十三章
第十三章 時術師の嘘
《時術師に聞いたのですか?》
《そうです。確かに、千年前だと》
ズゥーユは掠れ笑いを漏らした。
《リゼルが生きたのは五千年前のことです。嘘だと思われるのなら、少し、時間がかかってしまいますが、証拠をお見せすることもできます。私、ニエルヌ・ズゥーユは偽りは申しません》
《あなたを疑ってはいませんが、ですが、そんなことあるはずが――。時術師の賢者に師事している人物に聞いたのですよ》
《ルーネベリさん。時術師は、千年後に生きるだろう人々にも、同じ話をするでしょう。彼らは知っていても、リゼルの生きた時代を明確に特定させてはならないのです。彼らに規定が多いのは、ご存知ですか》
《規定の話は聞きましたが、記録に関する規定だとしか》
《バレンシスの残した日記も記録ではないですか?》
ルーネベリは考え、すぐに頷いた。
《確かにそうですね》
《バレンシスの話をなさったのは、良心的な方だったのでしょう。年代さえ言わなければ、あなたに教えても問題ないととられたのかもしれませんね》
《それじゃあ、あなたは時術師がリゼルについて、リゼルに関わることすべてを隠していると仰っているのですか。奇術師と時術師の間に……》
《わだかまりや、揉め事など一切ございません。彼らは、彼らの法に基づいて、言動を慎んでいるのでしょう。私も、些細なきっかけがなければ、知ることはありませんでした。リゼルについて知りたがる人間など、現代では愛好家や研究家をのぞけば、ほとんどいませんからね。それほど、リゼルという女性は、我々に馴染みがないのです》
《どこの世界もそうかわりはありませんね。理の世界ではリゼルの話などすると、非現実的だと笑い物になりますよ。ところで、ブラノ・デュッシはどうなるのですか。彼は、バレンシスの生きた百年後に生きた人物だと聞きました》
《デュッシですか。彼は、今からちょうど百年前に生きた人物です。デュッシのことはビニエが詳しいでしょう。なんといっても、彼はデュッシの曾孫にあたりますから》
ズゥーユの言った意外な言葉に、ルーネベリは驚きをかくせずに言った。
《ブラノ・デュッシとジェタノ・ビニエには繋がりがあるんですか!――でも、どうしてあの男は、逃げたのでしょう》
《逃げた?ビニエはあなたから逃げたのですか》
ルーネベリは言った。
《ある依頼書と、先生から受け取った紙切れを見せた途端、怯えて逃げたんですよ。何かを知っていて、逃げたとしか思えなくて》
《シュミレット様から渡されたのは、ギルビィ・ベーグの部屋にあったインスラットの文字ですか》
《インスラット?》
《時術と奇術を意味する言葉です。この説明をするのは、二度目ですね》
《なるほど、時術と奇術ですか。その文字に、他に意味はありませんか?》
《奇語として使うこと以外で、他については検討もつきませんが……。シュミレット様は、何かご存知だったようです。奇術師はおもしろいことをするなどと仰っていました》
《先生が?》
賢者ザーク・シュミレットがこの文字を知っているのか。ルーネベリは、頭を掻いた。賢者様は何かに勘付いているに違いない。ギルビィ・ベーグの部屋にあった奇語、インスラットが指示すものを――
《ジェタノ・ビニエはこの人物を、アセス・ズゥーユを知っていますか?》
《下層の領域に来ることのできる者ならば、誰でも知ることができたでしょう》
《誰でも?》
《この領域は混沌とし、混沌するがゆえに、意識を保つものの目には、現実と非現実が相まってうつるのです。存在理由も含め、すべてが理解に苦しむ領域だといわれています。
ただ、アセス様は治癒の世界の管理者。意識上、特別、感じることはありませんが、一つの世界に存在する者は、どの世界へゆこうとも、万物は共通して、無意識の領域で管理者の奇力と結びついて生きているのです。
