八巻
第八章 霧の村タイトゥーム
霧の中にぼんやりと見える光の方へ、シュミレットとルーネベリ、そして、出会ったばかりのアラ・グレイン、パシャル、カーンの五人は歩きだした。
ルーネベリは歩きながらアラに近づいた。アラの隣に並んでみると、アラは二百十センチを超えるルーネベリとさほど身長に差がないことに気づいた。せいぜいにニ、三センチの差だろう。パシャルはアラより五センチほど低く、カーンはその二人よりも高い。もしかしたら、ルーネベリよりも高いのかもしれない。
ルーネベリはアラに言った。
「どうして光が現れるとわかったんですか?それも武道の心得と何か関係でも……」
「ただの勘だ。光が現れて幸運だったな」
アラは渇いた声で笑った。ルーネベリは言った。
「偶然ですか?それにしてはあまりにも……」
「幾つか言い当てたぐらいでなにもかわらない。天秤の剣の試しははじまったばかりだ。気を引き締めろ」
ルーネベリは赤い髪を掻いた。
「まぁ、確かに。偶然、勘が当たるってこともあるかもしれませんが。俺はどうしても、細かいことが気になりやすい性格でして。要するに理由が知りたくて」
「だったら、他人の受け売りだと言えば、納得するか?」
「受け売り?」
「私は子供の頃、黒夜の中を彷徨った経験がある。家に帰れず彷徨っていた私を助けてくれた男に『心の迷いに振りまわされるな』と言われた。武道家であれば、どんな状況下に置かれようと、心を冷静に保つべきだと学んだ。直感を信じることも大切だ」
「――あの、黒夜というのは?」
アラは鋭い目を横に向け、睨みつけるようにルーネベリを見た。
「お前、見た目は剛の世界の者のようだが、住人ではないようだな」
「あぁ、俺は剛の世界の血筋なんですが、理の世界で育って……」
「もっと気楽に話せないのか。私と年は変わらないだろう。いくつだ?」
「俺は三十五歳ですね。その、アラさんは?」
「アラでいい。三十六歳だ。パシャルはお前と同じだな。カーンは三十歳。長い付き合いになるかもしれない。皆、呼び捨てでいい」
「あぁ、わかりました。――いや、わかった。それで、黒夜というのは?」
「今日は天秤の剣の日のせいか、気候が落ち着いていたが。普段、剛の世界の気候は目まぐるしく変わる。温季、微寒季、寒季、極寒季、熱季。寒いと思えば、次の瞬間、猛暑になる。黒夜は気候の変化が激しくなった時、突然、現れる」
突如、後ろからシュミレットが言った。
「黒夜は急激な温度差によって現れる、第六世界にしかない自然現象だね。針の山々のせいか原因はよくわかっていないけれどね。大きな黒い雲が世界を覆い、光を遮断してしまう。他の世界なら雨や雹が降るけれど、黒夜ではなにも降らない。雷も発生しない。ただ、雲が積み重なりつづけて、まるで夜のようになってしまう。雲が流れて自然と薄れるまで、その現象がつづくことから、剛の世界の人々は『黒夜』と呼ぶのだよ」
ルーネベリはシュミレットに言った。
「そんな現象があるんですね」
アラは言った。
「黒夜は昔から剛の世界では恐れられている。黒夜がつづくと、植物は枯れ、食う物に困るようになる。人々は空腹の中、眠りまで奪われ。狂気に駆られた人々の手によって都市は荒んでいく」
「空間移動装置があれば、外から食料を運び入れることができるんじゃあ?」
「黒夜がはじまると、外の世界へ通じる部屋が閉じられる。大昔に術師たちが大勢殺されてからそういう決まりになったそうだ。外の世界へ逃げることもできず。外から食糧を得ることもできない。黒夜は絶望の夜だ。私もまた、昔、黒夜の中で悪夢を見た」
「えっ?」
「……先に行く」
アラは目をほんの一瞬閉じて、早歩きして行ってしまった。
「どうしたんでしょう?」とルーネベリがシュミレットに言うと、後ろからにゅっと腕が伸びきてルーネベリの腰を掴んだ。振り返ると、パシャルだった。パシャルは言った。
「きっと奴のことを思い出したんだろうなぁ。奴はアラにとって因縁の男なんだぁ。越えられない壁というやつかなぁ」
