四章
第四章 知恵喰う者
ルーネベリの知人、神秘学者ルウエル・バリオーズの招待で、住宅区にある赤レンガの屋根を持つバリオーズ家に招かれたシュミレットとルーネベリは、突然の訪問にもかかわらず豪勢な夕飯を御馳走になった。
バリオーズが言ったとおり、バリオーズ夫人の料理は舌もとろけるほどの腕前で、メインディッシュにと出された香辛料の効いた鳥の炙り焼きを三人で五分もかけずにぺろりと平らげ、うっかり夫人の分がなくなってしまったほどだった。
バリオーズはおいしい食事の途中に、凛酒とよばれる辛口の蒸留酒を食卓に持ってきた。それには酒好きのルーネベリは大変大喜びした。凛酒はその名のとおり、ひと口でも口にすると、真冬のような底冷えする寒さを全身に感じる一風変わった酒だった。この酒に鳥料理は合うと、バリオーズは大きなコップに酒を注ぎ、シュミレットとルーネベリに振舞った。だが、ほとんど酒を飲んでいたのはルーネベリのほうで、まったく手をつけていないシュミレットの分まで飲み干すと、ルーネベリの良い飲みっぷりに気を良くしたバリオーズが別の酒瓶を持ってきた。
しばらくしてから、バリオーズ夫人は鳥の皮を揚げたつまみを持ってきて椅子に座った。夫は妻の料理に感謝しながら夫人のグラスに酒を注いだ。それから夫人と共に笑いにとんだ会話がつづいた。夫人は時折、気遣うように小食なシュミレットにつまみをすすめてみたが、シュミレットはもう腹も胸も一杯だと断るので、夫人も無理には勧めず、温かいお茶を傍に置いて大研究発表会の感想を聞いた。
実に楽しい食卓だった。料理が減ってくると、テーブルの上を見まわしたバリオーズがさっと立ちあがってキッチンに行き、あちこちからかき集めた野菜で炒め物をさっとこしらえて戻ってきて、シュミレットをのぞく三人は野菜炒めをつまみに酒を飲みつづけた。食後、お茶をリビングの赤いソファで寛ぎながら頂いていると、バリオーズがシュミレットのために、キッチンでカンフェナという瓜型の柑橘系の果物を細かく刻んで練り込んだケーキを切り分けていた夫人について語りだした。
黒目で金髪をうしろで束ねたバリオーズ夫人は夫よりもニ十歳ほど若く、まだ学生をしていること。七年前までは第九世界の商人をしていて、科学道具を仕入れに理の世界に来たときにバリオーズと知り合ったこと。夫と同じ神秘学者になり、将来、二人で同じ研究をすることを夢見ていることなど。二人の結婚までの出来事などを聞いて、バリオーズとバリオーズ夫人がいかにお互いを大切にし、刺激し合って生活しているのかが伺える話を聞いた。どこにでもありふれた典型的な学者の家庭だとバリオーズ自身は言うが、ルーネベリは学者の夫妻ほどそれぞれの研究に没頭するあまりにお互いの存在を忘れてしまい、あっけなく別れてしまう夫婦が多いと言っていた。その点、バリオーズ夫妻は絵に描いたように仲が良く、気のいい夫妻だった。
すっかりバリオーズ夫妻と打ち解けたシュミレットまで、今度、第三世界に来る機会があればアパートにご招待しようとなど言いだしたのだ。今までの賢者を知るルーネベリですら、その提案には心底驚いたほどだった。
バリオーズ夫妻はシュミレットの提案に大喜びして、「必ず連絡しますからね」とにこやかに言った。会話が弾むほど、四人の親交はますます深まるばかりだった。
その後、バリオーズが大研究発表会の行われているドームの裏手に隣接した宿を通話機で取ってくれたおかげで、後は宿に帰るだけとなったとき、バリオーズ夫人は宿に帰った後のために赤蜜ケーキの手土産まで持たしてくれた。至れり尽くせりのもてなしを受けた二人は、手ぶらできた手前、夫人に申し訳なくなってきたので何かお返ししようと言ったが。夫人はそんな必要はなく、家に訪ねて来てくれただけで嬉しかったと言ってきかなかった。
これほどまでに出来た人もそうそういないだろう。シュミレットは必ずまた連絡が欲しいと念を押して言った。今度は、ザーク・シュミレットとして会いたいとでも思ったのだろうか。賢者を夕飯に招待したともつい知れず、夫妻はシュミレットの言葉に何度も頷いた。
「えぇ、わかりました。こちらへも、またいつでもお越しください。今度は別のお酒やお茶を用意してお待ちしておりますからね」
