九十五章 血筋
第九十五章 血筋
アミアガリアはミムの手に手を重ねながら言った。
「ミム様のお父上様は、神となったのですか?」
「人伝に話を聞いた話はそこまでだ。終いまではわからない。ーーきっとどこかでまだ生きてはいるだろう。父ネベムは正義の女神アニウィリテと人の子に間に生まれた子の一族。どんな過酷な場所でも生き抜いているはずだ。なんたって、鏡の王である私の父なのだからな」
ミムは誇らしげな顔をしていた。
アミアガリアは頷いて言った。
「お父上様がご存命であればよろしいですね。ミム様が王になる前は、ドルヤという男が王だったのですか?」
「百年にも満たない史実にも残らぬほどのつまらない時だ。ーー母と婚姻し、カヴェザアフの王となったドルヤ・ノスムは無能な王だった。政もせず、母にかまけてばかり。心が弱かった母は隙をみてドルヤを討つ事もできたが。母はありもしない空想に耽り恐れてばかりいた。父と引き離され、子である私が殺されるのではないかと不安だったようだ。何度も私の様子を見にきては、強く抱きしめられたのを覚えている」
「心お優しい母上様なのですね」
「そうだな。でも、心が脆い人だ。女王としては子の私すら切り捨て戦う勇気も必要だ。悪政によってカヴェザアフは乱れ荒れた。古き神々が眠りから覚める前に帰ってきた老神様によりドルヤ・ノスムは裁かれた。老神様は傷ついた母を安らかに眠らせてくれた。私が母から力を継承し王に即位することとなり、君主として育ててくれたのも老神様だ」
「立派な神ですね」
ミムはアミアガリアの手から離れ、ハハと笑った。
「パッと見ただけだけでは、神とはわからない。どこにでもいる杖をついた老人だ。だが、コクハの民も老神様を恐れていたな。他の神も恐れていた。私には昔から傍にいてくれる優しい祖父のようだがーー。
父のいなくなった光の都市アザームもカヴェザアフよりもさらに荒れ果てた。老神様は父の血をひく私をアザームの王にも据え、都市を蘇らせるように助言した。私は鏡の王だが、都市を蘇らせるのは容易ではなかった。
私が最初にしたのは、子供の頃、父べネムが好んだ建築法を一から学び直して庭園と街を作り、白い水晶を蘇らせることだった」
「白い水晶?」
「代々、アザームという世界でのみ作られる賢きものの象徴だ。神アニウィリテの水晶『ミム』ともいう」
アミアガリアはあっと少し口を開いた。
「ミム様のお名前と同じですね」
「私の誠の名はミランディアだ。アザームの虹光の雨を降らせるために世界に樹木を植え整え、白い水晶を蘇らせたことによって称賛として『ミム』と親しみを込めてその名で呼ばれるようになっただけだ。この額に刻まれたものがそれだ」
ミムはそれから空中で指を動かした。すると、背後の鏡がにゅっと伸びてきて文字となった。
「ーーこれで『私のミム』と読む。子供の頃、父が私のことを愛情を込めてミムと呼んでいた。まさか、女王になってからもそう呼ばれる日が来るとは思わなかった。懐かしくて嬉しい名だ。名を呼ばれるたに喜びを感じる」
アミアガリアは頷いた。
「ミム様のお名前にはそんな思い出があったのですね。素敵な話だと思います」
「そうか?しかしな、当然ながらアザームを立て直せたのは私一人の手柄ではないぞ。家臣たちはもちろん。アミア、貴様の母の力も大きい」
アミアガリアは一瞬、言葉に詰まった。
「母……?」
「もう二十年以上だろうか、もっと前だろうか。随分と会っていないが、彼女は息災か?」
「ミム様、その母というのはーー」
「息子であろう、産み母の名を忘れたのか?リイリカナだ。ダトヤと取引内容を変えるまでは、ずっと世話になった。今はどうしているのだ?」
アミアガリアは戸惑いながら答えなかった。
「どうした?」とミムが言うと、アミアガリアは消え入りそうな声でぽつりと言った。
「……わかりません」
ミムは形の良い紅い唇を一旦閉じてから、言った。
「リイリカナに何かあったのか?」
「母……とは、長く共に暮らしておりません」
「共にはいないのか。生きてはいるのだな」
「はい、恐らくは……」
歯切れの悪い返事をするアミアガリアを見て、ミムはなにやら考えている風に腕を組んで鏡の玉座の背に身体を委ねた。
ミムは言った。
「もしや、ダトヤが声を失った理由と関わりがあるのか?」
「はい。父上様が声を失ったのは、は、母……が城に訪ねてきた日でした。弟を連れていました」
「弟?あぁ、そういうことか。その弟やらは、ダトヤの子ではないな。リイリカナは別の伴侶を得たのか」