「何のことだ?」
「バッナスホート、武道の覇者のことだよ。聞いても教えてくれないがぁ、奴とアラは子供の頃、黒夜の日になんかあったと思うんだぁ」
「どうしてそう思うんだ?」
「アラを見てれば誰でもそう思うなぁ。黒夜の話をするたび、黙り込むし。なにかっていっちゃあ、アラはバッナスホートを目の敵にして挑む。けどなぁ、勝ったためしがないんだなぁ。女が最強と呼ばれている男に勝てるはずがないって俺も言っているんだけど、アラは諦めないんだなぁ。一生懸命になっているアラを見ていたら、本当に可哀そうになってくる。アラがもし男でも、バッナスホートみたいな男に敵うわきゃないのに」
パシャルの隣でカーンが「そうだ」と頷いた。ルーネベリが「そんなに強い男なのか?」と聞こうとしたところ、シュミレットが咳払いして言った。
「君たち、話し込むのはいいけれど。アラを見失うよ」
ルーネベリは前を見てみると、アラの背中が霧の中に消えていきそうだった。慌てて四人はアラの後を小走りで追いかけた。
ぼんやりと見える霧の中で輝く光が、前へ進めば進むほど近づいていた。リーンリーンという音も、近づくほどに大きく聞こえていた。もうじき、音と光の出所がわかる。そう思うと、自然と五人の足ははやまっていた。霧で周囲はよく見えないが、周囲の移動する気配も光に近づくほどにより強くなっていた。大勢の人々が光に吸い寄せられるように歩いていた。
歩きつづけて数分、ぼやけた視線の先に黒い物が見えはじめた。大きくはない黒い物の近くには上下に規則的に動く小さな人影が見えた。光はその人影の奥に見えている。
「見つけた」と、誰もがそう思った瞬間、霧がまた少し晴れた。
距離がどれほど離れているかはわからないが、少なくとも、霧に隠れていたルーネベリたちの両隣の集団と小さな人影の人物の姿が次第にくっきりと見えはじめた。
霧の中で動く小さな人影は老婆だった。耳が隠れるほど深く赤い布帽子をかぶり、よれよれの深緑のワンピースを着た背が曲がった老婆は懸命に全身を使って紐をひっぱり、リーンリーンと黒い鐘を鳴らしていた。
霧が薄まったおかげで老婆の背後には大きな建物らしきものが見えてきた。さらに近づくと、それが黒い石でできた風変りな家だということがわかった。一枚岩同士が三枚重なり合い、さらにその上に岩が横たわるようにのっていた。天井だろう。入り口には扉はなく、ベージュの布一枚で仕切られていた。霧の中でぼんやりと見えていた光はあの「家」の入り口に灯された松明だった。
老婆は霧の中で近づいてきた人々に気づいて、鐘を鳴らすのをやめた。そして、嬉しそうにゆっくりと右手を振った。
「来てくれたんだね。この霧の中、ご苦労さん。随分と沢山、来てくれたんだね。待っていたよ」
ルーネベリが周囲を見ると、見える範囲でその場には四、五十人近くもいた。皆、ルーネベリたちと同じように驚いた顔をしている。皆、こんなにも人がいるとは思わなかったのだ。だが、よく考えれば、なぜこれほどまでに少ないのだろうかとも思った。剛の世界にいた時は、水晶の舞台の上にはもっと人がいたはずだ。
それぞれが考えに耽っていると、老婆は手招きした。
「そんなところに突っ立っていないで、家の中に入っておくれ」
老婆はのろのろと歩き、岩の家の中へ入って行った。
どうしようかとルーネベリがシュミレットの方を向こうとすると、アラが誰よりも早く、すたすたと岩の家の中へ歩いて行ってしまった。相談するどころか、声をかける暇もなかった。シュミレットはクスリと笑うだけ、アラの後を追って岩の家の中へ行ってしまった。
ルーネベリとパシャルとカーンは、仕方なく二人を追いかけることにしたのだが。岩の家へ向かって歩きながらルーネベリが他の人たちはどうするのかと振り返ると、何十人かがこちらに向かって歩いてくるのが見えたが、その後ろに立ち尽くす人々の姿は半ば白に包まれるかのように霧の中へ消えていった。
