九十一章 兄弟の物語
第九十一章 兄弟の物語
その場で狼狽えている青年はダークブラウンの髪、瞳は淡いブルーをしていた。麗しい実母の容姿と似ているかといえば、顔立ちがうっすらと似ている。さほど整っておらず綺麗ではないが、母と並べば姉弟と見間違うかも知れない。怯えていなければ、笑っていれば爽やかな青年だった事だろう。
その青年アミアガリアは麗しい女性は変わらずに目を向けず、美しい少年を見つめながら、立ったまま「何か私にご用ですか?」と淡々と言った。
十八年ぶりの再会だというのに、実の母に温かな挨拶を交わすでもなく、席を勧めるわけでもなく。事務的な言葉しか口から出てこないのだろうか。歳月を経ても息子の心には母への軽蔑心があるのはよくわかる態度だった。
リイリカナは影のある笑みで微笑んだ。リイリカナはレフェレントの肩に手を置いて言った。
「レフェレントに兄を会わせたくて、参りました。ーーあなたはお元気そうね」
震える唇の端を噛んだアミアガリアは一息置いてから言った。
「……はい」
「結婚もして、子供もいるそうね。良かったわ、お幸せそうで」
母の言葉にもアミアガリアは「はい」としか返事は返さなかった。その後、長い沈黙がつづいた。
誰もなにも言葉を交わす事なく。リイリカナを美しい息子のレフェレントが見上げた。
リイリカナは片手に輝く金色の宝石を握りしめた。
「ーー来るべきじゃなかったわね。もう帰ります」
母や息子の肩に置いた手に力を入れて、幼い身体ごと扉の方へ向けた。「えっ、もう?」と不満そうにレフェレントが言ったが、母は聞こえない振りをしていた。
「あっ」
青年の漏らした声に、リイリカナは素早く振り返った。その拍子に母と息子は目が合った。淡いパールのような白い瞳と淡いブルーの瞳。アミアガリアは顔を逸らして言った。
「父上の声を戻してください。父は何も悪いことなどしていません」
その言葉を聞いて、リイリカナは顔を歪めた。必死に怒りを堪えながら左目の端から一筋の涙を流して言った。
「あぁ、あなたもあの獣もそうやって生きていけばいいわ。自分には何の落ち度もないと思いたいなら。そう思いながら生きていけばいいわ。そうやって生きていく先に何があるのか、その目で見ればいいわ。人を傷つけつづけ、苦しめた者の末路がどうなるのか。その身をもって思い知ればいいわ。あなたはどこまでいってもあの人の子よ。会いに来たのが間違いだったのよ。ーーレフェレント、行きましょう」
リイリカナはレフェレントの肩を抱いて、扉から部屋の外へ出ていった。そして、ふわっと景色が掻き消えたーー。
次に現れたのは、薄汚れた壁と大きなガラス窓のある部屋だった。
白い寝巻き姿のリイリカナはベッドの上で両膝を抱えて窓の外を眺めていた。その部屋の扉から息子のレフェレントが心配そうに眺めていた。その景色がまたふわっと消えたかと思うと。今度は断末魔のような女性の悲鳴がこだましていた。
同じ薄汚れた部屋だったが、別の日のようだ。
「母上!」と叫ぶ幼い声がベッドの上で横たわる母に近づいた。
辺りは暗く、夜なのだろう。リイリカナは眠ったまま苦痛に顔を歪めて泣いていた。息荒く、大量の涙で顔を濡らしていた。全身は冷や汗で濡れて冷え切っていた。ひどい悪夢にうなされているようだった。
宝石が光り輝くとリイリカナの身体を光が包むこんだ。そうすると、冷えた身体は温まり、ようやく悪夢から覚めたのかリイリカナの息が穏やかになった。白い瞳を開けて、リイリカナはベッドの傍らにいる息子の姿を見つめ。ベッドの上に置いた宝石を大事に握りしめ、「大丈夫よ」と微笑んだ。精一杯の笑みだった。
それから似たような光景が現れてはふっと掻き消えていった。
幾度も幾度も、繰り返す光景。ほとんど眠りにつけないリイリカナが眠りについた途端、苦しむ様をベッドの傍らで息子のレフェレントは見守りつづけた。過去の出来事でありながらも、その傷の痛みは過去の時間よりもよりも多くの時を、リイリカナを苦しめた。繰り返し
怒鳴り声と記憶にある痛みに襲われ、癒そうとしても傷はぶり返すのだ。
リイリカナは過去に囚われ逃げることもできなかった。しかし、それでも、幼い息子のために生きようとリイリカナは恐怖に立ち向かい、目を開けているうちはなるべく微笑み、懸命に生きようとしていた。宝石に話しかけて、「私はまだまだ生きるわ」と何度も何度も強く語りかけた。