「えっ、それをどうして……」
さも当たり前のようにミムが言ったのでアミアガリアは心底驚いているようだった。
ミムは言った。
「訪ねてきた時、アミアの弟の他にリイリカナは古い神も連れていたのだろう?」
「召使いの話では石を持っていたそうです。申し訳ありません、あまりに動揺していたので、二人のこと以外はあまり……あまりよく覚えていません」
「そうか。ーー石か。種から神になったものではないなら、ダトヤの呪いは永遠に解けることはないだろうな。なぜ、古い神が怒ったのか。種ではないものから神になった者は、種に愛着などを持たぬことが多いが。もしかすると……」
ミムがアミアガリアの淡いブルーの瞳を見つめた。
「ミム様?」
「自我を持つ者は時に想像を超えることを仕出かすことがある。ありえないだろうことも、時に起こるのだ。
古い神はきっとリイリカナを大切にしていたのだろう。大切な者ほど守りたいとほとんど誰しもが思うことだ。ダトヤから声を取りあげたのも、古い神なりのお考えがあったのだろう。言葉は時に刃よりも深く身を裂くことがあるからな」
アミアガリアは俯いた。
「母には古い神に大切にされるような、そんな価値があるのですか?」
ミムは呆れて鼻で笑った。
「価値だと?何をふざけたことを言っているのだ」
アミアガリアは生真面目な顔で言った。
「人にも価値があると書物で読みました。上に立つ者ほど尊く、下にいる者ほどーー」
「はっ、価値など目安でしかないのだ。数が少ないか大きか、様々な付加価値を付け足したり外したり常に変動し一定ではないものだ。そんな不安定極まりない価値などに左右されるなど馬鹿げている。種は目的のために生かされているだけだ」
「目的……」
「己の自尊心を保つために他よりも優れていたいと思うのが人の心だ。そうやって己の存在意義を確かめたいのだ。しかし、その心が行き過ぎればどれほど醜く、己を蝕んでしまうのか。価値の有無により存在して良いのかではないのだ、アミア。私たちはすでに存在している。存在しているのだ。価値の有無よりも尊い存在だ。だが、それと同時に私たちには生きる目的があるのだ。生きる目的を見失うか、目的を果たそうと彷徨い進むかの違いだけだ。ーー貴様の母、リイリカナは己の才をもって目的を果たそうとしていた。その姿勢は立派ではないのか」
「ミム様、母は……私の産みの母は、父だけでなく皆に蔑まれていました。私も蔑んでいました。なぜなら、私は母に見捨てられたのです。苦しい時だけではなく、いつも傍にいませんでした。同じ屋敷に住んでいた時も、母は部屋に閉じこもって私に会いに来ようなどもしなかった。私はあの大きな扉の前でいつも一人でした」
「アミア、貴様が辛い思いをしたというならば。リイリカナもそうかもしれないと考えたことはないのか?」
「ーー母も辛い思いを?」
「会わぬ間にリイリカナに何があったのかは知らぬが、私の知るリイリカナは愛情深い子だった。そんな子がアミアを見捨てたとは思えぬ。何か事情があったのではないだろうか」
アミアガリアは両手で顔を覆った。
「わかりません。何もわからないのです。母が訪ねてきた時、はじめて後悔しました。私はただ与えられるがまま、されるがまま、言われるがままーー何もかもがそういうものなのだと思い父上様や周りに従ってきたのです。母は弟と自らの足で訪ねてきてくれたというのに、私はただ過去の思い出の中に縛られ、言われるがまま父上様の声を返してほしいと乞うだけ。他に何も気の利いたことも言えず。去っていく母たちを見送っただけです。どうして母が訪ねてきたのか、その理由さえ訊ねませんでした。後になって、召使いを追わせましたが、間に合いませんでした。私はあの日の事がずっと気に掛かっています。夜も眠れぬ日もあるほどです」
ミムは静かに頷き、切なげに微笑んだ。
「アミア、貴様は知りたいのだな。貴様の母リイリカナが何者なのか。違うか?」
「そうです。知りたいのです。なぜは父上様は母を蔑んでいたのか。なぜ、皆が母を蔑んでいたのか。私はなぜ、母を蔑んでしまったのか。答えをほんの少しでも知っているのならば、ミム様、教えてください。母のことを……」
ミムはふと背後の姿見鏡を振り返ってから言った。
「ーーアミア、そろそろ戻らねばならぬ時となった。今日は話してやれぬ」
「次回でかいません。どうかーー」
「少し時期が空くが、今度はリイリカナについて私が知ることを話してやろう。約束だ。それまではアミア、あまり己を責めずよく休め」
そこで景色が変わった。