「えっ?」
立ちどまったルーネベリにパシャルは「どうした?」と言ったが、今見てしまった光景をどう説明したらいいのかわからなかった。消えてしまったのか、それとも、消えたように見えただけなのか。また霧が濃くなったのかさえわからない。赤い頭を掻いて、首を横に振ったルーネベリは、パシャルとカーンと共にベージュの布を押し上げ、岩の家の中へ入った。
老婆の岩の家は思っていた以上にとても暖かく、明るかった。木製の小さな格子のランプが壁掛けに五十個も置かれていたせいだろう。しかし、驚いたことにランプの中で燃えているのは無色透明の水だった。なんという物質だろう。なぜこの液体は燃えつづけているのだろうか……。
老婆の家の家具はほとんど岩と木でできていた。鮮やかなオレンジ色の布が置かれたテーブルと三つの椅子は大きい石と小さめの岩だ。部屋の右奥に小さな岩をくり抜いて作った竈があった。よく使い込まれた銀色の鍋で、泥色の液体をぐつぐつと煮ていた。匂がまるでしないので、食べ物ではないのかもしれない。左奥は赤と白と黒で編まれた大きな布で仕切られ、様子を見ることはできなかったが。寝室ではないかと思った。
他にも老婆の家には物珍しいものがいくつか置いてあった。テーブルの上に、木を削りつくった薄い羽が三つ生えた魚の彫刻と、三つ重なった輪っかのペン立て。床には木製の機織機が置かれていた。テーブルの布や、入り口のベージュの布も、老婆が織ってつくったものなのだろう。
老婆は鮮やかなオレンジ色の布を置いただけの岩の椅子に腰かけた。パシャルとカーンも岩の椅子に狭そうに座り、部屋の中を見まわしていた。老婆は息をついて言った。
「くたびれちゃったから、少しだけ休ませておくれ。あの大きいラーズを鳴らすのは、老体に鞭打つようなものだからね」
立ったまま部屋を見ていたルーネベリは思わず「ラーズ?」と聞き返した。
「家の外にあったやつだよ。黒い岩でできていてね、リーンと鳴るんだよ」
「あぁ、鐘の事ですか」
老婆は首を傾げ、「なんて言ったのかね?」と聞いた。もう一度、「鐘」と言っても、老婆は首を傾げるばかりだった。あきらかに「鐘」と言う言葉自体を初めて聞いたような様子だった。ルーネベリが簡単に説明すると、老婆はやっと柔らかく笑った。
「そうかね、人と会うことはほとんどないからね。ラーズに別の言い方があるとは知らなかったよ。あんたたち、どこから来たんだね?」
「俺たちは『剛の世界』から来たんですが……」
老婆は「えぇ?そんな村があるんだね」と言ったので、ルーネベリは慌てて言った。
「村じゃありませんよ」
「村じゃなければ、町かね?」
「いや、町ではないです……世界です」
「世界?世界という村があるのだね」
「いやいや、ですから、世界は世界ですよ。一つの球体世界です」
「よくわからないこと言う子だね。随分と遠くからやってきたんだろうね。村だろうと、世界だろうと、どこでもわたしゃかまわないんだよ。来てくれただけで大助かりだよ」
老婆はそう言って笑いながら赤い布帽子を脱いだのだが、ルーネベリは老婆を見て急に不安に思った。アラやパシャル、カーン、そして、シュミレットも露わになった白髪の老婆の耳を見てそう思ったに違いない。皆、目を丸くしていた。
肩まで伸びた白髪の間から覗く老婆の耳のてっぺんが三つの険しい山のように尖がっていた。耳以外は、ルーネベリたちと容姿があまり変わらないようだが、人種が異なるのかもしれない。十三世界では一度たりとも、こんな耳を持った人間を見たことがなかった。
アラは言った。
「お婆さん、ここはどこですか?」
「ここはね、霧の村タイトゥームだよ」
「タイトゥーム?」
五人は顔を見合わせ、首を横に振った。誰も聞いたことがない名前だった。もしかして――と、疑問がふと浮かび、ルーネベリは腕を組んだ。賢者シュミレットはアラの隣で、静かに壁際のランプを眺めていた。
老婆は言った。
「わたしゃね、ゼアロスの祖母だよ」
