七章
第七章 消えた術式
観客たちは座席を立ち、ステージへ向かい列をなした。一千数万人というおびただしい数の人々の中、シュミレットもルーネベリも彼らに習い列に並びステージを目指していた。
雛壇の階段をおりるのろのろと進む行列の目がステージに置かれた魔術式に向けられ、デューが公演前に注意していたコソコソ話を皆が皆していた。ちょうど、シュミレットとルーネベリの二つ前に並んでいた親子の声が聞こえてきた。
「ねぇ、なんて言ったかしら?」
「自立型魔術式だよ、母さん」
「そうだったわね、自立型ね。私、よくわからないわ。どこが奇跡なのかしら」
「よくわからないけど、半永久に消えないって言っていたよ。それが奇跡なんじゃないかな」
ルーネベリは息子の言葉を聞いて、シュミレットの方を向いて腰を屈めた。
「先生、魔術式が半永久的に消えないっていうのは本当だと思いますか?」
シュミレットは首を傾げた。「どうだろうね。魔術式は大抵、使う時にしか作らないものだからね、あまり気にしたことがなかったけれど。半永久的に消えない魔術式があっても面白いのではないかな」
「また、あなたは……。毎度ながら、面白がっているだけじゃないですか」
「君だってそうでしょう。でもね、どちらかというと僕は学者が魔術式を作ったことの方が面白いと思っているよ。どうやって作ったのか、とても興味深い」
「確かにそうですね。その辺りの事をぜひ聞いてみたいですね」
考えるように口元に手をあてたルーネベリにシュミレットは言った。
「ただ、また懲りずに行列に並んでいるのは少しも面白くないね。この行列に並ぶ癖はどうにかならないのかい?」
ルーネベリは肩をすくめ、「すぐですから」と答えた。
事実、行列がステージに行き着くまで、三十分もかからなかった。白いステージ上に多くの人々がのぼり、巨人化していたベッケル・オーギュレイは通常の大きさまで縮み、人々に取り囲まれていた。例のごとく、魔術式のはいったガラス箱にも人だかりができ、一体どうなっているんだとガラス箱に顔をひっつけるありさまだった。
シュミレットとルーネベリは魔術式の入ったガラス箱から少し離れた場所で立ち尽くしていた。人が多いあまり先に進めないでいたのだ。背の高いルーネベリははっきりと魔術式を見ることができたが、背の低いシュミレットは人々の隙間からうまく術式を見る必要があった。
「大丈夫ですか?」
心配したルーネベリが言うと、シュミレットは顔を顰めた。
「大丈夫です。これぐらい、慣れたものだよ」
首をぐるぐる動かして、シュミレットは魔術式をちらりちらり器用に見ていた。その様はおかしなものだったが、ルーネベリはシュミレットを笑えたものではなかった。背の高いルーネベリの後ろから子供を抱えた親子がやってきて、ここからじゃ見えないから坊やを肩車してくれと言い出したのだ。断る前に半ば強引に坊やを押し付けられ、仕方なく坊やを肩車してやると、坊やは嬉しさのあまり肩の上で手足をバタバタ動かし、ルーネベリを大変困らせた。
下からシュミレットのクスクス笑いが聞こえてきたが、ルーネベリは無視した。身長が高かろうと、低かろうと、こんな場面ではどちらでも大変だということには変わりはしないのだ。
しばらく肩車した後、ルーネベリは坊やを両親に返した。解放されたルーネベリにシュミレットはさっそく言った。
「とても似合っていたよ。親子のようだった」
「それは、どうも。お褒めにいただき、光栄です」
シュミレットの嫌味をさらりとかわしたルーネベリはベッケル・オーギュレイを取り囲む人だかりの方を向いた。
「あちらには行きつける気がしませんね」
「これじゃあ、公演を見てきたというよりも、人ごみにもまれにきたようなものだね」
「まったくそのとおりですね。客席に戻りましょうか?」
「そうだね……」とシュミレットが言いかけたところ、――パンパンパンッと音が会場に響き渡った。シュミレットの方を向いていたルーネベリはステージの左側を振り向いた。