ふわっと次の景色が現れた。今度も同じ部屋だ。ミムはスカートの裾の長い黄色いドレスを着ていた。派手な色のドレスに対して、ミムの顔色はやや青く血色が悪かった。目の下のくまは濃く、どう見ても疲れている様子だった。
アミアガリアは青い上着を着て、鉱石の沢山詰まった籠を抱えていた。
「ミム様、体調が優れないのではないですか?」
「ーーあぁ、ここのところ忙しくてな。二つの世界を行き来きして。次が終わればまた次の仕事がある。ろくに休む間もない。しかし、約束は約束だ。私は一度した約束を違えたりなどせぬ」
「ありがとうございます。ですが、ミム様がお体を壊してしまわないか心配です。今日は帰られてゆっくりと休まれては」
「ふっ」と柔らかにミムは笑った。
アミアガリアが首を傾げると、ミムは言った。
「そういうところはリイリカナに似ているな」
「母にーー?」
「ダトヤは己の話ばかりする奴だ。二つの世界の家臣たちも己の言い分を聞いて欲しくて列を成して私を待ちつづけている。己で決めれば良いものの、私に決めて欲しがるのだ。何かを決めるのは疲れた。少し違う話をして気を紛らわせたい。付き合え」
ミムはゆっくりとした動作で鏡の玉座に座った。
「話の途中でも疲れたらいつでも仰ってください。ミム様のお体を害してまで話を聞きたいわけではございません」
ミムはまた笑い、言った。
「もういい、気にしすぎだ。貴様の母親の話をしょう」
「……はい」
「ーーなにから話そうか。リイリカナの一族を辿ると、運命の女神アブロゼの庭に暮らす『緑の一族』まで遡ることができる」
「緑の一族?」
「今も女神の庭に同族が暮らしているはずだ。白い瞳を持ち笛と甘美な歌声で女神の庭で植物を育て暮らしている穏やかな一族だ。
大昔に老神様に聞いた話だが、ある日、女神同士の宴があったそうだ。その時、女神の一人がアブロゼの庭へ見目麗しい人の男を連れてきた。その男というのは心根の良い素朴な若者で、女神はその男に植物を育てさせ己の庭を美しく飾ろうとしていた。男を連れてきた女神の名はサタインといい、まだ若い女神だった。
庭にやってきた男は、緑の一族から教えを受けている間に一族の中で一際自我の強い若い娘と恋に落ちた。無垢な者たちの深い愛に女神たちは心打たれた。そして、運命の女神アブロゼの許しを得て二人は女神の庭を出て異種婚姻をする運びとなった。女神サタインも二人の婚姻の手助けをしたが。事件が起こった。女神サタインが留守にしている間に、サタインの庭が何者かによって壊されてしまったのだ。婚姻後、移り住むはずだった世界を失った若い二人に、女神アブロゼは新たな世界を与えてそこで暮らすように言ったのだ。新たに与えた世界はライナトといい。二人の子孫はその地で命を紡いでいた。ところが、女神サタインは庭を作ることを諦めきれず。ライナトから緑の一族の容姿を受け継いだ子を連れ去り、女神サタインが新たに生み出した子と異種婚姻させた。そうして、脈々血が紡がれて母リイリカナへと血は受け継がれた」
「母は緑の一族の血を引いているのですね」
「何十世代かに一度、お前たちの母の一族の中には突然変異が起こり先祖返りして白い瞳の者が生まれる。そして、きわめて美しい容姿をしているのだ。植物を特異的に育てる才から皆は女神のように敬ったと聞いた」
「母のような容姿と力を持った者たちは蔑まれるような者ではなかったのですね。では、どうして、私の母は……」
「助けになるかわからぬが、貴様の父ダトヤについて話してやろう」
「父上様、父上様の一族にも何か秘密があるのですか」
「ダトヤの一族は元々はこの世界の者ではない。その祖は、女神サタインがいずれかの世界から招いた者たちだと聞く。ダトヤの一族には何の力も才もなく、それこそ特徴といえばアミア、貴様が受けついたその美しい青い瞳だろうか。あともう一つあるとすれば、妙に知識を持っていた」
「知識……」
喉の調子が悪いのか、小さくミムは咳払いした。
「アミア、貴様の父ダトヤの一族は口が上手くいつも下手に出ていたが、秘密が多く狡猾だった。老神様には関わるなと言われたのだがーー。どうやってかこの姿見鏡を用意し鏡の王である私を呼びかけ、私に取引を申し出てきた。王に即位したばかりだった私は取引に応じてやった。この世界の鉱石はアザームにもカヴェザアフになく必要なものばかりでな。取引は何百年もつづいた。そのうち、緑の一族の血を引くものがいると私は知り。植物の種を苗まで育てる代わりに、望むものをくれてやった。貴様の父ダトヤ代になり、より多くの新しい命の芽吹きを得るならば、それに相応しい対価を得たいと言い出した」
