二章
第二章 恋の酩酊
第三世界統治女王のお膝元、アルケバルティアノ城城下東区の娯楽街の一角に、火に強い頑丈な黒木で建てられた三階建ての大きな居酒屋があった。店の一階から三階まで大きな酒樽が一面山積みにされていて、一部分だけ四角く切り取られている。ここが店の窓や出入り口だった。看板は入り口の上に雑に白いペンキで書かれている。店の名は大胆にも「女王の酒樽」といった。
「女王の酒樽」には個室は一室もなく、店を訪れた者は皆空いているカウンター席か仕切りのない四人席に座る。見ず知らずの酔っ払いと相席になることもよくあった。身分問わず、あらゆる人種が毎夜訪れる店だった。
七月のとある晩、頬を赤く酔い染めたルーネベリ・L・パブロは四人席の手前側に座り、奥の席に座る三十代前半の金髪と黒髪の美女二人と親しげに会話をしていた。テーブルに灰汁色の酒が入ったグラスが二つと、半透明な橙色の飲料が入ったグラスが置かれていた。丸い小鉢の灰皿は空だった。
ルーネベリと美女二人との出会いはほんの一時間前で、お互いに名前を述べたかどうかはわからない。ただ、金髪の美女のほうは第三世界の観光旅行会社で添乗員をしていて、黒髪の美女のほうは映写師、立体映像を撮影する専門技師だと聞いた覚えはある。出会った時には、三人ともすでに出来上がっていたので、談笑まじりの会話の合間の記憶だ。もしかしたら反対だったかもしれないが、今のルーネベリにはどっちでもよかった。心地の良い気怠さのなか、美味しい酒と美女にたっぷりと酔いしれていた。
美女二人は品の良い青や白のドレスでふくよかな胸元を覆っていたが、酒が入って身体が火照り暑かったのか、店にいることも忘れて強引に胸元の生地を引っ張りハタハタと振っていた。黒髪の美女の方は「ドレスを脱ぎたいわ」とまで言い出した。
魅惑的な言葉にルーネベリは笑みを零らしたが、美女たちの後の四人席に座る若い男たちが振り返ってまじまじと彼女たちを見ているのに気づいて、我に返った。あの男たちの同じ顔をしているのだろうと思うと、急に情けなく思ったのだ。
ルーネベリはカウンターの方に向かって叫び、店の者を呼んだ。すぐさま、黒いエプロンワンピースを着た赤毛の若い娘がやってきた。相席した美女たちを酔いがさめるまで店の奥の安全な場所で休ませてやってほしいと言うと、酒屋の娘はにっこりと頷いた。一旦、酒屋の娘がさがり、大柄な女性二人を連れてくると、酔っぱらった美女たちを肩に支えて店の奥へと連れて行った。
背後の席に座る男たちが恨みのこもった目でルーネベリを睨んでいたが、ルーネベリは無視をして灰汁色の酒を飲んだ。
「彼女たち、酔いがさめたら後悔するだろうね。いい男を逃したって」
男にしてはやや高い声が聞こえ、先ほどまで美女たちが座っていた正面の席を見てみると、男が今まさに腰かけようとしていた。
首元まで紐で編み閉めた襟のない上等なシャツに、点々と白地に黒い模様がついた毛皮の上着を羽織っていた。金髪の少し長めの前髪を小洒落たようにはねさせ、耳には女性ものの金色のピアスを飾っていた。青い目の優男が微笑んでいた。
「……キャビック」
ルーネベリが男の名を呟くと、男はグラスを指さした。
「ご無沙汰だね。何を飲んでいるの?」
「樹木酒だ」
「渋いお酒を飲んでいるね。僕も飲もうかな」
さり気なく手をあげて酒屋の娘を呼ぶと、キャビックは「彼と同じものを瓶で。グラスも忘れないでね」と言った。
ルーネベリはグラスをテーブルに置いて言った。
「キャビック、今日は女性と待ち合わせか?」
「いや。最近は一人で酒屋に来ることが多いんだ。知らない人と話したり、一人で飲んだり。今日はたまたま君を見かけたから声をかけた。去年の中頃に会ったきりだったね。長い間、どこかの世界に行っていたの?」
「あぁ、まぁ、そうなんだ。あれこれと仕事が忙しくて」
ルーネベリは曖昧に返事をして苦笑った。キャビックは「忙しくなると、飲みに行けなくなるのが嫌になるね」と言った。詮索はしなかった。