さっと人ごみが左右に割れた。会場脇から手を叩いて神経質そうに眉を顰めたデューが歩いてきたのだ。人々は巨人化していないデューが通れるように道をあけ、さがった。デューは腕を下ろして叫んだ。
「皆さま、皆さま。これではいけませんな。これではまったくいけません。オーギュレイ氏との握手は後ほどにしていただくにして、まずはオーギュレイ氏に話をしてももらわなければ」
デューはさっと振り返り、手を叩いて「やいやい」と怒鳴った。
「何人かこちら来て、オーギュレイ氏を魔術式の前まで案内しなさい。言われなければ、来ないつもりか!」
会場脇から血相を変えた若い学者たちが飛び出てきて、人ごみをすいすいと走り抜け、ベッケル・オーギュレイの前までいくと、腕を貸して魔術式の方へ連れて行った。人々は呆然とデューの方を見たり、オーギュレイの方を見たりと忙しかった。デューはオーギュレイが魔術式の入ったガラス箱まで辿り着くのを見届けると、大きな声で「失礼しました」とにっこり微笑んで、ステージ脇にさがっていった。
厳しいデューの様子を見ていた観客たちは、コソコソ語など到底できず。ステージの上で静まり返っていた。オーギュレイ氏はゴホンゴホンと咳払いした。
「皆さま、デューは悪い男ではないのです。予定とはまったく違うことをした私が悪いのです。私もまさかこんなに混雑するとは想定していなかったもので、まぁ……。公演をつづけましょう」
オーギュレイは若い学者たちに、「もういいよ」と言って腕から手を離した。若い学者たちは案内の役目は終わったが、デューのいるステージ脇に帰るにも帰れず、とりあえずは台車の背後へとまわり、顔を伏せた。
オーギュレイは後ろに置かれたガラス箱のほうをちらりとだけ見て言った。
「もうご覧になったことでしょう。あれは私がつくった自立型魔術式です。古い魔道具から少量の魔力を摘出し、異なる三つの機械によって新たな魔術式を組むことによって作り出された術式です。魔術式を作りあげた機械の製造方法や理論はとても複雑で、口頭でご説明するには丸一週間はかかってしまうでしょう。公演後、会場出口にて論文を公開します。興味のある方は、どうぞ記録してからお帰りください。記録用のカードもご用意しております」
すっと片手をあげた青い目の記者が言った。
「なるほど、ようやく奇跡の意味がわかりました。機械という科学道具が魔術師だけが作ることのできた魔術式を作りあげた。しかも、オーギュレイ氏の作りあげた魔術式は半永久的に消えないとおっしゃる。奇跡をつくりあげた機械の名前だけでも教えてください」
「私は魔術式をつくりあげた三つの機械を『術式製造機』と名付けました。一つだけではなく、三つで一つの役割を果たす製造機です」
「その機械は今どこに?」
「現在、私の研究室で厳重に保管しています。ご覧になりたい方々もいらっしゃるでしょうから、公演後、ご希望の方のみご案内させていただきます」
「オーギュレイ氏」
手前にいた、髪の長い女記者が叫んだ。オーギュレイは記者の方を向いた。
「はい、なんでしょう?」
「古い魔道具と仰りましたが、魔道具改造の許可を全魔道具協会から得ているのですか」
「許可は得ていませんが、魔道具自体、改造可能なものだけを選び、魔力を摘出しました。安全面において皆さまを安心させるとするならば、この魔術式はまだ自己回復することしかできないということでしょう。これから時間をかけ、あらゆる用途につかえる魔術式を製作する予定です」
「安全面においては保障なさるということですね」
オーギュレイが頷くと、また違う記者が質問した。
「ところで、自立型というのは、自己回復することのできることから付けられたのですか。それとも、他に意味があるのですか」
「いいえ、他の意味から付けました」
「他というのは?」
「この魔術式は普通の魔術式ではないと言いました。それは意志を持った魔術式であるからです」
