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冥姫  作者: 大雪
第一章 忘却の罪
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第二十五話 潰えた初恋

「まあ! 榎木様の所の梓さんではないの!」

 耳にキンキンと響く声に梓が我に返れば、三十代半ばの女性がこちらを見ていた。

 だが、その瞳に侮蔑が色濃く混じっているのを、梓は見逃さない。

 社交界で何度も向けられてきた視線は、「成り上がりの生意気娘」という蔑みを強烈に含む。

「こんにちわ……理人の叔母様」

 彼女は理人の叔母――理人の父の弟の妻だった。

 旧華族の家柄で、遙か昔は一族から皇族に妃を差し出した事もある名家中の名家だ。

 しかし時代の流れと共に権勢は弱まり、また支配者の座にあぐらをかき続けた歴史が仇となり戦後間もなく没落する事となった。

 だが没落という現実を直視出来ない彼らは、一族の年若い娘達を有力な名家に政略結婚という名で差し出し援助を求めた。

 それはこの理人の叔母も同じで、理人の家――篠宮家から援助を得る為に差し出された一人だった。

 それだけ見れば、栄華に縋る『家』の被害者だろう。

 しかしこの理人の叔母は中々に強かだった。

 自分の美貌と豊満な体を存分に使って当主の弟を籠絡し、最大限の援助を引き出していた。

 と同時に、凄まじい選民意識の持ち主で異常なまでに血筋と家格に拘り、新興系の類は一切嫌った。

 梓の家のような成り上がりもしかり。

 そんなわけで、幼い頃から篠宮家に縁あって出入りしていた梓は格好の侮蔑の対象とされてきた。

 殴る蹴るの暴力を振るわれたわけではない。

 しかし言葉の暴力の方は、梓の心を激しく傷付けた。

 それは、気の強い梓でさえ恐怖と哀しみで萎縮してしまうほどに徹底したものだった。

 だがそこまで酷くなったのは、梓の心の強さゆえだといっていい。

 梓は必死に暴言や誹謗中傷に耐えたが、理人の叔母からすれば生意気にしか映らず攻撃の手はどんどん酷くなっていったのだ。

 また理人の叔母は、篠宮家で自分と同じ思想を持つ者達を集め、彼らにも梓を攻撃させた。

 篠宮家は理人の叔母の実家ほどではないが、古い家柄を持つ家である。

 それゆえに、どうしても血に拘り昔の栄光に縋る者達は存在した。

 理人の叔母はその者達を利用したのである。

 化粧が必要以上に濃く施された顔に禍々しい笑みを浮かべる。

 紅い口紅が引かれた唇が、ニタリと醜く歪む。

 たとえ二人の関係を知らない者が居たとしても、一目で梓が蛇蝎の如く嫌われているのは瞬時に理解出来るだろう。

「梓さん」

 名を呼ばれただけなのに、まるで忌々しいと叫ばれたかの様だった。

「な……んでしょうか?」

 梓は笑みを作る。

 社交界にて培って来た完璧なお嬢様の仮面を被り、本心を押し隠す。

 今までの心の傷が悲鳴をあげ、手が震えそうになるのを必死に押え付ける。

 ここで弱みを見せれば、途端に笑って喉元に食らいついてくるだろう。

 儚げな花を思わせる風情の裏には、獲物を一撃で仕留める狩人がいる。

