八十六章 三人の女王
第八十六章 三人の女王
ルーネベリたちの方へ慌てて駆け寄ってきた女性は橙色の長い髪を頭のてっぺんから結っていた。駆けるたびに尻尾のように髪が揺れていた。
肌色の粗末なドレスを着たその女性は腕にまだ幼い子供を抱えていた。涎を垂らしおしゃぶりの代わりに親指を咥えたその子もまた橙色の髪をして、顔は女性と瓜二つのところを見ると親子だとすぐに見てとれた。
ルーネベリは思わず口元に手を当てていた。
「まさか、メトリアス女王……?」
女性は黒い髪でもなく、髪も縮れていない上に、化粧をしていない美しい素顔だったが、どこか人のように思えないところだけは同じだと感じた。そう、ビュア・デアへ来る前に出会ったメアトリス女王とまるで同じだ。
一体、どうなっているのだろうか。
ビュア・デアへはメトリアス女王の手を借りて来たのだ。それなのに、ビュア・デアに当の本人がいて、歩いているのだ。ルーネベリが疑問に思いながら、ふと、メトリアス女王が身体を犠牲にしてビュア・デアの外へ出たことを思い出した。
となると、目の前にいる女性の「中身」はメトリアス女王ではないのではないかともルーネベリは思った。真実の剣のように、何か別の人物がメトリアス女王の中に入っている可能性もある。ルーネベリがあれこれと短い時間で思考を巡らせていた。
女性は名を呼ばれて少し驚いたように目を見開いたが、すぐにバイランが女性の前に守るように立ち塞がり言った。
「こっちは話すことはない、帰ってくれ!」
「あなた!」とバイランのすぐ後ろまで駆けてきた女性がバイランの腕に不安そうに触れた。バイランは後ろを振り返って、女性と子供を背に隠そうとした。
ルーネベリは慌てて言った。
「いや、誤解しないでくれ。俺たち何も危害を加えようと思ってやってきたわけじゃないんだ。大事な話をしに来ただけなんだ」
「フフフ」と名無しの神がただ笑っただけでも、バイランは身体をびくつかせて女性をさらに自身の後ろに追いやった。
「違うんだ。この神の発言が怪しく思うかもしれないが、これはこの神の本当の姿ではないんだ」と言いながら、ルーネベリは真実の剣を取り出して、バイランと女性に見せた。
バイランは激しく動揺して女性を庇うように後退した。
「その剣で脅すつもりか!」
「いいや、脅しなんてしない。心配なら今、この場で地面に置く」
ルーネベリはゆっくりとプラチナの美しい剣を地面に置いた。それから両手をひらひらと振ってゆっくりと剣から離れた。
「俺は何もしない。ただ話をしにきただけなんだ」
バイランは剣を見て、ルーネベリを見た。
「話があるなら、ここで話せ。それ以上、こっちに近づくな」
「あぁ、わかった。そうする。この場から動かず、近づかない。このままの状態で話そう」
ルーネベリが頷くと、バイランは目を細めて警戒したまま言った。
「話とは何だ?」
「その前に先に説明だけさせておいてくれ」
「何をだ?」
「この神のことだ」とルーネベリは名無しの神の方を向いてから、バイランの方を向いた。
「俺はあなたたちにこの神が何をしてしまったのかは知らないが。この神は、元々、あなたたちに害を与えようとして近づいたわけじゃなかったんだ。この神は本来、そこにある剣なんだ」
バイランは地面に置かれた美しい剣に目を落とした。
「剣?」
「あぁ、剣なんだ。だが、事情があって、この剣の中には別の神が入ってしまっている。だから、この神は身体を取り戻す方法を探していたんだが、結果的に大勢に迷惑をかけしてしまったんだ。それというのも、この神は何も知らない周囲の酷い偏見に晒されてしまい、自分自身が悪であるべきだと思い込んでしまったんだ。悪を演じることで、周囲の期待にこたえようとしてしまったんだ」
「悪を演じる……。その神が見せた態度は全部演技だったというのか」
「あぁ、そうなんだ。素直にものを尋ねるということができなくなってしまって、あなた方にも迷惑をかけてしまったんだ。この神は素直に謝るなんてことはできないだろうから、俺が代わりに謝らせてほしい。本当に申し訳ないことをした」