オーギュレイの言葉にその場にいた人々は大変驚き、オーギュレイの背後、ガラス箱の中で浮かぶ魔術式の方へ視線を集中させた。
記者は言った。
「意志をもった魔術式?……意志を持つからこそ自己回復する。意志を持つからこそ永久に消えないということですか。まるで術式が生きているかのように聞こえますが」
オーギュレイは笑った。
「いや、まったく。生物のように『生きている』とは言いませんが、少なくとも私の魔術式は状況に応じて自らを変えることができるのです。普通の魔術式ではこうはいかないでしょう。私の魔術式には主人はなく、術式は自らが望むまで消えることはないのです。これを、意志を持っているというほかになんというでしょう」
記者は息を飲んだ。
「そんなものは聞いたことがない。あなたが機械で魔術式を作ったことは確かに奇跡かもしれませんが、本当の奇跡は意志を持った魔術式がこの世に存在していることです。オーギュレイ氏、あなたは今世紀最大の天才だ」
観客たち、記者一同はオーギュレイに拍手した。オーギュレイはおおいに賞賛を受けたにもかかわらず、できるだけ静かに「ありがとうございます」と言った。人々は心から老人学者を賞賛し、拍手はなかなか鳴りやまなかった。拍手する観客の中に埋もれ、黙って話を聞いていたシュミレットが眉を寄せ、「まさか」と呟いた。
「先生?」
ルーネベリがシュミレットの方を向くと、拍手に紛れ、誰かの「あぁ、そんな!」という声が聞こえてきた。
人々はその声に誘導されるように、首をあちらこちらへと向けた。喜ぶべき時に相応しくない言葉が聞こえたのはどうしてなのか。少しの不安が過った。人々は拍手しながらも、目で声の発せられた場所を探していた。すると、そのうちの数人がある事に気づき、手をとめて叫んだ。
「信じられない、魔術式がなくなっている」
「えっ」
「なんだって?」
「さっきまであったのに、どうして?」
拍手が一斉にとまった。人の目という目が魔術式の入っていたガラス箱に向けられたが、どういうわけかガラスの中は空っぽになっていた。
オーギュレイはぎょっと目を見開き、振り返った。先ほどまでは魔術式がきらきらと美しく輝いていたというのに、術式は跡形もなくなってしまっていた。空のガラス箱を目にして、オーギュレイは「あぁ……、私の魔術式が!」と胸を押さえて喘ぐと、衝撃のあまり卒倒してしまった。人々はすぐに倒れたオーギュレイを後ろら抱き支え。ガラスの後ろに立っていた若い学者たちが、慌てて観客からオーギュレイを引き取り介抱にあたった。
「そのまま、そのまま!」
デューが新たな若い学者一人連れ、ステージ脇から走ってきた。
「誰ひとり動かないでください。おっと、そこは少しだけあけてください」
オーギュレイの周囲を少しだけ詰めてもらい、若い学者たちが介抱していたオーギュレイを見つけると、デューは膝をついてオーギュレイの腕を取り、脈を確かめ。口元に耳を近づけて呼吸などをてきぱきと確かめた。
「気を失っているだけか。それでも、高齢だから心配だな。念のため呼んでおくか。――君たち、一人でいいから治癒者を呼びに行きなさい。いなければ、奇術師でもかまわない」
若い学者一人が、我先にと走っていった。デューはそのままオーギュレイを若い学者たちに任せ、周囲をぱっと見渡した。人々は動揺した目でデューを見ていた。
デューはその場を離れようとする人影など見つけられず、特別怪しい人物もその場にはいないことがわかった。では、どうするべきかなと考えた。静まり返ったなか、記者が声をあげた。
「デュー・ドランス。これは大事件です!消えない魔術式が消えたんですから」
「えぇ、大事件。とても困った事件だ。このことをあなた方の誰かが不用意に記事にでもすれば、記者は金輪際、理の世界に一歩たりとも入れさせませんからね」
「それは酷いじゃありませんか。我々のせいではないのに」
