八十九章 選択肢
第八十九章 選択肢
神フェザティアとアブロゼにルーネベリがお礼を言うと、フィザティアは「むしろ、お礼を言いたいのはこっちだよ。見てよ、この世界でも皆のためにできることがあったんだね」と嬉しそうに微笑んだ。ルーネベリが周囲を見ると、二神は多くの者たちに囲まれていた。ほとんどの者は与えられる家財の順番待ちをしているだけなのだが。好奇心からか、神たちの創造の一瞬を見ようと少しずつ近寄ってきていた。
あちこちで笑い声が聞こえた。服を手に入れた者はその場合で着ているものを脱ぎ捨てて素っ裸になって新しい服に着替えてくるくると踊るようにまわっていた。毛布を広げてマントのように羽織る者や、食器の微妙な色具合を見比べている者もいた。なかには、せっかく貰ったグラスを隣にいた口が八つもある者に分け与えいている者もいた。街にいる者たちは誰も喧嘩もせず、互いに気を配っているようだった。悪神の世界と呼ばれるビュア・デアにはそぐわないほど、純粋で善良な者たちだ。そんな者たちに必要な物を与え、ようやく神としての役割を果たせていてるとフェザティアは喜び、その喜ぶフェザティアを見てアブロゼも嬉しそうだった。
この街に来るまでは色々とあったが、二人の神ははじめからここへ辿り着くように導かれていたのかもしれないとルーネベリは思った。
神たちの話の中に幾度も出てきた「老神」が神たちをビュア・デアに閉じ込めたのはきっと彼なりの考えがあったのではないかと感じはじめていた。そして、それはきっと、これから行く先である真実の剣の中にも、共通しているのではないだろうか。
ルーネベリは街の者たちにせがまれて縫いぐるみを創造し始めたフェザティアとアブロゼから静かにそっと離れた。もうこの二人の神とはここでお別れなのだろう。幼い少年の姿をしていたフェザティアがまだルーネベリの脳裏に残っていた。彼の名は、フェザクシア・ミドール……ザッコが多くの人々を救ったように多くの者たちを救う立派な神となること願いつけた。ルーネベリは自身よりも長く存在するだろう神に対して、ザッコとは異なる結末を迎えるように心から願った。
それから、メアとルーネベリは家に戻った。メアは寝室から持ってきた小さな鋏の毛先から五センチほどの所で髪を数十本ざっくりと切り取った。そして、切り取った髪に青いリボンを巻いて小さな束にした。バイランはその様を見ながら顔を顰めていたが。メアは笑っていた。
「髪ならまた生えてきますわ。そう思えば、とても安いお礼かもしれないわね」
女性に髪を切り落として貰ったルーネベリは慌てて「安いだなんて。俺にはどうやっても返せないものを頂いているんです。本当に有難いです」と言った。
「そんなの、大袈裟だわ」とメアは笑ったが、パートナーのバイランは頷いていた。
メアは青いリボンで束ねた髪をテーブルに置いた。
「必要なものは、髪とーー剣か」と、ルーネベリが真実の剣をテーブルに置いた。バイランはもうルーネベリたちが攻撃してくることはないとわかっていたが、剣を睨みつけていた。メアはバイランの両肩に手を置いた。
ルーネベリはアラの方に左手を差し出した。アラはその手の上に自身の掌を重ねた。
ルーネベリはバイランとメア、そして、無名の神に向かって言った。
「色々と、ありがとう。お菓子もご馳走様でした」
「お粗末さまでした。気をつけて行ってらしてね」とメアが言った。
「ありがとうございます」とルーネベリが言うと、アラも「ありがとうございます。お邪魔しました」と言った。
バイランが「上手くいくといいな」と言った。すると、名無しの神が「失敗したら追いかけてやる」と笑ったので、ルーネベリは苦笑いした。
「やれるところまでやってみる。がーー、これで別れになるなら、身体を取りもしてやると言い切りたいな」
「自信がないのか?」と、名無しの神。ルーネベリは首を横に振った。
「いや、そういうわけでもない。ただ、これから何が起こるのかさっぱりわからないから、少し不安なだけだな」
「不安ならやめるか?」
「やめない」
「……フフ、変な生物だ」と名無しが言ったので、ルーネベリも言い返した。
「お前も変な神だ。本当の姿をきっと俺は見られないんだろうが、まぁ、会えてよかったと今では思っている」
「私に会えてよかったと……?」