けれど、現れる景色の中、リイリカナの少しずつすこしずつ衰弱は悪化していった。リイリカナの意志とは異なり、身体が食をほとんど受けつけないのだ。頬は痩けて、いつしか一日の大半をベッドの上で過ごしていた。身体が大きく成長しつづけるレフェレントの前では微かに微笑むが。それ以外の時はほとんど涙は流していた。もはや過去の獣への恨みよりも、息子に対する心配ばかりが心を占め、弱いリイリカナ自身を責めてばかりいた。
生憎、心配してくれる者たちが絶えず、リイリカナとレフェレント親子の元を訪ね、食料を運び親子の世話を焼く者たちが絶えなかった。親子がいる場所は異界のどこかなのだろう。人間ではない生物も多く、時折、医者らしき生命がリイリカナを診察している姿が見受けられた。しかし、その衰弱は誰にももはやとめることはできない様子だった。
日に日に、食事を取らない時も出てきたのだろう。リイリカナはやせ細り、全身の骨がはっきりと浮きあがり見えるほどだった。長時間同じ姿勢でいることが辛くなってきたのだろう、息子のレフェレントが母の姿勢を何度も変えてあげていた。
それから、何度か似た景色がつづいた後ーー、ふわっと景色が掻き消えた。
ベッドの上にはもはやリイリカナの姿はなく。少年レフェレントの後ろ姿があった。レフェレントの右手には宝石が強く握られていた。
また風景が目まぐるしく変わった。
背を向けるボロを纏うレフェレントの向こう側にアミアガリアが立っていた。ふんだんに金の装飾が施された華美な部屋に彩られた窓際から外を眺めていた。深い緑の裾の長い衣装に身を包み、もう青年とは呼べない年頃となり、立派な顎髭を蓄えたアミアガリアは腕を組んで自身の身体を抱きしめているかのようだった。
「最期は病で、そうか。我が弟よ、わざわざ知らせに来てくれたのだな。……すまない、ありがとう」
少し疲れた様子でそう言ったアミアガリアにレフェレントは首を横に振った。
「兄上には伝えたかったんです。母上は言葉にはしませんでしたが、兄上のことをとても気にかけていたと思います。兄上に最後に会った日から、いつも兄上のように窓の外を、遠くの方ばかり見ていました。きっと、もう一度、お会いしたかったのではないでしょうか」
アミアガリアは切なげに笑い、レフェレントの方を振り返った。
「そんなことは思ってなどいらっしゃらなかっただろう。私と別れたのは私が十歳だった頃だ。もう遠い昔の話だ。ーー弟よ、名はなんと言ったか?」
「レフェレント・デ・バルといいます」
「齢は?」
「今年で十五歳です」
「若いな。私よりも、私の息子たちとの方が歳が近い。行くあてはあるのか?」
「ありません。ほとんど覚えていない父がいるそうですが、父はもう別の家庭をーー」
「さようか。行くあてがないならば、この城に住まうといい。ちょうど昨年建てたばかりの離宮が空いている。私は数年前に王位を継ぎ、忙しく頻繁に会うことはできないが。衣食住には困らぬように十分に配慮しよう」
レフェレントは驚いて息を飲んだ。
「私がここに住んでもいいんですか?」
「其方にだけでもせめてもの罪滅ぼしをしたいのだ」
「罪滅ぼし?」
アミアガリアはレフェレントに近づき、まだ少し背の低い弟の泥に汚れた頬を手で撫でそっと添えた。
「あの方は、私の話や父上の話をしなかったのか?」
レフェレントは首を横に振った。
「母上は昔の話はほとんどしてくださいませんでした。ただ、長い間、旅をした良い思い出だけ……」
「旅か。あの方にも幸せな時があったのだな。ーー少し、あの方に目元が似ているな。美しく整った顔だ。皆に、さぞ好かれることだろう」
そっとアミアガリアはレフェレントから手を離して、背を向けた。
「ーーあの方は、どんな方だったのだ?」
「母上は、とてもお優しい方でしたよ」
「そうか」
「はい。小さい頃は面白い子守唄を歌ってくださいました。大きくなってからは、料理を教えてくださいました。裁縫も。洗濯も。他にも、旅で知ったお話を聞かせてくれたり。文字を教えてくださったり、ミリッタという笛の楽器もたくさん教えてもらいました」
「さようか」
「はい。母上は歌もとても上手くて、私が笛を吹くとよく歌ってくださいました。本当に美しい歌でした」
アミアガリアは「うっ」と、その場に突と泣き崩れた。
「兄上」と高く透き通る声でレフェレントが心配そうに兄を呼び跪くと、アミアガリアは涙で濡れる顔を両手で埋めて言った。
