十六章
第十六章 最高僧
細い霧の道は、いくつもの道と空中で交わっては、どこかへと永遠と繋がっていた。ルーネベリはしゃがみ込み、進むべき一本の竜の道に手に触れた。ルーネベリたちの立つ道のずっと先を目で辿ると、六角柱の向こうへと続いているのがわかる。この道さえ見失わなければ、大丈夫だ。一度辿った景色は覚えている。きっと、神殿に辿り着けるだろう。
ルーネベリはミースに言った。
「お前は城に戻っていろ。俺が戻るまで、じっとしているんだぞ」
「えっ、でも……パブロさん!」
ルーネベリは「城に戻っていろ」ともう一度言って、竜の道を走っていった。突然、平地を走るように行ってしまったルーネベリを追うこともできず、ミースは空中で立ち往生していた。
「こんな事になるなんて」と、ミースは頭が真っ白になって喘いだ。ただでさえ空中にいるのが怖いのに、一人ぼっちになってしまった。おまけに、気のせいかもしれないが、戻ろうとして、空中から落ちた気もするのだ。ミースは顔面蒼白になって、一歩も動けず。じっと動かず。それをどれくらいつづけたのだろうか。
「おいおい、兄ちゃん」
城の脇から、荷物を両手に抱えた誰かがやってきた。ミースは助けが来たといわんばかりに内心、おおいに喜んだ。
「何やっているんだ?」
「あっ、あなたはあの宿の……」
「とにかく、まぁ、見つかってよかった」と、宿屋の主人はトランク一つ、形の崩れたボロボロの皮布を地面に置くと、息を吐いた。
「あんたと一緒にいた、赤い髪の兄ちゃんがルイーネさんの荷物を籠の中に忘れていっちまったもんだから。後から追いかけたんだが、城には誰もいなくてよ。それで、どうしようかと思って宿に帰ろうとしたら、城の外で、誰かがつっ立っているだろ。どうしたもんかと見に来てみたら、どうだ。赤髪の兄ちゃんと一緒にいた子がいるじゃないか」
「わざわざ届けに来てくださったのですか。後で、城の部屋に運びます」
「引き取ってくれるなら助かる。荷物を部屋に戻していいのか、わからなくて困っていたからな」
「ありがとうございます。そこに置いていってください」
「あぁ……。ところで、さっきからそこで何をしてるんだ?」
主人がミースを不思議そうに見て言った。
「そこに、何かあるのか?」
「いいえ、何もありません。ただ、今から城に戻ろうと思っているんですけど……、戻れなくて。手を貸してもらえないですか?」
真顔でそう言ったミースに、主人は「あぁ、そういうことか」と頷いて、荷物を置いたまま陸地から空中を歩いてミースのところまで行くと、手を差し出した。
「たまにいるんだよな。竜の道をむやみやたらに歩こうとする連中が」
ミースは自分のことを言われているのだと思い、顔が火照るのを感じた。これも、神殿に行こうと言ったルーネベリのせいだと、主人に言いたかったが。この場にいない、ルーネベリを責めるのも格好が悪い。早くこの場から逃れ、陸地に着くことだけを考えようと、ミースは自分自身を思いとどまらせた。
「悪いことはいわない。竜の道を歩こうなんざ考えない方がいい。少しでも間違えたら、窪みに真っ逆さまだ」
ミースは我慢しながら「はい」と答え。主人の手を掴んでよたよたと陸地へ向って歩き出した。ほんの数メートルだ。主人の手を頼りに陸地に着くと、ミースはさっそくと地面に座り込んだ。
「もう二度と、竜の道など歩こうとは考えません」
主人は「もう、こりごりか」と笑っていた。
そんな主人に、ミースは不快に感じていた。「こっちの苦労も知らないで」という気分だったのだろう。ミースは立ちあがると、両手でトランクを持ちあげた。だが、宿屋の主人のように軽々とはいかず、手首の筋が切れそうなほど浮き立ち、やっとのことで持ちあげていた。腕が重みに耐えかねて震えていた。リュックなんてとてもじゃないが、もてそうになかった。不憫に思った主人が言った。
「手伝おう。兄ちゃんの細い腕じゃあ、運びきれないだろう」