キャビックはルーネベリが学生時代に夜の町で知り合った同い年の飲み友達だった。もしかしたら、飲み友達の中では一番古い付き合いかもしれない。約束をすることもなくふらりと立寄った酒屋で会い、気が向くと飲み語らう。そして、どちらかがふらりと帰って行く。隣に同伴者がいることが多く、同類同士の心地の良い友人関係を保っていた。だが、楽な付き合い方しかしてこなかったせいか、互いのことは詳しくは知らない。出会った当初に政治学を学んでいると聞いたので、政治にまつわるなんらかの仕事をしているのだろうと勝手に思っていた。キャビックもルーネベリが学者か何かになったのだと思っているのだろう。互いに適当な認識しかなかったが、そういう付き合い方もいいものだとルーネベリは思っていた。
なにを隠そう、魔道具ライターは彼から譲り受けたものなのだが、キャビックはもう覚えていないかもしれない。酔っぱらうと、なにもかもがどうでもよくなる。ルーネベリもキャビックに何か渡した気がするが、翌日に目が覚めた時にはすっかり忘れている。大切なものではなかったのだろうから、気にはしていなかった。
ルーネベリは言った。
「にしても、いつも女性を連れているお前が一人で飲むなんてことがあるんだな。病気にでもかかったのか?」
無神経な質問にもキャビックは嫌な顔はせず、真面目に言った。
「病気か。僕は恋の病にかかったのかもしれない」
「恋の病?何を寝ぼけたことを言っているんだ」
半ば笑うルーネベリに、ため息をついたキャピックは言った。
「寝ぼけもするよ。三十五年間、僕は色々な女性と会ってきたけど。どの女性とも違うんだ。彼女は輝いていたんだ」
「輝く?――よくわからないが、しばらく会わないうちに何かあったようだな」
ルーネベリが首を傾げていると、酒屋の娘が盆にのせて樹木酒の瓶とグラス一つ運んできた。
酒屋の娘はキャビックの容姿に好意を抱いて上目遣いでキャビックを見つめていたが、キャビックは全く気づかず、愛想笑い一つせずに目を伏せたままテーブルに置かれた瓶を掴んだ。酒屋の娘は目が合ったルーネベリにぎこちなく笑いかけ、足早に立ち去った。女性なら誰にでも隔てなく微笑みかける男が、それを忘れるなんて尋常じゃないのは確かだった。
キャビックはルーネベリと空のグラスに樹木酒を注いで、言った。
「今年の一月に出会った女性が忘れられないんだ。名前も、連絡先も、どこの世界の人なのかもわからないから諦めるしかないのに。彼女の姿が思い浮かんで忘れられない」
「お前のような遊び人が一目惚れか。なんでなにも聞かなかったんだ?」
「酔いつぶれて寝てしまったんだ。飲み過ぎたことを後悔している」
「そうだったのか。まぁ、運がなかったとしか……」
「今まで遊んできた罰かな。仕事もろくに手につかない。病気だよ」
そっと胸元を抑えたキャビックは物思いに耽った。
ふと、きゃっきゃっと騒ぐ声が聞こえて周囲を見ると、二十前後だろうか若い女性客二人がこちらを見ていた。色男二人に声をかけようか悩んでいる様子で、キャビックの背後に座る若い男たちが舌打ちしていた。けれど、端から彼らと若い女性らを巡って争う気などさらさらなかった。ルーネベリだけでなく、キャビックもまた三十を超えた淑女が好みだ。余計な揉め事に巻き込まれる前に、ルーネベリはそっと視線を反らした。
周囲など眼中がないキャビックはぐいっと樹木酒を一気に飲み干した。
「僕は友人と三人で第八世界に遊びに行ったんだ。何軒か三人で飲み歩いているときに、店先で彼女をたびたび見かけて気にはなっていた。一人でいたなら、声をかけていただろうな。友人たと散々飲み歩いた後、最後にレストランに寄って、そこで僕の友人が酔っぱらって手当たり次第にウェイトレスを口説きだした。それで、もう一人の友人が怒りだして大変だった。――もう一人の友人は女性で、恋人の浮気が原因で別れたばかりだった」
「あぁ」
なにやら聞き覚えのある話だなと思いながらルーネベリは頷くと、キャビックの背後の席で動きがあった。若い男のうち二人が席を立ってあの若い女性客たちの元へ歩いて行った。口説くつもりらしい。何を言っているはわからないが、冷ややかな女性たちの声が聞こえた気がした。
