九十七章 無垢な心
第九十七章 無垢な心
景色がふわりと消え去り、次に現れた光景の中は、前回から幾分か年が経過した様子だった。
かつて十五歳のまだおどけさの残る少年レフェレントは成長を経て細身だが背が伸びすらりとした姿で髭を蓄えた紳士の採寸を受けていた。容姿はさらに十五歳の頃よりも、美しさと凛々しさが加わり磨きがかかっていた。陶器の人形のような白い肌に神秘的な紫色の瞳が飾り、かつては灰みがかった茶色い髪は色が抜けて金味をおびていた。気品に満ちたその麗しい容姿に、その場にいた紳士の男女の助手たちは何度も無意識にその姿を目で追っていた。
王妃であるライザナが咳払いし、紳士の助手たちが見せてくる生地見本とレフェレントの姿を見比べていた。
「深い色味もいいけれど、レフェ様には白や水色など淡い色味も合うと思うわ。そうではなくて?」
ぼんやりとレフェレントを見つめていた助手は慌てて頷いた。
「仰る通りだと思います。華やかな生地で仕立ててもよくお似合いになると思います。もうじき、新しく仕入れた生地が入荷するのですが。朱色ですが、その色も実にお似合いになると思います。他にも生地見本を取り寄せましょうか?」
「えぇ、そうしてちょうだい」
ライザナは生地見本を助手に返して、採寸中のレフェレントに近づいた。そして、紳士に尋ねた。
「どうかしら?去年採寸した時よりも、随分と変わっているかしら」
「はい、王妃様」と低い声で紳士が返した。
「王弟殿下は昨年よりも背が五センチほど伸びられ、お身体も一回りほど大きくられたようです」
「そう。わたくしも背が伸びられたと思っていたのよ。陛下と同じぐらいになるかもしれないわね」
レフェレントの採寸が終わると、ライザナに連れられて別室へと移っていった。
隣の部屋では、侍女たちが用意したティーセットが準備されていた。
二人は席につくと、ライザナは小さく嬉しそうに笑った。
「ふふ、お疲れさま。疲れたでしょう?」
「はい、義姉上様」
盲目の侍女が器用に二人のティーカップに紅茶を注ぎ、小さな一口サイズのケーキが飾る皿をいくつか並べた後、頭を下げて部屋の脇に立った。
ライザナは満足そうにその姿を横目に見てから言った。
「召し上がれ」
「頂きます」
レフェレントは一番近くにあった丸い皿を引き寄せて菓子にフォークを伸ばして形の良い口に運んで、美しい顔を綻ばした。
ライザナは微笑んだ。
「信じられないわ。あなたがもうすぐ十八歳になるなんて。あなたが城に来てから三年も経つのね。時間が経つのは早いものだわ」
「そうですね。城での生活は楽しいことが沢山あって、あっという間でした」
「もっと早くに来てくれていたらとも思うわ。そうしたら、あの子たちと一緒に育ってもっと仲良くなれたはずだわ」
レフェレントは苦笑った。
「私は好かれていないので……」
「そんなことはないのよ。ユイシスのことは悪く思わないでちょうだいね。あの子はわたくしに似ているところあるの。不器用なだけなのよ」
「わかっています。私はユイシスのことを嫌いではありませんから、安心してください」
ライザナは少し切なそうな顔をした。
「あなたが心の広い子でよかったわ。さぁ、食べてちょうだい」
「はい」
レフェレントは黄色いケーキを食べはじめた。
ライザナはじっとレフェレントの美しい顔を眺めて言った。
「あなたは本当に美しいわ。この国で一番の美しさだと思うわ。だけど、その美しさが災いを招かないかが心配だわ」
「へ?」
「この国では成人は十八歳からなのよ。そろそろ婚約者を見つけておかなければならない年齢なのよ。でも、陛下がお気に召す令嬢がこの国にはいなくて、周辺諸国を当たっているところだけれど。良い縁談があっても、陛下はなかなか受け入れるおつもりがないようなの。このままでは心配だわ」
「そうなのですか?」
「えぇ、一度でも顔合わせでもしてみてはどうかとお話ししても、陛下はお許しにならないのよ。わたくしもどうしたらいいのか……。レフェ様は心を寄せている想い人はいないのかしら?」
「えっーーう、ごほん、ごほん」
ライザナは咽せたレフェレントに絹のハンカチーフを差し出して渡した。
「慌てて食べなくていいのよ」
「すみません」