あなたが窓の外に見ていらっしゃるアセス様の身体は、ここではない、まったく別の場所で、今も尚、眠りつづけていらっしゃいますが、現実世界では、けしてお目にかかることがなくとも、結びついた無意識の領域ではお会いできるのです。
ですので、ビニエが知っていても、私も驚きはしません》
《そうですか。それなら、ビニエの行動は、管理者とはまったく無関係だったということになりますね……。今まで、無意識下ではなくて、現実に、実際にアセス・ズゥーユに会われたことのある人物はいませんか?》
《私が知っているのは一人だけ、一人だけいます》
《誰ですか?》
《奇術師グセティです。あなたもご存知の、治療記録に載せられているアセス・グセティの、グセティという名は彼女のものです》
《治療記録は、二人の人物が書いたということですか?》
《彼女は永遠の時の中で眠るアセス様と会話のできた唯一無二の人物なのです。治療記録も、アセス本人から聞いて書き記したもので、アセスとグセティはあきらかなに面識はあったのです。
しかし、彼女はもう、何十年も前に亡くなってしまいましたが……》
《亡くなられたんですか。それじゃあ、もう、管理者アセス・ズゥーユの居場所は誰にもわからないんですか》
ズゥーユは首を横に振った。
《いいえ、アセス様の居場所はキアーズ長が教えてくれました。我々の立ち入れない、時の置き場にいるそうです……》
《メリア・キアーズさんが?》
《奇術師は誰でも、奇力を通して、他者の奇力に語りかけることはできますが、居場所の特定となると、少し時間がかかってしまうのです。そのところ、キアーズ長は、我々の考えられない速度で奇力間を通り抜け、瞬時に人物の居場所を突きとめるのが上手なのです。賢者だった、彼女の祖父様の能力を受け継いでいるようですね》
《先生が仰っていた方ですね。私生活でも先生と交友があったとか》
ズゥーユは頷いた。
《そのようですね。ルーネベリさん、あなたの奇力に呼びかけることができたのも、キアーズ長の特技があったからこそのことです。彼女が、あなたが無意識の領域に到ったと知らせてくれたからこそ、私はあなたの元に来られたのです》
《あぁ。だから、あなたはここに……》
《そうです。あなたのいる場所に駆けつけるよりも、奇力に呼びかるのは簡単ですからね》
ルーネベリはゆっくりと頷き、そういう経緯があったのかと納得した。奇術師というのは、便利なものだと感心し。そして、同時に、談話室の廊下で積み重なった奇術師たちの遺体が思い浮かんだ。
ルーネベリは言った。
《奇術師が亡くなったのはご存知ですか?》
《えぇ、連絡が取れなくなった者が数人いましたから……。悲しいことです。彼らのためにも早く事件を解決しなければいけません》
目を閉じて、ズゥーユは悲しみを堪えようとしていた。
《ズゥーユさん、俺はビニエの自宅の向かいにある病棟で――正確にいえば、病棟二階の廊下で、亡くなった奇術師たちを見つけました。彼らは廊下で寄せ集まったように集団で亡くなっていました。
その姿を見たとき、おそらく、彼らは何かを守って亡くなっただろうと俺は考えました。彼らを殺害した男が、彼らの遺体をあえて纏めて置く必要はないでしょうからね》
《えぇ》
《それで、俺は彼らの遺体の先にあった部屋に向かったんです。向かった先にあったのは談話室でした。本棚には張子の本が並び、他には机と椅子が数脚あったぐらいです。他に何もありませんでした。奇術師が何かを守ったというのは、思い違いだったのかと思いました。しかし、その後、俺はどうも眠り込んでしまったようで、さきほど言ったように、夢をみていました。
俺が治療記録を読んだのは、その夢のなかでの出来事です。普通なら、夢の内容を信じる者はいません。実際の出来事だとは皆、思わないからです。でも、あなたは俺が治療記録を読んだことをあっさりと信じてくださいました。治療記録というものが実際する記録で、あれが正夢だったということになりますよね》
