十九章
第十九章 賢人の怒り
「あんたらが探しているっていう賢人様だ」
エンヤはしばしパシャルに疑いの目を向けたまま、ぱっと身を翻してシュミレットに近づいたと思うと、軽く膝を曲げて屈み、黒い鎧を纏った手をさっとフードの中へ伸ばして強引に細いシュミレットの顎を掴みあげた。露わになった神経質そうな白い顔に黄金の瞳、そして、五粒の紫のアミュレットのついた片眼鏡……。
ルーネベリはあっと声を漏らしたが、シュミレットは無言のままエンヤを見上げていた。
「こんなに若いのに賢者だと――?」
疑い深くエンヤがシュミレットを見ていた。パシャルは剣を鞘に納め、片手で身体を支えて足を引きずりながら言った。
「会わせてやったんだから、俺を解放してくれよぉ。俺の目の前で仲間が連れてかれたんだよぉ。助けに行かねぇと」
「連れて行かれたって、もしかして、クワンが?」とルーネベリが言うと、エンヤはシュミレットの顎を掴んだまま、シュミレットの黄金の瞳をじっと観察するように見ながら言った。
「コーウェルに捕まったのか。そいつをどこで拾った?」
兵士は姿勢を正し、後ろで手を組んで言った。
「戦場の前線に行く途中であります。ただの剣を振りまわしていたところ、セリー隊長が見つけ。私が捕虜として砦に連れてまいりました」
「セリー隊長は賢人の話を聞いたのか?」
「はい」
「何と仰っていた?」
「戯言だと仰っておりました」
エンヤはシュミレットを見つめながら含み笑いをした。
「隊長らしいな。――おい、お前、そいつを連れてついて来い」
「はい」
「待てよぉ、賢者様に会わせたら賢者様たちを保護して、俺は解放してくれるって言っただろうぉ」
パシャルがそう叫ぶと、シュミレットの顎から荒々しく手を離したエンヤは立ちあがり言った。
「誰がそんなことを言った。第一、この少年が賢人だという証拠はどこにある?どこをどう見ても普通の少年だ」
「なにを言ってんだよぉ。賢者様は賢者様だろぉ」
「賢人は老人の姿をしていると聞く。この少年の、真の姿は老人なのか?」
パシャルは戸惑ったが、すぐに頷いた。
「……あぁ、きっと、そうだぁ」
「お前は老人が少年になった瞬間を見たことがあるのか?」
エンヤにそう問われ、パシャルは一瞬怯んだ。
「………見たことはないがぁ、なんでそんなよくわかんねぇことをごちゃごちゃと言うんだよぉ。賢者様っていうんだから、それでいいだろうぉ」
「我々は賢人を喉から手が出るほど欲している。とりとめのない話を信じさせて、お前一人で逃げる気なんだろう」
「ふざけるなよぉ、俺はそんな卑怯な真似はしねぇ!」
エンヤは嘲るようにパシャルを笑った。
「よく吠える奴だな」
黒い鎧で覆われた右の踵を地面にぶつけ、カシャンと音を鳴らしたエンヤは言った。
「何はともあれ、賢人が編み出した秘術の中に、不老不死の秘術があると聞いた覚えがある」
「――不老不死?」と呟いたのは、黙り込んでいたシュミレットだった。エンヤはシュミレットの方を向いて頷いた。
「お前が不老不死の秘術を使い、老人から少年の姿になった真の賢人ならば、秘術を使い賢人であると我々に認めさせられるだろう」
ルーネベリは言った。
「ちょっと待ってください。黙って聞いていれば、さっきから一方的に先生の事を……」
エンヤは納めていた剣をさっとかかげ、ルーネベリの方へ剣先を向けた。
「黙れ、図体だけがでかいだけで何の役にも立たない奴には話していない」
「何の役にも立たないって、そんな言い方は……」
「お前たちはトォノマの人間に扮して、砦まで侵入してきた。コーウェルの人間ではなさそうだが、正体がわからぬ今、もはや、お前たちは捕虜の身だ。命が助かりたければ、我々に賢人の秘術を見せろ。それ以外のことは口を利くな」
