十三章
第十三章 傾いた家
一行の後方で様子を見ていたルーネベリは誰一人としてこちらを振り向かないことに疑問を抱いていた。大勢の子供たちと大人六人が街の中をぞろぞろと小走りしているのに、行商街を通る時も、この広場にいる時も、大人たちは黙々と仕事をして、ちらりともこちらを見ようともしなかった。無関心がないというよりも、頑として見ようとしていないような、なんとも不快な感じがした。
ノジムは皆を連れて噴水を通り過ぎて、正面の扉の閉まった茶色い建物を左に曲がってしばらく走った。そうすると、茶色い建物がだんだん少なくなって、そのうち建物自体が見えなくなり、赤土の荒地に変わっていった。道はまだ先へとつづいているが、先にはいまにも倒れそうな右や左に傾いた三階建ての木で作られた建物が見えていた。大きな街の中にしては妙な場所だった。
草も生えない荒地には水たまりができ放題で、水が黒く濁って油のようなものが浮いていた。羽毛のない鳥のような肌色の弱々しい生き物が濁った水を飲みに寄り集まっていたのだが、弱々しい生き物が鳴く声はやすやすと聞くことができなかった。女性が恐怖した時に出す悲鳴にも似ていたからだ。こんな声を発する生き物が生息する場所の近くで、子供たちが暮らしているのだろうか?ルーネベリたち六人は子供たちが哀れに思えた。
荒地を通り過ぎて、いまにも倒れそうな家の前に着くと、ノジムは笑ってアラに言った。
「僕らが作った、僕らの家だよ。立派でしょ」
「お前たちが作った?」
こっくり首を縦に振ったノジムはアラの腕を引っ張り、扉の傍にまで連れて行った。扉はモザイクのように木や半透明な欠片など様々な物を組み合わせて作られていた。壁は薄そうな板でつくられ、上からなんの処理もしていないので板目がよく見えていた。
ノジムは言った。
「本当は、まっすぐに立つはずだったんだ。薬のせいで何をしたらいいのか皆忘れちゃったんだ」
アラは言った。
「病気か?」
「病気じゃないよ。ミムに教えてもらうまで、ベネムに薬を飲まされていたんだ。ミムはいつも椅子に座っているよ」
扉を開けたノジムはアラだけ先に通して、後についてきた子供たちには「入るな」と言った。小さな子供たちは嫌だとごねたが、ノジムは言った。
「皆、ここで見張りをするんだ。ベネムからお姉ちゃんたちを守るためだ」
子供たちはベネムの名前を聞くと、むっとした顔となって頷いた。ノジムとアラの会話を聞いていなかったルーネベリは、子供たちはよほどベネムを嫌っているのだなと軽く思っていた。
子供たちはぞろぞろとルーネベリやクワン、パシャル、カーンを家の中へ押し入れて、シュミレットだけ外で待たせようとしたので、アラがシュミレットの細い腕を掴んで家の中へ連れ込み。ノジムがもう誰も入ってこられないようにと最後に扉を閉めた。黄色い棒の錠のようなものでしっかり閉めていた。
六人はノジムが錠をするのを見ながら、子供たちの建てた家の中は、どこからか隙間風が吹き込んでいることに気づいた。少々寒いので、どうにかできないかと周囲を見まわしてみると、板と板の間から外が見えていた。隙間は一つだけではなく、幾つもあった。隙間の一つからは小さな子供の目が見えていた。外にいる子供が覗き込んでいるのだろう。無邪気で可愛らしかった。
六人は扉から部屋の方へ身体を傾けた。子供たちの家の一階はどこもかしこもピンク色や赤、黄色の毛布が沢山置かれていた。ベッドらしきものはなく、椅子もなかった。天井からはロープのようなものが二十本ほど真っすぐぶら下がっているが、なんのためのものかはわからなかった。
錠を終えたノジムが六人の方を向いて言った。
「二階に行こう」
「どうやって?」と聞いたのはパシャルだった。ノジムはアラを見上げて言った。やはり、パシャルには答える気がないようだった。
「梯子があるんだ。ロープを引っ張って」
アラは近くにあったロープに近づいて引っ張った。すると、天井が四角く開いてからどこからともなく梯子が落ちてきた。ちょうどアラの目と鼻の先に落ちたので、アラも驚いていた。
