第四十話 祖父、暴走
空に青が薄く滲み始めた夜明け。
日中のうだるような暑さとは裏腹に、ひんやりとした空気が人々の眠りを深くする。
そんな中で、神有家の者達だけは忙しく動き回っていた。
今日は土曜日。
月一回の親族会議の日。
早い者達は朝から本家に入り、会議後は此処に泊る者達も居る。
会議場の設置から始まり、彼らの食事、そして宿泊する部屋の準備をする。
一人や二人ではない、多い時には数百名を超える者達がこの屋敷に滞在するとあって、準備も大わらわだった。
数日前から前もってできる限りの事はしていたが、それでもやはり当日の忙しさの比ではない。
そんな中、柚緋は姿の見えない当主を捜していた。
彼にとっては祖父にあたる神有家当主。
威厳と静かな気迫に満ち、誰をも魅了する絶対的なカリスマ性の持ち主だった。
正しく王の気質を持ち、その視線一つで他者を傅かせる。
この日本の影の重鎮の一人として相応しい男は、その天才的な頭脳と策謀によって神有の家を繁栄させていた。
近寄りがたい神々しい雰囲気を漂わし、年を経てもずば抜けた冷たい怜悧な美貌は男女問わず虜にし、遊びでも良いからと群がる者達は多い。
しかしそんな祖父が愛するのは、現当主夫人である祖母ただ一人。
その間に五人もの子供を作り、年を取った今もなお祖母への愛情は重、いや深い。
だから祖母の所に居るかと思ったが、いないという。
「全くあの人は何処にいったんだ」
長い黒髪と振り袖をゆらして歩く柚緋に、行き交う者達が次々と頭を下げる。
直接顔は見えないが、その頬が茹で蛸の様に赤く染まっているのは想像するまでもない。
中には柚緋の美貌に耐えきれず、失神する者達まで出た。
しかし、それらは全て勤務年数の浅い者達。
長年神有家に仕えた者達は、強靱な精神力で自分を律して仕事に戻る。
柚緋は、自分の恐ろしいまでに整った美貌が引き起こす現象を理解していながらも、気にせず長い廊下を歩いて行った。
と、廊下の突き当たりを右に曲がった所で不穏な気配を感じた。
まさか、『魔性』?
いや、この神有の敷地に入ってこれるわけがない。
それこそ、吸血鬼が教会に来るほど有り得ない事だ。
が、この禍々しい気配は一体何だ。
柚緋はそこに混じる覚えのある気配に嫌な予感がした。
まさか――。
この先は、本家の者達の居住区。
柚緋は速度を上げて、その場所に向かった。
目の前に迫った襖を開け放つ。
「祖父様、一体何が」
柚緋は部屋に広がる光景に唖然とした。
「……祖父様」
「うぉう! ゆ、柚緋ではないかっ!」
何かをわたわたと隠そうとしている祖父に、柚緋は全く隠せてないと毒突く。
というか、それはなんだ。
柚緋は部屋の中を見回した。
部屋の真ん中にあるのは、巨大な檻だった。
「……羆でも飼う気ですか」
「んな?! 柚緋、愛らしい従姉妹を羆扱いとはなんたる男じゃ!!」
嫌な予感が大当たりした。
「そうですか、そこに入れるのは香奈ですね」
香奈――それは柚緋の従姉妹だ。
そして、この祖父の長女にあたる清奈の娘。
と、祖父がちっちっちっと顔の前で指を振った。
「違うぞ柚緋。わしも入るのだ」
スッと着物の合わせ目から携帯電話を取り出し、柚緋はボタンを押す。
「もしもし、警察ですか。すいません、ここに幼女に手を出そうとしている変態が一名います」
「無駄だぞ柚緋! わしはこう見えても警察上層部と深い繋がりがあってのう!」
「くたばれジジイ」
柚緋は本気で祖父を手にかけようかと考えた。
「柚緋こそ酷いではないか! わしはただ孫と仲良く語り合いたいだけで」
電話から「もしもし」と叫び声が聞こえる。
よし、やはり逮捕してもらおう。
しかし柚緋が油断していた隙に電話を取られた。
「ああ、すまんのう。ただの間違い電話じゃ」
そしてさっさと電話を切る祖父。
その手慣れた様子に素人ではないと確信する。
「ちょっと待て、ジジイ」
「柚緋、甘いのう。このぐらいでは香奈を守る事は出来ぬぞ」
「犯罪者に言われたくないな」
「何を言う!」
心外だと言わんばかりの祖父。
「どう考えても犯罪だろ。どうして孫と話す為に檻を用意するんだ」
「だ、だって、こうでもしないと香奈が逃げてしまうではないか」
はっきりいって、香奈は神有家を忌避している。
というか、この長い年月を経て培われた厳かで厳粛な空気が苦手なのである。
神有家のある場所はいわば霊場で、普通はこの神聖なる空気に心洗われる筈なのだが。
もしかしてあいつは魔性か?