あまりにも理不尽な物の言いように、ルーネベリは心の底から腹が立ち抗議しようと口を開こうとしたのだが、シュミレットがすっと右手をあげて言った。
「ルーネベリ、もう結構だよ。君が騒ぐことはないよ、彼女の言う通りにしよう」
シュミレットを振り返ったルーネベリは言った。
「でも、先生。言われっぱなしでいいんですか?」
「よくはないけれども、僕たちの置かれている状況はあまり良くないのだよ。周りを見てごらんよ」
フードを深く被り直しながら、疲れたようにシュミレットは周囲を見渡した。エンヤの話に気を取られて気づかなかったが、周囲には黒い鎧を纏ったトォノマ兵たちが取り囲んでいた。砦にはじめからいた兵なのかもしれない。エンヤとパシャル、ルーネベリが話しているのを見て集まってきたようだ。トォノマ兵たちは手に剣を持っていて、エンヤの命令があればいつでもルーネベリたちを捕らえるつもりのようだった。
ルーネベリは困惑して、言葉に詰まった。シュミレットはぼやくように言った。
「まったく、面倒なことになってしまったよ。僕はただの魔術師の賢者だというのに。よくわからないことに巻き込まれてしまったようだよ。ここにダビ様がいれば、笑われていたことだろうね」
「先生……」
冗談が言う余裕があるのは、賢者様には何か策でもあるからなのだろうかとルーネベリは思ったが、シュミレットが小さくため息をついて俯いたのを見て、それは思い違いだったことに気づいた。
シュミレット本人も相当、困っているようだった。しかし、それもそうだろう。三大賢者というのは十三世界においては、統治女王に仕える役職の名前だ。確かに魔術師の頂点にはいるが、必ずしもその人物自体が「賢者」であるのかは疑問があるのだ。また、シュミレットがいくら読書家ゆえに物知りであったとしても、賢人の秘術たるものを知っているのかはわからない。秘術が何なのかさえわかっているとは言い難いのだ。ただ、エンヤの期待に応えられなければ、もしかしたら殺されることもありうるということはわかっている。賢者様でなくとも、誰でも気が滅入る状況だ。
そもそも、ここはどこなのだろうか……。トォノマ人の砦だということの他にはなにも情報がなかった。それに、彼らの言う賢人というのは一体、どういった人物を指しているのだろう。
剣を鞘に納めたエンヤはシュミレットの手首を掴み、砦の古い廃墟のような城の中へと連れて行った。ルーネベリは身体を拘束などされていなかったが、後ろには右足を引きずるパシャルと、その後ろにトォノマ兵が一人見張るように歩いていて、二人を置いて逃げることのできないルーネベリには、十分なほど精神的な拘束力があった。
廃墟の城の玄関のような開放的な広間に入ると、味気ない黒灰色の壁と隅の方に飾り柱があった。灯りはなく、外から差し込んでくる頼りない光だけが城内を薄明るく照らしていた。広間では、壁の色と同じ髪色のトォノマ人の男たちが忙しなく武器や鎧などの荷物を運び、砂や泥で汚れた床を小さく丸まってせっせと拭く少年たちの姿があった。時折、歩いてくるトォノマの黒い鎧の兵士たちは皆、少年たちを踏まないように避けて歩き、荷物運びの男たちは兵士たちの間をすいすいとぶつからないように軽快に歩いていた。
砦にいる兵以外の者たちは皆、休むことなく働いていた。恐らくはそれなりの身分にあるだろうエンヤが傍を通っても、挨拶せずに仕事をつづけているので、少々不思議に思うところもあったが。砦の中では自身に課せられた仕事が最も重要なのではないだろうか……。