 今も彼女は理人と梓の間に立って、気に食わない小娘の前から自分の甥を隠す。

 お前には見る権利もないと言わんばかりの憎々しさが強烈に伝わってくる。

 これが他の相手ならば、梓はすぐに噛み付き反撃しただろう。

 だが、この理人の叔母だけは駄目だ。

 この――人の弱い部分を徹底的にえぐる存在だけは――。

「理人さんと仲の良かった貴方には、是非とも祝って頂きたいのです」

 禍々しい笑みが、更に色濃くなる。

「理人さんと桜子様の結婚を前提とした婚約を」

「叔母上!」

 理人の鋭い声が飛ぶが、梓は聞いていなかった。

 いや、告げられた言葉を理解出来なかった。

 理人。

 桜子。

 結婚。

 婚約。

 その四文字がグルグルと頭の中で回るのみ。

 言葉の関係性とか、文章全体としての意味とかは全くなく、いつまでもグルグルと回り続ける。

 理人。

 桜子。

 結婚。

 婚約。

 回り続ける中で単語は増え、減り、変化もした。

 そして回り続けた結果――。

「理人が桜子に襲われて強制妊娠し結婚?!」

 自分が何を呟いたのか、呟いた言葉の意味自体を理解してないとか色々と問題はある。

 が、大きく変わってしまった内容に、理人が叔母の後ろから梓に掴み掛かる。

「何で僕が妊娠する方になってるんですかっ」

 とんでもない誤解に理人の焦りも更に増す。

「違うの?」

「違――」

「妊娠はしていませんわ。結婚前の妊娠などはしたない事ですからね。桜子様にはありえませんよ」

 クスリと馬鹿にした様に理人の叔母が笑う。

「とりあえずまだお二人とも中学生ですから、婚約のみ。ですが結婚出来る年齢に達したらすぐにでも式を挙げる予定ですよ」

 桜子と理人が結婚。

 単語だった言葉は文となり、再び梓の頭の中で回り始める。

 それに気付いた理人が口を開くが、それを制するように理人の叔母が口早に告げた。

「もう本当に篠宮一族は大喜びですのよ! 桜子様のご実家である石守家は私の実家よりも古い由緒正しき名家。しかも現在も政財界、社交界にて権勢を振るわれているという偉大さ。その様な家と縁続きになれる事はわが篠宮家にとって最大の幸せですもの!!」

「……」

「しかも花嫁となられる桜子様は石守家の珠玉の姫。それを花嫁に頂けるなど――」

 感極まって声も出なくなる理人の叔母だが、その視線はしっかりと梓を捉えていた。

 そして残酷に告げるのだ。

 成り上がりのお前などとは比べものにもならない花嫁だと。

 身の程を知れと。

 そう――理人の叔母は気付いている。

 梓の気持ちに。

 必死に押し隠してきた――淡い初恋に気付きながら、叩き潰そうとしているのだ。

「もちろん、式は盛大に執り行いますが、その前に婚約式を行わないと。都心のホテルを借りて行う予定ですのよ。もちろん、梓さんにも出席願いたいですわ」

「え?」

「叔母上!」

「理人さんの大切なお知り合いですからね」

 お知り合い――友人とすら認めないのだろう。

 ましてや、幼馴染みなどとんでもない。

 ただの、お知り合いなのだ。

「席は理人さんと桜子様のよく見える一番前の席なんてどうかしら? ああ、お知り合い代表として是非ともお祝いのお言葉を頂きたいわ! ねえ? 理人さんもそう思うわよね?」

