第八話 昨夜の事
警告)最後に、残酷な表現がありますので、ご注意下さい。
「私……殺されるかもしれない」
シーツを身に纏い、震えたままベッドの上で話す椿に、床に座って聞いていた香奈達は衝撃を受けた。
殺される?!
まさか、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「け、けけ警察!」
「理佳、落ち着きなさい」
梓が慌てる理佳を落ち着かせる。
美鈴は驚きすぎて声が出ず、代わりに香奈が質問した。
「殺されるって、誰に?」
「ああ……あ……殺される、絶対に殺される!」
再びガタガタと体を震わせ怯えが強くなった椿に、香奈は小さく舌打ちする。
このままではまた何も聞けなくなる。
「椿、落ち着いて。殺されるなら、殺されないようにしなきゃ。大丈夫だよ。もし昨日何か見て、それで殺される様な事があるとすれば、きちんと警察にいけば何とかなるよ。だから、そこできちんと事情を話せるように」
「無理よ!!」
椿の怒声に香奈は宥めようとして伸ばした手を止めた。
「椿?」
「無理よ!! 絶対、絶対に殺される!! 私、殺される……いや、死にたくない、死にたくない!!」
「殺されるって、何があったの?」
普通にしていれば殺される様な事態はまず起きないだろう。
何か、とんでもないものを見たのか。
椿がおかしくなったのは、コンビニから戻って来た時だと椿の母が言っていた。
だから、そこで何かしたか、見たかしたに違いない。
だが、椿が自分からわざわざ何かするわけはない。
となれば、十中八九巻き込まれたパターンだろう。
もしかして、恐い不良がコンビニか、そこまでの間にたむろしていて椿にちょっかいでもかけたのだろうか。
それで逃げた椿に、殺すぞとでも脅したのか。
それとも――サスペンスドラマみたいに、麻薬の取引とか、誰かが殺される現場でも目撃したのか。
「……馬鹿らしい」
香奈は小さく口の中で呟く。
麻薬の取引?
誰かが殺される?
そんなドラマみたいな話はテレビの中だけでの事だ。
普通に生きていれば、そんな現場に遭遇する事はまず有り得ない。
だが……火曜日の午前二時頃か……。
それは、あの連続無差別殺人事件が起こなわれる犯行時刻である。
そして、今日の午前二時~午前四時の間にも、確か事件が起きて被害者が出た。
都心近隣で……確か、場所は……。
あれ?ホテルからその場所って近くなかっただろうか?
香奈は今朝見たニュースを思い出す。
ニュースキャスターが煩く事件について報道する中、犯行現場が映し出されていた。
その場所は……。
「……椿、もしかして」
まさか。
「あなた」
まさか、まさか。
「連続」
その途端、椿が「ひぃぃぃい」と喉が引きつる様な悲鳴をあげる。
「ちょっ! 椿!!」
「いやぁ!! 私は何も見てない!! 何も見てないの!!」
「椿!!」
暴れる椿を抑えつけるが、もの凄い力にすぐに突き飛ばされる。
そのまま、後ろによろめいて尻餅をつき、テーブルに背中をぶつけた。
「っ……」
「椿、落ち着きなさい!!」
梓と理佳が二人がかりで押え付け、美鈴が香奈を引き起こす。
「ちょっと、大丈夫?!」
「油断したわ」
「油断したとかの話じゃないでしょ!! 当たり所が悪かったら死んでたのよ?!」
美鈴の怒りを前に、香奈は首を傾げた。
「けど、今まで何度もぶつけても大丈夫だったよ」
香奈は十二年の歴史を思い出す。
最初は赤ん坊の時だ。
お腹が空いて母の下に向かった際に、電子レンジのコードを引っぱり頭の上を通過していき母の度肝を抜かせた。
一歳の頃は二階の階段から転がり落ちて、母を泣かせた。
二歳の時は、成長ホルモンの過多でジッとしておられず、走り回って網戸ごと窓の外へと落下した。
三歳の頃は、スーパーマンごっこの途中、マント代わりにした風呂敷でジャングルジムから飛び落ちた。
四歳の時は、映画に出て来た傘を持って空を散歩する人に憧れて、母の友人が住むマンションの八階で実行しようとして、下に居た通行人達に悲鳴をあげられた。
そしてその後も色々とある。
一度は、首の骨を折って死にかけた事もあるが、これは殆ど記憶に無い。
