二十章
第二十章 聞きたかった声
笑いながら緑の目の男は、黒い裾から両手首をだしてシュミレットに向けていた。左手首に赤紫の石のブレスレット、右手首には鋼のブレスレットを嵌め、肘の方にいくにつれて黒い紋様が見えていた。シュミレットは男の、その刺青に注視していた。
イモアは言った。
「すばらしい……」
イモアの後頭部に魔術式が一つ浮かんでいた。イモアが攻撃にでた瞬間、発動させて回避するつもりか、攻撃でもしかけるつもりだったのだろう。シュミレットがひっそりとしかけた魔術式にイモアは臆することはなかったが、軽んじてもいかなかった。
イモアは緑の目をシュミレットに向けた。
「賢者風情におさまっているとはもったいない。タニラを追い詰め、微力ながらも冰力を持ったサンジェルをいともたやすく打ち負かした。そのうえ、まだ戦えるとは末恐ろしい」
「僕も君が末恐ろしいよ。裏でこそこそ動きまわって、君はなんの犠牲も払っていない。見物していただけだろう。タニラ・シュベル、デルナ・コーベンを焚きつけたのは君だね――イモア」
「あなたに名前を知ってもらっているとは喜ばしい。タニラ・シュベルには手を貸しはしたが、デルナを焚きつけたのはほんの五十年前の話。一年前の事件には関与していない。デルナの話が出るとは心外だ。どこまで知っているのか、ぜひ聞かせてもらいたい」
「僕はなにも知らないさ。ただ、君と新世界主義に関わりがあるのかどうか知りたくてね、聞いてみただけなのだよ。桂林様に手出しさせたのは、やはり管理者の秘密を暴くためだったのだね」
「いかにも、そのとおり。管理者に手を出せばどうなるのか、デルナと可愛い教え子だったセロナエルを使って実験させた。終始、傍でみていたが、見事な実験だった。おかげで管理者に手を出すべきでないとわかった」
「君はこの世界に眠るアセス・ズゥーユを知っていたのだね。ニエルヌ・ズゥーユが管理者でないことも、すべて知っていた」
「奇術を扱えるものには知ることなどたやすいこと。一年前の、水の世界の事件を知ったとき、ついにデルナもアセス・ズゥーユの存在を知ったのだと思ったが、見当違いだったらしい。先手を打たれずにすんだ」
「やけにデルナ・コーベンを気にかけているようだね。桂林様を襲わせた件で、君は彼女に恨みをかったのかな」
イモアは声をだして笑い、両腕を下ろした。
「デルナは怖い女だ。恨みだけですめば、どんなにいいだろうか」
「君は他にも、なにか彼女にしたようだね。君の身体にある魔術式は、彼女から身を守るためのものなのかい」
シュミレットがローブに隠れたイモアの腕を見ていた。イモアもまた袖元を見下ろし、シュミレットが言った言葉の意味に気づいた。
「それは守りの術式。仕込むだけじゃなく、術式を身体に埋め込むなんて、よっぽど警戒しているのだね」
「刺青など、魔術師には珍しくもない」
「そうだね。でも、君の身体は異常なまでに魔術式で埋め尽くされている。デルナ・コーベンはそれほど君にとって恐ろしい存在なのかな」
イモアは無表情でシュミレットに言った。
「デルナは怖い女だ。しかし、世の中には、デルナよりもずっと恐ろしい人間がいる」
「恐ろしい人間?」
「ザーク・シュミレット。あなたには誰よりも私のことを理解して頂けそうだ」
「君と同類だと言いたいのかい」
「同類とは、恐れおおいこと言う。鬼才と呼ばれるだけの才能、その身体に秘められた価値は底知れない。アルケバルティアノの老いぼれどもは、あなたの本当の価値をわかっていない。年中、女王に扱使われて、わずかな利益しか得られないことは、あなたも不本意に思っているはずだ。まるで囚人だ。名誉ある一族に生まれたあなたにとって賢者の地位など屑に等しい。そうだろう?」
「君は僕に何を言わせたいんだ……」
「どうだろう、我々と一緒に来ないか?」
「なぜ、僕が君と行かなければいけないのだね」