「その対価というのは……」
「貴様だ、アミア」
「……私?私が対価だというのですか」
「ダトヤの一族は命を紡ぎ、世代交代するうちにいつの間にか貴人と名乗り、そして、長をもうけた。その長になるには決まり事があった」
「それはーー」
「子種がないことだ。ダトヤの一族は長になる者にはけして後継を作らせたくなかったのだ」
「どうしてですか?」
「子が生まれれば、その血筋が支配する世ができてしまうからだ。しかし、ダトヤはあえて屈辱を受け入れて長になり、私に取引を持ちかけてきた。老神様に頼めなかった私はコクハの民のシウカを呼び寄せた。シウカは渋ったが、ダトヤは執念深かった。シウカは知恵を絞り、緑の一族の稀有な力とダトヤの血を用いれば子をなすことができるかもしれないとダトヤに伝えた。しかし、その頃はまだリイリカナは生まれてもいなかった。他の緑の一族の血を色濃く受け継いだ者もいなかった。今度いつ生まれてくるかもわからなかった。ダトヤは厚かましく次にシウカのような不老不死になることを要求してきた。シウカはやむなくダトヤの寿命を伸ばしてやった。シウカはいつか寿命がくればダトヤは嫌でも諦めざるおえないとでも思ったのだろう。しかし、シウカの期待とは裏腹にリイリカナが誕生し、ダトヤは幼い三歳の子を妻にした」
「三歳?母は婚姻したとき、たった三歳だったというのですか」
「あぁ。奇しくも、ダトヤの願いは叶ったのだ。私とシウカはダトヤを罵り責め立てたが、ダトヤはすでにリイリカナの両親の命を奪った後だった。ダトヤが手放したとしても、他の貴人たちが狙う。リイリカナはあの者たちにとっては富の象徴となっていたのだ。だからといって、私の二つの世界は片方はまだ復旧の目処が立たず、片方は過酷な環境故に連れて行くこともできず。シウカも定まった世界もない旅人に過ぎず、保護する者として最も忌むべきものに任せるしかなかった」
「そんな……」と、アミアガリアは脱力して抱えていた籠を床に落とした。籠から鉱石が散らばった。
ミムは言った。
「私がリイリカナに会ったのは数えるほどしかないが。とても良い子だった。成長してゆくたびに美しく、花が咲くような可憐さがあったな。シウカが戻り、成長したリイリカナに尋ねた。子を成すかどうかはリイリカナの意思に委ねられた。リイリカナはダトヤの妻として子を望んだ。子を望んだことは紛れもなくリイリカの意思だった。妻として夫に尽くそうと、ひたむきな子だった。シウカは人体生成術によってアミア、貴様を身籠らせた。その後ーー、貴様が生まれ。ダトヤとの取引内容が変わった後、私はリイリカナとは会っていない。ダトヤはリイリカナは屋敷でアミアを育てていると言っていた。私は貴様たち親子とはいつかまた会う日が来るだろうと思いながら、仕事に追われる日々を送っていた。リイリカナは母となり、家族と共に幸せに暮らしているのだと思っていたが」
「それは嘘です。父上様は嘘を言っています。母は私を育ててなどいません。あれほどまで蔑まれ幸せだったはずがないのです。どうしてそこまで子を、後継を、父上様は望んだのですか。私さえ産むことがなければ、母はきっとーー」
「貴様の父は同族たちに嘲笑われていた。その闇が心を巣食ったのであろう。が、どの選択が良かったのは私にもわからぬ。老神様は言っていた。どれほど望まぬとも、生まれた時から酷な運命を背負う者たちがいる。リイリカナはその一人だ。どの道も険しく辛い道を歩む。リイリカナはもっと悲惨な道を歩むこともあったかもしれない。白い瞳を生まれ持ってしまったために……」
「私は、そんな母のことを何もわかっていなかったのですね。もし、母が、いいえ、父上様の一族がこの世界に来なければ母の運命も変わっていたのではないのでしょうか」
「そうかもしれぬし、そうではないかもしれぬ。誰にもわからぬことだ」
「ミム様、女神サタインはどうなったのですか?叶うならば、女神に会い嘆願したいです」
「何を嘆願するのだ」
「母から奪ったものを返してほしいのです。すべて。すべてをーー」
ミムはアミアガリアの肩に手を置き、優しく言った。
「それはならない。一度起こったことは戻すことなどできないのだ。アミア、望むことをすれば変わってしまう。貴様だけではなく、貴様の弟も生まれなくなってしまうのだ」
アミアガリアは目に涙を溜めていた。
「弟……」
「リイリカナは誠に不幸せなのだろうか?」