キャビックは言った。
「レストランを出てもう何軒かまわって、海岸で酔いを醒していると、友人同士が喧嘩しはじめたんだ。二人は言い争って、揉み合いになった。僕は酔って座るのがやっとだったから、喧嘩を見ているしかなかった。そこへ、車椅子にのった彼女がまた現れて、倒れた僕に手を伸ばして――記憶はぷっつりと途絶えた」
「車椅子の女性?」
「黒い髪の、優しそうな声の女性だった」
自分を嘲るようにキャビックはふっと笑った。ルーネベリは苦笑した。
「お前の友人はその女性が誰なのかわからないのか?名前を聞いたとか」
「友人たちも泥酔していて覚えていなかった。目が覚めたら一人、ベッドの中だった。彼女、近くの高級宿で三室も部屋を取って僕らを休ませてくれたんだ。酔い冷ましのスープと軽食の用意もされていて、宿の料金も支払ってくれていた。見ず知らずの人間にあそこまで親切にできる人がいるなんて、僕は感動してしまったよ」
「面倒見のいい、親切な女性だな。まぁ、礼ぐらいはしたほうがいいだろうが。名前もわからないとなると、難しいだろうな」
空になったグラスに酒を注ぎ、また一口飲んだキャビックは言った。
「難しいのは承知している。今、時術師に探してもらっている」
「えっ、時術師を雇ったのか?」
「うん。彼女を見つけだして。正式に食事に誘う」
「個人での依頼ならすごい出費だろう」
「金の問題じゃない。彼女を見つけたいんだ。そうでないと、僕は恋い焦がれるあまりに死んでしまうかもしれない」
酒を勢いよく飲み込んだキャビックを見ながら、ルーネベリは呆れつつも、少々哀れに思えた。三十五年も生きていれば、それなりに経験があり、遊びと本気の区別ぐらいはつく。ルーネベリ自身もかつて愛した女性がいたのだから、キャビックを笑うことなどできなかった。人生色々とあるものだ。
空の灰皿を見て煙草を吸おうかとリュックに手を伸ばそうとしたが、やめた。賢者様と半年以上も宿で同室だったため、禁煙生活がつづいていた。また吸い始めたら、やめるきっかけもなくなるだろう。ルーネベリは樹木酒の瓶を取り、キャビックと自分のグラスに酒を注いだ。
明け方まで「女王の酒樽」で酒を飲んだ後、キャビックと別れ、ルーネベリは第三世界のシュミレットのアパートに帰った。アパートの風呂に入り汗を流してから、ルーネベリはシュミレットに与えられた小さな部屋のベッドで眠っていた。
ベッドと箪笥一つ、窓のない部屋は簡素で窮屈だった。二百十センチを超えるルーネベリがベッドに横になると、寸足らずで、足がベッドからはみでていた。シーツを長めにしても、寝返りを打つたびにシーツが床へとずれ落ちていった。
ルーネベリの荷物は非常に少なく、亜麻色の箪笥の中には着替えのシャツ三枚と黒いパンツが二枚しかなかった。年季の入った革ジャケットをベッドの奥の壁に埋めた壁掛けにぶらさげていた。いつも持ち歩くリュックは脱ぎ捨てた厳ついブーツとともに床に転がっていた。
鼾をかいてうつ伏せにルーネベリが寝ていると、頭の上でなにかが鳴っていた。うるさくて払いのけようにも、その音はどんどん頭の中で大きくなっていた。飛び起きると、空中に財布が浮かんでいた。透明な丸い容器の中、真ん中の大きな丸い容器に沿って十個の丸い容器が収められ、そのうちたった三つだけがピンク色の液体で満たされていた。財布の上には奇術式が浮かび、来客をルーネベリに知らせていた。
「今、起きる――」
ルーネベリははねた赤い髪を掻きむしり、ベッドから起きて部屋を出て行った。
アパートの扉を開けると、十一、二歳ほどの少年が立っていた。銅色のもっさりとした髪に黒い小粋な帽子をかぶっていた。よく見ると、少年の足元と頭上には時術式が浮かんでいた。機械で空間移動してきたようだ。
小粋な帽子を脱いで、少年はちょこんとお辞儀した。
「どうも、パブロの旦那さん。いつもご利用ありがとうございます。ラジューラ社のアーティーです」
ルーネベリは寝ぼけ眼で言った。
「代行社が朝っぱらからなんの用だ?」
「パブロの旦那さん、今日は大事な用で来ました。いつもお留守ですから、朝一で来ました」
