七十二章 世界の狭間で
第七十二章 世界の狭間で
リスデアは笛を吹いた。朝風のような爽やかなリスデアの笛の音に合わせて緑の窓から植物の枝が数本捻れ絡まり合いながらユソドの世界が見える方へと手を伸ばすように伸びていった。
ヒリスディアは赤いドレスの繊細なスカートを手で切り裂いて短くした。そして、切れなかった生地を腰に巻きつけると、すらりとした素足で絡み合った木の枝の上に軽々と登った。それから、後ろを振り返って言った。
「ありがとうございます。リスデア様、この御恩は生涯忘れません」
リスデアは笛を下ろし、口元を綻ばせて首を横に振った。
「この枝の先から向こう側に飛び込めば、向こう側に行けるかもしれないが。本当に向こう側に行けるかは私は知らない。飛び込んだら、最後ーーということもあるかもしれない。でも、それでもヒリスディアは行くのだろう?」
「はい。たとえ、私の身がどうなろうと、この機会を失えば永遠に後悔します。それなら、私は私のすべてを懸けてみたいのです」
リスデアは穏やかな顔をして頷いた。
「あの時のことを思い出す」
「はい?」
「ヒリスディア、覚えているか?私たちの『エナリーの民』の名の由来を」
「はい。遥か大昔、ライナトへ訪ねてきたアーミアという人を助けた時、授かったと聞いています」
「それじゃあ、そのエナリーの意味は知っているか?」
「……いいえ。真の意味を知ってはならないというのがエナリーの民の掟で……。今さら、私が掟を語るのはおかしいですね」
苦笑いしたヒリスディアに、リスデアは小さく笑った。
「掟を破るついでだ。私も告白しよう。私は友人たちと掟で行ってはならないとされているエナリーの聖域に長老に黙って忍び込んだことがある」
「リスデア様がそんな危険なことを?」
「私にだってそういう一面もある。あの時は本当に楽しかった。ーー私たちは聖域にある石碑を読んだ。石碑には、助けたアーミアがエナリーの民を『勇気ある人』と称え名付けたと刻まれていた。私たちの先祖が何をしたのかは削り落とされていたが、短い命を燃え尽くそうとも強い意志で願いを叶えようとする姿は素晴らしいと刻まれていた。ヒリスディア、どこへ行こうともエナリーの民であることを誇りに思って生きてほしい。最後の瞬間まで」
「きっと、きっとそうします」
リスデアは笛を口元に近づけた。
「向こう側へ渡るまで、気休めかもしれないが、ヒリスディアを守るために私が笛を吹こう。ヒリスディアは振り返らずに思いっきり飛び込んでくれ」
「はい。ーーこれでお別れですね、リスデア様」
「今まででありがとう、ヒリスディア」
「いいえ。私の方がずっと……」
「もう言わないでくれ。ヒリスディアの願いが叶うことを私は願っている。だから、ヒリスディアも私の願いがいつか叶うことだけを願って生きてくれればいい」
「はい、きっと。生きて向こう側へ行けると信じて、私は行きます。さようなら、リスデア様。さようなら、エナリーの皆。さようなら、ライナト」
「さようなら、ヒリスディア」
ヒリスディアが絡まった木の枝の上を慎重に小走りしはじめた。リスデアはヒリスディアの美しい背中を見つめながら、笛を吹いた。心を込めて、去りゆく対だった女性に最初で最後の特別な贈り物をするかのようにリスデアは笛を吹いた。
リスデアの優しく暖かな笛の音が見えない間に空中に波紋のように広がり、ヒリスディアの元に達すると、薄いオレンジ色の光が日リスディアの周囲を取り囲んだ。ヒリスディアの身を守るように幾重にも幾重にもオレンジ色の光は重なりヒリスディアを守っていた。
その頃、ユソドではルーネベリが寒さで身体を震わせていた重傷のヒテンを抱えて広大な白い大地を懸命に走っていた。息を切らして、脇腹に痛みを感じてはいたが、今は奇力体であるから気のせいだとルーネベリは己に何度も言い聞かせながら走っていた。
走るたびに地平線上に見えるライナト側を映し出す七色の鏡のようなものがわずかに小さくなっていくようにルーネベリは思えてならなかった。
「ーーはぁ、頼む、間に合ってくれ」
