十七章
第十七章 消えてゆく街
アラとカーンは街の外れを通り過ぎて、荒地の中を走っていた。草木も生き物もいない広大な赤土の荒地の景色はいくら進もうと、ほとんど変わらず。どこを見てもなんの面白味もなかった。うんざりするほど退屈な景色だ。こんな荒地の中に街をつくるのはさぞ大変なことだっただろうとアラは思った。
カーンがアラの隣で欠伸を漏らしながら走っていると、前方遠くに砂埃が舞っているのが見えた。街で見たものと同じような砂埃だ。走って徐々に砂埃に近づいていくと、砂埃の奥にぽっかりと空いた洞窟の入り口が見えた。南の採掘場なのかもしれない。
走る速度をはめて二人が洞窟の入り口を覗き込んだ。そこでカーンが走っていたというのに息がまったくあがっていなかったことに気づいたのだが、特にアラに何かを言うでもなく。洞窟の入り口の中に入って行くアラの後ろに黙ってついて行った。
洞窟内の道は一つしかなかった。壁に等間隔に透明な小さな箱に入った灯りが置かれ、明るく洞窟の中を照らしていた。しかし、採掘場だというわりには分れ道もなく、道が奥の方へつづいていた。まるで誘導されるかのようにどんどん奥へ進んだ二人は洞窟の地面に大量の砂が散乱しているのを見た。
アラがしゃがみ込んで砂に触れると、砂の中から手が飛び出てきてアラの腕を掴んだ。咄嗟にカーンが腰の短剣を鞘から抜いて身構えたが、アラがとめた。砂の中から右半分顔のない若い男が顔を出し、――こう言ったからだ。
「もういい、もうこの嘘から解放してくれ……」
アラの腕を掴んだ手がサラサラと砂となって地面に落ちていった。半分残った顔も砂の山の上に消えていった。なんという悲しい最期だろうか。カーンは砂の小山に触れ、アラに言った。
「人間が砂になった。これもベネムの仕業か?」
「私に聞くな。ミムの話と勝手が違いすぎている。気をつけろ」
二人は砂地の上を歩いて、採掘場の奥へと進んだが、数分足らずで採掘場の行き止まりに辿り着いてしまった。採掘場だというのに、土に隔たれた壁があるだけの行き止まりだ。そこにはミムの父親らしき男の姿がなかったのだ。二人はそこで顔のない男が「嘘」と言った言葉を思い出し、ミムの顔が浮かんだ。二人はようやくミムに騙されたのだと気づいた。
アラは「戻るぞ」と言い、カーンと共に入口へと引き返した。
シュミレットはしゃがみ込んで低いところにある大きな扉を開いて、女王とベネムのいる部屋へと入ろうとした。けれど、シュミレットが錠のしていない扉を開けたところで、ミムが後ろからシュミレットの腰に抱き着いて離さまいとしたので、ずしんと背後からくる重みでよろけて、扉を再び閉めてしまった。一度、床近くにある壁の一部が内側に開いてパタンと閉まったので、室内にいるベネムとミュゾラ女王はどうしたって誰かが壁の中にいるのだと気づく。それなのに、タスムの中ではミムが抗おうと、シュミレットから離れず。シュミレットは傍らに立っていたルーネベリを見て言った。
「君、はやくミムを離してくれないかな?腰を痛めてしまうよ」
「――あぁ、はい。ミム、やめろ」と、ルーネベリがミムの腕を両手で掴んで離そうとするが、子供とは思えないほど強い力で抵抗してきた。ミムは叫んだ。
「嘘つきよ、皆嘘つき!大嫌い!」
声までは聞こえないがなにやら壁の内側で騒いでいるので、室内でベネムは立ち尽くし、屈んでいたミュゾラ女王は笑いながらドレスの裾を掴んでよたよたと歩いて足元の扉に近づいてノックした。
「はやく中へいらっしゃいよ。入れないなら、手伝って差しあげるわ。ベネム、開けて差しあげて」
「女王殿、おいらにお任せを」
女王が数歩後ろにさがりベネムがぺこりと頭を下げると、シュミレットが掴んでいた扉が消えて、タスムにいた三人共ども室内になだれ込むように倒れた。ミュゾラ女王は入ってきた無様な訪問者たちの姿を見て、立ちあがって笑っていた。
ルーネベリは小柄な二人を下敷きにしてしまい、慌てて離れたが、ミムは室内に入ってもシュミレットの腰に抱き着いたままだった。床に倒れて伸びていたシュミレットは不機嫌そうに顔を顰めていた。