ノジムは笑いながら言った。
「ミムは賢いんだ」
ルーネベリは腕を組みながら天井と梯子を見ながら言った。
「この家には仕掛けがあるのか。確かに十五歳にも満たない子供が考えるにしては賢いな」
ノジムはルーネベリを見上げて、じろじろと見ていた。それにルーネベリが気づいて、「どうした?」とノジムを見下ろした。
ノジムは首を横に振って、アラの手を掴みに行った。ルーネベリは何だったのだろうと思ったのだが、結局、ノジムはパシャルの時と同じで答えることはなかった。なぜだろうか……。
ノジムはアラを先に梯子をのぼらせ、その後にのぼった。ノジムの後にシュミレット、パシャル、ルーネベリ、クワン、カーンとつづいたのだが……。
ルーネベリが髪のない男の子の人形や五本足の動物のような黄色い縫いぐるみなど玩具だらけの二階にあがったときにはもう、ノジムはアラの手を掴んで三階へとつづく梯子の傍へ連れて行っていた。シュミレットはルーネベリの方を向いて首を傾げた。どうやら、シュミレットもルーネベリと同じことを思ったようだ。ノジムはまるでアラ以外の大人を避けているようだった。いや、正しくは、大人の男といったほうがいいかもしれない。
三階へつづく梯子をノジムに急かされてのぼりながら、アラがこちらを見下ろしていた。アラ自身は困惑しつづけているようだった。
ノジムとルーネベリたち六人が三階へのぼると、三階は赤い布をカーテンのように天井から幾重にもぶらさがり、狭い部屋を隠しているかのようだった。幾重に重なったカーテンの奥に小さな灯りで照らされた丸い頭の小さな子供のシルエットが見えていた。子供は本を読んでいるのだろう、小さな体には不似合いな本の影も見えていた。
皆より一歩前に出て手前のカーテンを片手で押し上げてノジムは部屋の奥の方へ向かって言った。
「ミム、ミム。お姉ちゃんをつれてきたよ」
ノジムの声に気づいた子供のシルエットは顔をあげ、ふっと灯りを吹き消した。
「ミム」とノジムがまた声をかけると、「うるさい」と気の強そうな少女の声が叫んだ。
「何度も呼ばないで、ノジム。そっちに行くから、こっちに来ないで」
部屋の奥でごそごそと物音をたてた後、ミムという少女はカーテンを押し上げながらこちらへ近づいてくるのがわかった。ルーネベリがシュミレットの方を向くと、シュミレットはノジムの坊主の後頭部を見ていた。何かあるのだろかと、ルーネベリがノジムの後頭を遠くから目を細めて見ると、ノジムの後頭部の右端に記号のような文字のような紺色の刺青が施されていた。
見たこともない記号だ。もっと目に焼きつけようとルーネベリが目を凝らしている間に、ミムという坊主頭の少女が、ノジムが押し上げたカーテンの下を通って目の前に立ったので、やむなく諦めた。
ノジムと同じ年頃の青いワンピースを着たミムが薄桃色のか細い素足に金の輪をつけているのを見て、ルーネベリは今さながら、子供たちが素足だったことに気づいた。……いや、はじめて認識できたといったほうがいいのかもしれない。子供たちの足元を見た記憶がまるで思い出せなかった。
ぺたぺたと床を歩きながらミムは顔をあげて見上げ、一番に目が合ったルーネベリを見て驚いた顔をし、それから、ルーネベリの周囲に立つシュミレットやクワン、パシャル、カーン、アラを順に見まわして言った。
「誰?」
ノジムがカーテンから手を離して、アラの方へ近づいた。
「お姉ちゃんだよ。ベネムからお母さんを取り戻してくれるって」
ミムは急に顔を顰めて、ノジムの右頬をぱちんとぶった。
「なんでここに連れてきたのよ!」
すでにアラにぶたれて左頬が腫れているというのに、ミムもまた容赦がなかった。ノジムは右頬を抑えて言った。
「だって、お姉ちゃんにミムを会わせたかったんだ」
「ノジムのことだから、街の中を走ってここへ来たんでしょ。街中の大人が見ている前で!今頃、ベネムに知らされている頃よ。なんでなんにも考えらんないのよ。こんなことしたら、皆が大変なことになるってわからないの?」