「シュミレット家の血を廃れさせるのは惜しい。我々と来れば、生まれ持った能力を思う存分発揮できる。望むものを手に入れられる。あなたはもっと尊い存在のはずだ。賢者など、あなたにはふさわしくない」
シュミレットはイモアを見つめながら、頬に温かな風を感じた。今、なにかが変わった。ほんの一瞬、イモアとサンジェルの背後よりもずっと向こう側、闇夜の街に広がる青い光を見て、さりげなく腕を組んだ。そして、イモアに言った。
「……君は、はじめからミドールを追っていたのだね」
イモアは頷いた。
「グセリティア・ミドール。若い時分に女に魅入られ近づきはしたが、あの女はするりと私の手の内から逃げていった。奇力と時力を操り、姿をくらましつづけた。たった一つ、アセス・ズゥーユを通じて治療記録という不可解な記録を残しただけだ。奇術と時術に閉じ込められたアセスだけがあの女の行方を知っていた」
「だから君は管理者に興味を持ったのだね」
「興味というほどもないが、管理者に小細工をしてグセリティアの居場所を聞きだそうとした。セロナエルの件を見て、思いとどまったが――グセリティアは計算高い女だ。手が出せない人物に近づき、くだらない内容しか記されていない治療記録を残した」
「君はその治療記録を読んだのだね。それも、今日昨日の話ではないようだ」
「盗んだわけではないとだけ言っておこう。タニラ・シュベルを追っていると、治療記録の原本に行き着いた。なんの役にも立たないが、どちらにせよ、私はあれを読む定めだった」
「タニラを尾行していたのかい。君が手を貸したというのに?」
「あの男は治癒者の馬鹿げた言葉に惑わされていた。哀れな恋人に執着しつづけ、現実を受け入れられなかった。計画が失敗しないように見張っていたが、治療記録を読んで、尚いっそう、私にすがるしかないと思ったようだ」
シュミレットはため息をついた。
「そうかい。話を聞いていて、ようやくわかったよ」
「何のことだ?」
「ギルビィ・ベーグ、彼女は君に騙されて灼力に感染したのだね。君は哀れな恋人を一途に想う青年を欲していた。その理由は、ミドールの縁者が必ず、この治癒の世界に戻ると知っていた。僕の考えは間違っているかい?」
イモアは声も出さずに笑った。
「あながち間違いではないが、一つ抜けている。欲していたのはただの青年ではない。理性を失ったミドールの血を引く縁者。タニラ・シュベルはミドールの血を引く者だ」
「ミドール……」
「“楽園の使者が舞い降りて、死者の屍の上を歩く。この世の果てで眠りつく青き花々は、時の輪のなかに蘇り。満ちる世界を統べる力の輪、対なす輪の交わりとともに、金色の永久の紡ぎを得る”。
詩は完成している。遠来者ミドールの血は手に入れた。あとは、あなただけだ」
「果たして、そうかな?」
広場の隅にマシェットの時術式が辿り着いた。術式の光の柱からでてきた四人は目の前に広がる青の光景に驚いた。
「ど、どうなっているんですか」
「ねぇ、マシェット。ここは、治癒の世界よね?」
「そうです。治癒の世界、癒しの塔の前にある広間です」
ジェタノ・ビニエは引き寄せられるように青の光の方に歩きだした。
傍にいたルーネベリは青の光の中にザッコが立っているのを見とめたが、どうにも様子がおかしいので、ビニエを引きとめた。
「待ってください。マシェットさん、これが安息の時なら、今から何か起こるということですね」
「はい、そうです。必ずなにか起こります」
「あっ、見てください。あそこにズゥーユ様がいます」
ブリオが癒しの塔の入口に、ニエルヌ・ズゥーユ姿を見つけて叫んだ。メリアも、入口から呆然と立っているズゥーユを見つけた。
「本当だわ。あんなところで何をしているのかしら」
「ズゥーユさん……」
ルーネベリはズゥーユが見ている、目線の先を追った。
風にさえ吹かれていないのに、青の花びらがそよいでいた。
