十八章
第十八章 眠る血の記憶
金の槍を強く賢者に叩きつけた。呻きもせずに、黒いマントが揺らぎ、賢者は地面に伏した。マントは引き裂かれ、そこから賢者の白く小さな手が見えていた。気絶したのかもどうかもわからないが、どうにか致命傷を与えたようだ。
息を乱しながらサンジェルは羽をはばたかせ、後ろへ飛んだ。
「賢者め!サンジェルの力、思い知ったか」
精一杯叫び、強がってはみたものの、サンジェルの方も怪我を負っていた。剥きだしになった腕には無数のかすり傷ができ、ドレスのスカートが破れて穴だらけになっていた。魔術式を避け、幸い、大きな傷は負わなかったが、体力の消耗がひどかった。
金の槍をおろしたサンジェルの目の前で、倒したはず賢者がむくりと立ちあがった。フードで顔の見えない賢者の頭上に、魔術式が八つも現れた。まだ、戦う気なのだ。
その姿を見るだけでも疲れを感じる。倒しても倒しても、立ちあがってくる賢者にサンジェルは肝を冷やしていた。賢者とはいえ、これほどまでにやっかいな相手だとは思わなかったのだ。
槍を構え、再度、サンジェルは賢者の方へ突っ込んでいった。
ところが、当の賢者は魔術式を足場にし、姿を消して、高いところからサンジェルの様子を伺っていた。つまりは、サンジェルはシュミレットの媒体を相手に戦っていたのだが、サンジェルは一向にその事に気づく気配もなかった。
なんとも滑稽なことだ。金の槍の攻撃を受けたのは、マシェットにタニラを追わせる直前までのたった三回だけで、マシェットが空間移動したのを見送ると、賢者はさっそく、魔術式を巧みに扱い、媒体という身代わりを立てたのだ。それにまったく気づかないところをみると、サンジェルという翼人は魔術師との戦いに慣れているわけではなさそうだった。それに――と、シュミットはマント越しに持っていた、透明な一本の長い糸を見ていた。
この糸は、攻撃を受けた際、ごく間近にまで接近したときに、サンジェルの身体から飛び出ているのに気づき、素早く抜き取っておいたものだった。シュミレットは糸をよく見てみた。髪よりや糸よりも随分と細い糸だ。この糸を抜いても、サンジェルが痛がる様子もなかったのを見ると、体毛といった類のものではないようだ。
サンジェルの着ていた衣類のものとも、色や素材が違う。なんらかの物質なのだろうが、糸に触れている、ただの布であるマントに変化は起こらなかった。シュミレットの身体の方も、特に変わった様子もない。まさかとは思ったが、この糸には、他の物質に影響させるほどの力はないようだ。
シュミレットは糸をマントの下に着ていた、マントとそう見分けのつかない真っ黒な寝巻きのポケットに入れ、考えた。
この世界に他の翼人がいないとするなら、身体の弱っていたジェタノ・ビニエが冰力に感染したのは、あのサンジェルという翼人の持つ冰力が原因だろう。しかし、原因と結果の間には、かならず過程があるものだ。ズゥーユの部屋で、ジェタノ・ビニエを看たときはあまり言及しなかったが、冰力を持つ者を見てしまったという単純な理由で、ビニエが冰力に感染したというのは、あくまでも、原因と過程を述べただけにすぎない。
金の槍でシュミレットの媒体を突くサンジェルを見下ろし、シュミレットは思った。
確かに、冰力に感染することはあるが。冰力に感染するのは、翼人のもとから離れた羽根などを触れたときに起こるものだ。そもそも、翼人は冰力という力を完全に操り、支配していた。翼人の意に反する力の暴走はなかったのだ。そのことは、多くの書物にも、十三世界の人々に支配者の器というものを見せつけるのに好都合だったといわれている。
けれど、ひとたび支配者から離れた力は制御を失い、他に被害をもたらす物質となる。冰力に感染するのだ。
ジェタノ・ビニエはタニラ・シュベルが、翼人に連れ去られる場面を目撃した人物。ギルビィ・ベーグの部屋で、きっと、ビニエも気づかなかった何かが起こったのかもしれない。