ミースは不機嫌な顔をした。女性扱いされているのではないかと思ったのだ。けれど、重い荷物などあまり持ちなれていないのは事実だった。もともと、魔術師の家系として育ったのだ。肉体労働おろか、運動などほとんどしたこともない。五冊の本より重いものはもったことがないのだ。
ミースはトランクを置いて、「お願いします」と言った。
結局のところ、主人の好意に甘え。荷物を宿泊している城の部屋まで運んでもらうと、ミースは扉を開けて、「どうぞ」と言った。
宿屋の主人は部屋に入るなり、興味深く部屋中を見まわしていた。木造のベッド二つと棚、そして、丸い机を挟んで椅子が二つあるだけだった。賢者が寝泊りする客間より一回り以上小さかったが、民間人が泊まる、敷き詰められたベッドしかない仮床の間よりも随分、快適そうだった。
「ここが豪商の部屋か。思ったより、何にもないところだな」
「はじめて来られたのですか?」
「あぁ、ここにははじめて来た」
「城にはあまり来られないのですね」
「桂林様にお仕えしているわけでもないんだ。特に用もないからな、城になんてほとんど来ない。荷物はどこに置こうか?」
「そこに置いてください」
ベッドの脇をミースが指差した。主人は頷き、ベッドの脇に荷物を置こうと屈んだ。 ミースは言った。
「お茶でも飲みますか?」
部屋に備え付けられていた棚から、ポットとカップを取り出し「侍女の方に言って、お茶をもらってきます」とポットを持ったまま、扉の方へ歩いていった。顔だけ振り向いた主人が、「なんだか、すまないな」と言った。肩をすくめ、ミースは扉を開いた。その直後に、ガチャガチャンッと、大量のガラスがぶつかる床に音がした。ミースは振り返った。どうやら、余所見をした主人がトランクの中身をぶちまけてしまったようだった。
「あぁ、やっちまった。なんてこった」
首を横に振りながら疲れたようにため息ついた主人は、「鍵が開いているとは思わなかった」と、空になったトランクを横にねかせ、片面を開いたまま置いた。生憎、瓶はどれも割れていなかった。「今、ぜんぶ拾うからな」と、主人。
「いいえ、大丈夫です」
ミースはポットを近くの棚に置き。主人とトランクの傍までいくとしゃがみ込み、トランクから落ちた栓のされたたくさんの瓶を主人と一緒になって拾い集めた。トランクの中には、旅支度でも入っているかと二人は思っていたが、何が入っていたのだろうかと思うほど、同じようなくぐもった瓶ばかりが床に転がっていた。あきらかに、鱗の採取とは別の用途があったようだ。
多くの瓶の中から一つの瓶を見つけ、手に取ったミースは「これ……」と、呟いた。
「どうしたんだ?」
ミースは少し中身の残った瓶の栓を抜き、中のにおいを嗅いだ。そして、「あの香りだ」と瓶の底に溜まった、濁った薄っすらと緑の液体を指して言った。
「それがどうかしたのか?」
「叔母は三日、いえ、四日前まで宿にいたのですよね?」
「あぁ、そうだが」
「様子はどうでした?叔母は、怪我などはしていなかったでしょうか」
「怪我?突然、何の話なんだ」
「これは叔母がよく作ってくれた、痛み忘れの薬です。どこにでもあるような葉をすり潰したような香りで、子供の頃、叔母がよく作ってくれたものなんです」
「どういうものに効くんだ?」
「小さな痛みから大きな痛みまで、どんな痛みにも効きます。でも、怪我や病気が治ったわけではないので、一時的に痛みを誤魔化すものでしかないんです」
主人は唸った。
「俺が見たかぎりじゃあ、ルイーネさんの見た目は、元気そうだったがな。魔術師はローブかマントを着込んでいるから、怪我をしていても、わからなかったかもしれないが」
ミースはリュックをひっくり返した。中から、丸められた細長い布がいくつも落ちてきた。布には黒く変色した血がびっしりとついていた。主人は血のついた布を手に取った。
「こりゃ、大怪我じゃないか。こんなに出血していたら……」
主人がミースの目を見上げた。
「誰にも気づかれず。怪我を負ったまま、一年間ずっとこの世界に……」