ズゥーユは小さく頷いた。
《その通りです、ルーネベリさん。私も先ほど言いましたが、治療記録はグセティが残した実在する記録です。あなたが見たのは正夢です》
《では、やはり、談話室の中では、無意識の領域にいなければ、記録は読めないということなんですね》
《そうです、そうです、ルーネベリさん》
《それでは、あの黒いローブの男は、談話室で何か記録を読んだんでしょうか。談話室に特別貴重な記録や、何かはありませんでしたか?》
《記録はすべて貴重なものですが、奇術師たちが守るとすれば、おそらく、灼力感染について書かれた、あなたも読まれた治療記録かもしれません。あれは、この世に二つと存在しませんから、奇術師たちは命よりも大事にしているものです。けれど、タニラ・シュベルが読む理由がわかりません。あの治療記録には、完治する方法など書かれてはいないのです……》
《タニラ?》
ズゥーユはルーネベリに、黒いローブ姿の男の正体と、シュミレットの身に起きた出来事の詳細に話した。
ルーネベリは口をぽっかりあけた。
《先生の傷はそんなに酷かったんですか。あまりに痛がっているようには見えませんでしたよ》
《我慢なさっていたのかもしれません。時術師マシュットのおかげで完治しましたが、シュミレット様は現在、タニラ・シュベルを食い止めていらっしゃいます。彼が捕まるのは時間の問題かもしれません》ズゥーユは急に手を叩いて、言った。《そうそう、ルーネベリさん。キアーズ長から伝言を託っています》
《伝言ですか?》
《はい。急を要する話があるそうで、目が覚めたら、シュミレット様の病室に向かって欲しいそうです》
《先生の部屋ならブリオが……。わかりました、色々とありがとうございました》
《いいえ。私も用事が済み次第、そちらに向かいます。とにかく、ルーネベリさん。奇力の状態でも、外の世界では時が流れています。無意識の領域、奇力の状態から目覚めてください》
《はぁ、ぜひとも、そうしたいんですが。どうすればいいでしょうか?》
首を掻いて、ルーネベリは言った。
《俺の中では、さっきからずっと目覚めているつもりなんですが》
まったく寝ている気がしないと言うと、ルーネベリの胸にズゥーユは手をあてた。奇力の領域にいるというのに、ルーネベリの身体に内なる眼がくっきりと現れて光りはじめた。ズゥーユは目を細めてじっとルーネベリの内なる眼を見て、言った。
《あなたが夢の中からこの下層の領域まで落ちてこられたのは、身体的疲労が限界に達したことが原因だったようですね》
《疲労ですか?》
《疲れを甘く見ておられたのではないですか。奇力の本能として、奇力が自らその内部へ入り込むとき、奇力の核である内なる眼に近づくほど、死に近づくか、あるいは、より生に近づくのです。あなたの場合は後者、奇力が自己回復しようとする働きの延長でしょうから、奇力を回復させれば、目が覚めます》
ズゥーユがそう言うと、ルーネベリの胸にあった内なる眼がさっと消え去った。光を失ったかのように、あっという間に、ルーネベリの身体が透けてゆき、やがて、黒の世界に溶けていった。叫ぶ暇もなかった。まるで手品のように、ルーネベリの目が開いた。
目覚めたのだ。談話室の床に寝ていたルーネベリは、何日も休養した後のように、軽い身体を起こした。
「すごい、疲労感を感じない……」
《無事、目覚めたようですね》
どこからか聞こえるズゥーユの声に、ルーネベリは「おかげさまで」と呟いた。
《そうですか。それでは、後ほど》
ズゥーユの声が、ルーネベリの身体の、奥の方へと消え去っていった。
暗闇に紛れ、病棟の一階から灰色の煙があがった。ぼろぼろと破片が地面に転がり落ち、埃が舞っていた。そんな中、瓦礫を踏みしめる音が聞こえてきた。