黙々と、広間を通り過ぎてなにもない廊下を通り、城の中庭だろうか、灰色の小山のような像が立つ場所へと辿り着いた。不思議な像だ。小山の像を注意深く観察したかったのだが、城内が薄暗かったためか、天井のない中庭に出ると、急に周囲が明るくなったような気がして眩しく、ルーネベリは目を擦っていた。その間、エンヤは奥の部屋から中庭に出てきた兵士に「下に行く。手伝え」と声をかけた。
兵士は深く頭をさげて、小山の像に近づき、両手で抱きつくように像に張り付いた。パシャルの後ろを歩いていた兵士もまた、先の兵士と同じように像に張り付き、二人の兵士は互いに合図をしてから時計回りに像を動かしはじめた。
思ったよりも像は重くないのか、二人の兵士が息を合わせて像を回転させていく。像が動くたびに、像が少しずつ上へとあがっていくのをみると、まるで大きな螺子をまわしているかのようだった。兵士が像を動かしているのを待っている間、エンヤは掴んだシュミレットの腕を見て「細すぎる」だの、「もっと食べろ」だのぶつくさと言っていた。シュミレットはもう呆れているのだろう、静かに黙っていた。
兵士が像を動かして五分が経った頃、像は最初の位置からちょうど半分ほど上へとあがり、ちょうどエンヤの身長ほどの高さになった。小山の像が半分上にあがったことで、小山が蓋をしていた正面だけがすっぽり空いた入り口が現れた。いわゆる、小山の方が蓋で、入り口のある方が像の本体のようだ。隠された入り口には地下へと通じる階段があった。
なにやら、地下とばかり縁があるなと思いながらルーネベリが入り口を眺めていると、エンヤが像を動かした二人の兵士に労いの言葉をかけた。優しいところもあるのかと思えば、すぐにぶっきらぼうに「見張れ」と言い残して、シュミレットを連れて地下への入り口の中へ入って行った。兵士というものは男女ともに、不愛想なものなのだろうか。
シュミレットが連れて行かれたので、ルーネベリもやむなく足を引きずるパシャルに手を貸してやり、二人で入り口の中へと入った。
地下に繋がる螺旋階段をおりていくと、当然、そこには地下施設があるのかと思いきや、螺旋階段の壁に設けられた窓からどんどん曇り空が見えてくるのだ。城の地下へ向かっているはずなのだが、城の頂上に向かっているような不可思議な感覚にルーネベリもパシャルも戸惑っていた。けれど、エンヤがどんどんシュミレットを連れて階段を下っていくので驚いている暇も、これまでの経緯を話しあっている暇もなく。慌てて下れば下るほど、上へ上へとのぼっているようだった。
狂いそうな感覚の中、最後の段をおりたエンヤは、ただ一つの入り口から目的の部屋の中へと入って行った。二人の頭を遠くに見ながら、追いかけたルーネベリとパシャルは部屋の入り口に入った途端、口を大きく開けていた。
ルーネベリたちが連れて来られた場所は、それはやはり城の上部にある部屋だった。大きな窓からは雲が覗き、とても高い場所にあるのだろう、地上などは見えていなかった。
驚くべきことはまだ他にも沢山あった。その部屋の天井には、大きな白い半透明な球体が飾られていた。球体には点線がいくつも描かれ、どの線もある一点とある一点を繋いでいた。なんだろうかと疑問に思いながら目線を下ろすと、部屋の中にはルーネベリには見覚えのある光景が広がっていた。
沢山のテーブルに、沢山の書物、実験でもしていたのか見慣れない金属や菱形の透明の容器に注がれた琥珀色の液体、朱色の鮮やかな粉が器に納まっていた。一目見て、ここが研究施設なのだとルーネベリは気づき、嬉しくなった。しかし、嬉しい気持ちも束の間、研究を行っているだろう灰色のローブのようなだらしない服を着た大勢の老人たちが、やってきたエンヤの方を見てひどく怯えていることに気づいた。
老人たちは身を寄せ合い、震えながら、黒い鎧を纏うエンヤを見つめていた。この老人たちは一体――?