ルーネベリは頭を前へ傾け、目を閉じた。バイランは思わずたじろいだ。神フェザティアと女神アブロゼはまさか無関係のルーネベリが謝罪するなどとは思わず、驚いていた。
ルーネベリはその後、顔をあげてバイランに向き合った。
「これで許されるわけではないとわかっているんだが。俺はこの神と剣の中にいる神を元の姿に戻してやりたいと思っているんだ。この先、二人の神が元の姿に戻ってもらわなければ、困る人が大勢出てくるだろうし。これ以上、バイランさん、あなた方にご迷惑をかけることもなくなる。それに、これは俺にしかできないことだからこそ、この世界を離れる前にやっておきたいんだ。
バイランさん、無理を承知の上で言うんだが、ぜひ協力してもらいたいんだ。いきなりやってきて、こんなことを言うなんて馬鹿げていると思われるかもしれないが、どうか機会を与えてもらえないだろうか?」
ルーネベリが警戒しているバイランを説得する姿を見て、バイランの背中から様子を伺っていた女性はフフと笑ってそれからバイランの背後から堂々と前へ出てきて言った。
「あなた、協力してあげましょう」
「メア?」
女性はにっこりとバイランに微笑んだ。
「この人、悪い人ではないわ。自分のことでもないのに、人のためにーーいいえ、神のために一生懸命な人を見るのは久しぶりだわ」
「メア、でも……」
「この方はどう見ても、今までビュア・デアへ来た人々とは違うわ。まったく目が虚ではないし。確信があるって、自分を信じている目だわ」
ルーネベリは女性に会釈してから、「俺のことはどうぞルーネベリと呼んでください」と言うと、女性も上品に会釈して返した。
「私のことはメアと呼んでくださいな」
ルーネベリは女性の目を見て言った。
「あなたは……」
「えぇ、お察しの通り。女王をしていた者よ」
「そうでしたか。あなたの中身もーー」
女性メアは上品に笑った。
「ふふ。えぇ、中身もそうよ。あなたはもう一人の私に出会ったのね?」
「はい。『彼女』の手を借りてこの世界に来ました」
「そう。『彼女』は一人だった?」
「いいえ、恋人と巡り会えたんですが……。一体、どうなっているのか……」
ルーネベリはちらりとバイランの方を見たので、メアはすぐに察したのだろう。可笑しそうに口を開いた。
「嫌だわ。ルーネベリさん、あなたは私たちの事情を知っているのね?」
「そうなりますね。もう一人のあなたが恋人と会えるきっかけを作ったのは俺たちなんです」
「そうなのね。そういうことなのね。もう一人の私がお世話になったのね。ありがとう」
「あぁ、いえいえ。成りゆき上とも言えるので……」
「それでもお世話になったことには変わらないわ。ここで立ち話するのではな申し訳ないわ。うちにいらして。ささやかだけれど、おもてなしさせてほしいわ」
「メア!」
バイランが困ったように叫んだが、メアは微笑んだ。
「あなた、大丈夫よ。この方は私たちに話があるそうだし、私も話を聞きたいの。『彼女』と離れてから大分経つから、どうなったのかも知っておきたいわ」
「メア、だけど……」
バイランは不安そうに顔を顰めたが、メアは子供を抱えたままバイランの頬に手を当てて言った。
「心配ならあなたも傍にいてくれたらいいわ。ね?」
バイランは素直に頷いた。メアは微笑んで、バイランの手を片手繋ぐと、ルーネベリたちの方を振り返った。
「ごめんなさいね、バイランは心配性なの。これまで色々とあったから」
「あぁ、お気になさらずに。ご主人のお気持ちもよくわかるので」
ルーネベリが二人の関係性を予測してそう言うと、メアは否定はせずに微笑んだ。
「ふふ、ありがとう。うちへ向かいましょう。すぐ近くだから」
子供を抱えたメアと、メアと仲睦ましく手を握ったバイランに案内されて、建設中の家々の中でとびきり大きな家の前まで移動した。
メアはまだ屋根の完成していない鮮やかな青い壁の家を見せたことを恥ずかしいと言ったが、剣士一人と神三人も引き連れて急にやってきたのだ。ルーネベリは当たり障りのないお世辞を言って、家主の気分を損ねないようにしようとしたのだが、名無しの神が「ボロ屋だ」と言った時は、ルーネベリは焦った。
