十二章
第十二章 探すべき記録
先ほど通った廊下の悲惨さにくらべ、白い廊下には瓦礫すら届いていなかった。異様なまでにも、綺麗なものだった。ルーネベリは歩き、ゆっくりと銀色の扉の前に立った。手に汗をかいていた。扉の鍵穴は捩れ、壊れていた。黒いローブの男が壊したのかもれない。
瞼を閉じ、ルーネベリは昂る気持ちを静めようとした。まるで、開けてはいけない扉の前に立っている気持ちだった。九人の奇術師はこの部屋の中にある、何かを守って死んでいったのだ……。
ルーネベリは汗をズボンで拭き、銀色の扉のドアノブに手を置き、まわして扉を開いた。
部屋の奥から風が吹いてきた。灯りもついていない暗い部屋の中、長いカーテンがゆらゆら揺れていた。部屋の窓の開いていたのだ。ページを開いたまま置かれていた本も、書類の束も、ぱらぱらと捲れ動いていた。広い部屋だった。
「この部屋は何だ……」
ルーネベリは、部屋の灯りをつけた。壁には本棚が並び、机が三つ。椅子が机の周りに十席、無造作に置かれていた。
一見、なんの変哲もない部屋だった。けれど、部屋に入り、本棚に収められた本の背に書かれた奇術にまつわる書名を読んでいくと、そこが談話室のようなものだとわかった。広い部屋に置かれた机と椅子は、誰か大勢と談話をするために置かれ。壁の本棚は、談話に必要な資料が備えられているのだ。
窓際に立ったルーネベリは、窓枠に手を置いて外を見下ろした。病棟の小さな灯りではよく見えなかったが、通りの一部だけ、とくに丸く黒くものが見えていた。位置からして、地下に通じる穴なのだろう。西南区四十五棟、ビエニの自宅のある病棟の、ちょうど反対側から街道を見ているようだ。
不意に、ルーネベリは思った。さっき、この窓は開いていたのだろうか――。爆発の後、半壊した二階の部分に窓が開いているような様子はなかったはずだ。そもそも、窓があったことに気がつかないほど、印象にすらのこってはいない。ルーネベリがいくら記憶に自信があったとしても、人間だ、記憶が正しいとはかぎらない。しかし、仮に窓が開いていたのなら、病棟に人が残っていると思い、すぐにでも、探しにいっていたのではないだろうか。治癒者のブリオだって、きっと、そうしただろう。
ルーネベリは呟いた。
「俺たちが去った後に誰か来たのかもしれない」
ブリオと共に黒いローブ姿の男に追いかけられ、東南エリアに逃れ。また、ルーネベリが戻ってくるまでの数十分の間に、別の誰かがこの場所に来たのではないか。
不安に駆られ、ルーネベリは部屋を見渡した。机の上には、書類の束、開いたままの本。整理された本棚。部屋が荒らされた痕跡すら、なにもなかった。なにもない。
「……いや、何かあるはずだ」
本棚に行き、本の間に何か隠されていないだろうかと、一冊引っ張りだしてみると、軽々と本が抜けた。分厚いはずの本が、重さの微塵も感じなかった。ルーネベリは、本を傾けた。ページの擦れる音も、物が鳴る音も聞こえない。手に持っていたのは、中身が空洞になった張子の本だった。
ルーネベリは思いきり棚に並ぶ本すべてを、床へ滑り落とした。カラカラと、張子の本が床に転がったが、どの本もページが開くことはなく。かといって、特別、おかしな音を鳴らす本もなかった。
「なんで、こんなものを本棚に?」
本棚でないなら、どこにあるというのだろうか。命を懸けるほど大事なものを、奇術師が机の上にポンと置いておくとは思えない。部屋が荒らされていないのなら、あらかじめ、ある場所を知っていたのか。別に協力者がいて、持ち去った。それなら、話はわかるが、窓をあけていった理由がわからなかった。本棚の、張子の本の意味すらわからない。
なにもかもが、あまりにも不可解だ。
ルーネベリは俯き、椅子に腰かけた。赤い髪を掻き毟り、纏まらない思考に腹を立てていた。まただ、また振り出しに戻された。奇術師の遺体を見たときから、ここには何かあると確信したのは間違いだったのだろうか。身体の底から、ため息がでた。
精神的にも、肉体的にもルーネベリの感じる疲労感は高まっていた。一昨日から一睡もしていない。まともな食事も口にしていない。期待を裏切られ、麻痺していた身体的疲労がどっとルーネベリを襲った。吐き気がして、思考がぴたりとやんだのだ。
気分が悪い。そう思い、口に手をあてる間もなく、椅子に座っていた身体が傾き、床へと倒れ落ちた。
疲労困憊、あらゆる感覚もなくなり、頭は深く熟睡しきっていたはずだった。けれど、深い眠りの合間に、ルーネベリは夢を見ていた。
無限の創造の中、ルーネベリは意識を失った場所と同じ、談話室のような部屋に立っていた。楽しい夢でも見ればいいものを、なぜ、こんな場所なのだろうと思うほど、本や書類の置かれた同じ机が三つ、椅子が十席。壁際に本棚が並んでいた。
