第四十四話 衝撃的な出会い
騒ぎを聞きつけた柚緋が正面玄関にやってきた時、そこでは異様な光景が広がっていた。
とにかく必死に巨大な穴を埋め立てる家人達。
そして香奈を説得する残りの家人達。
その一人が、柚緋に気づいて事情を説明した時、心に浮かんだ思いはただ一つ。
(じ~~~じ~~~いぃぃい~~~~~~!!!!)
祖父への果て無き殺意が溢れる。
殺す気か孫を!!
「クッション敷き詰められていたので殺傷能力は皆無ですが」
まるで人の心を読んだかのように告げたのは、長年この屋敷に仕えてくれる家人の男。
祖父の時代から仕えており、彼の言うことなら執事の高岡 秋人の発言並みに聞き入れる。
「祖父に伝えてくれ」
「何をでしょう?」
気の良いこの男を利用する、そんな罪悪感は――とりあえず微塵も抱かず柚緋は笑顔で告げた。
「香奈声で『香奈、おじいさまなんて大嫌い』、一字一句間違わずに伝えてこい」
「ちょっ! それ言ったら当主が――柚緋様?!」
家人の叫びも気にせず柚緋はすたすたと香奈へと近づいていった。
が、当然その騒ぎに気づかない香奈ではなく、後二メートルのところでしっかりと見つめ合った。
「……」
「……」
先に動いたのは香奈だった。
すさまじい勢いで走りだそうとする香奈に、柚緋は自分の履いていた草履を投げつけた。
「ぐほおぉぉっ」
「ひぃぃぃ! 香奈様あぁぁっ」
木製のそれは、当たり所が悪ければきっと対象物を殺せる。
それを微塵の躊躇いもなく実行した柚緋に恐怖を覚える家人達は、その恐怖が邪魔して誰も柚緋を止められなかった。
「ったく、人の顔見て逃げ出すんじゃねえよ」
完璧に目を回した香奈の首筋を掴み廊下を引きずっていく柚緋に、二人の今後が心配になる彼らはしばしそのまま凍り付いていた。
が、程なくそんな彼らを溶かす相手が現れる。
コツンと足音を立て、落ちついた声音が耳をなでる。
「こんにちわ、あの」
その声に、彼らはハッとして振り返れば、一組の男女の姿があった。
女性の方は平凡な二十代前半頃にも見える容姿だが、男の方の美貌に彼らの思考は吹っ飛んだ。
近寄りがたい硬質な氷の美貌は、高貴かつ繊細ながらも妖しく謎めいていて。
長身ながらもどこか中性的な雰囲気の肢体からは、妖艶で扇情的な色香が香る。
氷貴人――それが、美女と見紛う美貌を持つ彼の呼び名である。
そんな彼は、隣にいる少女が頭を下げると、同じように優雅に頭を下げて挨拶の言葉を述べる。
シャランと澄んだ音が聞こえた。
それは彼が耳につけたイヤリングからか、首元のネックレスか、それとも腕輪がもたらした音色なのか。
男にしては少々装飾品が多いが、それすらも彼の魅力を引き立てるものでしかない。
そんな彼が守るように側に居る女性はただ一人。
「お、お待ちしておりました――夢見 咲様」
頭を下げた家人の隣で、また別の家人が頭を下げる。
咲の隣にいた、美しき佳人に向けて。
「玲珠様もよくぞ来てくださいました」
恐縮する咲の隣で、玲珠が淡く微笑む。
その笑みは、まるで男達を堕落させる淫魔の様にぞくりとするほど艶麗だった。
その頃、香奈は暴れていた。
「離せっ! この男女っ!」
「五月蠅い黙れ泣かすぞ」
相変わらず首根っこを掴まれたまま柚緋に引きずられていく。
というか、だんだん首が絞まってきた。
これは何のプレイだ。
いや、拷問か。
しかも首を転じれば相変わらず麗しい柚緋の姿がそこにあった。
鴉の濡れ羽の様な黒髪に黒曜石の瞳。
首から上の顔も超絶和風美少女だが、首から下も凄い。
男にもかかわらず、その妖艶な色香を振りまく肢体は大輪の花咲き誇る振り袖に包まれている。
はっきりいってこれで男だと分かった方が凄い。
たいてい、初めて見た者は誰もが柚緋を女だと間違うし、初めてでなくても女だと勘違いする。
というか、脳が柚緋を女として捉えたがっているのかもしれない。
たぶん美女コンテストに参加すれば確実に優勝するだろう。
それこそ、柚緋の美貌は数多の美女条件があるだろう世界にも通じる完璧な美少女ぶりである。
できれば、そのままどこぞの富豪にでも見初められて日本から出て行って欲しい。
「その時はお前をペットとして連れて行ってやる」
「いやだ」
心を読んだのか、完璧なやりとりがそこで行われた。
「ってか離せ」
「離したら逃げるだろ」
ずるずると引きずられ、香奈は逃げるまもなくとうとうその場所へと連れて行かれた。
ずぅぅぅんという効果音が聞こえてきそうなほど、凄まじい威圧感と怨念を放つ障子はその向こう側が原因。
「とっとと中に入れ」