いや、それは花びらじゃない。花のように見えているだけで、あれは、内側から外へむかって青い光をだして燃えている。一体、なにが燃えているのかはよくわからないが、とても美しい。美しすぎて、涙がこみあげてくる。
この花だ。違いない。この花さえ全部摘んでしまえば、願いが叶うのだ。タニラは花に手を伸ばした。
「摘まないで」
タニラの手とまった。呼吸も、身体をすべての動きがとまった。
「摘まないで、タニラ」
ざわざわと鳥肌が立つ。誰だろう、心地のいい声だ。優しい声が後ろから聞こえてくる。タニラは振り返った。
青い花々の中に一人、幻想のように、光かがやく姿がタニラの目に映った。
「ギルビィ……」
白い衣を着た、茶色く長い髪の似合う、目元のかわいらしい女性は、とても悲しげな顔をしていた。記憶に埋もれかかった顔を、声を、鮮明に思い出す。過ぎ去った昔と、なにも変わっていない姿に、胸が締め付けられた。ギルビィ・ベーグは言った。
「あなたがくれたペンダントと同じ色」
青い花々を見て、愛しげにギルビィは「できることなら、ずっと見ていたい」と呟いた。
「ギルビィ、ギルビィ……」
追ってきた男の存在を忘れ、タニラ・シュベルはよたよたと足を動かした。嘘のようだ。望んでも叶わなかったことが現実に起こった。本当に叶ったのだ。あんまりにも嬉しすぎて、身体をがくがく震わせながら手を伸ばしていた。
「違うの、タニラ。違うの」
ギルビィは首を横に振った。
「わたしがここにいるのは感染した灼力と、サンジェルという翼人の持っていた冰力。そして、わたしのなかに眠るミドールの血のおかげなの。この花たちは、けして誰かを生き返させたりはしない。ここで咲いて、ここで枯れてゆくだけ。それだけなの」
両目から涙を流し、ギルビィ・ベーグは言った。
「あなたの忠告をよく聞くべきだったと、今では心から後悔している」
「ギルビィ……」
「わたしには銀の球体は夢だった。孤独だった子供の頃から、あの世界に行けるのなら、命を懸ける価値があるとずっと思っていた。でも、灼力に感染して、やっと気づいたの。わたしが命を懸けるべきだったのは、あなたとの未来だった」
目を閉じると、ギルビィ・ベーグの胸に内なる眼が浮きでてきた。内なる眼は青く、端の方が僅かに赤く燃えていた。感染した灼力が、肉体だけではなく、彼女の奇力を燃やし尽くそうとしているのだ。
ギルビィは言った。
「あの球体にわたしたちが行けないのは、はじめから、行く必要などなかったからよ。だけど、破壊しかない銀の球体にわたしは心を奪われて、大事なことがわからなかった。彼女がどんな思いで、この世界から去ったのか……」
身体の奥からタニラは深く息をはいた。長く喉に詰まっていたものがとれたかのように、安らかな息だった。タニラの胸にも現れた奇術式が、背に隠されていた魔術式を飲み込むように強く光り、全身から湯気のような煙があがっていた。
タニラの背の魔術式が少しずつ消え去るとともに、タニラは生気を取り戻していった。少しぼんやりと見えていたものが、くっきりと最愛の女性を映す。
タニラの瞳から涙が流れた。ギルビィ・ベークを抱きしめようと駆け寄よろうとしたが、ギルビィは首を横に振りつづけた。仮そめの姿を悟られまいと、恋人から遠ざかるように後ろにさがった。タニラが近づくたびに、ギルビィは遠ざかったのだ。その行動がかえって、タニラにギルビィに気づかせた。彼女は肉体のない幻影。タニラは知られたくないという恋人の心を察し、伸ばしていた腕を下ろして鼻を啜った。
「……ギルビィ、本当に君なんだね?」
ギルビィが頷くほどタニラの手が震えた。タニラは言った。
「君が僕の知っている君なら、これが例え夢だったとしてもいいんだ。むしろ、夢から覚めなければいいと願っている。人を殺しても、誰かの奇力を手に入れて君に命を吹き込むなんてこと、できなこともわかっていた。なにをしても、どんなにがんばっても、君が生き返らないこともわかっていた」
「タニラ」