息を荒くして、瓦礫に埋もれたタニラ・シュベルが立ちあがったのだ。顎に血が流れていた。術式を食らい、胃から口へ、口から外へ流れ出たものだった。掠り傷でさえ痛みは感じないものの、身体の内側に何か違和感があった。
タニラは血を拭った。シュミレットは涼しげな顔で魔術式を四つほど作り、空中を漂わせた。
「大人しく捕まりなさい。どうみても、君の方が不利なのがわからないのかい」
タニラは苦しく息を吐いた。シュミレットの言うように、タニラは追い詰められていた。
二対一ではなかったものの、時術師イスプルト・マシェットの参戦を拒んだシュミレットは、ことごとく魔術式でタニラの攻撃をかわしつづけ。ついに、タニラに向かって、突風の連続攻撃を仕掛けたのだ。
回避する間もなく、吹き飛ばされ、近くの病棟に強風とともに突っ込み、身体を強打する。タニラが応戦のため、魔術式を起動しようとすると、その前にシュミレットが攻撃に踏み切る。隙はなく、動きを封じられては、タニラにはなす術がなかった。
シュミレットの方は依然、余裕のある微笑みをたたえ、ゆっくりとこちらに歩いてくるだけだった。後退しつづけたタニラは、何度も奇術式を発動させ、シュミレットの足をとめようとした。だが、近くにいるマシェットには効いたというのに、シュミレットには奇術式が効かなかった。タニラが作る奇術式は、シュミレットの胸に浮かぶと、すぐにパリンと割れてしまう。シュミレットは奇術さえもかわしてしまうのだ。
病棟を破壊することもままならず、これ以上、後ろへ後退する逃げ場がなかった。宙に浮いていた魔術式が、指一つで回転しだした。シュミレットはちょうど、四つの術式に囲まれて立っていた。
傍で見ていたマシュットは慄然とした。
「これが、賢者の力……」
フードからしきりに見える、紫のアミュレットのついた片眼鏡。幼い容姿に似つかわしくないほど、卓越した術式の操作術。第三世界統治女王に仕える三大賢者の一人、ザーク・シュミレット。実質、魔術師の頂点に君臨する男の実力はまだこんなものではないのだろうと思うと、別分野の賢者だが、尊敬の念さえ感じる。マシェットはシュミレットの姿に見入っていた。
シュミレットの魔術式はタニラ・シュベルの行動を監視するかのように、回転しながら、じっとそこにありつづけた。どうやっても、この少年には敵わない。
タニラ・シュベルは主であるイモアの言った言葉を思い出した。敵わない相手はサンジェルに任せろと言った。タニラには翼人がいる。「目的だけを果たせ」繰り返し、イモアの言葉を呟いたタニラは、耳に手をやり、時術式を発動させて飛び去った。
シュミレットはマシェットを振り返った。
「君、追跡できるかい?」
「はい、もちろんです」
北東七百八棟の十二号室。シュミレットの病室で、治癒者ブリオ・ボンテはソファに座り、机に本とノートを開き、ぶつぶつと独り言をいいながら、ペンを手に握り、なにやらせっせとノートに書き込んでいた。隣の病室にも下の病室も、北東七百八棟の十二号室を除けば、病棟には誰も人がいないのだろう。寂しいほど音がなく。ブリが走らせるペンが、孤独にガリガリと鳴っていた。
書きはじめて、もう二十分か――三十分か。爆発のあった病室に行ったルーネベリの帰りが遅いことに気づいたブリオは心配に思い、顔をあげた。
「――うわっ、びっくりした」
ブリオは飛びあがった。心臓まで、一緒に弾んだほどだ。
目の前に顔があったのだ。気配もなく部屋に入ってきて、ブリオに無許可でノートを除きこんでいる。顔が言った。
「幾夜の幻?」
「もっ、もう、ザッコさん。声ぐらいかけてください。心臓に悪いですよ……」
更新と。
今回の章書いていて、うっかり誤字を発見。
「首を掻く」が「首を描く」に!!
掻く、描く。一応、同じ読み……