何度か咳をして落ちつたレフェレントは口元をハンカチーフで拭って紅茶を飲み込んでから首元をうっすら赤く染めて恥ずかしそうに言った。
「義姉上様、私はまだ……その……」
ライザナは微笑んだ。
「ごめんなさい。そうよね、まだ社交界にも出ていないものね。ーー急かすつもりはないのよ。ただ、想い人がいるならいつでも話してちょうだいね。できることなら望まない婚姻よりも、望む婚姻をしてほしいわ。ただ、あなたが長く一人でいることはあまり好ましいことではないの。ありもしない噂を立てられてしまうのは、あなたの将来のためにも良くないわ」
「はい、義姉上様。私のことを考えてくださって、ありがとうございます」
「わかってくれて嬉しいわ。あなたは若いし、とても良い子だから出会いの機会さえあれば困ることはないわ。若い娘ならきっと美しいあなたに夢中になるだろうし。あなたの気持ち次第だわ。ーーそうね、これからお茶会や舞踏会を頻繁に開こうかしら。ユイシスはまだ幼いけれど、あなたと一緒なら王太子として名目上は社交界に出てもいいと思うわ。二人の縁談が纏まればわたくしも王妃として安心だわ。そうね、お茶会や舞踏会がいいわ」
「ーー義姉上様、お茶会や舞踏会では私は何をすればいいのですか?」
ライザナは興味を持った様子のレフェレントを見て綺麗な笑みを浮かべた。
「お茶会では貴族の娘たちと挨拶をしたりお喋りをしたり、今のようにお茶を飲んだりするだけでいいのよ。舞踏会では、貴族の令嬢と踊ったりもするわ。良い出会いの機会だわ」
「貴族の娘たち……」
「あなたと同じ年頃の娘たちよ。気に入った娘がいれば、声をかけて仲良くなればいいのよ。わたくしとお話しするよりも楽しいと思うわ」
「……義姉上様よりも?あの、でも、私は踊れないんです」
「心配なさらないで。礼儀作法の授業をしばらく増やしましょう。あなたはお勉強の面でも先生方に評判がいいから、すぐに覚えられるわ」
「はい」
「そうね、王族としての生活に慣れてもらうために基礎のお勉強に時間を費やしてきたけれど、そろそろ社交界の面でもお勉強が必要だったわね。三人も子供がいると考えることが沢山だわ。でも、わたくしは幸せ者ね。あなたちが幸せになった姿を思い浮かべるだけで幸せだわ。きっと良い娘と出会えるはずだわ」
心底嬉しそうにそう言ったライザナの表情を読んでレフェレントはほっとした様子だった。
景色が掻き消えて、場面が変わった。次に現れたのは庭にある回廊だった。
「おい!」と声を荒げている少年が数メートル先にいた。淡いブルーの瞳のダークブラウンの髪の少年の側には同年代の少年たちが三人ほど立っており。うっとりしたような顔をしながらレフェレントの顔を見つめていた。
「母上とコソコソと何を話していたんだ!」
「ユイシス」とレフェレントが振り返り少年を呼んだ。
その少年ユイシスは名を呼んだ鈴のような爽やかな声の持ち主に一瞬力が抜けそうになりながらもぐっと奥歯を噛み締めて耐えた。そして、ずかずかとレフェレントに近づいてきた。
ユイシスはレフェレントよりも数センチほど背が高いようだった。
「この化け物め!私に何をした!」
「化け物?私はただ名前を呼んだだけだろう。化け物じゃなくて、叔父さんと呼んでくれないかな。レフェ叔父さんでもいい」
「叔父さん?こんな二歳しか離れていない叔父さんなどいるか!」
「ここにいるじゃないか」
「お前なんて認めない!」
ユイシスはふんと鼻を鳴らし、レフェレントの胸を力一杯押した。レフェレントはよろめく姿を目にせず、ユイシスは背を向けた。
「ーーおい、行くぞ」
ユイシスの側にいた少年たちは頷きながらもレフェレントの顔をいつまでも見つめて足だけ動かして去っていった。
景色がふわとまた変わった。
レフェレントは図書室だろう、本棚に囲まれた一室での角で床に座り込んで本を読んでいた。白いシャツに身を包んだ質素な姿だったが、本を読んでいるだけだというのに実に優雅で絵になる姿だった。
レフェレントの傍には水の入ったポットとグラスを置き、長時間その場で本に読み耽っている様子だった。
「おい」と誰かが声をかけた。
レフェレントが顔をあると、目の前には誰も姿もなかった。レフェレントは周囲を見渡していた。すると、上の方から声が聞こえた。
「どこを見てるんだ?」