ミュゾラ女王はシュミレットの上に乗ったままのミムにすっと手を差し伸べた。
「わたくしに会いに来たんでしょう?わたくしもとても会いたかったわ」
ミムは顔をあげてミュゾラ女王を睨みつけた。
「この嘘つき!裏切り者!ペテン師!」
「なにを言うの?あなたもでしょう、ミム。こうするしかなかったことを許してちょうだい。わたくしの考えは皆の考えでもあるのよ――ベネム、その子を解放してあげて」
「女王殿の仰せのままに」とベネムが答えると、ミムの身体がシュミレットから離れて空中に舞いあがった。その間、ミムは思いつく限りの悪態をミュゾラ女王に向かって叫んでいた。
ルーネベリはその光景を見て、呆気にとられていた。この場で冷静だったのは床から立ちあがったシュミレットと、女王の望みを叶えつづけるベネムだけだった。
シュミレットはルーネベリの隣に立ち、腰をさすっていた。
「まったく、大変な目に遭ったよ」
「あの……、俺だけがまったく訳がわかっていないんでしょうか。どうなっているんですか?」
「僕らはまんまとミムにはめられたのだよ。それとも、ベネム全員にというべきかな」
空中に浮かんでいたミムは「嘘つき!」と叫んだが、シュミレットは言った。
「そういうわけにもいかないだろうね。ミュゾラ女王、ベネム、あなた方は真相を語ってくれるはずだと僕は思っているのだよ。わざわざ、僕らがタスムにいる時を狙って、『旅人』の話を聞かせたのだからね」
ミュゾラ女王は破れたドレスの裾を掴んで、丁寧にシュミレットとルーネベリにお辞儀した。
「『訪問者』の方々には大変なご無礼をいたしましたわね。わたくし、ミュゾラ・ベネムと申しますの」
「ベネム?えっ、ベネムというのは隣にいる人のことなのでは……」
ルーネベリがそう言って、ミュゾラ女王の隣にいる背の低い小男の方を向くと、小男ベネムは笑みを浮かべた。
シュミレットが言った。
「彼もベネムなのだよ。ミムもベネム、ノジムもベネム。ドルヤ・ノスムもベネム。さっき、ミムから頭の刺青は誕生祝に彫るという話を聞いて、子供の誕生時には親が子に名前をつけるということを思い出してね。彼らの名前にひっかかっていたのだよ。君も気づいていただろうけれど、彼らの名前には『ム』という共通点がある。名を一字受け継がせるアザームの伝統なのかとも思ったのだけれど、ミュゾラ女王だけは名前に共通点がない。おまけに、旅人の話を聞いて、重要なことは名前ではなかったということがわかったのだよ」
「どういうことですか?」とルーネベリ、シュミレットは言った。
「恐らく、先祖と生まれた子供への想いを重んじる僕らの名前に対する認識と異なっていて、アザームでは個別を識別するためだけにつけられた名前に過ぎないということだろうね。皆をベネムと呼ぶことはできない。だから、一人一人に別の名を与えた」
「皆がベネムだからですか……?」
その返事にはミュゾラ女王が答えた。
「旅人の話をタスムでお聞きになったでしょう。アザームは一人の男がつくりあげた街。そして、わたくしたちは男の命を分け与えられて生まれた元は泥人形。いくら姿形が変わっても、どんな役割を与えられても、わたくしたちは皆同じ一人の男、『ベネム』よ。――ベネム、旅人の話の最後の一節を話してちょうだい」
「皆、嘘つきよ!」とミムは叫んだが、小男ベネムは言った。
「『金の心臓にあなたの記憶と力を封じて、永久に私たちの傍にいてほしい』」
ミュゾラ女王が「ありがとう」と言い、尚も言った。
「わたくしが最初につくられた人形、わたくしが彼に願った。優しい彼はわたくしの夫となって傍にいてくれた。子供の泥人形も沢山つくってくれた。街の泥人形たちも沢山つくってくれた。だけど、封じた心臓は忘れた頃に現れる。持ち主の『ベネム』の元に返ってくるの。心の傷のようよ。わたくしたちはわたくしたちという存在を消されたくなくて、アザームにやってくる『訪問者』たちを騙して、金の心臓に封をさせて心臓を隠した」
ため息をついて、シュミレットは言った。