もしかしたら、また消えるのかもしれない。ただ、重なり合った箇所が小さくなっただけかもしれない。考えられる可能性はいくつもあったが、実際に起こっていることが何なのかは誰もわからない。ただ、時間がないのだろうということしかわからなかった。
コロモロロトが旅立つ前に、ルーネベリはどうにかヒテンとヒリスディアを引き合わせたかった。それだけだというのに、なぜこれほどまで距離があるのだろうか。走っても走っても、尚、遠くに映像が見えるだけだ。焦る気持ちのせいか、ルーネベリは忙しなく色々と考えてしまった。
走りながら何度か地面と映像を見ていると、映像の中からこちらへ向かってくる赤い服の人の姿が見えた。
「あっ、あれは!ヒリスディアだ」
「……ヒリスディア?」
思わず叫んだルーネベリに、抱えられていたヒテンも自由に動かない身体を捻り、ライナトが見える方を向いた。
ルーネベリが言った通りライナト側でもヒリスディアが何か緑の太い枝のようなものの上を歩いているのかこちらに向かってきているのがわかった。
ルーネベリはなんだか微笑ましくて少し笑って言った。
「ヒリスディアも俺たちと同じようなことを考えていたんだな」
「ーールーネベリ?」
どういうことなのかわからないといった顔をしたヒテンに、ルーネベリは微笑んだ。
「ヒリスディアもこちら側に向かっているんだ。もうわかるだろう?ヒリスディアもきっとヒテンと同じように、これで終わりにしたくなかったんだろう。会えなくなるのが辛いんだ。お前たちはやっぱり両思いだ」
ヒテンは顔を真っ赤にした。
「ーーいや、まだはっきりはわからないな。ヒテン、彼女に想いを伝えるんだ。きちんと伝えて、確実な返事を貰うんだ。そしたら、すべてきっと丸く収まる。普段、ほとんど走らない俺の努力が報われるように、ヒテンも心を決めてくれ。最後の機会だと思って……」
「最後の機会……」
ヒテンはかろうじて動く指先をぎゅっと握り締めた。
ルーネベリは走るペースを少し早めた。喉が乾き、肺がぜいぜいと苦しかったが。気のせいだと思い込むことしかできなかった。
ヒリスディアはリスデアの笛の奏を聴きながらユソドの世界を映し出す鏡のような不思議なものの前に辿り着いた。ライナトとユソドが重なり合っているのはこの箇所だとヒリスディアは知識がなくともわかっていた。絡み合った木の枝はこれ以上先ヘはつづいていないが、この鏡の向こう側に行くには通り抜けなければならない。そこに何があるのかはわからないが、そこを越えていかなければヒテンに会えないのだ。
ヒリスディアは怯えながらも華奢な手を鏡に伸ばした。ヒリスディアの手がユソドを映しだすそれに近づくほど、得体の知れない七色の鏡は揺らいだ。ヒリスディアは手を引っ込めた。そして、一度目を閉じて深く呼吸をした後、思いっきり鏡の向こう側へ飛び込んだ。この一瞬ですべてが終わるかも知れないと思いながらも、ヒリスディアは向こう側へ行きたいという想いを強く心に念じた。
「あっ?」
ユソドでは、映像からヒリスディアが消えたのがわかった。ルーネベリの声を聞いて、ヒテンは声を振り絞って言った。
「ヒリスディアの身に……。何か、あったの?」
「いや、わからない……」
ルーネベリはそうヒテンに答えながら、走りながら少し考えた。
先ほどまでヒリスディアはこちらに近づいている様子だった。もしかしたら、ルーネベリたちよりもずっと七色の鏡の近くにいたのかも知れない。こちらからヒリスディアの姿を見えないということは、鏡から遠ざかったか、あるいは、鏡の向こう側に到達したということではないのだろうか。二つの世界が重なり合う部分にもしもヒリスディアがいるとしてーー。
一つの時間軸から派生した並行世界の一つ、一つしか存在しない時間軸の世界が重なる箇所では一体何が起きるのか。ルーネベリはまるで考えていなかったと気づいた。
そもそも冷静に考えてみると見えているものがすべてではないはずだ。映像によって映し出されている箇所というのは、重なり合った部分を省いた向こう側なのではないだろうか。つまり、重なり合った部分の影響によって蜃気楼のごとくユソドからライナトの景色が見え、ライナトからユソドの景色が見えていたとすれば、実際に存在しているものは見えている距離よりも非常に遠い可能性もある。いや、可能性ではない、重なり合った箇所の距離を含めれば相当な距離のはずだ。