レフェレントが見ると、梯子に座っているユイシスの姿があった。
濃紺の上着を上品に着込んだユイシスは目を細めてレフェレントを見下ろしていた。
レフェレントは言った。
「ユイシス、そこで何しているの?」
「別に」
「別に?危ないからそんなところにいるなよ。こっちにおいで」
レフェレントが手招きしてそう言ったが、「嫌だね」とユイシスはぷいと顔を反らした。
レフェレントはユイシスの幼い態度に小さく笑った。すると、顔をむっとさせて「笑うな」とユイシスは拗ねたように言った。
「はは」とさらに声を立ててレフェレントにユイシスは大きく身体を捻って振り返ろうとした。
「おい!笑うなーーあっ」
あまりに勢いづけて振り返ったために、梯子が揺れてバランスを崩して落下しそうになった。
「危ない!」とレフェレントは慌ててユイシスの身体を受けとめた。しかし、重さに耐えきれずレフェレントはユイシスを抱きかかえたまま床に座り込んだ。
レフェレントは「痛い」と呟いたが、ユイシスは黙り込んだままだった。
「ユイシス?」とレフェレントがユイシスの顔を覗き込むと、ユイシスは固まっていた。
そして、レフェレントと目を合うと、顔を真っ赤にさせて「どけ!」と言ってレフェレントを押し退けて図書館を去って行った。
「何なんだ……」とレフェレントは呟いた。
景色が変わった。
ユイシスは小さな丸額に入った絵を豪勢な部屋の一室のベッドの上に腰掛けて眺めていた。
ユイシスの見つめている絵は、父であるアミアガリアと成長したレフェレントが微笑み合うなんとも和やかな絵画だった。淡い黄色やピンク色の柔らかな色彩は兄弟を仲の良さと平穏さを表しているだけだというのに、凛々しい父と美しい叔父の姿をユイシスはじっと眺めていた。
ユイシスは無意識か、レフェレントの顔を指先で触れていた。
「何しているの?兄上様」
ふと目の前にいつの間にか少女が立っていた。十二か、十三歳頃だろうか。薄いブルーのドレスを着てユイシスと同じ淡いブルーの瞳で、長いダークブラウンの髪を胸元まで流していた。
「スリーフ!」と、慌てふためいたユイシスが立ち上がった。その表紙に、額がユイシスの手元から離れて床に転がった。
スリーフは足元に転がってきた丸い額を拾いあげた。急いでユイシスが取り返そうと手伸ばしたが、スリーフはその華奢な体を傾けて兄の手から逃れた。
「ふぅん」とスリーフは父と叔父の絵を見て言った。
ユイシスは真っ青な顔をして首を横に振った。
「何でもないんだ……。ただ、召使いのやつが持っているのを取りあげただけだ。私は何もーー」
口早にそう言ったユイシスにスリーフはにっこり微笑んでから丸額をユイシスに差し出した。
「うん、わかってる。取りあげただけなんだね」
ぱっと顔をあげて明るくユイシスは頷いた。
「そうだ。こんなもの見る価値もない」
ユイシスは受け取った丸額を興味がないとばかりにベッドに投げ捨てた。スリーフはその姿を見て、くすりと小さく笑った。そして、
ユイシスの両手を掴んで言った。
「兄上様、そんなことよりも社交界に出るって聞いたよ」
「あっ、あぁ。そうだ。レフェレントと一緒に出ろと、母上に言われたんだ」
「そうなんだ。いいなぁ。私も早く社交界に出たいなぁ」
ユイシスは妹の拗ねたような様子を見てほっとしたのか、微笑んで言った。
「心配しなくてもお前もあと三、四年したら社交界に出ることになるだろう」
「えぇ」とスリーフはユイシスの腰に抱きつきた。
「兄上様と一緒に行きたかったなぁ」
「スリーフ」とユイシスは笑った。
スリーフは顔をユイシスの腹に押しつけて言った。
「大好きな兄上様といつも一緒にいられたらいいのに」
ユイシスはスリーフの頭を優しく撫でて言った。
「そんなこと言ってくれるのはお前ぐらいだ」
抱きついたままスリーフは顔をあげて、ユイシスを見上げた。
「私だけなの?」
「そうだ。スリーフはいつまでも可愛いままでいてほしいな」
「うん、いつまでも可愛いままずっと兄上様と一緒にいるよ」
幸せそうに目を閉じてスリーフはユイシスの腹に顔を寄せた。
景色が一瞬にして消え去り、次の景色が現れた。