「今回はどうして僕らを騙すのをやめたのかな。僕らはすっかり騙されて、君たちの思うとおりに動いていただろう?」
ミュゾラ女王は悲しそうに笑った。
「ミムの計画どおり、金の心臓からでてきた『ベネム』を悪者に仕立て、子供たちの家に導いて、子供たちが『ベネム』に虐げられているとあなた方を信じさせるところまではわたくしもなにも思わなかったわ。いつもしていることだもの。罪悪感もなかった。兵士役の泥人形たちが子供たちの城へ向かうことになった時も、なにも思わなかった」
ふいにミュゾラ女王は金の玉座の方を向いたので、皆も金の玉座を見ると、先ほどまでミュゾラ女王の長いドレスで隠れていた玉座の足元に砂が纏わりつくようにこんもりと盛られていた。
ルーネベリは「あれは一体?」と聞くと、ミュゾラ女王は「この城にいた者たちの残骸よ」と言った。
「城にいた者たち?」
「わたくしの目を覚まさせてくれたのは、城に仕えていた侍女や侍従役の泥人形たちよ。自らの身体を砕いて砂にして、わたくしに訴えたのよ。『外見を飾り立てても、心が満たされなければ何をしても虚しい』。――わたくしは女王という役割に溺れて、忘れていた。わたくしたちは誰でもない、みんな『ベネム』、彼が寂しくないように生まれた。わたくしたちの存在理由である彼を置き去りにして、この世界はまわりつづけない。彼を起さなきゃいけないわ」
「起こす?」
ルーネベリが戸惑っていると、ミュゾラ女王は言った。
「あなた方にお願いしたいのよ。わたくしが彼を起したら、彼にすべてを返してあげて。身体の中に入れてあげるだけでいいの。金の心臓の中にあるものは彼のものなのよ。わたくしたちは触れることができない大切なもの。わたくしはもう彼をアザームから解放してあげたい。やってくれますわよね?」
シュミレットが頷いた。
「君の言う通りにしよう」
「ありがとう。そう言ってくれると思っていましたわ」
女王は切なげに微笑んだ。ルーネベリはシュミレットに近づいて、こそっと言った。
「俺はまだよくわかっていないんです。どういうことなんですか。教えくれませんか?」
「君も鈍いね。つまりだね、アザームは一人の旅人が自らの命を人形に分け与えてつくった街なのだけれども。人形たちが一人歩きして、旅人をこの街に閉じ込めてしまったのだよ」
「はぁ、まぁ、そこまではわかりましたが……」
「それでだね、人形たちは僕らのようにアザームを訪ねてくる者たちを騙して、旅人を閉じ込めつづけていたのだけれども、人形たちは嫌気を差してしまったのだろうね。ミュゾラ女王共々、ミムを裏切って、僕らに種明かししたのだよ。『大いなる力を下僕に据えよ』――これが僕らの本当の役目なのだよ。アラたちにはかわいそうなことをしてしまったね。まさか騙されているだなんて、誰も思っていなかったのだから」
「まったくですね。俺も気づきませんでした。良く出来た計画ですよ。なにも知らない者を騙すには、最初から騙すのが手っ取り早い」
「そうかな、賢い君のことだからなにか気づいているのだと思っていたのだけれどね」
「えぇ?買いかぶりですよ」
「もう内緒話はよろしくて?」とミュゾラ女王が言ったので、二人は頷いた。
ミュゾラ女王はドレスの裾を掴んで、宙に浮かんでいるミムの方へ近づいた。ミムはミュゾラ女王が近づこうすればするほど、両手で宙を描いた。
「来ないで、お母様。あなたたちが納得しても、私は納得していない。このまま消えるなんて嫌よ」
「わたくしは母親で女王の役。ミム、あなたはわたくしの娘の役。かつては幸せだったわ。あなたもわたくしも一つに戻りましょう。そして、彼と共に生きましょう」
ミュゾラ女王は細く綺麗な腕を伸ばして、ミムの肌着をそっと捲りあげた。露わになったミムのつるんとした平らな人形の胴体には、男の顔が浮び出ていた。これにはルーネベリもシュミレットもさすがに驚くしかなかった。今のいままで、『ベネム』本人がすぐ傍にいたことになるからだ。
ミュゾラ女王はミムの胴体に浮かぶ男の頬に両手を添えて言った。
「あなた、起きてちょうだい」