どんなに心細かっただろうかと、ミースは嘆いた。
「叔母は、パブロさんに『神殿に答えがある』とメモを残したのですが。私たちが昨日、神殿に行った時、叔母はいませんでした。もし、どこかに隠れていたとしても、傷を負った身で、そんなに長く何にもない神殿にいられるとも思えません。きっと、神殿にはいないのでしょう」ミースは言った。「叔母があなたに言ったように、城にいる誰かに会いに行ったにちがいありません。もしかしたら、叔母の会った人物が、行方を知っているかもしれません。けれど、大傷を負った身で、一体、誰に会いに……?」
ミースの話を聞いていた主人は、あきれるほど深くため息をついた。
「ルイーネさんが会いそうな人物たってな。この城には、王族やごくごくわずかな貴族やら金持ちしか来ない。軍師もいるが、軍師なんてものは名ばかり。だいたい、この世界に軍師がいるっていうのも奇妙な話だ」
「そうなんですか」と、ミースは眼鏡をもちあげた。
「あぁ。俺たちはこの世界で田畑耕し、商いやらして、毎日を何事もなく暮らしている。竜だって卵を狙わないかぎり、竜族の俺たちを襲ってきやしない。なのに、軍師がいるっているのは変な話だろう。この世界に敵なんてものがいるか?」
ミースは頷いた。時を止めた人物のような、この世界に敵がいるのだろうか。もし、この世界に戦うべき敵がいるなら、竜族の人々は常日頃からなにかしら、戦士として鍛えられているはずだ。それ以前に、三大賢者が黙っていないのでは?
「軍師はいつからいるんですか?」
「俺の生まれる前からいたそうだ。軍師がいるのも、僧が力を持っているのも、皆、不思議に思っているんだ」
「僧が力を持っているのは、竜神様という神にお仕えしているからではないのですか」
「この世界じゃあ竜神様の信仰はあつい。でもな、僧は一介の殉教者だ。力なんて持ってどうする。僧の中でも、もっとも力を持つのは阿万僧侶だ。あの僧侶はちょっと……」
「ちょっと、何ですか?」
主人は瓶をトランクに入れ、首を撫でた。
「阿万様は恐ろしい人だ。魔術のようなものを使って、巧みなまでに人を惑わす才能がある。都人の半数は、阿万様を恐れて関わり合いにならないようにしている。後の半数は、何も知らないもんだから、竜神様の使いだと思ってやがる。お気楽なもんだ」
「まさか、阿万僧侶は魔術が使えるのですか?」
主人は「とんでもない!」と、手を振って言った。
「あの人も竜族だ。魔力なんてものは竜族が使えるわけもない。それに、魔力は竜族には効かないのさ。それをどう勘違いしてんだが、ほとんどの連中が魔術でも使ったと信じ込んでいる」
「魔力が効かない?そんなことってあるのですか」と、ミースは聞いた。主人はミースに肉のたっぷりついた腕を見せ、指でひとすじの線を描いた。
「兄ちゃん、俺たちの身体にはほんのわずかに冰力が含まれている。ビジェフ……俺の友人が言うには、この世界の水は他所の人間には毒らしいが、俺たちには免疫があるそうだ。その免疫とやらは、この身体の中にある冰力だと俺は思っている。
どういうわけか、冰力は魔力もはね退けちまうんだ。この世界にはよく鱗を取りに魔術師が来るが、竜族は誰一人襲われたことがない」
主人は「ごくたまに、魔術師がひっくり返っているのは、よく目にしたがな」と、笑い話をするかのように言った。
「力は使えないが、竜族は冰力に守られている」
「冰力にはそんなことができるのか」
ミースは親指を噛んだ。「それなら、魔力が竜族に効かないというなら、魔術師は竜族にはかなわないことなります。怪我を負った叔母は守ってもらうために、誰かに助けを求めに行ったと考えると」
「そう考えると、辻褄が合うな」
「それじゃあ、叔母が会いに行ったのは……、阿万僧侶?」
「いやぁ。一年も宿にいたのなら、阿万様の話ぐらい耳にしているだろう。助けを求めるなら、軍師だと俺は思うが」
「玉翠さん?」
「軍師がいる理由は知らんが、玉翠さんはいい人だからなぁ。きっと、親身になって話を聞いてくれるはずだ」