「あぁ、私は何にも覚えていない。あの方のことを見下ろした記憶しか覚えていない。幼い頃は、良い記憶もあっただろうに……」
「兄上」
「私はあの方の置かれている状況を少しも理解しようとも思ったことがなかった。あの時、最後に会いにきてくださったというのに、私は機会を自ら手放してしまった。ーーこれは私への罰なのだ。ちっぽけな虚栄心から母を母と認められなかった。愚かで弱い私への罰だ。私は一体何を信じて生きてきたのだろうか」
アミアガリアは悲鳴をあげて泣いた。レフェレントは泣く兄を後ろから抱きしめて言った。
「兄上、私が母上の代わりに歌ってあげます。笛を吹いてあげますから、だから、そんなに泣かないでください」
年の離れた弟に抱きしめられながらアミアガリアは涙を流しつづけた。
「ーーレフェレント、我が弟よ。この愚かな兄を許してほしい。一度たりともあの方を母と呼べず、なんの罪もないというのに孤独に突き落としてしまった。一人にしてしまった。
私の愚かで惨めな幼さが招いたのだ。最後に会った時、どうして私は元気かと尋ねることもなく。父上のことばかり話してしまったのだろう。もうあの瞬間に戻ることさえ叶わない。声を奪われた父上が何をしたのか、何をしてきたのか。愚かな私はなぜ何も知ろうとしなかっただろう。……私が愚かだったのだ。どうかどうか、許してほしい」
「兄上。何があったのか、わかりませんが。私は兄上のことを許します。許しますから、泣かないでください」
「レフェレント」
アミアガリアが顔をあげると、レフェレントもその美しい顔に涙を流し、兄弟は互いに抱きしめ合った。
ふわっと景色が掻き消え、次の景色が現れた。
広い宮殿の一角だろう。
「レフェ」と兄が弟を呼んだ。親しくなった年の離れた兄弟は侍女たちが囲んでくる茶や菓子を囲み、弟のレフェレントが笛を吹いていた。
「美しい音色だ」
笛から口を離したレフェレントは満遍の笑みを浮かべて兄に言った。
「兄上、歌ってください」
「私は歌などよくわからぬ」
「なんでもよろしいのです。ふぅ〜ふぅ〜と、気分良く言葉を並べるだけでも良いのです」
「そんな風でも良いのか?」
「はい。なんでもよろしいのです。音を楽しめればそれで良いのです」
アミアガリアは笑った。
「音を楽しむか。そんなことをしたことがなかった。楽しそうだ」
「楽しいですよ、兄上。さぁ、笛を吹きますから。歌ってください」
レフェレントが笛を吹くと、兄は「あ〜」と言葉にならないやや高い声を重ねた。
年の離れた兄弟が音楽を心穏やかに楽しんでいる姿を、扉から羨ましそうに眺める少年と少女の姿があった。背のやや高い少年はダークブラウンの髪で瞳は赤みを怯えていた。薄い青の最上級の衣を身に纏っていた。少年の腕に絡みついた少女は父親と同じ瞳は淡いブルーで、ダークブラウンの髪を二つに分けて耳の上でそれぞれ結っていた。ピンク色の衣を纏い、スカートから枝のような細く短い素足を覗かせていた。
少女は「兄いさま」と腕の主に声をかけると、少年は「ちっ」と悔しそうに舌打ちし、身を翻してその場から去ろうしたので妹も短い足をせっせと動かして兄の後を追った。
風景がふわっと変わった。
次に見えてきたのは、豪華な城のカフェテラスだった。白い陶器製のテーブルの前に深い青の花の刺繍が施されたソファに若い夫人が腰掛けていた。顔を過剰なほど化粧で塗りたくり、美しいともいえない顔をしており。高級な布を幾重にも重ねた贅沢なバニラ色のドレスを着ていた。頭のダークブラウンの髪は幾重にも編み込まれ、後ろで一つに纏められている。その夫人の唯一の美点は艶のあるその髪かもしれない。
夫人は正面に座る夫の方に向かって言った。
「陛下、少々構いすぎではありませんの?」
陛下と呼ばれたアミアガリアは窓を外を眺めていた。
「何がだ?」
「陛下の弟君のことですわ。ユイシスやスリーフと会うよりも、頻繁にお会いになっているではありませんか」
「そうか?」
「えぇ、そうですわ。ユイシスは王太子ですのよ。勉学に励んでいるのですから、たまには激励してあげてほしいのです。陛下がお声をかけるだけでもよろしいのです」
「ーー私がユイシスの年頃の時は、父上に激励などしてもらったことなどなかった。其方は甘やかしすぎなのではないか?」
アミアガリアが上目遣いで見つめながら給仕しに近づいてきた侍女を見つめながら言った。