奇力と魔力を操るタニラ・シュベル、灼力に感染したギルビィ・ベーグ、冰力を持つサンジェル。この三人の存在がもたらした出来事……。シュミレットはある事実にピンときて、頭の中であらゆることを想定して呟いた。
「彼女の正体には見当がついていたのだけどね……。もし、僕の考えているとおりなら、なんだか嫌な予感がするよ」
魔術式の上で、シュミレットは媒体相手に戦うサンジェルを見下ろし、どうしたものかと悩んだ。
病棟に囲まれた道に、タニラは立っていた。人の気配はないが、それでも、タニラには絶えず複数の心音が聞こえていた。タニラは一番奥の、病棟と病棟のわずかな隙間に目を向けた。暗く、その先の様子などまったく目には見えないが、その隙間の向こう側に、はっきりと誰か大勢の人間がいると感じ取っていた。
力のない者は、この能力からは逃れられない。彼らがどんなに遠くへ逃げたとしも、タニラの手の届く範囲にいるのだ。紫のピアスに触れ、近距離を空間移動する。そして、ちょうど、北へ逃げようとしていた人々の身体の一部に触れる。柔らかな身体が地面に倒れていった。
他者の胸に輝く内なる眼をぎゅっと掴み。まるでシーツを引っ張るかのようにたやすく、口元へと引き寄せた。生身の身体をもたない人の意識が、タニラの口の中へするすると流れ込んでゆき。忽然と、無意識の領域から、人の姿が消えた。魂と呼ぶべき意識を奪われた幾つもの身体は、先に亡くなった者たち同様に、生を失い、次第に冷たくなっていった。
一体、何人の人々を殺めてしまったのだろうか。ふと、タニラはそんなことを思った。暗闇の中に置き去りにされた人々を見つめ、足元を見下ろした。身体が四体、倒れている。周りにも身体が点々と、何人もの人間が倒れている。息をしていない最後の一人から手を放し、タニラは空を見上げた。
青い花は、人を殺せば殺すほど、見つけることができると主は言っていたが、いくら殺しても、殺しても。目に写るのは、亡くなった人間の姿だけだ。病棟だけだ。どこにも、青い花などない。見つけられない。どこにも見えない。まだ、足りないということなのだろうか。まだ、殺しつづけなければいけないのだろうか。
「青い花、青い花……」
花のこと考えるほど、あの黄金の瞳をもつ少年、片眼鏡の少年が目に浮かぶ。あの少年にだけ、特別な何かを感じた。普通の人間ではない。ただの魔術師ではない。何者なのかはわからないが、ひどく心が掻き乱される。探している青い花の在り処を知っているのだろうか。もう一度、会うべきなのだろうか。しかし、少年にもう一度でも会えば、タニラが死ぬ。根拠もなく、ただ必ず、死を迎えると、そう感じる――。なぜだろう。
「動くな!」
誰かが叫んだ。気がつくと、タニラの足元に時術式が浮かび、頭上にも術式が浮かんでいた。タニラが振り返ると、背後に時術師イスプルト・マシェットが立っていた。
マシェットはサイン入りの時術式という安全地帯に身を置き、そこから時術式を使って、タニラを捕まえたのだ。マシェットは警戒しているのか、時術式の上にまた術式を発動させて、タニラが外にでてこられないようにした。
タニラは執拗にかけられた時術式の中で、マシェットのシルエットのほうを見ていた。マシェットは叫んだ。
「いいか、そこから出ようと思うな。拘束する術式の中では、もっとも効力のつよい時術式、二重錠をかけている。錠の鍵は、術式をかけたこのイスプルト・マシェット自身!一つ、術式をやぶれば、即刻、第三世界の時の牢獄に送られる。まったく逃げ場のない時術式だ」
術式の中に捕らわれたタニラにマシェットは、その中では、けして攻撃はできないと、わざわざ説明した。捕まえた。逃げることができない。降参しろと、言っているのだ。だが、そんなマシェットの意に反して、タニラは術式の中で笑っていた。無意識の領域には、術式は届かない。現に、無意識下まで意識を沈めたタニラには、向かいに立つマシェットの姿を見ていた。
無意識下のマシェットは、現実世界と同じように、腕をタニラに無防備に伸ばしているが、マシェットにはこちらが見えているどころか、タニラがすぐ傍にいることさえ知らない。