右頬を軽く叩いてミュゾラ女王が同じように「起きてちょうだい」と繰り返した。ミムの胴体の中で眠っている男の両瞼は呼びかけるたびに痙攣して、口がぱくぱくと唸り声をあげながら動きだした。男はミムの狭い胴体の中で生きているようだった。気味が悪い光景だが、ミュゾラ女王は懸命に男を呼びつづけた。
ミムは泣き叫び、足をばたばた動かしてもがいていた。よほど、胴体にいる男を起したくないのだろう。しかし、ミュゾラ女王はおかまいなしに男を起そうと呼びかけた。
男は深い眠りから覚めたようにうつらうつらしながら目を少しずつ見開いてく。男の赤い瞳がミュゾラ女王を捉えた時、ミムの身体が突然砂となって粉々に消え失せた。けれど、ミムの胴体にいた男は消えることなく、むしろ、胴体と四肢を持った一人の男の姿として女王の前に立っていた。ミュゾラ女王は男の姿を見て泣いていた。男はミムたちと同じように坊主頭で、立派な身体には衣類はなにも身に着けていなかった。顔は女王の願いを叶えていた「ベネム」と瓜二つ、いや、まったく同じだった。男はミュゾラ女王の頬に手をあて微笑んだ。
シュミレットはルーネベリに小声に言った。
「彼がドルヤ・ノスムなのだろうね。ミムの傍で色々と教えたのは彼なのだろうね」
「えぇ?」
ルーネベリが何かを言おうとする前に、ミュゾラ女王の人形の身体が半分に折れてしまった。腰から半分下は床に崩れ落ち、胴体から上部はドルヤ・ノスムが抱えていた。ミュゾラ女王は崩れ落ちそうな手をドルヤに伸ばして言った。
「あなたの元に帰るわ。わたくしが傍にいると思えば、もう寂しくないでしょう?」
「ミュゾラ……」
若々しい男の声を聞きながらミュゾラ女王は目を閉じた。途端に、女王の顔にひびが入った。女王もまた砂に戻ろうとしているのだ。
シュミレットはそろそろだろうと思い、金の心臓の在り方を探そうと周囲を見渡して、すぐにどこにあるのかを知った。タスムからは死角になっていた先ほどまでベネムが座っていた豪華な金のソファの上に、金の心臓が置かれていた。ミュゾラ女王たちはこの時を覚悟していたのだろう。まるですべて準備が済んだ後のようだった。
シュミレットは重い金の心臓を抱え、ルーネベリに渡した。
「君がやりなさい。彼の身体に入れてあげるのだよ」
「……えっ、あぁ、わかりました」
ルーネベリはシュミレットがそう言うならしょうがないと軽い気持ちで金の心臓を受け取り、心臓を抱えたままドルヤとミュゾラ女王の元に近づいた。ミュゾラ女王は残った上半身も崩れ、もはや顔だけになっていたが、ドルヤは愛おしそうにミュゾラ女王の顔を抱えていた。ルーネベリは背後からドルヤの背に金の心臓を押しあてて、中へと押し込んだ。心臓がすっかりドルヤの体内に入り切ると、眩い金色の光が部屋に満ち、それと同時にベネムが消えてミュゾラ女王の顔も粉々に消えて舞った。ルーネベリとシュミレットは光が眩しくて一瞬、目を閉じた。
手を目元にかざして、シュミレットが目を開くと、金色に輝く大男の後ろ姿が目の前にあった。何も着ていなかった男の身体には金色の長いマントのようなローブのような、不思議な立派な衣服を纏っていた。背に流れる金色の長い髪もあってそれは、まるで別人のようだった。
「ベネム――だね?」
シュミレットがそう聞くと、男は振り返って言った。
《往く者に名はいらない》
心の中に響くような声を聞いてルーネベリも細く目を開けると、シュミレットと同じ光景を目にしていた。なんと、男は金色の瞳でこちらを見ているのだ。シュミレットと同じ金色の瞳だ。ルーネベリは思わず叫んだ。
「あなたは何者ですか?」
男は言った。
《私は私にしかなれないとこの街でわかった。お前たちはもう次の世界へ往くといい。私は私の往くべき場所へ行く》
「待ってください、それじゃあ答えが曖昧なままだ」
シュミレットが「ルーネベリ」と呼んだが、次の瞬間には爆風に呑まれて、ルーネベリたち二人の身体が吹っ飛ばされてなにも聞こえなくなった。ただ一つ、光の彼方へ消えていった男が最後に言い残した言葉だけが心に響いた。
《――見送り、ありがとう》
それっきり、二人の意識は遠ざかった。