十六章
第十六章 馬鹿げた噂話
朝になり、やっとジェタノ・ビニエの治療が終わった。
ビニエの治療の甲斐あって、オーギュレイは一命をとめたようだ。オーギュレイの胸元の奇術式は、ビニエの胸に浮かぶ奇術式と同じように黄色く輝き。オーギュレイ自身は簡易ベッドの中で安らかに寝息を立てていた。一晩中治療に励み、疲れ果てたビニエは奇術式の発動をとめ、椅子に座り込んだ。すぐさま、メリア・キアーズが「今後の治療について話しましょう」と言った。
ビニエは目を擦りながら、傷口を塞いだとはいえしばらく別の世界へ連れて行くことは不安だと言った。そうすると、メリアはオーギュレイを自宅に移して継続的な治療するのはどうだろうと提案したので、ビニエは「そうしましょう。ただ、時術式での移動はできませんよ」と言った。オーギュレイをどうやって自宅に連れて行くか十分ほど二人が話し合っていると、ベッケル・オーギュレイが寝言を呟きだした。
言葉にならない呻き声など、意味不明な言葉を話しつづけたかと思うと、急にぴたりと寝言が止んで、また静かに眠りはじめた。
ビニエはオーギュレイの様子を見てほっとした顔をして、「夢を見ているようなので、もう大丈夫でしょう」とメリアやルーネベリに言った。
「夢を見るのは記憶を整理するためなのですが、記憶が修復された時にも同じように夢を見るそうです。目が覚めた時、ご本人は一切覚えていらっしゃいませんけどね。寝言言っているところを見ると、しばらくは心配いりません」
ビニエの話を聞いて、ルーネベリもほっと息をついた。
「それじゃあ、もう心配はいりませんね。よかったです」
「よかったのかどうか……。一通りの治療は終わりましたが、これから何度も傷口が開きます。少し体力が戻ったら治癒の世界に移ったほうがいいと、ご本人に説明しなければなりません」
「その役目は私に任せてちょうだい。慣れているわ。それより、あなたの今日の診察の予定は大丈夫なのかしら。治癒の世界を出る時、ちょうど近くにいたあなたに理の世界にきてもらうようをお願いしてしまったけれど」
「キアーズ長、そのことなんですが。オーギュレイさんの傷口がまたいつ開くかわかりません。もうしばらく傍で看る必要があるので、僕は一度治癒の世界に戻って、ズゥーユ様に今日看るはずだった患者さんを何人か看てもらうようお願いしようかと思っているんです。同僚にお願いしても去年の一件もあるので、まだ僕の頼みは聞いてもらえませんから。キアーズ長はなにか治癒者たちに伝言はありませんか?僕でよければ、伝言を承りますよ」
心なしか寂しそうにビニエがそう言うと、メリアはビニエの肩を撫でるように触れた。
「気にしないで。この一年、あなたは頑張ってきたわ。近頃、治癒者にも評判なのよ。あなたは嫌な事も進んでやってくれるから。治癒の世界に戻るのなら、少し休んでから戻っていらっしゃい。私は大丈夫よ。ギルバルドさんからのお呼び出しだと聞いて、長く治癒の世界を留守にすることを覚悟していたから。治癒者たちに必要な事だけ指示してきたから伝言もいらないわ。ありがとう」
「いいえ。お言葉に甘えて少し仮眠をとってから戻ってきます。昼頃までには帰ってくるので、何か食べ物も一緒に持ってきます」
「助かるわ。少しお腹がすいていたのよ」
メリアが「甘いものをお願いね。うんと甘いものがいいわ」とかわらしく微笑んだ後、ルーネベリは「キアーズさん」と言った。
「ビニエさんが治癒の世界に帰られるそうですが。俺たちもこの場を離れても大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫よ。私一人でも。この部屋にはずっといますから。オーギュレイさんが起きるまでお茶でも飲んでいるわ」
「そうですか。それじゃ、俺たちはスヴファベッツのところにいってきます。先生がもし戻ってきたら……」
「えぇ、わかっているわ。伝えておきます」
「お願いします」
ぺこりと頭をさげたルーネベリはバルローと共に部屋を出て行こうとしたが、ルーネベリははっとして立ちどまり、振り返った。
「――あっ、そうでした。ビニエさん」
「はい?」