「とんでもなく性格が捻くれているとは思うが、思っていたよりも悪い神じゃなかった」
「……フフ、私がただ捻くれているだけだと?やっぱり変な生き物だ。向こうでデハルに会ったら私の代わりに顔を殴ってくれ」
「えっ?」
「綺麗な顔が歪んでもかまわない。長い歳月、私の体を奪った。元に戻ってもそう簡単には赦さない」
ルーネベリは小さく笑った。
「そういう執念深いところが誤解を生んだんだろうな。まぁ、怒っていたことは伝えるよ」
「いっそのこと蹴飛ばしてもいい」と名無しの神は付け加えた。アラが隣で苦笑していた。
ルーネベリとアラはそれから最後に三人に軽く別れの言葉を告げてから、ルーネベリがメアの髪を握った右手で真実の剣にれた。一瞬、眩い光に目を閉じたーーその一瞬、身体が強力な力によって吸い込まれたのを感じた。
ルーネベリが目を開くと、そこには空を覆うほどの青みがかった白い巨大魚が見えた。巨大魚は空にぽっかりと空いた空間の中をぐるぐるとまわりながら身をくねらせて泳いでいた。
「何だ、あの魚?」とルーネベリが思わず呟くと、隣にいたアラが言った。
「魚に羽が生えている」
「羽?」とルーネベリはよくよく目を凝らして見てみると、確かに、巨大魚の腰の辺りから虫の羽のようなものがいくつも生え出ているのが見えた。よく見ると、胸鰭は扇形で背鰭は特徴的な三日月型をしていた。
「本当だ、羽だ。あんなに細い羽で巨大なのに飛べるのか?」
「焼いて食ったら美味いだろうか」とアラが言ったので、ルーネベリは笑った。
「あの巨体、どうだろうな。物にもよるが、あまりにも大すぎると不味いと聞く。ーーアラ、腹がへったのか?」
「減ってはいないが。剛の世界にいたときは、魚をよく獲って食べた。あれだけの巨体なら、二人なら何ヶ月ももつだろうと思った」
「まぁ、確かにそうだな。しかし、あれは空なのか?湖なのか?」
「私に聞かないでくれ」
ルーネベリとアラの二人の身体は床に横たわっていた。ちょうど、寝転がって天井を眺めるように空を眺めていたのだ。バイランやメア、名無しの神の姿もなく、バイランたちの家の中ではないところをみると、無事に剣の中に入れたようだ。だが、なぜだか、釈然としなかった。真実の剣の中にビュア・デアと同じ世界が広がっているとバイランが言っていたが、どこか違う気がするのだ。なぜだろうか。
ルーネベリは視線を感じて、魚を見ると、魚の真っ黒な目がこちらを見ていた。
「アラ、魚がこっちを見ているぞ」
「そうだな。魚が瞬きをしたな」
「瞬き?魚は瞬きするものか……」
「ーー其の剣、欲しい」
「えっ?」
急にアラの声ではない声が聞こえて、ルーネベリは慌ててアラの方を向くと、アラもこちらを向いて首を横に振っていた。
「ーー其の剣、投げて」と、また見知らぬ声が言った。
ルーネリとアラが魚を見上げると、魚はじっとこちらを見て何度も目をパチパチと瞬きしていた。どう見ても、巨大魚が話しかけているようだ。
「魚が話している」とアラが驚いて呟くと、「魚じゃない。私は空魚タイトゥー」と巨大魚が答えた。
ルーネベリは驚いた。
「タイトゥー?どこかで聞いたような気が……」
「お前たちが最初に辿り着いた霧の村の、私は天主だ」
「あっ、そうか。タイトゥームか!ーーん?しかし、どうしてその天主がこんなところにいるんだ。確か、棺か何かに入って眠っていたんじゃなかったのか」
ルーネベリがそう言うと、巨大魚は身体をくねらて同じところを回りながら泳いでいた。
「私の身体はタイトゥームにある。私の魂はここにある」
「魂?……そういえば、俺たちはあの時、天主の姿を見ていないんだったな。そうだったよな、アラ?」
「あまりよく覚えていないが、あんな魚は今初めて見るのはわかる」
アラの言葉に巨大魚は言い返した。
「魚じゃない。空魚タイトゥーだ」
よっぽどただの魚と言われたくないのか、巨大魚はその言葉を3回も繰り返して言ったので、アラが「わかった。空魚だ」と言い直した。そうすると巨大魚は満足したのか、今度はルーネベリとアラに名を聞いてきたので、ルーネベリが二人の名前を答え、そして、ルーネベリは巨大魚に聞いた。
「タイトゥームの天主であるタイトゥーはなぜここにいるんだ?」
「捕まった」
「誰に?」
「デハルに捕まった」
「なんで、デハルは空魚のタイトゥーを捕まえたんだ。もしかして、食べるためか?」