ノジムはひどく肩を落として、俯いて「ごめん」と言った。ミムは怒った顔のままルーネベリたちの方を向いた。二人の話がまったく飲み込めず、呆然とする六人にミムは言った。
「はやくここから逃げて。捕まりたくないでしょ?」
アラが「捕まる?」と言った。ミムは言った。
「兵士がここにくる」
ルーネベリが片手をあげた。
「ちょっと待ってくれ、なんで捕まるんだ?俺たちは何も罪は犯していない」
ミムはノジムを横目に見て言った。
「……なにも知らずに連れて来られたのね。ノジムについてきたのは大失敗よ。この街では、女王の子供と話をしてはけない法があるの。法は大人には冷酷なの。捕まったら、拷問されて死ぬまで働かされる。だから、はやく逃げて」
「逃げるたってなぁ、簡単にそう言うなよ」と言ったのはパシャルだった。パシャルは面白くないといった顔をして腕を組んで壁際にもたれかかった。
「お嬢ちゃん、俺は頭が悪いからお嬢ちゃんの言っている事がよくわかんねぇが。俺はこうみえても用心棒なんだぁ。剣の腕で食っているんだわ。何も悪いことをしてないっていうのに、そう簡単に捕まるのも。なぁ、相棒?」
パシャルは傍に立っているカーンに目を配らせた。カーンはこっくり無言で頷いたので、クワンが「この街の兵士と戦うつもりですか?」と聞いた。これにミムは「何を言っているの?そんなの無理よ」と戸惑っていた。
パシャルはクワンに言った。
「俺たちがここに来た理由は、お前たちの母ちゃんを助けるためだ。頭を使うことは苦手だがぁ、暴れる役は俺たちほど向いてる奴らはいないじゃねぇかなぁ」
シュミレットは隣にいるルーネベリにだけ聞こえる小さな声で「『おおいなる力を下僕に据えよ』。……彼ら、ここにいる目的をまったく忘れているね」と呟いたので、ルーネベリは苦笑いした。
シュミレットの呟きなど聞こえていないクワンはパシャルの言葉に「ほう」と声をあげた。
「武術であれば、私も少しはお役に立てるかと思います。パシャルさんとカーンさんには敵いませんが」
「おっ、クワン。話がわかるなぁ」
パシャルはクワンに笑いかけた。アラはそんな三人を見て、ミムに言った。
「私も戦うつもりだ。策については心配するな。ここにシュミレット様というとても聡明な方とルーネベリというなかなか良く出来た男もいる。この二人が何か妙案を思いついてくれるだろう。ミム、お前が嫌だというなら、このまま私たちはここを立ち去るが。お前が私たちを必要としているなら、手を貸すつもりだ。どうするか、お前が選べ」
ノジムがミムの方を向いて「ミム」と名を呼んだ。
ミムは戸惑うように目を泳がせて、小さな頭を働かせていた。やはり、頭の回転が他の子供たちよりも一際はやいのだろう、どういう経緯でルーネベリたちが子供たちの家にやってきたのかパシャルとアラの話でだいたいのことを察したミムは、自らの考えを整理するようにぶつぶつと言いはじめた。
「ノジムが助けを求めたのね。兵士より強そうな人たち……。お母様を助けてくれるっていうけど、会ったばかりの人なんて信用できない……」
「ミム?」とノジムが呼びかけると、ミムは警戒心露わにして言った。
「助けてくれる交換条件は何?金が欲しいの?」
パシャルが目を輝かせて「金をくれるって言うなら、ありがたく……」と言いかけところ、アラがパシャルを睨みつけたので、パシャルはごくりと唾を言葉もろとも飲み込んだ。
「交換条件などない。金もいらない」
アラがそう言うと、パシャルが残念そうな顔をして「ちぇっ」と小声で言った。何を期待していたのだろうか。カーンがパシャルに向かって落ち着くよう手を振った。
ミムは言った。
「冗談よね。助ける見返りよ。何も欲しくないの?」
「子供にたかるつもりはない」
ミムはアラを見上げて、アラの赤い瞳を見つめた。