 醜い笑みを浮かべ一人恍惚の表情のまま話し続ける叔母に、理人は眉を顰める。

 だが、それさえも梓の視界には入らない。

「中学も違うようだし、理人さんと桜子様が婚約したら中々会えなくなるかもしれないから、是非とも婚約式には出席してね。ああ、中学が一緒ならまだ違ったのでしょうけど」

 理人の叔母は梓が超名門校の受験に失敗した事を知っている。

 まあ――当然だが。

「二人の事、お祝いしてあげて下さいね」

 ガブリと、喉を食いちぎられた。

 と、理人が梓の肩を強く掴む。

「梓、これは」

「理人さん! 桜子様と婚約したというのに他の女性に触れるなんてはしたないですわ!」

 強引に理人を引き剥がそうとする叔母だが、甥に振り払われる。

 それをぼんやりと見ながら、梓の口は勝手に動いていく。

「婚約……ですか」

「ええ、結婚前提の婚約です」

 梓に知らしめるように、言い直す理人の叔母。

「まあ、どうしましたの? 顔色が悪いですわ」

 分かっているのに、攻撃の手は緩めない。

「……その、あまりにも突然の事でびっくりしてしまって……理人……さんも、桜子さんも……ごく身近に知っている方なので」

「まあ身近なんて! ああ、小学校は確かに一緒でしたが」

 お前など近付く事すら許されないと言わんばかりに理人の叔母が笑い出す。

「それに婚約も突然ではありませんよ。今まで長く打診した結果ようやく先週決まったのですから。発表も今週の月曜日の社交界にて発表しましたしね」

 今週の――。

「そう……なんですか? 私も参加していましたが……」

「パーティーの一番最後に発表しましたの。聞いてないという事は、その前にお帰りになられたのではなくて?」

「……」

「本当に素晴らしかったんですよ? 皆が若い二人に祝福してくれましたもの」

 理人と桜子の婚約を祝福した。

 二人が結婚する事を祝福した。

 そうか……。

 梓は、すっと顔を上げて理人の叔母を見つめた。

 と、その歪んだ笑みを浮かべた顔があっけにとられたのを見て少しだけ胸がスッとした。

 どうやら泣いている顔を想像していたのだろう。

 ならば笑ってやろう。

 既に喉を食いちぎられ瀕死の状態を逆手に取り、演じるのだ。

 梓は、既に泣きたいのか怒りたいのか喚きたいのか、それさえ分からなかった。

 けれど、そのどれかを行えばきっと目の前の女性は大喜びするだろう。

 だから絶対にしない。

 人を苦しめるのが好きな相手にとって一番応えるのは、相手が全く応えていない事だ。

 だから笑う。

 とびっきりの笑顔で、言ってやろう。

 今だけは高すぎるプライドが嬉しかった。

 潰えた初恋も、桜子への強烈な嫉妬も即座にプライドに抑えつけられた。

 笑える。

 笑える。

 笑え!!

 自分の全てを否定し、馬鹿にし、侮辱した敵に一矢を報いるのだ。

 榎木家の娘としてーーいや、梓として泣きながら背を向ける様な事はしない。

 戦え――。

「婚約、おめでとうございます」

 顔の筋肉を気合いで制御し、完璧な笑みを作ってお祝いの言葉を述べる。

「是非とも、そのお祝いの式に参加させて頂きたいです」

 ツンとする鼻、乾いていく目、震えそうになる声。

 それらを全て押え付け、笑う。

 泣いたら負けだ。

 今の自分は演じる者。

 心を押し隠し、自分の誇りとプライドをかけて演じきる。

 子供だからと見くびるな。

 十二の小娘にだって出来る事はあるのだ。

 分からなければ、窮鼠猫を噛むという言葉をもう少し勉強した方が良い。

 あっけにとられる理人の叔母に、梓は更に言葉を続ける。

「桜子様は本当に素晴らしい方ですから、さぞや篠宮家の方々はご結婚を楽しみにされている事でしょうね」

「え、あ、そ、そうね」

 戸惑い言葉をもつれさせる理人の叔母に笑いながら、梓は血を吹く心に耐えていた。

 しかしそれでも、暴れ出す嫉妬の咆哮だけは止められなかった。

 桜子。

 桜子。

 桜子。

 何故――。

 よりにもよって、桜子なのか。

 まだ相手が他の少女ならば許せた。

 いや、嫉妬はするだろうし激しく傷ついただろうが、それでも!!