「デハルは私を食べない」
「じゃあ、どうして?」
空魚タイトゥーは巨大な身体を窮屈そうにくねらせてから言った。
「私が手伝ったからだ」
「どういうことなんだ。何を手伝ったんだ」
「ーー私がデハルを神になれるように手伝った」
「神になれるように?ちょっと待ってくれ、どういうことなのかさっぱりわからないんだが」
「姉妹のどちらかに出会ったからここにいるのはわかっている」
「姉妹?あぁ、メトリアス女王のことか。思いつく姉妹といえば、彼女のことしかーー」
「私は生まれた子供の名前までは知らない。私は運命の女神アブロゼ様の友だと言われて手伝っただけだ。私は悪くない。悪くない」
「生まれた子供?いきなりのことでよくわからない。話を整理させてほしい。デハルを神になれるようにってデハルは元々何だったっていうんだ?」
「デハルは元は人間だった。私はーー」
どんと耳元で何か重いものが強く地面を叩きつけた。驚いてルーネベリとアラが身を起こすと、怒りを含んだ美しい男の声が叫んだ。
「タイトゥー!もうそれ以上、其方の口を開くな。其方はその場所で永遠にそうやって泳ぎつづければ良い。私にした残酷な行いの報いだ」
目の前に名無しの神とまったく瓜二つの男が立っていた。しかし、名無しの神とはまるで別人だ。神々しい光を放つ絹のような滑らかな肌、名無しの神の顔ではけして印象に残らなかった切長の薄水色の瞳。薄くも横に線を引いたような赤みを帯びた唇。鼻は高く、顔の美しいという言葉では物足りないほどの美貌だった。高くもほっそりとはしているが、手足が長く。見惚れてしまうほどの芸術美そのものだった。間違いなくビュア・デアを作った神デハルに違いないだろう。
けれど、その男神は麗しい容姿とは異なり怒り狂っていた。なにもないところから鋭利な剣をその手に作りだすと、空魚タイトゥーに向かって投げだしたのだ。鋭利な剣はまっすぐに飛んでタイトゥーの巨体に突き刺さり、タイトゥーは痛みに悲鳴をあげた。
慌ててルーネベリは言った。
「やめてやってほしい。事情はわからないし、口を挟む権利もないのもわかっているが。いくらなんでもそれはやりすぎじゃないか」
麗しいデハルは二本目、三本目と剣を作りだしてはタイトゥーに投げていた。ルーネベリはだんだん腹が立ってきた。デハルはやめるつもりなどないのだ。
「やめてくれ!」と大きな声でルーネベリが叫んだ。
デハルは美しい薄水色の目をルーネベリに向けた。何か言いたげな顔をしていたが、すぐにぷいっと逸らした。
「其方が来て喜んでいたのに……」
「えっ?」
デハルは俯いて、それから突然煙のように消えてしまった。
「はぁ?どこに行ったんだ」
アラとルーネベリは周囲を見渡したが、誰の姿もないどころか。先ほどまで空に見えていた空魚タイトゥーの姿まで消えていた。
「一体、何なんだ?」
ルーネベリとアラは互いの顔を見合わせて戸惑っていた。デハルがルーネベリが天秤の剣の中にやって来たことを喜んでいたと言ったが、ルーネベリはデハルという神に会ったことなどこれまで一度もなったはずだ。なぜとーー問いかけたかったが。
「大丈夫、また後で会えますよ」
ふと振り返ると、半透明な体にギラギラと光る三つの瞳を持った奇妙な生き物が立っていた。アラは咄嗟に背中の大剣に手を伸ばしたほどだ。ルーネベリも驚いて後ずさった。
その生き物は胸元に手を置き、頭を下げて丁寧に言った。
「失礼、ご挨拶を。わたしはリプセと申します」
「リプセさん?俺たちはーー」
「あぁ、いいえ。あなたたちお二人のお名前は仰らなくても結構ですよ。もう知ってます」
「えっ、どうして……?」
「外にいるわたしの主とはわたしは繋がっています」
「主?」とルーネベリ。半透明な生き物は言った。
「向こうからわたしに、わたしから向こうに返らない一方通行の繋がりです。主が大変ご迷惑をおかけいたしました。元々、あんな捻くれた性格ではなかったのです。神だというのに、神々のこともまるで知らない困ったお方です」
透明な生き物は深々とお辞儀をした。ルーネベリは戸惑った。捻くれた、神だと言われて多い浮かぶ人物は一人しかいなかった。
ルーネベリは言った。
「ということは、リプセさんと繋がっているというのは、外にいる名無しの神ということですか?」
リプセと名乗った生き物は頷いた。