メアは穏やかに言った。
「えぇ、まだボロ屋なのですよ。家具もまだ揃っておりませんし、壁には飾りもありませんの。今はみんな、余裕がありませんが、いずれ揃えていきますわ。温かい家にしたいわ」
楽しそうにそう話すメアに、名無しの神は「温かい家か」と呟いただけだった。ルーネベリが心配するほどでもないほど、メアはとてもよく出来た女性のようだった。やはり、女王だっただけあるのかもしれない。
家の中に案内すると、大きな長方形の木のテーブルと椅子が十脚もあり、壁際にも五脚ほど椅子が置かれていた。部屋の奥に台所と、別室が三つほどあるのだろう。しっかりと閉じられた青い扉が三つあるということしかわからなかったが。プライーベートをしっかりと扉で区切っているところを見ると、集落の集会所と自宅を兼ねているのではないだろうか。
メアは子供をバイランに預けた後、テーブル席にルーネベリとアラ、名無しの神、神フェザティア、女神アブロゼを案内した。
席に着いた後、メアは台所へ行き。ルーネベリは神とテーブルを囲む日が来るとは思わなかったと今更ながらに思っていた。
どうやら、それはルーネベリの左隣に座ったアラも同じだったようで。ルーネベリに近づいて耳元で「この図は凄いことではないのか」と囁いた。
ルーネベリは思わず「二度とない貴重な経験だな」と笑ってしまった。当の神である三人はルーネベリとアラの会話が聞こえていただろうに、ポカンとした顔をしていた。フェザティアには神殿でお茶をご馳走になったが、その時は子供の姿をしていたので、特別に深く考えていなかったが、そもそも神とお茶を共にすることすら凄いことだ。これまで様々な人々と出会ったが、神とお茶をしただけでも自慢できる経験になるだろう。
邪な考え事をしていたルーネベリの元にメアがお茶一式を運んだ後、何やら大きな皿を運んできた。
薄くて白い石の皿に、鏡のようにピカピカと光る薄く紺色の円形の飴のようなものが乗っていた。
メアはこの皿をテーブルに置くと、言った。
「私の故郷カヴェザアフのお菓子メテル・テテローですわ」
「メテル・テテロー?」と一同は声を揃えて言った。
メアは微笑んだ。
「えぇ、メテル・テテローですわ。ロテテ・ルテメというお菓子を元に作られたお菓子ですの」
「えっ?」と思わずルーネベリは言った。
「あら、どうなれましたの?」
「それはメテル・テテローを逆さまに言っただけじゃないんですか?」
「えぇ、そうですわ。先にロテテ・ルテメが出来て、メテル・テテローが出来ましたの」
ルーネベリは首を傾げた。
「それはどう違うんですか?」
「使われている実が違うのですわ」
「果実ですか?」
「えぇ。ロテテ・ルテメは、ロテの果実を砕いてソース上にしてから固めるのです。メテル・テテローは、メテの果実をソースにしてから、砕いて固めるのですわ」
「ロテの果実と、メテの果実があるんですね?」
「そうなんですの。元は私の姉が考案させたお菓子ですから。私がカヴェザアフで似た実はないか探させましたのよ」
「探させた?」
「えぇ、カヴェザアフにいた頃は何でも姉の真似をしたものですわね。懐かしいわ……。あぁ、取り皿が必要ですわね。ちょっとお隣に借りてきますわ」
メアはそそくさと家を出て、隣家にまで皿を借りに行った。すぐに戻ってきたメアは十枚の薄くて白い皿をテーブルに器用に並べると、言った。
「品不足で、お隣さんと協力して使ってますの。ビュア・デアにもっと品があればいいのですけれど」
「作ろうか?」とフェザティアが言った。
「構いませんか?お皿は千枚ほどあれば嬉しいですわ。あと、ティーカップとティーポット、あとベッドに、毛布に、服も沢山あると嬉しいですわ」
「いいよ。どこに置けばいい?」
「じゃあ、外に置いていただけませんか。皆さんが自由に持って行けるようにしたいわ」
フェザティアとアブロゼが席を立ち、メアと共に家の外へあっという間に出て行ってしまった。
バイランは溜め息をついて、近くの椅子に座り込んだ。
「メアは昔から気立がいいんだ。いつも他の人のために走りまわっている」
ルーネベリは言った。
「だから、惚れたのか?」