手を振るバリオーズ夫妻に見送られ、小奇麗に包装されたケーキを片手に心地よくシュミレットとルーネベリは宿に向かった。夢のような時間はあっという間におわり、宿にチェックインしたのち、ベッドの上で寝転がったルーネベリは「バリオーズさんに会えてよかったでしょう」と賢者に言うと、賢者は言った。
「そうだね。とてもいい夫妻だったね。彼らが第三世界に来たら、君があちこち連れて行ってあげるといいよ。僕がしてあげられることなんて、ほとんどがないけれど。君なら楽しい場所事を沢山知っているからね」
「いいえ、先生。場所ではないんですよ。バリオーズさんたちは先生にまたお会いしたいだけなんですから。賑やかな場所じゃなくて、静かなアパートでも十分、彼らは喜んでくれますよ」
「そうだといいね」
「きっと、そうですよ」
ルーネベリは欠伸をした。
「今日はとても疲れましたね、明日、起きてから……」最後まで言い切る前にうつらうつら重い瞼が閉じてきて、ルーネベリはすぅと寝息をたてはじめた。シュミレットは毛布も掛けずに子供のように眠りこけてしまったルーネベリを見て、小さくクスクスと笑った。
助手は本当に忙しい人だ。一日のうちに何度もころころと表情を変え、沢山話をして、沢山笑い、なんの前触れもなく眠りこけてしまう。ルーネベリはとても人間味に溢れた人物だ。賢者であるシュミレットにたいしてこれほどまでに自然体で接してくる人物が数少なかっただけに数年前まで戸惑うことが多々あったが、今ではルーネベリを見ているだけで笑みがこぼれてくる。
彼の実直さは疲れきった賢者の心を癒していたのだ。シュミレット自身もそのことをわかっていたが、ルーネベリに伝えることはないだろう。口に出して言わずとも、きっと助手はわかっているのだ。だからこそ、なんの心配もなくベッドですやすやと眠っているのだ。
長く傍に置きすぎたかもしれないとシュミレットは思った。心を許すほどに、シュミレットはルーネベリという助手を、友人を手放したくないという気持ちがすくなからず心の片隅にあったのだ。けれど、彼の生きる時間とシュミレットの生きている時間の長さは違う。彼には学者としてこれからがあるのだ。彼がシュミレットの元を去ると言うならば、心よく送り出してあげようとひっそりと心に誓い、シュミレットはさっと風呂で汗を流し、宿に備え付けられていた青い寝間着に着替えてベッドに横になった。
暗く静かな宿の天井を見上げ、シュミレットは今日起った出来事を回想し、バリオーズが言っていたウェルテルという物質を思い出した。なにやら心にひっかかることでもあるのか、シュミレットは溜息を洩らして寝返りをうった。そして、シュミレットは別のことを思った。明日は、トディオ・スヴファベッツに会いに行こうと――。
翌朝、目を覚ましたシュミレットとルーネベリは身支度を済ませて、宿の食堂に出向いた。食堂にはすでに多くの宿泊客がつめかけており、入口の前に長い行列ができていた。数十分ほどその行列に並び、席につくも、慌ただしく食事をしなければならず、ゆっくり話もできないまま、二人は宿を後にした。
ルーネベリは今日も大研究発表会のある研究ドームに向かうつもりだったため、シュミレットが第七世界の管理者に会いに行くと聞いたとき、ひどく困った顔した。
「先生、スヴファベッツに会いにいくのは夜ではいけませんか?」
「いけないわけではないけれどね、僕は朝のうちに彼に会いたいんだ。だから、今日は君一人で会場に行くといいよ。きっと、君も知り合いにも沢山出会うだろうし、退屈などしないだろう」
「俺のことはかまわないんですが、先生にもぜひ今日も公演を聞いていただきたかったんです」
「スヴファベッツと会った後、会場に行くから。その時に公演を聞かせてもらうよ」
「そうですか、それなら無理には言えませんね。でも、会場は広いですから、俺の事を見つけられますか?」
「君ね、そんな心配まで必要ないよ。とにかく、君は大研究発表会を楽しんでくるといい」
「わかりました。スヴファベッツによろしくお伝えください。俺も彼には随分と会っていませんからね」
「わかった、伝えておくよ」
シュミレットとルーネベリは第七理数科世界大学の前の大通りで別れた。ルーネベリは大研究発表会会場のある北へ直進し、シュミレットは右手の道を歩きだした。