ルーネベリは本棚の前に立った。本棚に並んでいるのは、どうせ張子の本だ。燃やされて困るような資料は、どこにもない。ルーネベリは現実では発散できない怒りを、本にぶつけるように、乱暴に黒い本を取りだし、床に叩きつけようとした。すると、本を手にした途端に、ぱっと本が開き、ルーネベリに訴えかけるように、文字を示した。
驚くも束の間、ルーネベリは文字を読んでいた。
誰が書いた文字なのだろう。ルーネベリは食い入るように、次に目にした文字を追った。
ルーネベリは、ページを五ページほど捲った。
《そうか。あの依頼書には、灼力感染患者の第四期について書かれていなかった。あの文章を書いた人物は、第三期から死に至るまでの過程を知らなかったのか。第三期に到った後、そのまま死に直結すると考えていたなら……、それなら、依頼書を書いたのは奇術師じゃない》
本を閉じて、ルーネベリは黒い表紙に金色のインクで綴られた書名を読んだ。
《治療記録 アセス・グセティ著》
この本の著者は、誰なのだろう。現存する人物なのだろうか。本から目を離し、自身が立っている場所を注意深く、見渡した。ルーネベリが起きていた時と、この場所は、本当に同じ場所なのだろうか。同じ家具が、同じ様子で置かれ。手も足も自由に動かせ、心は軽い。
《前にも、こういうことがあったな》
これがただの夢ではないと、ルーネベリは悟った。一年前、「時の影」と名乗った少年僧と交わした、奇力を通しての会話。その時と近い状態にあるのではないかという憶測が浮かんだ。身体は眠り、ただ奇力だけの状態で動いている状態――もし、ルーネベリの憶測が正しければ、この場所こそが、奇術師たちが守ろうとしていた部屋なのではないだろうか。
そう考えると、黒いローブの男は奇術を扱えることになる。奇術師たちは、そのことを知って、男からこの場所を守ろうとしていたのかもしれない。誰かが手引きしたのではないのだ。
ルーネベリは持っていた本の表紙を見下ろした。書名の下のほう、黒い表紙に人の目の形をした膨らみができていた。
《奇術式の術式にある眼も、人の目の形をしている。奇術式に縛られた眼……》
膨らみを指でなぞりながら、ルーネベリは思った。この部屋に来ても、ルーネベリにできることはない。本を本棚から全部、引き出したところで、奇術を扱えない学者には、部屋に隠されているだろう奇術師たちの秘密に近づけるはずがない。鍵のしまった箱を目の前に、指をくわえて見まわすことしかできない。
悔しく思いながら、ルーネベリは本を本棚に戻した。諦めるしかないのだ。
《このまま、目が覚めるのを待とう》
眠る前と同じ椅子に座り、ルーネベリは俯き、目を閉じた。瞼の裏に、暗く、とめどなく広い空間がつづいていた。
広大な空間の果てに、ルーネベリの意識はさらに落ちていった。ルーネベリ本人ですら、気づかないほど深く、深く……。どことも知れない場所にとどまり、身体を横たわらせ、すっかり眠りについていたルーネベリの身体を誰かが揺さぶった。
《ルーネベリさん、ルーネベリさん》
そう呼ばれるたびに、ルーネベリの意識が戻っていった。よく寝ていた気がした。一時間か、二時間か、どちらにせよ、休憩するには十分すぎるほど長く眠っていた実感だけはあった。
目を開き、身体を起こしたルーネベリは、身体を揺さぶった人物に目をやった。紫色のワンピース。肩から斜めにかけたショールを腰で結んだ、灰色の髪の、初老の奇術師。
《ズゥーユさん》
ルーネベリは目を擦り、言った。
《あなたが起こしてくれたんですか。お恥ずかしいことに、疲れて、眠ってしまって》ズゥーユは苦笑ったルーネベリを見て、安心したよう微笑んだ。
《意識が戻ってよかったです。運が悪ければ、戻ってこられないところでした》
《……えっ?それはどういう意味ですか》
《ルーネベリさん、おわかりにならないかもしれませんが、あなたはそれほど深いところまで来られているのです。このまま、気づかずに落ちつづけていたら、あなたは我々でも手出しのできない場所にいっていたかもしれません》
そう言われて、ズゥーユに手を握られたルーネベリは動揺した。
《あの、それは……》
ルーネベリは周囲を見渡した。白い靄がかった場所が見えたかと思うと、意識ははっきりするほど、霧が消えてゆき、そこが談話室だということがわかってきた。
《脅かさないでください。ここは、俺がはじめからいた場所じゃないですか》
ズゥーユは首を横に振り、難しい顔をした。
《ルーネベリさん。ここは、精神と奇力の狭間にある領域です》
《狭間?》
《奇術式の内なる眼をご存知でしょう。精神と内なる眼は、人の目と姿形がよく似ています。ここはちょうど白目の部分だと考えてください》
《白目ですか》