ルーネベリは立ちどまった。ヒテンは抱えられながらルーネベリを見上げた。
「ルーネベリ?」
「ちょっと待ってくれ。あまりにも簡単に考えすぎていた。いくら走っても間に合わないかも知れない」
ヒテンは目を見開いた。
「はぁ……、はぁ、間に合わない?もうヒリスディアとは会えないの?」
ルーネベリはむしゃくしゃして髪をかきあげたかったが、ヒテンを抱えていてできそうにもなかった。とりあえず、ルーネベリはヒテンを地面に降ろした。
「悪い。俺は失敗してばかりだな。もう少しニキルと話をしておけばよかった。そうすれば状況がもう少し把握できていたかも知れない。いや、それだけじゃないな。ヒリスディアに会わせると豪語していたのに、俺は……」
ヒテンは痛む腕を弱々しく動かしてルーネベリの腕を掴んだ。
「ルーネベリは……はぁ、僕のために走ってくれた。想いは伝えられないのかも知れないけど……僕は彼女の姿を見られてよかった」
精一杯笑ったヒテンにルーネベリは胸が痛んだ。もっとよくよく考えれば他にも方法はあったのではないかと思うと、ルーネベリは居た堪れず、ヒテンの上半身を支え、抱えようとした。
「もう少しだけでも走ろう」
ルーネベリがそう言った瞬間、見えていた向こう側の映像が消えて、空を覆う暗闇が晴れた。
全身から血の気がひいた。ルーネベリが振り返ると、既にライナトの世界は見えなくなっていた。
間に合わなかったーー。
そうルーネベリもヒテンも思い項垂れた時、地面が大きく揺れた。何事かと二人が戸惑っていると、足元からあのコロモロロトの白い大きな触手がぬっと地面から出てきて、二人を地面の中へと連れ去った。
絶望的な気持ちの中、 再びコロモロロトの中へ戻ると、白い壁の白い長テーブルが幾つか並んだ工場のような場所に通された。そこには既にニキルとシュミレット、アラ、バッナスホート、リカ・ネディ、オルシエがいた。
彼らは困ったような顔でこちらを見ていた。ルーネベリも重傷のヒテンも皆に何と言えばいいのかわからずに、ヒテンの身体を床に寝かせて座り俯くことしかできなかった。
ルーネベリとヒテンの元に近づいてきたニキルが言った。
「ヒテン、身体は大丈夫。治る。でも、今は治すのは難しい。客が来ている」
「……はぁ、僕に、はぁ、お客さん?」
ニキルはルーネベリとヒテンの背後を見た。二人は一体誰がこんな時にヒテンを訪ねて来たのだろうかと振り返ると、二人はぞっとした。
二人の背後に立っていたのは、悍ましいほど血色の悪い不気味な姿をした女性だった。
黒い縮れた長い髪は幾重にも重ねられた汚れた黒いロングドレスよりも長く、地面に引きずり塵を絡めていた。黒いレースのついた小洒落た黒いティアラを頭に飾り。真っ赤な唇に、ルーネベリやアラたちよりも鮮烈な真っ赤な瞳が宝石のように輝いていた。美人といえば美人だが、生気のない真っ白な肌は陶器のようにひび割れていた。どこか人ではないような気がした。
ふと、目線を落とすと、女性は黒いレースの手袋をしており、何か手に持っている、いや、掴んでいることにルーネベリは気づいた。
人の容姿を気味が悪いなどと失礼なことを思ってしまったが、きっとその手に掴んでいるもののせいかも知れない。女性は華奢な手首を掴んでいたのだ。それもまるで人形を掴んでいるかのように、床に引き摺って……。
「あれ?」
女性が掴んでいる手が誰のものだろうと辿っていくと、白い髪が見えた。細身のその姿は女性のようにも思えた。その人物の髪は短く、肩まであるかどうかだった。顔は髪に隠れて見えなかった。意識がないのか、俯いてだらりと身体を横たわらせている。白い服を着ていて、短いスカートから綺麗な足が見えていた。
黒い縮れた長い髪の女性はスッともう片方の黒いレースの手袋を嵌めた手を持ち上げて、重傷のヒテンを指差した。
《ーーソなたが、ヒテンか?》
目の前にいるというのに、身体の内側からやや発音が風変わりな優しく可愛らしい女性の声が響いた。