「ゼアロスはお孫さんですか?」とルーネベリ。老婆は頷いた。
「かわいいゼアロスはね、この婆やと一緒に住んでいるんだよ。それはもういい子でね。この家にあるものは全部、あの子がつくってくれたんだよ」
老婆は魚の像や機織機を指さして、嬉しそうにそう言った。ルーネベリは言った。
「そうなんですか……。今、そのお孫さんはどこにいるんですか?」
「ゼアロスはね、いないんだよ。五日前に家を出たっきり戻らないんだ」
「戻らない?」
「だからね、わたしゃラーズを鳴らしたんだよ。タイトゥームではね、家と家の間が離れているから。何かあった時は、ラーズを鳴らして人を呼ぶんだよ。霧の中でも遠くまで聞こえるからね」
「そうだったんですか……」
頷きながらルーネベリは入り口を振り返った。ベージュの仕切りは少しも揺れずにぶら下がったままだった。――やはり、何かがおかしい。あれほど人がいたのにもかかわらず、ルーネベリとシュミレット、アラ、パシャルにカーンの五人以外、家の中に誰も入ってこないのだ。それに、老婆の耳の形や話を聞いていると、どうも、しっくりこない。十三世界にこんな村があるのだろうかという疑問が強まるばかりだ。
アラは言った。
「ゼアロスはこの霧の中、どこへ行ったんですか?」
「天主様の塔へ行ったんだよ。お守り番が帰る時に棺の蓋を閉め忘れたんだろうね。外の霧を見ただろう?いつも霧は出ているけど、あんなに酷くはないんだよ」
「お守り番?」
「天主様の墓守のことだよ。タイトゥームは棺の中にいる天主様の霧のおかげで豊かな生活ができているんだけどね。棺の蓋を開いたままにしておくと、前も見えないほど霧が濃くなってしまうんだよ。かわいいゼアロスは婆やのために、天主様の塔のてっぺんに行って棺の蓋を閉めると言って家を出ていったんだよ」
パシャルは「それが五日前の話かぁ」と言った。老婆は言った。
「あんたたち、ゼアロスを探してきてくれないかね。霧のせいで道に迷って帰ってこられないんじゃないかと心配なんだよ」
老婆は深く頭を下げて頼み込んだが。ルーネベリはなんて答えたらいいのかわからず、困惑していた。
老婆の話の内容はわかったが、このタイトゥームという村は、どうもルーネベリの知らない文化で成り立っているようだ。見ず知らずの土地にいるのだ。もう少し詳しく話を聞いてから判断したほうがいいのではないかと慎重に考えていたが、パシャルが大きな声で言った。
「婆さん、俺たちに任せてくれよ。これでも用心棒なんだぁ。婆さんの孫なんてすぐに見つけてきてやるよぉ」
ルーネベリが皆を見ると、アラもカーンも頷いていた。三人共、情に厚いのはいいことかもしれないが、果たして、それでいいのだろうかとルーネベリは思った。
ルーネベリはシュミレットの傍まで歩き、小声で言った。
「先生はどうお思いになりますか?」
シュミレットがランプを手に持ったまま言った。
「ゼアロスを探しに行くべきだろうね。それ以外に、今、僕たちができることはないのだから」
「そうですが……。先生、さっきからおかしいと思いませんか?」
「何についてかな?」
「全部ですよ。タイトゥームは剛の世界にある村ではないですよね。剛の世界だったら、アラたちが老婆の耳を見て驚くわけがないでしょうし。人探しをするなら奇術師を呼べばすむはずです」
「だったら、君はここがどこだと思っているのかな?」
「俺は……ここは天秤の剣の『内部』ではないかと。以前、水の世界で奇力の世界の中にいたことがありましたよね」
「『内部』ですか?」
「違いますか?――そういえば、先生は過去に参加されていましたよね。教えてくださいよ。ここはどこですか」
「実は僕もよくわからないのだよ。君の言うように、僕たちは天秤の剣によって肉体を剛の世界に残したまま、奇力だけが飛ばされたのだと思うのだけれど。『どこへ』飛ばされたのかまではね。いつも違う場所なのだよ」
「百年前は、この場所には来ていないんですか?」
「タイトゥームははじめてだよ」