後ろには柚緋、前には怨念の障子。
柚緋の手からは解放されたが、どっちにしろ逃げ場はない。
「く、くそぉぉ」
こうなったら、一度中に入るしかない。
香奈は、意を決して障子に手をかける。
大丈夫、この中にいるのは別に猛獣でも幽霊でもない。
いや、むしろそちらの方がよほどマシだった。
中に居るのは、香奈にとって従姉妹や遠縁に当たる親戚の子供達だ。
今日の親族会議に参加する親に同行し、年齢が達していないから会議が終わるまでここで時間をつぶす子供達。
しかし、子供達しか居ないはずなのに、凄まじい黒い気が立ちこめる。
障子を挟んでいてこれなのだ。
だが、動き出した手はまるで操られるように障子を引いていく。
これが、魔に魅入られるという事なのか。
母の実家で、向こうにいるのは従姉妹達という普通なら全く心霊怪奇現象とは関係ない状況で、香奈は激しい危機を感じていた。
が、思い返してみれば、これもいつもの事だったような気がする。
そう、毎回毎回こういう状況に陥っていた香奈だった。
ガラガラと音を立てて障子が開ききった。
「……」
「ああ、香奈か」
薫る煙はたぶんお香。
脳を揺らす様な官能なる香りの中で、一斉にこちらを向くのは十六歳までの子供達。
どの子も美しいが、中でも従姉妹達の美しさはずば抜けていた。
が、なぜ皆が服を乱しているのだろうか。
男も女も、着ている服が乱れ、脱げ、半裸に近い者も居る。
それこそ、まるで王の訪れを今か今かと気怠げに待つ女達の園――ハーレムだと、この状況を見た者は表すだろう。
「魔女のサバトっ!」
香奈は別の表現をしてバンっと障子を閉めた。
とたんに、遮断される部屋の中の邪気。
だが、今度は後ろから圧倒的な威圧感が襲いかかってきた。
「何がサバトだ」
自分が数分前まで居た場所を馬鹿にしてんのか。
柚緋が放つ黒い闇に、香奈は凍り付いた。
命がピンチ。
いや、命よりも大切な何かがピンチな気がする。
と、目の前で障子が開いた。
「へ?」
開いた障子から伸ばされた沢山の腕がそこにあった。
あ、なんか怖い話でこういうのがあった気がする。
生者を引きずり込む死者の腕。
引きずり込まれたら、死ぬ。
でも大切な何かも奪われる。
その瞬間、香奈は命よりも大切な何かを守るために動き出した。
「っ!」
香奈の頭突きを寸前のところで避けきった柚緋だが、突然の事に反応が遅れた。
「待て!」
腕を伸ばすのが遅れたせいで、香奈はその腕をくぐり抜けて走り出す。
「あぁ! 柚緋、何してるんだよ!」
「柚緋様の馬鹿あぁ! 香奈逃げたぁぁ」
「捨てられた」
「逃げられた」
「離婚された」
「殺すぞてめぇら」
きゃっきゃっと笑う年少組の子供達にガンを飛ばしつつ、柚緋は香奈を追いかけて走り出した。
「待てって言ってるんだろ!」
そして始まる追いかけっこ。
他の家と違い、広すぎる神有家は逃げ場も十分あった。
まずは長い廊下。
庭に面した長い外廊下を香奈と柚緋は駆け抜けていく。
途中、幾人もの家人と行き会ったが、家人達はいつもの事として道を譲る。
香奈達を阻む者は誰も居ない。
そう、家族さえも。
広い大広間。
当主とそれに連なる本家の者達が一段高くなった最奥に座り、他の出席者達が壁際に並んで座っている形だった。
ちょうど、「コの字」型の配置は、まるで江戸時代の将軍への謁見を思わせる。
親族会議の最中、採決がとられ、その結果が報告されようとしている時だった。
外廊下につながる障子を背後にしていた清奈はすっと横にそれると、その障子を開く。
そのとたん、開いた障子から誰かが滑り込んでいく。
ちょうど、部屋に入る状態で段差に足を引っかけ、うつ伏せに倒れたまま磨き抜かれた最高級の畳の上を滑り抜けたのは、清奈の娘――香奈。
そのまま部屋を横切り、対岸の出席者が素早く開いた障子から外へと飛び出す。
が、庭に落ちること無く立ち上がり、再び外廊下を駆け出した。
それを追いかけるのは、次期当主の息子である柚緋だった。
「待て! 香奈!」
そこが会議場である事は果たして頭の片隅にあるのか。
長い黒髪をなびかせ、着物の裾を優雅に持ちあげて走り去る様はまさしく美少女そのもの。
それを見送り、清奈は開けた障子を閉め、また向かいに座る出席者も背後の障子を閉めた。
そうして子供達が通り抜けた後、再び混乱もなく会議が続けられる。
誰も騒がないのは、誰にとってもいつもの事だから。
今更騒いでも仕方が無い。
それは諦めなのか、呆れなのか、それすらも超越した何かなのか。
「では、次の議題だが」
次期当主――現当主の長男が司会進行の為に口を開いた時だった。