「お聞きするのを忘れていたんですが。キアーズさんのお話では、オーギュレイさんは時間をおいて二度記憶を消したのではないかということだったのですが。治療したあなたなら、最初に記憶を消した時刻がいつ頃なのか、わかるのではありませんか?」
ビニエは椅子の上で軽く俯いた。
「無意識の四層以下の層は実際に見ることができないので、奇術師としての感覚的なものでしか判断できませんよ」
「それでもかまいません。教えていただけますか。最初に記憶を消した時期が知りたいんです」
「感覚的なものでいいのなら、わかりました。僕が感じた記憶の傷は正面と裏側の二カ所でした。表の傷のほうが深く、裏側の傷のほうは浅かった。状況から考えて、最初にできた傷は裏側にできた浅い傷の方でしょう。古い傷のせいで、新しい傷が深くなったのだと」
「浅い傷ができたのは?」
「新しい傷口に影響を与えるほどの傷なので、二カ月以内か、二カ月にも満たないうちにできたものではないでしょうか」
「約二カ月以内ということですか」
「記憶に傷をつけると、無作為に記憶の欠損がはじまります。オーギュレイさんの場合、すでに欠損している箇所の上に傷をつけたので、普通の状態より傷口が深くなり、身体的に深刻な状態に陥ってしまったのだと思います」
「欠損箇所の上に傷が?本人や、記憶を消した人物がそのことに気づかなかったんですか」
「欠損は小さなシミのようなものが点々とできるようなものなんです。初期の段階では、それほどご本人にとって負担がなく、気づきにくいんです。
記憶を消すためには、ご本人自らが奇力を使って一部の記憶を呼び起こさなければならないのですが、欠損した記憶はないものと一緒です。無い記憶を他人が知ることはできませんし。記憶は一方的に消されるのではなく、消す人消される人の双方が協力し合うことで、はじめて消すことができるんです。
初期の段階で記憶の欠損があるかないかを知ることは、多くの患者を診てきた奇術師でもなかなかできることではありません。今、僕が二つの傷に気づけたのも、症状が強く出たからなのですから」
「そうですか。記憶を消すには、本人に意識があり、尚且つ、同意の上でなければ記憶は消すことができないということですね」
「はい。治療と違って、記憶を消すというような大きな作業は一人ではできません」
ビニエの話を聞いてルーネベリは自身の腕を強く掴み、オーギュレイを見て小さく呟いた。
「それじゃあ、オーギュレイは魔術式が消えた後、気絶などしていなかったことになる。やはり、魔術式が消えたことは、彼の計画のうちだったのか……?」
「何か言いましたか?」と言ったビニエ、ルーネベリは言った。
「いいえ、ありがとうございました。俺たちはスヴファベッツに会いに行ってきます。何かわかるかもしれない」
ルーネベリは「また戻ってきます」と部屋の外へ走って行くと、バルローが「待ってくれよ」と後を追いかけて行った。
ビニエはどうしたのだろうと言う顔でメリアを見たが。メリアはうふふと笑い、「私たちの知らないことに気づいたのかもしれないわね。パブロさんが一生懸命に人の話を聞いている姿を見ていると、あの方がどうして変わったのかわかる気がするわ。……羨ましいことだわ」と言ったので、ビエニはなんのことかと首を傾げた。
ルーネベリが部屋を後にした後すぐに、シュミレットとキートリーが研究室に戻ってきた。
シュミレットは、茶色の鬘、チョビ髭、青いガラスの眼鏡をかけていること以外では、いつもとかわらない涼しげな様子だったが。ふらふらとした足取りで研究室に入って来たキートリーは、椅子に腰かけているビエニの隣に空き椅子を見つけると、真っ先に椅子に向かい、我先にと座り込んだ。そして、椅子に座るなり、「もう、嫌だ」と大袈裟にため息を溢した。
シュミレットはメリアとビニエに挨拶したが、ビニエは変装したシュミレットが誰かわからなかったのか、ぎごちない挨拶を交わした。メリアは見かねて、言った。
「あら、やだわ。あなた、一度お会いしているのよ」
「……すみません、去年のことは半分ほど覚えていなくて」
シュミレットは淡々と言った。
「僕のことは覚えていなくて結構だよ。たいしたことではないからね。ところで、彼はどこにいったのかな?」