夫人は侍女をぎろりと睨みつけて咳払いした。侍女は「ひっ」と小さく声をあげてさっさとティーカップにお茶を注ぐと、後ろに下がった。
アミアガリアは淹れたてのお茶に口をつけて言った。
「弟が邪魔なのか?」
夫人は「いいえ、そんなことはありませんわ」と化粧の厚い顔を微笑ませてから言った。
「弟君は王位とは無縁ですわ。陛下の他に身寄りがないのでしたら、貴人の中から良い娘を見つけて、婚姻をさせてあげればよろしいわ。この国では身分させあれば生活も苦労いたしません」
「婚姻か。そのようにすれば、弟も喜ぶだろうか」
「えぇ、きっとお喜びになりますわ。誉れ高い貴人一族の一員になれるのですもの。名誉なことですわ」
「名誉か。弟の将来のことを思えば、その方がいいのかもしれぬな。では、そのうち探すとしよう」
「陛下、婚姻の件はわたくしに任せていただけませんか?わたくしも王妃となりましたもの。こういった婚姻の話はわたくしが纏めるべきですわ」
「いや、私の弟の婚姻だ。息子たちの婚姻は其方が取り仕切ればよかろう。弟の婚姻は私が直々に選ぶ」
その夫人こと王妃は困惑した顔をした。アミアガリアは眉間に皺を寄せた。
「何か不満でもあるのか?」
王妃は最上級品のハンカーフを取りだして口元を隠した。
「えぇ、陛下。弟君のことにとても構いすぎておりますわ。いくら長年離れてお暮らしになっていたといえ、殿下が直々に探されるなんて。近頃、宮殿では変な噂が絶えませんのよ」
「噂?」
「殿下の弟君は、わたくしよりもお美しいでしょう?」
アミアガリアは陶器製のテーブルに荒っぽく手をカップを置いた。
「馬鹿馬鹿しい!邪な想像などするなど、許さんぞ」
王妃はおろおろしながら「申し訳ございません」と頭を下げた。
「ですが、噂になっておりますの。陛下がお暇な時間を見つけては、弟君の宮殿を訪ねていらっしゃるから」
「弟に会うだけで、そんな噂が立てられるなど神経を疑うな。隣国では王位継承に伴い血で血を洗うような醜い権力争いが繰り広げられているという。私と弟は父が違う。争う必要もなく、兄弟仲がいいということは微笑ましいと思うべきだろう。其方が王妃だというならば、無駄口が立てられぬように仕事を与え、後宮を十分に取り仕切るがよい」
「かしこまりました」と王妃が頷いた。
アミアガリアは深くため息をついた。
「其方は我が伴侶だというのに、まるで理解がない」
「陛下、そんなわたくしは心配でーー」
「心配だというならば、弟のことを気にかけてほしい。我が弟は、私が得られなかった母の温もりを教えてくれているのだ。私は父上にも義母上にも、笛など教えてもらったことなどなかった」
「陛下……」
「旅というものもしたこともないのだ。ユイシスの歳の頃には、王であるならばどのように民を支配し統治すべきかなどと論じさせられていた。父上の執務室で夜遅くまであれこれと論じては、誤ったことを口にするたびに背を鞭を打たれてきた。私は父上が仰ることがなにをおいても正しいのだと長くそう思い信じてきたのだ。だが、其方も知っているであろう。あんな出来事があってから、私は信じたものがすべて過ちだったのではないかと疑うようになった」
「陛下」
「しかし、其方との婚姻は後悔などしていない。ユイシスとスリーフという子宝に恵まれたことは幸福だと思っている。だから、其方だけは私のことを疑うな」
「陛下、嬉しゅうございます。そして、申し訳ございません。わたくしが軽率でしたわ。考えてみれば、弟君もお可哀想な身の上でしたわ。お一人で見知らぬ土地に移り住んできたのですもの。陛下が気にかけるのも当たり前のことですわ。今後は、亡き母上様に代わって、わたくしが弟君に気をかけますわ。最初からそうすべきでしたのに、浅はかなわたくしは下賎な噂に惑わされて考えが及びませんでしたわ。何もかもわたくしの責任ですわ」
アミアガリアは王妃の両手を握った。
「私は其方のその純粋さを好んでいるのだ。其方だけではなく、事情を話さなかった私も悪かった」
「陛下」と王妃はアミアガリアの手を握り返した。アミアガリアは言った。
「父上と同じ過ちなどおかさないようにしなければならない。ユイシスにもゆめゆめそう伝えなければならない。あのような出来事はもう二度と起こしてはならん」
「陛下、わかりましたわ」
王妃が悲しそうにそう呟いた後、ふわっと景色が変わった。