そんな事を考えていると、祖父がなにやらぶつぶつ言っているのに気付いた。
「わしだって普通に話が出来るならしとるわい」
「祖父様」
「一緒にお話しして、一緒にご飯食べて、一緒にお人形さん遊びして、一緒にお風呂入って、一緒に添い寝して」
「後半二つはやめろ。そして後半三つ目も無理だ」
「何故じゃ! 女の子はお人形遊びが好きな筈じゃ!」
そんな思い込みにより、祖父が香奈の為に買い集めたアンティークドールは数十体。
中には国宝級のものもある。
また、渾身の名作である市松人形もあるが、渾身過ぎて魂が宿って夜に彷徨い歩く始末。
余計な事ばかりしてくれる当主である。
それに人形は一体も渡せず蔵にしまわれる始末だ。
「香奈と話したいんじゃ! おじいさまって最後にハートマークをつけて呼ばれたいんじゃ! この気持ちがお前に分るかぁぁっ」
「むしろ妻に呼んでもらえよ」
語尾にハートマークは妻の役目だろう。
「無理じゃ。あいつは恥ずかしがってつけてくれない。くぅぅ、ツンデレめ!」
ツンデレなのか?
「だがあいつはのう、恐怖に怯えつつも涙目状態が笑顔と同じぐらいとても可愛いのじゃ」
「ああ、そうか――って、は?」
「昔はそれが見たくてのう。ああ、そういえばあいつとの仲を深める為によく実行したものだ」
「何をだ」
「わしのかっこよさを遺憾なく発揮する事じゃ」
嫌な予感がする。
いや、予感を通り越して確信となる。
「ほら、女というものは危険から救ってくれた男に恋するものだろう? だから、剣崎を使って妻を夜道で追いかけ回してもらったのじゃ! で、そこをかっこよくわしが助けにいって」
犯罪者。
柚緋でもまだそこまでやってない。
しかも剣崎は、現在の警察庁トップである。
「また、お盆の時期には気分を盛り上げる為に、悪霊が封じられた祠や石碑を常葉達に片っ端から壊させてのう! わしが、こう、かっこよく封じたというわけだ」
常葉は検察庁のトップである。
というか、国の治安を守る者達になんて事を!!
また、常葉達という事は、他にも色々な者達に悪事に荷担させたのだろう。
剣崎達はこの祖父の下僕である。
何でも昔、徹底的に調教だかなんだかして以来、絶対に逆らえなくなったらしい。
鬼だ、鬼畜だ、悪魔だ。
自分なんてまだ可愛い方だ。
「ふふ、愛は人を狂わすものだ」
「あんただけは狂うな」
この国が沈没する、文字通り。
「いやあ~、もう本当に可愛かったぞ、妻は。あれだけわしをゴミ虫でも見る様な普段の眼差しはなく、涙目で抱きついてくれる! これこそ人生の楽園!」
どうしよう。
もう駄目だこの人。
というか祖母様、ゴミ虫とはその時点で人を見る目があったんですね。
もうさっさとうちの父親に当主の座を譲り渡して隠居して欲しい。
いや、隠居した方がとんでもない事をやらかすかも。
以前に父が言っていた。
『当主という首輪が父を抑えてくれているんだよ』
つまり、当主を辞めたら歯止めがなくなる。
当主夫人たる祖母にそれを願うのは無理だ――あまりにも可哀想すぎて。
そしてそんな祖父が一番可愛がるのが香奈。
他の孫達の事も心底可愛がっているが、香奈の場合は自由に会えない事が暴走のレバーを全開にする要因となっているらしい。
ノンストップ暴走列車。
しかも脱線なしの何でもあり。
「香奈の泊る部屋も準備済みじゃ」
またまた嫌な予感がする。
「女の子の大好きな姫系の部屋にしてみたのじゃ」
そういえば、数日前に改装業者が入っていた気がする。
「そう! 今回こそわしは香奈と『仲の良い祖父と孫』になるのじゃぁぁぁぁっ」
「なら檻を撤去しろ」
むしろこんなものを見たら速攻で逃げ出す。
「ふっ、落とし穴や鎖、枷も準備万全じゃ。食べ物にも薬を仕込む手筈に」
「本当に容赦ないな」
どこの世界に祖父が孫娘に薬を仕込む。
「愛の為には手段は問わないのじゃ。わしはただ、香奈に『おじいさま』と笑顔で呼ばれて、一緒にお散歩とかしたいだけじゃ」
威厳の欠片もない。
厳粛な空気も、視線だけで誰もがひれ伏する毅然とした気迫も何もない。
そこに居るのは、いかに孫娘とのスキンシップをとるかに悩むただの危ないジジイだった。
柚緋は祖父を尊敬してはいるが、こういうところだけはついていけない。
「香奈に好かれたかったら何もしない方がいい」