その言葉にバイランは顔を赤らめて、咳払いした。
「どこから聞いた?」
「もう一人のメアさんから聞いたんだ。まぁ、聞いた話とは随分違うようだが……」
「どんな話だ?」
「バイランさんがメアさんに惚れて、メアさんの恋人シトゥーに嫉妬して二人を引き離したと聞いたんだが。どう見ても、メアさんと、バイランさんは夫婦に見えるんだが」
バイランはまた顔を赤らめた。
「メアとはパートナーだ」
「なるほど、パートナーなんだな」
バイランはさらに顔を赤くした。バイランに抱えられている子供がバイランの赤い頬に触れると、「あちゅい」と可愛く呟いた。
バイランは恥ずかしいのかルーネベリをキッと睨みつけた。
「馬鹿にしているのか?」
「いやいや、そんなわけないだろう。ただ、どういう関係なのか聞いただけだ。惚れた人とパートナーになれてよかったな」
「あぁ」と短くバイランは言うと、顔が爆発するのではないかというほど顔を真っ赤にさせて言った。
「ずっと好きだった人だ。幸せこの上ない」
ルーネベリは笑って言った。
「その子の父親なんだろう?二人の間には子供までにいるのに、なんでそんなに照れているんだ?」
「未だに慣れないだけだ。何千年と想いつづけてきたんだ。想いが成就するなんて今でも日々夢のようだ」
「長寿なんだな?」
バイランはルーネベリを見て言った。
「そうか?」
「俺たちーーあぁ、まぁ、先生は違うが。まぁ、今はいないんだった……。大体俺たちの世界では寿命は百年前後だからな。そんなに長い片思いをしていたら、あっという間に寿命を迎えてしまう」
「短い生涯なんだな」
「まぁ、そうだな」
「長い間、メアは女王だったから、パートナーになんてなれないと思って諦めていた」
「そうなのか?でも、聞いた話では……」
「シトゥーに嫉妬はした。でも、二人を引き離したことにはわけがある」
「わけ?」
「それも聞きたいのか?」
「できれば、ぜひ!」
バイランは首を傾げて肩をすくめた。
「知りたがり屋だな」
「俺は学者なものでね」
「学者?」
「何かを詳しく研究する者とでも思ってくれ」
「研究する者か。昔、そういう者も城にいたな。私は元々、宰相をしていたんだ」
「えっ、宰相?」
「メアの姉君、フアザェヴカのスアリトメ女王陛下の宰相だった。メアを知ったのも、スアリトメ女王陛下の城にいたからだ」
「スアリトメ女王……。俺の気のせいか?スアリトメ女王と、メトリアス女王。名前が逆さまになっているだけじゃないのか」
バイランは少し口を閉ざしてから言った。
「二人の女王陛下の話は知らないのか?」
「二人どころか、女王が三人もいたとはついさっき知ったところだからな」
「三人?」
「メトリアス女王が二人いて、姉君のスアトリメ女王だろう。まだ、他にも女王がいるのか?」
バイランは笑った。すると、バイランの腕の中にいた子供も父親の真似をして笑った。
「元々は、お二人しかいなかった。姉君のスアトリメ女王陛下と、妹君のメアのお二人の姉妹だけだ」
「そうなのか?」
「二人は鏡を隔てたフアザェヴカとカヴェザアフという二つの世界に君臨していた」
「なんだか、俺たちが旅をしてきたユソドとライナトのようだな」
バイランは首を横に振った。
「その二つの世界は知っている。その二つの世界とは比べものにならないほど、フアザェヴカは美しい世界だ。フアザェヴカは『光の奇跡の世界』と呼ばれている。虹の柔らかな光に年中満ちて、虹光の雨が結晶化して作られるフアザェヴカの白い水晶も有名で、フアザェヴカの水晶の冠を神より頂戴すれば『賢王』となり、花の腕輪を戴くと『聖なる姫巫女』になれる。そのうえ、水晶から出る雫を一万年かけて貯め、ようやく『復活の秘薬』という妙薬が作られる。秘薬を求めて大昔から他の世界からの使者が絶えない。冥闇の世界カヴェザアフとは反対の世界だ」
「カヴェザアフはどんなところなんだ?」
「あの明るいメアが君臨していたと思えないほど、陰気な世界だ。カヴェザアフは闇と鏡の水晶に覆われた世界。フアザェヴカの『復活の秘薬』があるなら、カヴェザアフには神も恐る『死の秘薬』がある。メアの鏡はーー」