直接、肉体のどこかに触れなければ、意識を吸い込み殺すことはできないが、奇術に疎いこの男ならば、一時でも騙すことができるだろう。タニラを捕らえた面倒な術式を解かせようと、タニラはそっと、無意識下にいるマシェットに近づき、胸の内なる眼に触れようとした。
タニラの目線が、内なる眼からマシェットの背後に移った。すっと、目の端に白い布が目に入った。たった今、マシェットの後ろ方を、静かに誰かが横切っていった。さっきまでいなかった、誰かがいる。マシェットを押しのけて、タニラは見た。
裾の長い衣を着た男の後ろ姿が、顔が、タニラとマシェットの方を気にかけるように少し後ろへ傾いた。けれど、男は振り返りらず、そのまま歩いていく。 黒くみえるだけで、実際の色まではわからなかったが、背まである髪の長い男だった。その静かな男は、丸めた右手に青い花を一輪持っていた。タニラは息を飲んだ。
男はゆっくりと足を進めて、無意識の領域から、より鮮明な現実世界の夜の街道を歩いていく。幻のように男の姿が白い光を放っている。
無意識下に意識を戻したタニラがマシェットの胸に手を置くと、タニラの足元と頭上から二重に重なった時術式が消えた。きっと、マシェットには、タニラが時術式の中から逃亡したように見えていたかもしれない。術式の中にいるマシェット本人は、空間移動をして、偽りのタニラを追いかけていった。
術式から解放されたタニラは、遠ざかってゆく男の後姿に向かって走りだした。
ちょうど、連れ去られたザッコについて話し込んでいた頃、座っていたソファが取り囲む、中央に置かれたただ一つの机の上に時術式が現れた。
ルーネベリや、メリア、ブリオはひどく慌てた。イモアが戻ってきたのだろうかと思ったのだ。けれど、案の定、光の柱の中から出てきたのは、イスプルト・マシェットだった。
「待て!」
マシェットはいきなり誰かにそう叫び、机の上から飛んだ。勢い余ってルーネベリの方へ突っ込んできたのだ。咄嗟に、ガラス板を持っていた右手をさらに右へと移動させたため、太く丈夫な男の足が無防備なルーネベリの腹に食い込み、腕がルーネベリの顔面に直撃した。激痛のあまり、片手で鼻を押えたルーネベリが床に転げた。
「マシェット!」
「逃がさないぞ、タニラ・シュベル」誰もいないベッドの方を見て、マシェットは時術式を七つも発動させた。どういうことだ。ルーネベリ、ブリオ、メリア、ビニエの四人のほかには誰もいないというのに、マシェットにはタニラの姿が見えているというのだろうか。メリアは叫んだ。
「駄目だわ、術式にかかわっているのよ。皆、マシェットを押えてちょうだい」
時術式を避けて、ブリオとビニエ。ガラス板を床に置き、痛む鼻を撫でながら起きあがったルーネベリの三人がかりでマシェットを取り押さえた。タニラに攻撃されていると勘違いして暴れるマシェットの手をメリアが無理やり掴んで、すぐに無意識下にいるマシェットの内なる眼に触れて、奇力を正常な状態へと戻した。
メリアは現実世界のマシェットの胸を叩いた。
「しっかりするのよ、マシェット」
叩かれたマシェットは咳き込み、前につんのめった。
「治りました?」と聞いたルーネベリに、メリアは「すっかりね」と答えた。その言葉の通り、マシェットの目から、にやりと笑うタニラの姿が煙のように消えて、さっそくマシェットは驚いた顔をした。
「タニラ・シュベル、どこにいった!」
ルーネベリもブリオも、ビニエも、マシェットを椅子に座らせると、ため息をついた。
「この部屋には、俺たちの他には誰もいませんよ」
「あなたは誰ですか?」マシェットはルーネベリにそう言い、隣に立っていたメリアに気づいて言った。「キアーズ長、どうしてここに?タニラ・シュベルはどこに……」
「マシェット、あなたは幻覚を見ていたのよ。あなた以外、誰もこの部屋に来ていないわ」
「変なことを仰らないでください。あの男は奇術と魔術、時術を使って。過去、現代、未来のあらゆる時代に逃げたんです。このマシェット、それを追いかけてここに」