「でも死ななかったよ」
「香奈の人生って、ある意味奇跡だよね」
いつも死と隣り合わせに生きている。
まあ、人間誰しもが死と隣り合わせに生きているが、香奈ほど生死の境界線がもあやふやな子は居ないと美鈴は思って止まない。
「とにかく、人間ってちょっとした事で死ぬんだから、気をつけてね」
「おお、美鈴って哲学者」
心配したのに、何だろう?この苛立ち感。
美鈴は怒りの発散をかねて、香奈の頬を思い切りつねった。
だが、悠長にしている暇はなかった。
椿の事を思いだして二人がベッドを見れば、梓が椿を抱き締めて落ち着かせていた。
「う……っく……ひっく……」
「大丈夫、大丈夫だから」
「うぅ……」
「梓は凄いね~」
と、自分では褒め称えたのだが、口調が意外にものんびりしていたせいか、梓にキッと睨まれた。
「それより、さっき何を言いかけたの?」
「え?」
「香奈が言った言葉で椿がこうなったのよ。何を言おうとしたの?」
「いや、それは……って、言ってもいいの?」
最後まで言い切る前に椿が暴れ出した。
それから見ても、あの事件に関係しているのは明白だった。
だが、さっきであれほど暴れたのだ。
もう一度言えば、椿の恐慌は更に酷くなるだろう。
「聞かなきゃ分からないじゃ無い」
「まあ、ね」
「椿、貴方が話してくれるなら別だけど」
「……」
「……じゃあ、香奈から」
「話す」
「え?」
小さくポツリとした呟きが、椿の口から漏れる。
「香奈の……言うとおり……私……」
「香奈のって」
「……私、見ちゃったの……あの」
連続無差別殺人事件が行われた瞬間を――。
沈黙が、落ちた。
暫く、誰も口を開かなかった。
瞬きすら、しなかったかもしれない。
痛いほどの静寂が、部屋の中に満ちる。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……やっぱり」
香奈の言葉が、静寂を打ち破った。
「や、やっぱりって?!」
驚く美鈴に、香奈は順番に説明していく。
「あのホテルとコンビニの途中なんだ。今回の事件が起きた現場」
「今回のって……け、今朝の、れれ、れ連続無差別殺人事件の、現場?」
「そう。今朝のニュースでやってたし、その時に近くにあのコンビニとかホテルとかも映ってた」
椿の母が話してくれたホテルも、コンビニも映っていたのだ。
「ただ、実際の現場はホテルやコンビニのある大通りから一本脇道に入った裏路地だけどね。普通は、まず行かない。それこそ、何かの騒ぎでも聞きつけないと」
「……椿……」
梓が椿を見る。
「行ったのね?」
「……うん」
そう……それが全てを変えてしまったのだ。
「ぐ、具合が悪くて……お母さんがタクシーを呼んでくれたけど……で、でも、本当に気持ち悪くて……」
それは、タクシーを呼んでから十分後の事だった。
とにかく早く家に帰りたくて、玄関を出てすぐの所でタクシーを待っていた。
母は、トイレに行くからと行ってホテル内に戻り、自分もついて行こうとした。
しかしその時、突然吐き気がこみ上げてきて、到底トイレまで持たないと、そのまま外のホテルの花壇で吐いてしまった。
「それで、コンビニに向かったの」
吐いたものをそのままにしておけない。
だから、ゴミ袋を買おうと思った。
他にも、風邪薬を買って飲もうと思った。
「コンビニまでは走って帰って来ても十分かからないし」
それに、熱があった頭で、しかもホテルの敷地内で吐くという事が椿の判断を誤らせた。
その間にタクシーが来るかもという考えも、母か誰かに言付けていくという考えも、全て吹き飛びコンビニへと走った。
自分の行ってしまった失敗を隠したいという気持ちもあったし、どうせすぐ近くだしという安心感も大きかった。
「それで……コンビニに行く途中で……」
ふと、何かの音を聞きつけて右を向けば、建物と建物の間に細い道があった。
その奥に、ちらりと見えた幾つかの人影。
だが、それ以前に声が聞こえたのだ。
「呻くような……声で……助けてって……」
何故あの時、その道を歩いていったのか今でも分からない。
しかし、気付けば椿はその道を誘われるようにして歩いて行った。