「その通りです。でも、名無しだなんて、主の名前をわたしは知っています」
「あの神は、どういった名前だったんですか?」
「主の名前は夢現の剣、その名は『テフォレイス』」
「テフォレイスかーー。あいつはそんな名前だったのか。教えてやるときっと喜んだだろうな……。ところで、夢現というのは?」
「その名の通り、夢か現実か区別がつかない。存在しているようで存在していない曖昧な剣」
「それはどういう意味なのか……」
「夢現だからこそ、どこにでも存在でき存在できないということです。これはとても大事なことです。夢現の剣だけは区切られた境界をすり抜けられるのです」
「すり抜けられる?」
「えぇ、世界を超えて同時に存在することもできる。夢現の剣はデハルにとって長年、必要な剣でした」
「どうして、デハルには必要だったんですか?」
「身を守るためです。デハルのあの逸脱した美貌は人間だった頃からだそうです」
ルーネベリは首を傾げた。
「人間?ーーそれはさっきも空魚が言っていました。どういうことですか。人間が神になったというのですか?」
リプセは「はい」と頷いた。
「デハルの話は彼が人間だった頃に遡ります。彼の過去を聞きますか?聞いてしまえば、もうその手にある剣をどうするかを決めなければならなくなります」
リプセがルーネベリの手元を見ていた。ルーネベリの右手はプラチナの剣が握られていた。
「えっ。剣の中にいるはずなのに、どうして剣がここに?」
リプセが言った。
「それは真実の剣ではありません。運命の女神から得た理を一度だけ巻き戻して変える力を宿した天秤の剣の一部。あなたには理を変える機会がある」
ルーネベリはそう言われて「俺は選ばれないはずだ」と呟き、アラを見た。アラは意味がわからず首を横に振った。ルーネベリは今一度、リプセに言われたことを思い返して頷いた。
「いや、そうか。『俺には理を変える機会がある」、つまり俺には機会がある。俺の手に握られているが、それはやはり俺のためじゃないはずだ。俺が俺自身のために何か一つでも理を変えると、必ず何らかの変化が起こるはずだ。その変化が波紋のように俺の過去を変えるはずだ。そうなれば、女神から理を巻き戻す力は得られない過去という結果も当然起こりうる。結局、そうなれば、俺自身のために理を変えようとしたところで、実際のところは理は変化させることもできず、女神から得た力が無意味となる。一か八かの賭けをして無駄なことをするよりも、俺にできる有意義なことといえば俺自身がこのまま過去を変えず、『誰かに』与える機会があるということか。俺は選ばれない、選ぶ方ということだったのか」
リプセは微笑んだ。
「最後のひっかけにも引っかかりませんでしたね。欲深さは身を滅ぼすのです」
「そうですね。俺に今、理を変えるほど望むものがなかったことが幸いしました」
「デハルの話を聞きますか?」
「ちょっと待ってもらえますか。ーーアラ、どうする。これから話を聞いてしまえば、俺は気持ちが揺らいでしまうかもしれない」
アラがルーネベリの肩に手を置いた。
「ルーネベリ。それでも気になるんだろう?それならば、今後悔せずに話を聞いてから考えればいい。私はどんな選択をしようとも、ルーネベリの考えを尊重したいと思う」
「アラ……」
「綺麗事に聞こえるかもしれないが、私はこの旅で己の未熟さも十分理解した。望みだけがすべてではないとわかった。とても意味のある旅だったと思っている。ルーネベリ、あとはお前の好きなようにして欲しい」
ルーネベリはアラの赤い瞳を見てから、頷いた。
「ありがとう。ここで話を聞かずに終わらせるのが最善の手だと思うんだが。名無しの神ーーいや、テフォレイスに身体を取り返せるようにすると言ったから、できるだけのことをしてやりたい」
「わかっている。そうしたいなら、そうすればいい。それがお前だ。私のことは気にするな。友人の願いぐらい叶えてやりたい」と、アラは心配するなとルーネベリを抱擁して背を優しく叩いた。
ルーネベリは思わず涙ぐんだ。
「アラ、俺の我儘を聞いてくれてありがとう。理を変える機会なんてもそうそうないんだぞ」
アラは「気にするな」と言い、ルーネベリを抱擁したままリプセの方を向いて言った。
「聞かせてくれ。デハルという神の話を」
リプセは言った。
「いいでしょう。デハルの話をしましょう」