ズゥーユは言った。《普段、我々が連絡を取るために使う領域が無意識の『上層』とよばれる領域ならば、ここは、無意識の中でもさらに深い領域。最上層、上層、下層、最下層の四層にも別れた奇術師の領域の下層部分。並の奇術師では、意識を保つのがやっとの領域です》
ルーネベリは困り、瞬きをした。
《そんな場所に俺はどうやって……》
ズゥーユはルーネベリの目を見た。
《さっき、眠っていたと仰っていましたね。夢をみていたのなら、原因はわかります。奇術をお使いにならなくとも、夢は、時折、無意識の深い層へ入り込むのです。入り込む頻度は人によって違いますが、あなたも、正夢を見ることがあるでしょう》
《えぇ、ありますね》
《正夢というのは、人が夢を見る最上層という領域からさらに深い、上層へ入り込んだとき、他の奇力やあなた自身の奇力が見せているものなのです。これは、夢便りなど、奇力を使い他者と通じるために、奇術にとっては必要なことなのですが。なにも知らずに深い層へ入り込んでしまうと、取り返しのつかないことに》
ルーネベリは言った。
《ここはそんなに危険な場所なんですか。でも、俺の意識は正常に働いているのは、どういったわけなんですか》
《私が、あなたをこの場にとどめているからです。奇力は万物と繋がっているので、奇力を扱える者には、無意識の領域に通じる奇力の道を渡り、自分ではない別の人物の奇力に呼びかけることができるのです。
ただ、私でもってしても、この下層のさらに深い層に行くには、ある程度の覚悟が必要となりますが》
《ということは、俺はズゥーユさん、あなたに助けられたわけなんですね。なんとお礼を言っていいのか》
《いいえ、礼を言うのはこちらのほうです。治癒の世界のために働いてくださっているあなたに、なにもしてさしあげられず》
《いや、そんな。俺は先生の助手なので、何かを望むほうが間違っていますよ。早く……》
ズゥーユの方を見たルーネベリは、ズゥーユのずっと後ろの方に誰かが立っているのが見えた。白い靄が消え去った談話室の、窓の外に人がいる。ルーネベリは口をあけたまま立ちあがり、窓際に歩いた。
《ルーネベリさん?》
目を細めるほど、遠くにいる人物が近づいてきた。時術式の、光の柱の中に立ち、そして、その人物の胸で奇術式が輝いていた。
《あの人物は誰ですか》
《誰のことですか?》
ズゥーユはルーネベリが見ている窓に近づき、窓の外を見た。遠くに見えていた人物像が、見ようとするほど、どんどん近づいてきた。紫色のワンピースを身に纏い、顔に黒い髭を蓄えた中年の男が、眠るように目を閉じ、発動されたままの時術式と奇術式の中に身を置いている。
ルーネベリははっとした。この下層とよばれる領域に来る前に見た、治療記録が頭に浮かんだのだ。
《まさか、談話室にあった治療記録に関わりがあるのですか》
《ルーネベリさん、あれをお読みなったのですか?》
《すべてとは、いきませんが。内容がわかる程度には》
《なるほど、そうですか。それなら……》
窓から顔を背けたズゥーユは、肩の力を抜き、言った。《お話しましょう。窓の外に見えているあのお方は、治療記録を書いた本人です。そして、この治癒の世界の、真の管理者でもあるのです》
《真の管理者……。それなら、あなたは一体?》
ズゥーユは静かに俯いた。
《秘密というべきものなのか、私にもわかりません。しかし、私はまだ管理者ではありませんが、管理者の資格は持っているのです。その方が、亡くなることがあれば、私がこの世界の管理者になりますからね。私は管理者一族の者です。動けない管理者のため、私が管理者の役割を果たしてきたのです》
ルーネベリはゆっくり頷いた。
《お聞かせてください。この人物は、どれくらいあの状態でいるのですか》
《あの方が、あのようになられたのは、亡き父から聞き及んでいるのは、ざっと六千年ほど前からです》
《六千年?》
《そうです。六千年という、とてつもない歳月、時術式と奇術式の中、永遠の時の中で眠りについている方はアセス・ズゥーユという人物です。治療記録にあるように灼力感染患者の奇力干渉を試みて、二次感染してしまった管理者なのです》
《アセス・ズゥーユ……。アセス・グセティでは?》
《グセティの話は、後にしましょう。その話は、また別の話になりますから》
《どういうことですか》
《話は、あなたが考えているよりも、より複雑なのです。あなたに知っていただきたいのは、アセス・ズゥーユに、奇術と時術、この二つの術式をかけたのはバレンシス、布貴。それに、リゼルと同時代を生きた人物だということです》
《ちょっと待ってください。バレンシスも布貴も、千年前の人物ですよ》
さらにややこしい話に……。
十二章は書いている方も、混乱しそうになるほど
難しい無意識の領域の話です。
まだ、続きますが、途中、わけがわからなくなっても
最後までお読みいただければ、意味がわかるはずです……きっと!