 どうして。

 どうして。

 どうして。

 よりにもよって、自分が一番ライバル心を抱く相手が初恋の相手の――。

「おめでとうございます」

 嫉妬を必死に押え付け、梓は心にもない事を涼やかな笑顔で告げる。

 好きなら告白しろ――と、美鈴辺りなら言うかも知れない。

 ずっと……十年近くの初恋だった。

 理人に初めて引き合わされ、共に遊ぶ中で恋心は募っていった。

 昔は梓だって理人と素直な気持ちで付き合っていた。

 でも、周囲はそれを許さなかった。

 理人の両親や本家の者達はそうでもないが、篠宮家分家の中には、梓が理人に近付くどころか本家に出入りする事すら蛇蝎の如く嫌がる者達が居た。

 何故お前がいるのだ。

 お前の様な輩が出入りしていい場所ではない。

 そんな事を囁かれ続け、非難の眼差しの集中砲火を受けながら、どうして思いを伝えられるだろうか。

 しかも周囲は理人と梓の仲を危惧し、自分達の本家子息に相応しい令嬢達を常に引き合わせていった。

 その令嬢達のなんと美しい事。

 なんと聡明で知性に満ちあふれている事。

 理人と……お似合いな事。

 お前など相応しくない――そんな空気の中で、梓は物陰から理人と令嬢達が仲良くするのを見続けてきた。

 理人の隣は自分の場所だったのに。

 子供心の嫉妬は狂おしいまでに激しく梓を苦しめた。

 それでも理人は梓を忌避する事なく、今まで通りに接してくれた。

 その優しさに何度思いを伝えたいと願っただろう。

 けれど最後の最後で諦め続けた。

 そう――結局は、篠宮家分家の者達や、理人目当ての令嬢達の鋭い視線と誹謗中傷に梓は負けたのだ。

 戦う事もなく、あっけなく敗北を選んだ負け犬。

 そんな梓に、理人達の婚約を非難するどころか、嫉妬する権利すらない。

 だってそれを梓は自分から手放したからだ。

 認められる為に戦うわけでもなく、本人に思いを伝えるわけでもなく。

 自分の恋心全てを押し隠して、ただの幼馴染みで留まり続けた。

 そればかりか、理人といつも喧嘩して、沢山酷い事を言い続けた。

 そんな自分に何の権利がある。

 理人は篠宮家本家の跡取りだ。

 将来は家のために結婚し、跡取りを設ける義務がある。

 市民平等の現代に家のためなんてと言う者達もいるだろうが、こうして古くから続く名家になればまだまだ家というものが重要になるのだ。

 よりよい血筋の女性を迎えて子供を作る。

 正妻に子供が出来なければ、妾を囲ってでも設ける。

 そんな――事が必要だと言われるぐらいの名家の跡取りなのだ……理人は。

 そして、理人の相手がたまたま桜子だっただけだ。

 いや――たまたまではないだろう。

 桜子は社交界では誰もが憧れる絶世の美少女だ。

 しかも家柄も家格も飛び抜けており、神有家には劣るが社交界の上位に君臨する石守家本家の姫である。

 嫋やかで美しく、知性と教養もあり才能豊かな桜子を当家の嫁にと望む者達は多い。

 それこそ、毎日求婚者が長蛇の列をなしている。

 つまり理人は、そんな数多い求婚者達を押しのけて、桜子を妻に迎える権利を手に入れたのだろう。

 理人なら当然だ。

 でも……。

 梓は心の何処かで期待していた。

 桜子の夫には、他の男であればいいのにと。

 神有家跡継の柚緋や、本条家跡継の夕霧でも良かった。

 彼らは桜子の夫の座に一番夫近いとされていた。

 なんでよりにもよって……理人の。

 しかし今更言っても仕方が無い。

 なぜなら、それは梓よりも桜子の方が理人にとって必要な存在だと既に認められたからだ。

 そう、なってしまったからだーーとっくに。

 だからこそ、桜子は理人の花嫁の座を手にする事が出来た。

 梓は桜子が嫌いだ。

 それこそ蛇蝎の如くと言ってもいい。