「だから、あなたは幻覚を見ていたのよ。別の時代にはあなた一人で行ってきたの。タニラに奇術式をかけられて、あなたはずっとタニラの幻覚を追いかけていたのよ。わかるかしら?」
「奇術……」メリアの言っていることを理解したマシェットは、ソファの上でがっくりと肩をおとした。これで二度目だ。タニラの奇術式に翻弄されてしまったと、マシェットはショックを受けていた。
ルーネベリは言った。
「マシェットさんと言いましたね。たしか、先生がタニラ・シュベルを食い止めていると聞いたのですが。どうして、あなたがタニラを追いかけているんですか?」
「先生?」
「マシェット、ザーク・シュミレット様のことよ。この方、ルーネベリ・L・パブロさんはシュミレット様の助手なの」とメリア。マシェットは立ちあがって言った。
「そうでしたか。仰る通り、シュミレット様はタニラを追い詰めていました。あと少しのところで捕まえることができたのですが、急に翼人が現れて、タニラを逃がしたんです。そして、シュミレット様はこのマシェットにタニラを追うように指示なさって、翼人のいる、その場に残られたのですが……。結局、このざまです」
「翼人?」
マシェットはサンジェルの容姿を丁寧に説明した。すると、ビニエは何度も頷いた。「服装などは違いますが、恐らく僕が見たのと同じ翼人です。目の色が左右、違うんです」
「マシェットさん。その他の人物、緑の目の男、あるいはピンク色の目をしたザッコを見ませんでしたか?」
「見ていないと思いますが。何か?」
メリアはザッコとイモアの話をざっと説明して言った。「――それで、私たち、ビニエの話を聞いて話し合っていたところなのよ」
「ビニエさんの話は、何の話ですか?」
「ミドールの話です。これを」と、ビニエは床に置かれたガラス板を拾い、マシェットに手渡した。
「これはミドールの最後の言葉です。時術師のあなたには酷なことですが、ぜひ読んでもらいたいんです」
差し出されたガラス板を受け取り、マシェットは「ミドールの……」と呟いた。ルーネベリは言った。
「話を聞くかぎり、ザッコはミドールの血縁者。そうとしか考えられません。ですが、問題は、イモアがミドールの何を望んでいるかということです。ミドールの力といっても、ザッコは病人。彼らの欲する力に、ザッコの身体が耐えうるかどうか」
マシェットは詩を読まず、ガラス板を床に手落とした。ガラス板は床の上に粉々に砕け散ち、ただのガラスの破片となった。
「マシェットさん」
「やだわ、一つしかないのに!」
その場にいた全員が叫んだが、五人はすでにマシェットが起動させたサイン付きの巨大な時術式の中に立っていた。
術式に気づいたルーネベリは言った。
「なぜ、時術式を?マシェットさん、説明してください」
目を閉じたマシェットは言った。
「この詩がでてきた以上、あなた方には覚悟していただきます」
三百六十度、頑丈な壁に阻まれた「中」に閉じ込められていた。壁を叩き疲れて、当初からあった身体の気だるさと眠気が増していた。けれど、今、眠ってしまえば、何をされるかもわからない。
気が休まらないまま、どれぐらい時間が過ぎたのか、時間の感覚もなく。壁にもたれて、ザッコは最後に見た光景を、脳裏に浮かべた。シュミレットの病室で、ブリオが熱心にノートに文字を書き込んでいる姿が見える。ブリオという青年はいつか、ケフィタ・シャイヨという今はまだ若い治癒者と結婚するのだ。ブリオの子供が、緑の芝生の上をはいはいして歩く姿が見える。愛らしい子供は二人、ケフィタに似た女の子だ。まるで、ブリオ・ボンテの人生を見てきたかのような映像が過ぎ去り。次に、シュミレットの部屋で見た、光の先に立っていた人物が浮かんだ。あの人物は、ザッコの方を向いていた。古い創造の言葉を呟きながら、あの人物はザッコに言った。
《愛している》
腫れた目から血が一滴、頬を伝って地面に落ちた。水面のように、時術式に波紋が広がった。
ギルビィ・ベーグを見ていたデムが振り返った。
寒い暑い、暑い寒い……。
せめて、どっちかにしてほしいこの頃。
小説の方は、あと三章で完結です。