「あなたの仲間は欲しがっている。正直に言っていいの。私にたかるつもりがなくても、お母様にはたかるのよね。お母様を助けて、お母様から金を貰いたいんでしょう。だって、私たちのお母様は女王様だからなんでも持っているから」
「パシャルのことは気に掛けるな。女王だろうと、誰だろうとなにもいらないと言っているだろう」
「私が子供だから馬鹿にしているの?子供だからと思って……」
「そう思うのはお前だけだ。無条件に助けてくれる人間もこの世の中にはいる。素直に親切を受け取っておけ。どうしても何か返したいなら、今度はお前が誰かを助ければいい」
「親切……?」
アラは手を伸ばして、ミムの小さな坊主頭にぽんと手を置いた。
「私たちを信じろ。悪いようにはしない」
「あなたたちを信じる?」
ミムは頭に置かれたアラの手首を勢いよく掴んだ。ミムの小さく冷たい手が思いの外、強く掴んできたので、アラは少し驚いたが。触れ合うミムの肌を通して孤独や絶望といった悲しい感情が伝わってきたような気がしてミムの手を簡単に振り払う事ができなかった。
ミムは言った。
「私は誰も信じたりしない。……けど、助けてくれるっていう『親切』は受け取ることにする。あなたたちの腕力だけ欲しい」
パシャルがにんまりと意味深に笑った。ミムはアラの手首から手を離してからアラの足元から頭までじろじろと見た。
「私に足りないのはあなたたちのような大人の身体。こんなひ弱な身体じゃあ、良い作戦を考えても城の兵士に見つかれば捕まっておしまい。お母様は永遠に助けられない」
ルーネベリは言った。
「何か良い作戦があるのか。どんな作戦だ?よければ聞かせてもらいたい」
ミムは頷いた。
「作戦を成功させるためには、最初から話さないといけないけど、ここでは話せない。兵士がもうすぐここに来るかもしれない。兵士が来る前に私の本をここから運び出す手伝いをして。あれをベネムだけには見られたくない」
幾重に重なった赤い布のカーテンを見上げたミムは、右側の壁際に近づき、爪先立ちになってカーテンが重なった間に手を伸ばし、突っ込んだ。ちょうどミムやノジムの背の丈より十センチほど高いところだった。ミムは重なったカーテンの中で何かを探すように手をもぞもぞと動かしていたが、やがて探しているものを探しあてたのだろう。指先で布の端を掴んで勢いよく下へと引っ張った。
ミムの動作と同じくして、天井にぶらさがっていたカーテンが一斉に床へと落ちていった。どういった仕組みかはわからないが、いざというときのために、カーテンを一度で取り除く方法をミムは考え出していたのだ。なんという賢い子供だろうか。
カーテンの仕切りがなくなり、三階が少し広く感じた。ミムは床に重なり落ちたカーテンだった赤い布の上を歩いて、先ほどまで自身がいた部屋の奥へと歩いた。
床は赤い布に埋め尽くされたはずだったが、部屋の奥にまでは赤い布は届いていなかった。いや、はじめからそこにはなかったのだ。板目の見える小さくあいた空間、白い毛布の座布団と箱型の赤い木の机が置いてあるだけのミムの部屋があったからだ。
ミムは赤い木の机に近づいて、机の下から表紙のない十五センチほどの厚さの本を五冊取り出して机にのせて、また五冊取り出して机に置いた。その後、三冊また本を取り出して置いた後、七冊本を置いた。赤い木の机は右と左に十冊ずつ、計ニ十冊の厚い本が積まれていた。
ノジムは積まれた本を見て「何の絵本?」とミムに聞いた。ミムは言った。
「絵本じゃない。全部、私が書いた本」
「なんだって?」
赤い布の上を歩いてルーネベリはミムの机に近づいた。そして、積まれた右側の一番上に置かれた本を手に取って適当なページを開いた。
ルーネベリはミムの本に書かれた一節を読んで一言、「これはすごいぞ!」と言い、ページをどんどん捲って読みはじめた。
皆はそれを見て、ミムの本がどうすごいのかを知りたくて、赤い布を踏んでミムの机へと走り、厚い本を取って中身を見てみた。しかしながら、ミムの本の内容を理解できたのは、ルーネベリの他にシュミレットしかいなかった。