エンヤはシュミレットを老人たちの方へ押しやり、老人たちの怯える声を聞きながら叫んだ。
「ゲルク、リウ、前に出てこい」
老人たちは後方の方を向いて、呼ばれた二人の老人たちの怯えた目で見ていた。ゲルグという老人は後頭部の禿た白髪の老人で、服よりも明るい灰色の髭を鎖骨まで伸ばしていた。リウという老人のほうはゲルグよりかは若く、白髪まじりの灰色のふさふさした髪をしていた。リウはシュミレットと同じように銀縁の片眼鏡をかけ、知的な印象があった。
二人の老人は、老人たちの間を通りゆっくりと前へ歩いて行き、エンヤの前で跪いて俯いた。
「何のご用でしょうか?」と枯れた声をだしたのはゲルグだった。
エンヤはシュミレットを指差して言った。
「この少年に『賢人の怒り』を見せてやれ」
賢人の怒りというのが何なのかはわからないが、老人たちは大袈裟に驚いていた。
「『賢人の怒り』を少年に見せればよろしいのですか?」
エンヤは老人たちを見まわして、言った。
「この少年は賢人だそうだ」
「……賢人?」
老人たちはひどく狼狽していた。
「本物の賢人であれば、お前たちが何世代にも渡ってしてきた努力の甲斐もなくなるかもしれないな」
エンヤが意地悪く笑っていた。
「我々が戻ってくる前に、『賢人の怒り』について説明をしておけ。少年が賢人で、『賢人の怒り』がうまく起動すれば、お前たちは皆、解放してやる」
まったく話は見えないが、解放されるということは、この老人たちも囚われの身のようだ。だが、腑に落ちないのは、解放されるというのに、老人たちはまったく喜んでいる気配がないのだ。俯いたまま、ゲルグとリウは「わかりました」と言ったが、心からそう思って言っているというよりも、形式的に言わされているかのようだった。
エンヤはシュミレットの方を向いて言った。
「話は聞いたな?『賢人の怒り』を発動できれば、お前を賢人と認め、解放してやる。それまでは、ここから逃げられると思うな。一つしかない出口には見張りを置いておく」
シュミレットは素直に頷いた。エンヤは抵抗もなにもしないシュミレットの態度を好意的に受け取ったのか、他には何も言わず、入り口の方へと振り返った。一方、お世辞にも好意的には思われていないだろうルーネベリとパシャルは入り口で立っていたところ、出て行こうとするエンヤに押しのけられて床に派手に転んだ。
エンヤの姿が見えなくなると、転んだルーネベリとパシャルの元に老人たちが駆け寄り「大丈夫ですか?」と優しく声をかけてくれた。
シュミレットの周りにも老人たちが集まり、皆、困った顔でシュミレットを見下ろして言った。
「旧生成術を教えにきたのかね?」
「旧生成術?」と、ルーネベリ。名も知らない老人の一人がシュミレットの両肩を掴んだ。
「どうしてここに来てしまったんだ」
跪いていたリウは崩れるように座り込み、泣いていた。
「悪夢の日がやってくる。我々の願いは叶わなかった……」
シュミレットは首を傾げた。
その頃、トォノマの砦から十キロ先の戦場では、爆炎が空高くあがっていた。青く燃える剣が振り下ろされるたびに、黒い鎧のトォノマ兵たちが四・五人ほど宙に吹っ飛ばされ。後方では、白銀の鎧を着たコーウェル兵が数十人は地面に倒れていた。
戦場の中心であるこの場で、巧みな剣術で次々に立ち向かってくる兵士たちをなぎ倒していたのは、傷だらけのアラとカーンの二人組だった。二人は長年の勘からか、兵士たちの鎧の秘密に気づき、倒した兵士から奪い取った黒い鎧の足部と白銀の鎧の足部を片方ずつに履いて、燃える剣を見よう見まねで振りまわし、三十分ほどで見事に使いこなしていた。もともと持っていた、背負っていた大剣はすでに使い折れてしまっていたが、大切な剣を捨てることはなく、折れた剣先と共に鞘にしまっていた。
アラとカーンの二人の間にある、地面の抉れていない平らな地面の上にはクワンが横たわっていた。戦っている途中に出くわしたクワンは白銀の鎧の兵士たちに抱えられ、その時からすでに意識がなく、兵士たちを倒して救いだした後もずっと眠ったままだった。何かがあったらしいのだが、傍にパシャルもいないので、事情も聞けず。クワンを地面に寝かせた後、一息つく間もなく別の兵士たちが襲ってきたので、とにかく剣を振るうしかなかった。
二人はかれこれもう、一時間以上は戦っていた。紫や黄色に燃える刃は鋭く、軽くかすっただけでも腕や太ももが切れる。しかも、その後に爆発するので、爆発をかわすために、兵士たちと同じように宙にぴょんと飛びあがるのだ。足に鎧をつけているだけでも、全身に鎧を纏った兵の半分は飛べたので、便利だった。とにかく常に動いていなければ、倒されてしまう。そんな忙しない戦いだった。怪我はするが、体力が一向に尽きないのが不思議だった。