シュミレットが向かっている方角は、第二室「デュー」のある研究ドーム群がある方角だった。研究群のある東に向かい、住宅区を南に下るつもりなのだろう。しかし、理の世界の道は広く。スヴファベッツの住む家までは相当な距離があった。まともに行けば、半日はかかるのではないかと思われた。そこで、シュミレットは第二室の研究群の手前にあった小さな小屋に目を向けた。
理の世界の道には五百メートル間隔に建てられた小さな小屋があった。筒型の、オレンジ色のレンガ造りの緑色の屋根を持った小屋の透明な扉をあけると、そこには空間移動装置が置かれているのだ。
シュミレットは小屋に近づき、扉を開けて小屋の中を覗いてみた。すると、小屋の床には黒い時術の紋様が描かれていた。小屋の内側は鉄の筒になっており、小屋に入って正面の銀色の平らな壁のプレートに「第二研究所前」とかかれており、その下に行き先の書かれたボタンが沢山並んでいた。そのボタンの中に、「チャーグ・キーデレイカ行き」と書かれたものを見つけたシュミレットは小屋の中に入り、きちんと扉を閉めてからボタンを押した。
小屋の内壁に光が走り、くるくると地面から二つの時術式が湧いてきた。一つの時術式は地面にとどまり、もう一方の時術式が鉄の壁を伝って天井にのぼった。すぐに二つの術式の間に光の柱が生まれ、中にいる者を空間移動させた。
光の柱にいたシュミレットは一瞬のうちに小屋の中の風景がかわったことに気づいた。「第二研究所前」と書かれていたプレートが、「チャーグ・キーデレイカ前」となっていたのだ。目的地に着いたのだ。光の柱から手を伸ばして、扉を開き外に出ると、小屋の中の時術式が消え去った。
小屋の外に出ると、そこは森の中だった。風に揺れる優しい木々のそよぐ音が耳に心地が良かった。足元を見ると、四角形の薄茶色のレンガの敷き詰めた地面が小屋の背後へとつづいていた。シュミレットが小屋の裏手にまわると、目の前に透明な泉が広がっていた。水鏡となった泉はゆったりと流れる空を映し、泉の底からわずかに湧く水が泡をともなって光に反射しながらキラキラと水面にのぼっていった。水の世界を彷彿とさせる美しい光景だった。けれど、この泉はただの泉ではない。地底から湧き出てくる泡もまた、普通の泡ではなく。この泉はこの理の世界という球体が生み出した、紛れもない宝だった。
シュミレットは泉の中央を通る道をとおって、歩きだした。泉が囲うように、奥に一軒の家が建っていた。その家も他の家と同じようにレンガ造りで、青い屋根をもった立派なものだった。
あの家にスヴファベッツが一人で暮らしているのだ。もくもくと家からあがる煙は白く半透明で、空と溶け合うと、無色になって消え去った。家の中で何か特別なものでも燃やしているようだ。どうやら、家にいるようでほっとしたシュミレットは家の前まで歩くと、戸を三度叩いた。すぐに家の中から物が倒れる音が聞こえ、足音が聞こえ、戸口がぱっと開いた。
伸びっぱなしの青緑色の髪を後ろでひとつに括った男が顔を出した。男は額に蔦のような不思議な紋様の白銀の入れ墨をしており、額の中央に小さくて丸い白の宝石をつけていた。服装まで白く、長いローブを着ていた。男は言った。
「いらっしゃい。どちらさまですか、今とても立て込んでいるのですが……」
「ザーク・シュミレットです。都合の悪い時に来てしまったかな」
白濁した目がシュミレットを見下ろした。茶色の鬘をかぶり、ちょび髭をつけて変装した賢者を見ても、変な顔一つせずに男は言った。
「賢者さん、ようこそ。最後にお会いしてから十三年と二カ月、五数と六時間二十三分四十秒ぶりですね」
「十三年!それほど君に会っていなかったのだね。最後に会ったのはいつか、なかなか思い出せずにいたところなんだ」
「時間が経つのは早いものです。昨日のことのように賢者さんとお話ししたことを覚えているのに、実際は十三年も前の事なのですから。どうぞ、立っているのもお疲れになるでしょう。中へお入りください」スヴファベッツは戸を大きく開けて、シュミレットを招き入れようとした。シュミレットは言った。
「君は立て込んでいるところではないのですか?」
