美しく装った柚緋と並んでいた香奈に、屋敷に来た客達は褒め称えたのだ。
表向きは香奈の事も柚緋と同じぐらい褒めては居たが、裏では香奈の事を徹底的に蔑んでいたことを。
悔しい、腹立たしい。
そして香奈は、二度と着物を着ないと決めた。
沢山の反物を前にした祖母が着物を作ってくれると言った時も、香奈は決して反物を選ばなかった。
いらない。
着ない。
どうせ、比較される。
わざわざ傷つくなんてバカみたいだから、香奈は着物を着ない。
「何ボケてんだよ」
「っ」
遙か過去に飛んだ心が、柚緋の言葉で現実に戻される。
気づけば、自分の隣に当然のように座っている柚緋が居た。
ふわりと香るのは、何の香かと考えすぐに香奈は考えを打ち消した。
これは香ではなく、柚緋自身の香りだ。
小さい頃はよく嗅いでいた香りだったが、神有本家に来る機会が少なくなってからは嗅ぐ機会も一気に減った。
と、柚緋が向かいに座る咲と玲珠に向かって頭を下げる。
「この度は、突然の申し出にも関わらず神有本家までご足労頂き、誠にありがとうございます」
完璧な作法だった。
お辞儀一つ思わず目を奪われる様に優雅で、香奈は呆然と魅入った。
「こちらこそ貴重な申し出を頂き嬉しく思います――と、こんにちわ、柚緋さん」
「久しぶりだな、柚緋」
微笑む咲と玲珠。
が、柚緋を見て香奈は驚いた。
あの自分にとって価値の無い相手や邪魔する相手には石ころほどの価値も認めず、完璧な作り笑顔を浮かべる柚緋。
しかし今、柚緋は柔らかで暖かみのある笑顔を浮かべていた。
それは近しい者達だけに見せる特別な笑顔だった。
それだけで、柚緋にとってこの二人は尊敬する相手なのだと香奈は悟った。
「お二人に会えて本当に嬉しく思います。また、この度は長らくお待たせしてしまい申し訳ありません。禊ぎを行っていました」
禊ぎという言葉に香奈は首をかしげた。
そういえば、池に落ちた後に入れられたお風呂の中で聞いた気がする。
入浴後、香奈はすぐ近くの泉へと連れて行かれ、そこで泉の中にたたき込まれた。
が、水中待機時間およそ三秒。
寒くていれませんとばかりに飛び出て逃げ出し、結局あれは何だったのか分からないまま、この和室で先に入浴を終えて待っていた咲の元に戻ってきたのだ。
というか、本当に冷たかったのだから仕方が無い。
しかし柚緋には既に話が言っていたらしく、ギロリと睨まれた。
「この、ボンクラ女が」
「誰がボンクラなの」
「お前だ。ったく、禊ぎを三秒で終わらせるバカがどこにいる」
「え? 禊ぎって、もしかしてあの泉に入るの?」
「そうだ――ってか、その様子だとそれすらも知らなかったみたいだな。神有家本家のくせに」
「知らなくて悪かったね。ってか、お母さんは家出てるんだから分家です」
「ああ? 清奈叔母は特別だ」
ああ言えばこう言う。
柚緋との関係は昔からこうだ。
と、そこにかなり心外な言葉が聞こえてきた。
「ふふ、仲が良いんですね」
「良くないです。ってか、こんな性悪根性の腹黒鬼畜いじめっ子と仲なんて」
「へ~、誰にものを言ってるんだこの小娘がぁっ!」
「ぎゃぁああぁぁっ! ギブギブギブうぅぅっ」
逆エビの地固めを食らった香奈がばんばんと畳を叩いてギブアップを叫ぶが、残念なことにレフリーが現れる事はなかった。
そうして完全にギブアップした香奈から離れ、柚緋は埃を払うように手を打ち払う。
「俺に逆らうからだ。身の程をわきまえろ」
そう言うと、別室にと咲と玲珠を促し、柚緋は香奈の片足を掴みそのまま引きずっていった。
「……あの二人って、従兄弟よね?」
「……だと思う、たぶん」
にしては、扱いに色々と問題のある二人だと咲と玲珠は苦笑するしかなかった。