その場は舞踏会なのだろうか。華やかな光に満ちた金の装飾で飾られた大広間に大勢の色とりどりに着飾った貴族たちが集まっていた。彼らよりも高い二階の踊り場に現れたのは真紅の衣に身を纏い、金の王冠を被ったアミアガリアだった。前回見た時よりもまたさらに年を重ねていたが、見た目はまだ若く立派な体格で精悍な顔つきは見るものを圧倒させた。アミアガリアは王として文句のつけようのない姿でその場に立っていた。そして、大きな声で集まった者たちに向けて言った。
「今日は、誠に喜ばしい日だ。余の息子と、余の弟を皆に正式に皆に披露しよう。さぁ、まずは世の息子であり、王太子であるユイシスよ。こちらへ来なさい」
父であるアミアガリアに呼ばれ、深赤と金が刺繍された衣装で正装したユイシスが緊張した面持ちで父の傍に立った。いくら背が高いといえどもユイシスはまだアミアガリアよりも十センチ程度低いようだった。
ユイシスは叫んだ。
「皆様、本日は私どものためにお集まりいただき、ありがとうございます。私の名はユイシス・オロス・サタイン。この国の王太子です。今宵は皆様と共に楽しいひと時を過ごせればと思っております」
目下の者たちはアミアガリアには似ていないが若い王太子の姿に嬉しそうな声をあげた。
「立派に成長なさったのね」と貴婦人たちが口を揃えて褒め称えていた。
アミアガリアは貴族たちの様子を見て口元だけ綻ばして、側にいる息子に言った。
「其方は私よりも貴族たちに気に入られたようだな」
「父上様」と恥ずかしそうにユイシスは言った。
アミアガリアは息子の肩に手を置いた。
「良いことだ。これからも勉強に励み、良い君主となるように努力しなさい。期待しているぞ」
「はい、父上様!」
目を煌めかせながらユイシスは父を見上げてそう言った。微笑ましい親子の会話だった。しかし、その短い会話の後、アミアガリアhまだ紹介していない弟への意識を向けて目下の者たちに向けて叫んだ。
「余の弟も紹介しよう。レフェレント、来なさい」
階段の角で待機していたレフェレントは「はい」と爽やかな声で頷き、長い足を動かして兄と甥の傍まで歩いた。ただそれだけのことだったが、目下からは感嘆の声でうっとりとしたため息が漏れた。
レフェレントは濃紺と銀の刺繍を施された上着を着ており、それはまるでユイシスと対照的に作られた装いのようだった。
ユイシスはレフェレントに目が釘付けだった。
レフェレントは金色に近い髪を後ろに撫であげ、いつもよりもはっきりと見える紫色の瞳が光を受けて輝いていた。白くシミのない肌、目も鼻も口も眉も、どれも一つ一つ綺麗に精巧に形作られ、その均衡も絶妙な位置にあり素晴らしい容姿をしている。
「美しい」の一言しか言い表せないほどの美男子だ。
アミアガリアは嬉しそうに微笑んで、傍に立った弟の肩に手を置いた。
「似合っているぞ」とただ弟に声をかけただけだが、ユイシスは顔を赤らめて俯いた。
兄に「ありがとうございます」と爽やかに返事した後、ユイシスは目下の者たちに向かって叫んだ。
「今宵は王太子と共に私も参加させていただき、感謝しております。楽しいひと時をお過ごしください」
手短にそう言うと、レフェレントは兄のやや後ろに立った。王家の血を引いていないことを引け目に思っていたのかもしれないが。目下の者たちは蕩けるような顔で踊り場にいる者たちを見つめて声が出なかった。
レフェレントは首を傾げて兄のアミアガリアを見たが、アミアガリアは面白げに笑って言った。
「皆の者、声も出ないようだな。余の弟は良い年頃となった。ユイシスはまだ早いが、二人のためにもこの機会をもって良い出会いがあることを願う」
「兄上様!」と気恥ずかしそうに小さな声で叫んだ。
アミアガリアは目下には聞こえないよう声を低めて言った。
「良いではないか。皆の者も期待しているのだ。社交の場は好かぬかもしれないが、参加し、様々な者と言葉を交わしてほしい。そのうち気にいる娘が一人や二人出てくるやもしれないな。ライザナは良い考えを思いついたものだ。私が良き妻を迎えられたように、二人にも良き妻を迎えてほしい。婚姻は盛大に行おう。私は王だからな、心配することは何もない」
「兄上様、飛躍しすぎです……恥ずかしいではありませんか」
アミアガリアは嬉しげに笑った。しかし、ユイシスは拳を握りしめて切なそうな表情をしていたが、アミアガリアもレフェレントも気づくことはなかった。