 それは桜子が自分より優れているからとか、態度が腹が立つとか色々ある。

 でも――それでも理人の事がなければ、ここまで嫌いにはならなかっただろう。

 桜子だって努力し、今の地位を築き上げているのは分かっているから。

 たとえどんなに天才に見えても影では努力しているのだ。

 それは、有名な科学者である理佳の両親を見ていれば分かる。

 沢山の努力と、少しだけの運。

 それが天才なのだ。

 桜子の偉業をみれば、それはきっと天才の部類に入るが、だからこそ努力しているのも確かなのだ。

 桜子が凄いのは当然だ。

 桜子は努力しているのだ。

 でも……それが分かっていても、梓は桜子が嫌いだった。

 周囲になんと言われても。

 その証拠が小学校時代の騒動だ。

 桜子の全てが鼻につき、ひたすら大騒ぎして喧嘩をふっかけた。

 特に理人が桜子を褒めた時はとことん許せなかった。

 身勝手だって、我が儘だって分かっていたけれど、それでも抑えきれない思い。

 でも梓だって考えた。

 いつかは――と。

 まだまだ我が儘な子供な自分。

 でも、沢山の経験をしてもっと大人になったら……その時は、桜子とも普通に付合えるかもしれないと。

 まあーー桜子は香奈にしか興味がなかったが、それでも今みたいな諍いは減少するだろう。

 そうすれば、それに振り回される者達も居なくなる。

 なのに……なのに……今回の事で、自分は死ぬまで桜子が大嫌いなままになると梓は思った。

 胸の痛みは更に激しさを増し、大量の血を吹き出していく。

 泣いては駄目だ。

 それに、別に桜子からすれば謂われのない事ではないか。

 梓が桜子を嫌おうとも、それはただの一個人の感情に過ぎず、桜子の今後の人生に関わって行くものではない。

 それに桜子だって名家の娘だ。

 家のために結婚を選択したのかもしれない。

 それかもし理人の事を純粋に好きだから話を受けたとしても、それは桜子に許された選択の自由によるもので、梓がとやかく言えた義理ではない。

 そう……結局は梓の独り相撲なのだ。

 最後まで。

 子供っぽい自分の、身勝手な我が儘なのだ。

 ならばーー。

 梓は自分の肩を掴む理人の手をそっと降ろさせる。

「理人、おめでとう」

 桜子と婚約した今、周囲は更に梓が理人に近付くのを嫌うだろう。

 だからこれが会える最後の機会。

 これが最後なら……最後ぐらい、自分の一番の笑顔で覚えていてもらいたい。

「桜子との婚約、おめでとう。出来れば結婚式にも招待してほしいわね」

「梓……」

「あ、でも私からも伝える事があったわ」

 ポロリと零れた言葉に梓自身がぎょっとする。

 自分は何を言おうとしているのだろう。

 けれど、口は勝手に告げていた。

「私もお父様から縁談話が来てるの」

 縁談話は確かに来ていた。

 でも、それは断っても良い話だ。

 梓も当然断ろうとしていた。

「今大学に通っている方で、将来は父の後を継いで事業を引き継ぐんですって」

「梓……」

「来週お見合いがあるの……だから」

 梓は笑った。

「話が決まったら私達の婚約式にも来てね」

 精一杯の矜持を胸に、吐き出された言葉に泣きたかった。

 馬鹿な自分。

 馬鹿で愚かな自分。

 今更意地を張ってどうするのか。

 それどころか、顔も知らない縁談相手まで巻き込もうとしている。

 しかし吐き出した言葉はもう戻らない。

 香奈達の時と同じ。

 結局、同じ事をしている。

 ああ……もう限界だ。

 梓はうつむき、涙を堪える。

 もう一秒だって此処にはいられない。

 早く。

 早く。

 早く。

 此処から去らなければ。

「あ、ああ梓ちゃん?」

 理佳の声が聞こえ顔を上げれば、キョトンとした顔で本屋から出て来た所だった。