「あなた方も観客の皆さまもこの大事件を目撃している。オーギュレイ氏に敬意を払うならば、事件解決のためにぜひともご協力ください」デューは観客に向かって叫んだ。「この中に学者はどれほどいるでしょうか?」
観客の中から二十人以上が手をあげた。
「ご意見をお聞かせください」とデューの申し出に、学者たちは一気に前へ前へと詰めかけ来た。観客たちは彼らに押され、文句が次々に飛びかった。最初にデューの元に辿り着いた若い眼鏡をかけた学者は空のガラス箱を見て言った。
「消えない魔術式が消えたとなると、考えられるのは……」
「製造機の欠陥かなにかですな」隣で老いた学者がそう言うと、火のついたように前にやってきた学者たちは自分たちの考えを言い出した。
「機械の破損によって術式を組み間違えたとなると、消える可能性はあるかもしれない。オーギュレイ氏のミスか」
「オーギュレイ氏がそんな初歩的な間違いをするでしょうか。私は摘出した魔力の方に問題があるのではないかと思います」
「一理ある話だ」
「魔力に型をつけてとどめておくのはやはり困難だったのか」
「だとすると、やはり消えてしまったのか。残念だ」
「あのオーギュレイ氏の魔術式があっけもなく消えたなんて思えませんな」
「いやいや、製造機や魔力のせいではないでしょう。私も消えてしまったとは思いません。むしろ、これは盗まれたのでは?」
「盗まれたと仰るが、これほどの人の目があるなかでどうやって盗んだと仰るのか」
「それを調べるのが、我々学者の役目ではないでしょうか。科学道具で過去再生をすれば、何があったのかが一目瞭然。僕の研究室にいくつか道具を置いてあるんですよ。取ってきましょうか?」
デューは最後に言葉を発した金髪の学者に言った。
「あなたは?」
「ユサ・ヤウェイです。第一室の時間学者ですが、ご心配なく。この事件は研究室を越えた大事ですからね。協力は惜しみません」
「ありがとう、ヤウェイ君」
「とんでもない、当然のことです」
ヤウェイは片方の肩をあげ頷いた。デューは言った。
「君の研究室に過去再現できる道具があるのだね。若い連中に取りに行かせましょう」
「そうしましょうと言いたいところですが、僕なしで取りに行かせるなんて、それはそれで困りますね。研究室には高価な機械が多くて、どれも非常に壊れやすい。ちょいとでも肩をぶつけられて壊されても困るので、僕も一緒に行きます。一人でなければ外にでも問題ないでしょう?」
デューはヤウェイを見て少し目を細めたが、すぐにさっぱりした顔で頷いた。
「緊急を要するときは例外も必要なときがある。外出を許可しましょう。ただし、くれぐれも若い連中から離れないようにお願いします」
「もちろんです、デュー。ありがとうございます」
ヤウェイは軽く会釈した。デューが新たに呼んだ学者数名がステージ脇までやってきて、ステージからおりてきたヤウェイと共に会場出口へと急いで走っていった。
デューは彼らを見送ると、オーギュレイを介抱していた若い学者たちに、「観客席へ連れて行きなさい」と指示した。若い学者はオーギュレイの老体を担ぎ、観客の間を通って客席まで運んだ。デューは観客たちにその場に座り、少し待機してもらうように言った。観客たちの半数はデューの指示に従ったが、何人か不満を思ったのかヤウェイのように外に出られるかどうかデューに質問していたが、デューは今しばらく我慢していただきたいと断った。
一度は拍手に包まれた会場の雰囲気は、魔術式の紛失によってどんよりとしていた。そして、そのどんよりとした空気をさらに酷くさせるかのように、ステージの端の方でまたもやざわざわと騒がしい声が聞こえてきた。
「キートリー?」
「違う」
「お前、キートリーじゃないか?」
「違う、人違いだ。やめてくれ」
「やっぱりそうだ。見間違えるはずがない。何年経とうと、その顔は忘れやしない。お前は理の世界の裏切り者、キートリーだ」
蔑んだ男の声が会場に響いた。