メリアは彼と言われて、すぐにルーネベリの事だとわかったので、「スヴファベッツに会いに行きましたよ」と言った。
シュミレットは「そうかい」と言うと、今度はオーギュレイの容体について聞いた。メリアはオーギュレイの容体が安定したことを伝え、そして、ルーネベリと交わしたオーギュレイの記憶に纏わる会話のすべてを話した。
シュミレットは最後までメリアの話を聞くと、こう言った。
「なるほどね。記憶を二度、別々の時間に消したのなら、記憶を消した人物が一人とは限らないということだね。実に面白い話だね。
幸いにも、僕らは記憶を消しただろう一人の人物の姿を見ることができる。その人物が、どんな役割を果たしていたのかを知るためにも、僕は大研究発表会の会場に行ってきます」
シュミレットは椅子に椅子の上で俯き、座り込んで動かないキートリーに向かって言った。
「君はもうここに残ってかまわないよ。……学者だからだといって、誰もが気が利くわけではないのだね。今回の事でよくわかったよ」
シュミレットは「行ってくるよ」とそう言うと、すぐに研究室を出て行った。
何があったのかわからないが、賢者殿はキートリーが気に入らなかったのだろう。嫌みを聞いたメリアとビニエが同情の目をキートリーに向けると、キートリーは怒るどころか、大きく伸びをしてシュミレットから解放されて喜んでいた。キートリーもまたシュミレットが気に入らなかったようだ。
空間移動装置でチャーグ・キーデレイカ前まで飛んだルーネベリとバルローは、空間移動装置のある小屋から外に出て、足をとめた。
小屋からまっすぐに伸びた道の先に見えるスヴファベッツの家の前で、三十人ほどの子どもたちがはねたり、しゃがみ込んだり、走りまわったりしていた。父親らしき男性が三人、遠くへ歩いて行こうとする小さな坊やの服を掴み、喧嘩している女の子と男の子を叱りつけるのに大忙しだった。
ルーネベリとバルローはスヴファベッツの家まで歩き、膝の高さよりも背の低い子供たちを蹴飛ばさないように気をつけながら脇を通り、戸口まで着いた。
扉をノックすると、中から「いらっしゃい。鍵は開いていますので、勝手に入ってきてください」というスヴファベッツの声か聞こえてきた。どうやら中の方でも忙しいようだ。
ルーネベリが勝手に扉を開けて、スヴファベッツの家の中に入ってみると、小さな家の中は大勢の男女でひしめき合ってきた。外にいる子供たちの親たちだろう。彼らは部屋の真ん中に置かれた木製のテーブルの上でノートに名前を書く順番待ちをしていた。きっと、チャーグ・キーデレイカの水を飲むための署名をしているのだろうとルーネベリは思い、懐かしくなった。
子供の頃、ルーネベリもまたチャーグ・キーデレイカの水を飲んだ一人だった。剛の世界から理の世界に移住し、両親が真っ先に連れてきてくれた場所こそがチャーグ・キーデレイカだった。学者になる者たちの多くは知識の泉の水を飲むことが習わしだったからだ。
両親が理の世界に移ろうと決心しなければ、ルーネベリは学者になることはなかっただろう。ルーネベリの両親は今も理の世界の住宅街でひっそりと喫茶店を営んでいる。今回は顔を出すつもりはないが、近いうちに顔でも出そうかなと思った。
「ルーネベリくん」
部屋の隅に立っていたスヴファベッツが、家に入って来た、一際背が高く赤い髪のルーネベリに気づいて声をかけてきた。スヴファベッツの血色のいい顔で微笑んでいた。
ルーネベリは片手をあげた。
「スヴファベッツ、久しぶりだ。先生に調子が悪いと聞いていたが、調子が良さそうでよかった」
「おかげさまで、二日前ほどから元気になりました。時の置き場にいったおかげでしょうか。ところで、今日もお二人はご一緒ではないのですね」
スヴファベッツがバルローを見て言った。
「あぁ、今日は先生の方が忙しいんだ。こちらは、バルローさんだ」
バルローは「ダネリス・バルローだ」と爪先立ち、手を振った。
「はじめまして、スヴファベッツです。せっかく来てくださったのですが、今日は大研究発表会の終日なので。今まで発表の準備で来られなかった方々が一斉に来られるので、あまりお話ができないんです。色々と第三世界での生活について聞きたかったです」