「理佳! 行くよ!」

「え?!」

「梓っ」

 思いのほか出た強い口調に理佳が怯えるのも構わず踵を返せば、後ろから理人の声が聞こえてきた。

 でも、何も聞きたくなくて先に言った。

「ごめん、待ち合わせしてるから」

 理人を拒絶する様な固い声に、背後で息をのむ音が聞こえた。

 ああ……やっぱり自分は……。

 これでは、全てが台無しではないか。

 せっかく……笑顔で耐えたのに。

 梓はグッと唇を噛みしめると、しっかりと顔を上げた。

 そして……最後に告げる。

「桜子と幸せになってね」

 最後の一音を紡ぎ出すと共に走り出す。

 後ろで理佳の驚く声もあっという間に小さくなっていく。

 馬鹿だ。

 馬鹿だ。

 流れる涙も拭わず、梓は走った。

 理人と桜子は結ばれる。

 きっと誰からも祝福される夫婦になるだろう。

 社交界の高嶺の花の二人だから、きっと大勢の客が招待されて盛大な式があげられる。

 そうなれば準備は忙しいし、きっと何年も前から緻密な計算のもと進められるだろう。

 当然主役の理人と桜子は何度も顔を合わせ、忙しく式の準備に勤しむはずだ。

 最初の夫婦の共同作業は式の準備ーーなんて、テレビで言う様に。

 そして忙しくて、忙しくて……きっと梓の事なんて忘れてしまうだろう。

 互いに、相手の事だけを考えて、相手の事だけで心を一杯にして。

 だから、最後には笑顔の自分を覚えていて貰いたいなんて、最初から無駄な事なのだ。

 いや、それ以前に酷く厚かましい事だ。

 今まで散々酷い事を言って、酷い事をしてきた相手が今更笑顔を覚えていて欲しい?

 どれだけ身勝手なのか。

 それぐらいなら、最初から素直に振る舞っていれば良かったのだ。

 結局、自分の手で全てを壊していく。

 全て、全て、全て。

 もう……全てがどうでも良い。

 めちゃくちゃに走っていく。

 誰かが追い掛けてくるわけでもないのに、どうしてここまで走るのだろう。

 でも……もうどうでもいい。

 今は一刻も早く此処から逃げたかった。

 一方、理佳はどんどん梓から引き離され焦っていた。

 本気で走られたら自分では梓に追いつけない。

「ま、まって、梓ちゃんっ!」

 けれど梓は声なんて聞こえないかの様に走り続ける。

 理佳の焦りは増した。

 このままどんどん引き離されていったら、もう二度と梓に会えなくなるような気がする。

 何度も制止の声を上げ、天敵からは鈍足と言われた足で追い掛ける。

「梓ちゃん、梓ちゃんっ」

 そうして梓がショッピング街を出たのを、絶望の思いで確認した時だった。

 突然目の前に現れた少年達に理佳が足を止めた。

 急停止したせいで衝撃が体に伝わり、後ろに転がりそうになるのを堪えて少年達を見つめた瞬間、血の気が引いていく。

「の~みや」

「久しぶりじゃん」

「野宮ってば相変わらずトロイんだな」

「保護者はどうした? 置いてけぼりか?」

「うわ~、梓にも捨てられたの? か~わいそっ」

 どことなく軽薄な感じのする少年達。

 見た目はそれぞれ整っているが、ニヤニヤとした笑いは見る者に不快すら覚えさせる。

 だが理佳にとっては不快どころか恐怖でしかない。

「あ……」

 彼らとは縁が切れたと思っていた。

 自分が山中中学に入り、彼らはマンモス校の方に入学した。

 超名門校の方に入った天敵たる彼と同じく、彼らとも縁が切れた筈だった……。

 小学校時代に天敵に従って自分を苛めた少年達を前に、理佳は凍り付く。

「ねえ、今から一緒に」

「ちょっ! 待て逃げるなっ」

 理佳は走り出す。

 梓の走り去った方向とは逆方向へと。

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