「だけど、ギルビィ。この間違いが今みたいな奇跡を起こしてくれるんじゃないかと期待してしまったんだ。偶然でも、嘘でもいい。誰かに人殺しだと罵られたっていい。奇跡が起こって、君が引きとめにきてくれることを、せつに願ってしまったんだ」
幾度となく流れる涙を、タニラは鼻を啜るばかりで、拭きはしなかった。
「君はいつも残酷だった。いつも、自分本位で物事を決めてしまう。君のしたことが愚かな行いだろうが、そんなことは関係ないんだ。君に生きていてほしかった」
「ごめんなさい、タニラ。いくら望んでも、それはもうできない。残された時間はもうじき終るわ。今のわたしは……」
タニラは苦しそうに、小さく笑った。
「言わないでくれ。また、君は私を置き去りにする気なのか。君が数日で戻ると、笑って出かけていった日、君の帰りをいつまでも待っていた。なのに、戻ってきた君は、すでに意識もなく、眠ったままだった。ただいまの一つも言わなかった」
「ごめんなさい」
「ずっと、君の声を聞きたかった。君を抱きしめて、おかえりと言いたかった。それが、そんなに欲張りなことだったのか。ありふれた日常を二人で過ごして、ずっと愛しつづけたかった」
ギルビィはタニラに手を触れそうとしたが、それはできない。触れることができないのだと思いとどまり、腕を下ろした。
ギルビィは言った。
「愛していたのに、あなたの大切さに気づけなかった。もっと早く気づけば、こうはならなかったかもしれない」
タニラは首を横に振りつづけた。「ギルビィ、駄目だ。いかないでくれ。こんな別れは嫌だ。もっと、もっと、一緒に生きたい……」
「最後の我侭よ、タニラ。愛しているなら、見送ってほしい。別れも愛の一つだと思って、わたしの死をあなたには受け入れてほしい」
「どう受け入ればいいんだ。こんなにも悲しくて、死んでしまいそうなほど辛いのに。君を失うと思うと、今でも身体が震えて、気が狂いそうだ。君のいない世界は耐えられない。ギルビィ、頼むから一人にしないでくれ」
「あなたは受け入れなければいけない。あなたなら、わたしの心がわかるはずよ」
「君の心?」
「想いは死んでもつづくのよ。今なら、その言葉の意味がよくわかるはずよ」
涙を拭ったタニラは、ギルビィを見て緊張し、焦りに駆られた。
「き、君の身体が……」
目が乾くほど見開いた。ギルビィ・ベーグの身体が、手の先から、頭の先から透けはじめていたのだ。しかし、ギルビィは腕をあげて、消えようとする自身の身体を冷静に見つめていた。
彼女にとって残された時間は、ゆっくりと燃え尽きるようとしている炎のようだった。尽きる命に身を委ねれば委ねるほど、心が温かさで満ちてゆく。生きてきた間の記憶が、ギルビィ・ベーグという人間の内側から飛び出すように、溢れでていた。――楽しかった記憶、悲しかった記憶、腹のたった記憶。どれにも、いつからか、傍には恋人の姿があった。かけがえのない時間のすべてが、彼女の人生を無意味になどしなかった。意味を与えてくれたのだ。
青い炎が消え、赤の炎が内なる眼を燃やしていた。ギルビィは記憶にあるタニラ・シュベルを重ね合わせ、愛しげに微笑んだ。
「ギルビィ」
「タニラ。もう、残された時が終わるみたい……」
「待ってくれ、行かないでくれ。駄目だ、そんなこと」
大粒の涙のでるタニラの目を見つめ、ギルビィは言った。
「命って儚いというけれど、わたしには十分すぎるほど幸せな人生だった。沢山、愛してくれてありがとう。いつも、傍にいてくれてありがとう。ずっと幸せだった……」
ギルビィは安らかにタニラに微笑むと、はじけた花火のように跡形もなく消え去った。光の粒が空に散り、青い花々の上を駆けていった。この瞬間、ギルビィ・ベーグという人間が、この世から去ってしまった。そして、もう戻らない世界へと旅立ってしまった。一人残されたタニラ・シュベルは喉が破裂するほど、悲しみのままに泣き叫んだ。
次回、第一部第二巻「楽園の使者」は最終話!
ミドールは一体どうなるのか……。