「遥々、第三世界から来られているのに、追い返す者がいるでしょうか。私の用事もなかなか終わりそうにもないので、賢者さんにお茶でもお出ししてから、もう一度やりなおします」
「なんだか悪いね」
スヴファベッツは首を横に振った。
「私の手がうまく動かないだけです。本当なら三時間も前におわっているはずの仕事なんですが、近頃、左手が疼いて、なかなか文字がうまく書けないんです。とりあえず、中でお話ししましょう」
シュミレットはスヴファベッツの家の中へと入った。
スヴファベッツの家の中はこじんまりとしたものだった。入ってすぐのところにレンガ造りの暖炉が置かれ。反対側の壁際にびっしりと詰められた本棚があり、部屋の真ん中に木製のテーブルが一つに椅子が四脚。キッチンと、ベッドルームとバスルームがそれぞれ奥にあるだけの家だった。不思議なものがあるといえば、家の中に無数に立てかけある透明な薄い板だろうか。テーブルの上には、板と共に、細いペンが立ててあった。暖炉の傍には半分に折られた板が立てかけてあり、先ほど家の外で見た煙はこの板を燃やしてできたものなのだろう。
シュミレットはテーブルに置かれた板をもちあげ、言った。
「君がうまく書けないと言っていたのは、目録の話だったのだね。てっきり、新しい本を書いているのだと思ったよ」
スヴファベッツは目を伏せ、落ち込んだ顔をした。
「本など書かなければよかったと今は後悔しているところです。実は、来月、目録を時の世界に送らなければいけないのですが、まだひとつも書けていないのです。文字がうまくまとまらなくて、何度も同じ文字ばかり書いてしまうんです。どうしたらいいのか……」
深く溜息をついたスヴファベッツはキッチンへ向かい、青いポットに水を注ぎ、火にかけた。シュミレットは椅子に座り、テーブルの上で手を組んで言った。
「君の本、読ませてもらったよ。すごくよく書けた本だった。君の文才には敬意を払うよ」
「ありがとうございます。でも、本分を忘れてあのような本を書いてしまったばかりに、まったく目録が書けなくなってしまったのです。私はとても怖いのです。もし、目録が書けなくなってしまったら、私はチャーグ・ギーデレイカを守れなくなってしまう。そうなってしまったら、私は泉を枯らしてしまうことになる。あの泉は知識の泉。私を通して、すべての知恵を世に広めるためにあるのです。私がその役目を怠れば、泉は知恵を掬うのやめてしまう。そして、やがて泉は枯れてしまう」
顔を両手で覆ったスヴファベッツはいまにも泣き出しそうなほど、ひどく落胆しきっていた。まだ起ってもいない事まで嘆き、本を書くなど余計な事をしたと自分自身を責め立て。どうして、これほどまで悲観的になっているのだろうとシュミレットは思った。誰でもうまくいかないときはあるだろうが、このスヴファベッツの落ち込みようはおかしいと感じた。シュミレットは言った。
「君の手がうまく動かなくなってしまったのは、なにも本を書いたからではないと思うのだけれどね」
「他に理由もでもあるというのですか?」
「君は近頃、時の置き場に行っているのかい」
スヴファベッツは首を横に振った。
「近頃は仕事が多くて、まったく行く暇など」
「君の不調はそのせいだね。君は泉を守る役目もあるかもしれないけれど、君は管理者なのだよ。時の石に触れでもすれば、君の気持ちもきっと晴れてくるよ」
「時の石に触れていなかったせいなのですか。ただそれだけのことで……」
「君たちには重要な事なんだ。君が、泉が枯れると言ったのは、このまま時の置き場に行かなければ、本当に泉が枯れてしまうからなのだろうね。ある種の警告かもしれない」
スヴファベッツは怯えた顔をした。「私が時の置き場に行かなかったというだけで、泉が枯れると言うのですか」
「チャーグ・キーデレイカ。君が本に書いた通り、あの知識の泉は『知恵喰う者』という意を持つ特別な泉。恐らく、あの泉は奇力に属するものなのだろうね。この世には管理者と、傍観者というものがいると聞く。君が管理者なら、あの泉はこの世界の傍観者となるわけだよ。君と大いに関係した存在なのだから、君の身に何かあれば、泉が枯れて当然だろう。今の君にはなにかしら、時の石の力が必要なのではないかな。不調だと感じるなら行くべきだよ。泉が枯れる前にね」