いや――実際に誘われていたのかも知れない。
そうして、二、三十メートルも進んだ頃だった。
背後の通りは遠く、街灯もない裏路地は酷く暗かった。
ハッと気付いた瞬間、椿は自分の居る場所を理解して慌てた。
自分みたいな子供がこんな暗い場所に居る危険性に、ようやく思い当たったのだ。
慌てて戻ろうと踵を返した時だ。
ゴトリと、何かが椿の足下に転がったのだ。
「さ、最初は何か分からなかったの」
飛び上がるほど驚いた。
と、その時だ。
曇の隙間から差し込む月の光が、それを照らしたのだ。
「ひ、人の、てて、手だったの」
千切れた、人の腕。
肘から下のそれは、赤い血に塗れていた。
玩具だと、最初は思った。
じゃなきゃ、こんなもの、ある筈が無いと。
一瞬にして切り替わった非日常を、椿の頭は徹底的に拒絶した。
いや、拒絶した事すら気付かなかった。
茫然と、その腕を見続けた。
いつ、座り込んだのかも分からない。
悲鳴すら上げられず、視線すら外せずそれを見続けた。
「こ、声が聞こえたの」
どれだけ見ていたのか分からない。
だが、突如顔にむわっと生臭い臭いを感じ、椿は無意識に顔を上げた。
それを認識するまで、しばらく時間がかかった。
「で、私に言ったの……そ、それ」
「……なんて?」
椿は、地獄の底から這い上がってくる様な声が呟いた言葉を口にした。
「ワスレナイデ」
「え?」
「ワスレナイデって」
それは、言い続けていた。
何時のまにか月は隠れ、その姿は闇に包まれて見えなかった。
けれど、何とも形容しがたい禍々しい声で告げるのだ。
「ワスレナイデ……ワタシヲ」
「忘れないでって……」
「アナタヲコロシニイクカラ」
「っ?!」
「い、言ったの……私を、殺すって」
キョウハコレデオシマイ。
モウ、オワッタカラ。
ダカラ、マタコンド。
マッテイテ。
マッテイテ。
アナタノモトニイクノヲ。
ワスレナイデ。
ワタシヲ。
「こ、殺すって……」
その後、気付いた時には椿はコンビニに居た。
あれは夢だったのかとも思った時、その声が頭の中に響いてきたのだ。
ワスレナイデ。
ワスレナイデ。
あれは現実に起きたことなのだ。
だが、それでも必死に微かな可能性に縋り付いた椿は、朝のニュースで知る事になる。
あのコンビニ近くで、自分が居た場所で、新たな事件が起きていたことを。
「わ、私……殺される……」
自分は殺害現場を目撃してしまったのだ。
だから、口封じに殺される。
「なら、警察に事情を話して」
「無理よ……」
「え?」
「警察だってどうにもならない!!」
椿の叫びに香奈達が後退る。
「あんな、あんなの……」
「椿、何か見たの?」
梓の言葉に、椿がポツリと呟く。
「……化け物」
「え?」
思い出したのは、事件を知らせるニュースがきっかけだった。
見ていないと思い込み、忘れ去った筈のそれが。
自分にワスレナイデと告げたものが立ち去る姿が、一気に蘇った。
手に握られた、血塗れの大きな肉切り包丁。
それを持つ相手が、まるで闇の中に溶け込むようにして消えた光景。
そして――。
「あ、あんな、消え方……絶対に普通じゃない」
「……け、けど、つ、つつ、椿は、ねね熱があったんだし」
もしかして、幻覚を見たのではと理佳が告げる。
その殺人事件を見たのは確かで、犯人と鉢合わせしたのも椿の証言を信じるなら確かだろう。
しかし普通の人間が、溶ける様に消えるなんて……ある筈が無い。
ただ、そう見えただけではないのか。
「違う!! あれは本当だった!!」
しかも、その相手はただの相手じゃない。
「それに、その人の姿――全身が切り刻まれ血塗れだった……」
しかも、片目がなく、首に大きな傷口があり、包丁を持った腕とは反対の片腕がなかった。
到底、生きていられる筈のない、大怪我だった。
ああ……どうして見てしまったのだろう。
いや、思い出してしまったのだろう。
月の光が隠れて、見えなかった筈なのに。
あれが消えるその一瞬――見えてしまった。
闇の中でぼんやりと青白く光る、ケラケラと笑う、その姿を。
「ずっと、笑いながら消えていった……」
自分と同じぐらいの……セーラー服を着た血塗れの少女が。
沈黙が部屋に落ちた。