「わざわざ悪かったな」
「いいえ。早起きは慣れています」
「そうか。ところで、大事な用ってなんだ。急ぐ要件なのか?」
「はい。急ぎの用です。重大な話なのですが、ここで話しますか、部屋に入って話しますか?」
「あぁ、入ってくれ」
ルーネベリは代行社の従業員アーティーを部屋に招き入れた。ちょこんとお辞儀したアーティーは頭上と足元に時術式を連れたまま、アパートの部屋の中に入ってきたが。部屋をやたらとじろじろ見たりはしなかった。ルーネベリに促されたソファに行儀よく座った。
代行社というは銀行の役割と、店への支払いと消費者への商品の運搬の役割も兼ねていた。なぜ、ひとつの会社がこういった複数の業務を担うのかというと、物流において使用されている通貨が異なるからだった。ルーネベリなど民間人が使う通貨は液体通貨キエヌ、商人が使う通貨はキエヌを紙幣にしたもの、イリタスと呼ぶ。代行社は消費者から預かった液体通貨キエヌから紙幣イリタスを製造し、店にイリタスで商品代を支払う。代行社の収入源は、加盟店から貰う宣伝費だ。
液体通貨を紙幣にする、または紙幣を液体通貨に戻すという特別な装置を、代行社はアルケバルティアノ城の許可を得て所持している。横領や詐欺など様々な不正行為を防ぐため時術師賢者の監視下におかれている、世界に三つしかない大きな会社だった。
民間会社のテピル社、同じく民間会社のラジューラ社、貴族・富豪御用達のチェロック社。アーティーは民間会社のラジュール社に勤めていた。
アーティーのような代行社に勤める子供たちは学校に通わず、液体通貨キエヌの集金や店の宣伝をしている。いわば、代行社の即戦力だった。「親方」と呼ばれる代行社の営業部から徹底した教育を受けて育つため、並みの子供にくらべればずっと賢い部類に入っていた。なので、学校に通わなかったといっても、特別、差別を受けることはなかった。
アーティーたちが育つと、やがて営業部にのぼり、そこから顧客から預かっているキエヌを保存する「管理部」、加盟店の広告本を作成する「宣伝部」、代行社全体を管理する「経営部」の三つのいずれかに昇進してゆく。とりわけ実業成績の良い者は社長に就任することがあるが、これは非常に稀だ。とにかく、代行社は資格や任命式を必要としないため、子供でも入社でき。安定した収入と将来が約束されている。代行社で働いて学費を稼いで別の職に就くこともあるが、大抵の場合は代行社に一度入社すると、生涯、代行社で働くことが多かった。どの職よりも、待遇がいいと噂されているが事実かどうかはわからない。
液体通貨を制定したキエヌ=ボアジェ亡き後、政治家たちが代々ボアジェの意志を受け継ぎ、液体通貨とそれを管理する組織は大きく発展した。代行社は現代の十三世界を支える、なくてはならないものとなっていた。
「パブロの旦那さん、お話してもいいですか?」
「あぁ、してくれ。なんの話だ?」
ルーネベリがアーティーを見ると、アーティーは腰からぶら下げた茶色い布鞄から分厚いノートを取りだし。小さな親指と人差し指を舌で舐め、アーティーは分厚いノートを捲りだした。さっさと手際よく、目当てのページに行き着いたアーティーはノートに書き込まれた文章を読みながら言った。
「大変言いづらいことなのですが、うちでお預かりしている旦那さんのキエヌは現在、空です。お財布の貯え分の三十万キエヌがなくなれば、旦那さんの所持している財産がゼロになります」
「……えっ、待ってくれ。どういうことだ?」
慌てて手をあげたルーネベリに、アーティーは言った。
「毎年、税金は代行社でお預かりしているキエヌから差し引かれています。年間収入の四割。当社のご提案する奉仕活動に参加されると二割に減税されます」
「それは知っているが……。もしかして、遂に物にも税がかかるようになったのか?」
「物に税がかかる法は制定されていません。旦那さん、最後にうちに入金してくださったのは、いつのことか覚えていますか?」
「――いや、そういえば、研究所を辞めてから入金した記憶がないな」