「お父様」
上の妹の清奈がにこりと笑うのが見え、口を閉じる。
妹が会議中に父に声をかけるなんて珍――。
「どうして鼻血を出しておられるのですか?」
鼻血だけでなく、ぶつぶつと呟く当主。
よ~く耳を澄ませた瞬間、次期当主こと長男はどん引きした。
香奈可愛い香奈可愛い香奈可愛い香奈可愛い香奈可愛い。
確かに妹の娘は可愛いだろう。
しかし、一人の時ならばまだしも、今ここでそんな事を言えば。
ズゥゥゥゥンと恐ろしい殺気を放つ妹の婿が視界に入り、長男は凍り付いた。
自分もたいてい鬼畜腹黒だが、この妹の婿に比べれば可愛いものだ。
その後、会議は導火線のない爆弾となった清奈の夫――連理によってギスギスとしたものへと変わっていった。
が、その原因となった香奈達は当然それに気づくことはない。
「いい加減諦めて!」
「お前が諦めろ!!」
「私の辞書に諦めるという文字はないわ」
「嘘だ!」
確かに香奈の辞書にはない。
柚緋関係に関しては。
それ以外では素晴らしいまでに諦めが良い。
ドタバタと外廊下を走り続ける香奈と柚緋。
ちょうど屋敷にそった外廊下だから、途中で曲がり角も多く存在する。
しかしそこは慣れたもの。
香奈は曲がり角に立つ柱をうまく使い、上手に方向転換を行っていく。
「このまま逃げるのみ」
いつもの事、いつもの状況。
そう、香奈が大人しく子供達の待機場で時間を潰した事なんて数えるほどしかない。
それはすべて、そこにいる者達のせいだ。
「待てこの小娘がっ!」
「私と柚緋は同い年。私が小娘なら柚緋も小娘」
「口だけは良く回るなっ!」
柚緋の怒りが五割マシになる。
それに呼応する様に、なんだか空間が歪んでいる様な気がした。
「やっぱり柚緋の前世は魔王だ」
魔王じゃなくて、ある帝をたぶらかした絶世の美姫姉妹の長女である事を香奈が知るまでもう少しの時間が必要となるが。
「とにかくどこかに隠れないとな」
このまま走り続けていてもどうにもならない。
香奈は追いかけっこからかくれんぼに転じる為、隠れ場所を探す。
が、あまりにも視線を彷徨わせていた事もあり、次の曲がり角に対する注意が散漫となった。
「そうですか、その少女も夢見の力を使えるのですね」
「はい、ですからどうか姫様にご教授をお願いしたいと思い」
廊下を歩くのは三人の男女。
家人の男を筆頭に、後ろに二人の男女がついて行く形となって歩を進めていた。
「この度は本当にご足労頂きありがとうございます」
「いえ、とんでもないです」
咲の微笑みに、家人は今までの疲れが吹っ飛ぶようだった。
容姿こそ平凡だが、その微笑みには周囲の疲れを癒やすような力がある。
「ん? 玲珠?」
「そういう顔はあまり他に見せないでくれ」
隣を歩く玲珠の顔に、家人は微笑む。
嫉妬の色を濃くする氷貴人は、そのずば抜けた美貌とは裏腹に、まるでどこにでもいる青年のようだった。
家人も愛する妻が居て、その妻と結婚するまで本当に大変だった。
妻も自分の魅力に気づかず、他の男達にも笑顔を簡単に見せて……どれほど嫉妬した事か。
特に、男の方が美しければ女は自分の魅力に気づかなくなる。
どんなに注意を促しても、自分なんてと言って貴重な魅力を惜しみなく無意識にふるまいて。
「大変ですね」
思わずでた言葉に、玲珠があっけにとられる。
だが、すぐに苦笑を浮かべて頷いた。
「全くです」
そうして男達が苦笑しながら曲がり角を曲がった時、それは起きた。
「あ」
後ろから玲珠達につくようにして曲がり角を曲がった咲がそう呟いた瞬間、玲珠の前から愛しい女が消える。
「さ――」
突然視界から消えた咲に、玲珠の中で一気に恐怖感が渦巻いた。
その瞬間。
「香奈様っ!」
玲珠が家人の見つめる先に視線を向け、唖然とした。
そこには咲と、咲が受け止めるような形で一人の少女が居た。
が、彼女達が居るのは外廊下に面した池の上だった。
しかも当然この世には重力というものがある。
特に地球では、重力は上から下へと向かう。
なので。
「きゃあぁぁぁっ!」
どっちが叫んだのかは重要ではない。
二人して池に落ちたのを目の当たりにした玲珠は引きつった悲鳴をあげた。
守ると決めたのに。
もう、美琳を、美琳の生まれ変わりの咲を傷つけないと、どんな危険からも守ると決めたのに。
その誓いはあっさりと破られた。
「ばっ、香奈あぁ!」
一度は引き離され、ようやく追いついた柚緋が、いち早くその現場の状況を悟り悲鳴をあげた。
そうして、夢見 咲と香奈の出会いは、一緒に池に落ちるというとんでもない状況から始まったのだった。