「そうか。残念だが、今度ぜひゆっくり話そう。実は今日は少しだけ聞きたいことがあって会いに来たんだ」
ノートに名前を書き終った男性が、「すみません」とバルローの脇を通って外に出て行った。ルーネベリは人に押されながら、言った。
「昔、この世界にハロッタ・トーレイという魔術師が来たそうなんだが。トーレイについての噂かなにか知らないか?目録を書いているなら、昔の事も知っているんじゃなかと思ったんだが」
「噂?目録は書いていますが、そういった細かな記憶はありません。時の世界で目録を探しても、もしかしたら出てこないかもしれません。私たちが書いている目録は、管理者が見た世界なので。見ていないものはわからないんです」
「そうか……」
「なんの助けにならなくてすみません」
「いや、いいんだ。何かないかと思ったんだ。手がかりが他になくて、思いついたのが噂だけだったんだ。邪魔して悪かった。また来る」
ルーネベリが小さく手振り、外に出ようと身体を傾けたところ、金髪の三十代頃の女性がトントンとルーネベリの背中を叩いた。通り道に立っていて邪魔なのかと思い、ルーネベリが身体を捻ろうとしたところ、女性は「私、知っていますよ」と言った。
「えっ?」
「話に割って入るようですけど、私、トーレイの噂を知っています」
「噂なら、私も知っているわ」
「僕もその話、聞いたことがあるな」と、ノートに名前を書き込んでいた茶髪の男性が言った。すると、最初にルーネベリに話しかけた女性が言った。
「理の世界には大昔、大研究発表会に招待されたハロッタ・トーレイが、夜の理の世界を歩きまわっていたっていう話があるんです。
その話に尾ビレがついて、トーレイが理の世界に何か遺したんじゃないかっていう噂が広まって、昔、何度か学者たちが理の世界を探しまわったのです。三代前のクーとデューも、その噂話を信じていたそうで、何度か理の世界中を探しまわったのですが、なにも見つからなくて、捜索資金だけが費やされてしまい、研究室は破産寸前に陥ったそうです。だから、二代前のクーとデューの時代からトーレイの噂話は、クーとデューの前では禁句になってしまったと、父がよく言っていました」
茶髪の男性が頷いた。
「そうそう、ハロッタ・トーレイが理の世界に何か遺したっていう噂だったな。馬鹿げた噂をして、大勢の学者たちが辞めさせられたっていう話も聞いたことがある。今のクーとデューは、昔話にそれほど興味がないようだが。高齢の学者方の中には、今でもトーレイの噂話を信じている人もいるかもしれないな。トーレイは学者が唯一認めた魔術師だからな」
「トーレイは理の世界でも人気があったんだな」と、バルローが言った。
ルーネベリは一人呟いた。
「トーレイが遺したものか。部屋にトーレイの本があったということは、もしかしたら、オーギュレイさんもまた……」
ルーネベリがオーギュレイとトーレイについて考えていると、ぎゅうぎゅう詰めになっていたキッチンの傍で、青いフリペを着た女性がふいに顔をあげ、キッチンの棚にある黒い小箱を見て叫んだ。
「このお茶!スヴファベッツさん、このお茶どうやって手にいれたの?砂の世界原産の、最高級品のユクスの黄金の茶葉よ。手が届かないお値段だったから諦めたの。茶葉十グラムで家が買えるほどなのよ。裕福な方しか飲めないとおもっていたわ」
スヴファベッツは黄色い声をあげた女性に言った。
「頂き物のお茶のことですか?家が買えるだなんて、毎年のように届けて頂いていたので、そんな高い物だとは……。今度からは断らなければ」
「断るなんて、もったいないわ!断るぐらいなら、私に譲ってほしいわ。一度でいいからカップのなかで砂金のように茶葉が躍るのを見てみたいわ」
ルーネベリは二人の話を聞いて、思った。
「黄金の茶葉?どこかで似たような物を見た気が……」
「茶っていえば、オーギュレイの研究室で赤毛の兄さんが淹れていたやつじゃなかったか?キラキラ光っていた茶だったよな」と、バルローが言ったので、ルーネベリは思い出した。
「そうだ。オーギュレイさんの部屋にもあった茶葉だ」