「何を言う! 女というものは押せ押せの姿勢にこそ愛を感じるのじゃ」
「感じたら駄目だろ」
祖父と孫に親愛以上の何かを感じたら終わりだ。
「それに、今回を逃したらまた一月後までお預けなのじゃ。冥界大帝からも香奈のきゃわいいベストブロマイドを頼まれておるしのう」
香奈馬鹿二号――それは冥界の支配者であり、香奈の父方の祖父である。
神有家はまだいい。
一月に一回来るから。
しかし、冥界とは完全に香奈の父側からの没交渉となっている。
手紙も贈り物も全て突っ返され、会いたいと来ても強制送還される。
時折この祖父の所に来てはさめざめと泣く冥界大帝の哀れさは、もはや言葉で言い表せないほどだった。
孫娘に会いたい。
それが、冥界大帝と神有当主の願いだった。
というか、冥界と人間界の権力者を手玉に取るなんて、香奈はあれでいて中々の悪女である。
まあ、本人の知らない所でそれらは行われているのだが。
なにせ冥界側に関しては、香奈は全く知らない――存在すらも。
「はぁ~、孫達に囲まれて幸せおじいさん気分に浸りたい」
孫に会いたい気持ちが暴走し始めたらしい。
更によく分らない事を言い出した。
「まあでも、柚緋と結婚すれば香奈はこの家に来てくれるかのぅ」
床に転がり「の」の字を書いていた祖父の言葉に、柚緋の纏う空気が変わる。
「ほほ、もうすぐじゃからのう。お前の許嫁選定は」
神有家の次期当主の許嫁は、代々神有家の本家か分家の娘から決まる。
まだ物心つく前から本家と分家の子女達から吟味し、十二歳頃には最終候補が決められる。
現在柚緋は十二歳。
既に、年齢的に見合う娘達が候補に上った後、幾つもの審議を重ねて少しずつ候補を絞られていっていっている。
現在、柚緋の許嫁候補は二十名。
「一月後の親族会議にて、まず十名にまで絞り込まれる。更にその二月後に五名にまで絞り込まれ、その後――」
本当の花嫁審議が始まる。
それに伴い、分家、また神有家以外の家々も煩くなるだろう。
未来の当主夫人に取入る為に。
また、候補者の中には香奈も入っている。
が、香奈の場合は少し特殊だった。
『ゆずひとけっこんするぐらいならしんでやる』
幼い頃、香奈が宣言した許嫁候補辞退宣言。
もちろんそれだけで辞退出来る筈もなかったが、とにかく明確に柚緋と結婚したくないと告げた香奈。
そのおかげで、忍び寄る未来の当主夫人に取入る者達の魔手が、香奈にだけは及んでいないのは不幸中の幸いだが、言われた本人は最悪の一言だった。
つまり、香奈は万が一にも候補に残ったところで、最初っからレースに参加する気がないのである。
だが、それで逃がす柚緋でもなかった。
「確かにある程度の選定は家の方で行う。が、今までその選定以外の相手を選んだ事がなかったわけでもない」
ある時は他家から、ある時は一般家庭の少女を、ある時は選定から零れた本家や分家の娘を選んだ場合もあった。
遙か昔は選定こそが絶対だったが、今では最後は本人の意思が重要となる。
つまり、選定は一種の隠れ蓑である。
当主が心の底から愛しい相手を選ぶための。
「別に香奈を選ばなくてもいいんじゃよ。ただ、最終候補にまで残してくれればのう」
そうすれば、香奈は長く本家に留まらざるを得ない。
そうしたら、香奈と一緒に過ごせる。
当主の瞳は爛々と輝いた。
何をして遊ぼうか。
息子達は香奈の為に美味しい料理を造るだろう。
妻が香奈の為に着物を仕立てているのも知っている。
流行に詳しい娘なら、香奈の気に入るものを持ってくるだろう。
従姉妹達も香奈と遊べて楽しい筈だ。
それに、香奈が来たら娘の清奈も来る。
ああ、なんて楽しい。
「連理が切れると思うが」
「はぅ!」
膨らんだ夢がガラガラと崩れた。
美しい美貌が歪み、眼に溜まる朝露の様な涙。
「む、婿殿は、その」
切れた連理は流石の当主でも恐い。
「そ、そこは、正々堂々と酒飲み勝負をするぞ! そう、婿殿とも語り合うのじゃ!」
娘婿の連理とも実は仲良くしたかった。
昔はそれなりに仲が良かったが、香奈の事があってからは娘を普通に育てたいといって離れていってしまった。
別に香奈の事を除けば酷い事はされていないし、娘婿としても気に入っている。
しかし、しかしだ。
「婿殿はいけずじゃぁぁぁっ」
「どうでもいいから、とっとと檻を撤去しろ」
柚緋の冷酷な一言に、当主は更に喚いた。