「そうですか。玉翠さん……、玉翠さんとは城の外で会いました。どこに行くと言っていたかな……」
眉間に絞るように皺をよせても、竜の道を歩くという恐怖しか思い浮かばなかった。とりわけ、玉翠がどこへ行くのか考えていなかったからだ。主人は言った。
「赤髪の兄ちゃんはどこに行ったんだ?」
「神殿です」
「何か言われたかったのか?なにかをしろとか」
「城で待っていろと言われました」
「だったら、下手に動かず、赤髪の兄ちゃんの帰りを待ってみたらどうだ。軍師なんだ、城には必ず戻ってくるだろうから。赤髪の兄ちゃんが戻ったら一緒に会いにいけばいい」
「でも、叔母は怪我をしているんですよ!一刻も早く、見つけないと」
「まぁ、そう焦らずに。一年間耐えた気丈な人だ。心配するのはわからんでもないが、いなくなったのか、隠れたのかは知らないが、メモを残したってことは、何かわけがあってのことだろう。今は、落ち着いて帰りを待ってみたほうがいい。変に動いて、状況が悪くならないともかぎらんだろう」
ミースは口篭った。主人の言うことには一理あった。ガーネがいなくなった時は、どうにかしようと躍起になっていたが。今は何をするにもひどく不安に思うだけだった。瓶を次々とトランクに入れ、主人はトランクを閉め。包帯をもリュックにしまった。ミースはリュックを見ながら、無力な自身を責め、叔母の無事だけを願った。
時の置き場の空中では、透明な液体が波打ちながら、術式の中心よりやや真上へと流れていた。ちょうど、シュミレットの頭上にポチャポチャと浮ぶ球に注がれているのだ。球は二つの拳をあわせたぐらいの大きさだった。時の石から流れでてくる液体は、追うごとに、ロープほどの太さから細い糸のようになっていった。そうして、いつしか、糸のような微量だった液体が点々と途絶え、石からは何もでなくなった。
遂に、シュミレットが時の石から魔力を出しきったのだ。茶色い岩の下から上へと赤い光りが走り。すぐさま、時の石に記されたすべての針が息を吹き返したように動き出した。針が示す。世界の時が動きだしたのだと!
時が動きだしたその衝撃波が、数秒後、時の置き場に発生した。あまりの衝撃波の強さに立っていられなくなったシュミレットは吹き飛ばされ、頭上にあった魔力の塊は弾け飛んだ。桂林は「おぉ、戻ったぞ」と衝撃波をなんともせず、立ったまま天に手をかかげ、喜びの声をあげた。
一瞬、体温が急激に上がり、急激に下がった。吐き気がするほどの乗り物酔いに襲われた。よろける身体を右足で支え、口元を手で覆ったルーネベリは、目の前にある竜の道がしだいに薄れ消えていくのを見た。遠くで、轟音が聞える。勢いづいた水が、六角柱から噴出しているのだろう。少年僧が《時が戻れば、坊の瞳は神殿に戻る》と言っていたことが現実で起こりはじめていた。
「時が動きだしたのか」
ルーネベリは吐き気を我慢し、急がなければと、竜の道のくだりを一気に駆けおりた。神殿のある藁がもうすぐそこに迫っていた。けれど、くだりの半分も行かない所で、竜の道は完全に見えなくなっていた。ルーネベリは記憶を頼りに走り抜けようとしたが、あと一歩のところ、道ではない空中に足を踏み出してしまったばかりに、地面へと落下した。「いたたた」ルーネベリは薄く水のひかれた地面に、足と頭をかばった腕をぶつけた。しかし、今は痛みにもがいている時間もない。ルーネベリは痛む腕を手で押さえ、堪えながら、藁の島の方へ早歩きしだした。何歩か歩いていると、ずぼりと片足が取られた。つんのめりながらも両手をつき、なんとか転ばずにすんだ。
「そうだった。窪みがそこらじゅうにあるかもしれない……」
ルーネベリは足を窪みから抜き、立ち上がると、地面に目を落として穴のような黒い陰がないかを見確かめながら、神殿のある藁の島へと向った。
次回、十七章!
ルーネベリが辿り着く神殿で、一体何が待ち受けているのか……
クライマックスに向けて、徐々に話は進む!