「僕がヒテンだよ。はぁ……、君は?せっかく訪ねてくれたけど、僕はこんな調子だから……はぁ。今は……」
《愛おしイ》
ルーネベリは思わず「はっ?」と声を漏らしたが、黒い縮れた髪の女性は気にするわけでもなく、ヒテンの方へドレスと髪を引き摺りながら、手首を掴んだ人物を引き摺りながら近づいて行った。そして、ヒテンとルーネベリを見下ろした。
《懐かしク愛おしイ声が聞こエたと思えば、人違いだっタ。妾の名はメトリアス・アニウィリテ・カヴェザアフ」
ルーネベリは慌てて聞き返した。
「メトリアス?メトリアスの鏡の?」
返事をしたのはニキルだった。
「そう、カヴェザアフの冥闇の女王メトリアス。その人が訪ねてきた。驚いた」
驚いたというわりに、ニキルはまるで表情を変えなかった。ルーネベリは言った。
「確か、鏡の中にいるという話だったが。どうやって、ここへ?」
《鏡があれば何処ヘも行ケる》
「鏡?あぁ、そういえば先生が持っていたメトリアスの鏡があったな。鏡があればどこへでも行けるのか。なんて便利なーーあぁ、横から口を挟んでばかりで申し訳ない。ヒテンに何かご用があるんでしょう。俺たちは席を外した方がいいのではないですか」
黒い縮れた髪の女性は上品に微笑んだ。その笑みは美しく、ルーネベリはどきりとしてしまった。
《妾はすぐに立ち去ル。ヒテンの元へ連れて来タだけ。愛おしイと、会いたイと、側に行きたイと叫んでいタ》
女性は掴んでいた手首をぐいっと引っ張り持ちあげた。なんという腕力だろうか。掴んでいた人物の身体ごと軽々と持ちあげたのだ。だらりと力なくぶら下がる人物の姿を見て、ようやくその人物の容姿が見えた。顔は深い皺に覆われ老いているようにも見えるが、身体は若く見える。不思議な人物だ。
ヒテンがその人物をじっと見つめて、それから呟いた。
「ヒリスディア……」
「えっ?」
ルーネベリはその人物をまじまじと見たが、あの美しかったヒリスディアの見る影もなかった。しかし、それなのに、ヒテンはその人物がヒリスディアだとわかるようだ。
ヒテンは涙を流した。
「……はぁ、メトリアスさん、ありがとう。ヒリスディアを僕の元へ連れて来てくれたんだね。悔しいけど、今の僕は彼女を抱きしめられることも、腕を伸ばすこともできない。お願いだから、彼女を僕の側へ……」
黒い縮れた髪の女性はにっこりと微笑み、意識を失ったヒリスディアらしき人物をヒテンの胴体の上に横たわらせた。
ヒテンは「ありがとう、優しい人」と礼を言うと、黒い縮れた髪の女性は首を傾げた。
《姿が変わっテも、わかるの?》
「……わかるよ。僕にはわかる。彼女がどんな姿になろうとも、僕は必ず彼女だとわかる。心から愛しているんだ」
黒い縮れた髪の女性はただ黙って負傷したヒテンと、その上で意識を失ったままのヒリスディアを見つめていた。
ヒテンは呟いた。
「彼女の元へ僕が向かえばよかった……。そうすれば、ヒリスディアがこんな目に会うこともなかった。余計なことを考えずに、素直に彼女に想いを伝えておけばよかった。二人で考えれば何かいい方法を見つけられたかも知れない。僕は本当に臆病者だ……」
嘆くヒテンにニキルが言った。
「大丈夫。ヒリスディアもコロモロロトの民になれば、元の姿を取り戻すことができる。彼女の血と肉が記憶している姿を蘇えらせる」
「はぁはぁ……、彼女は僕らと同じになることを望むかな……」
「わからない。でも、彼女がヒテンと共にこれからの歳月を生きていくのなら、そうするしかない。ヒテンはこれからとても長い歳月を生きる。ヒリスディアだけ老いていくことは悲しいだろう。ヒリスディアの命は短すぎる」
ヒテンは涙を流しながら頷いた。
「目覚めたら、彼女に謝ろう。許してもらえるまで、何度も……」
ニキルがヒテンの手を掴み、そして、もう片方でヒリスディアの手を掴むと、二人の手を重ね合わせた。
「きっと許されるよ」
ルーネベリはニキルとヒテンのやりとりを隣で聞き、黒い縮れた髪の女性に言った。
「ところで、一体、どこでヒリスディアを見つけたんですか?」
《重なった世界ト世界の狭間》
「えっ、そんなところにいて、あなたは大丈夫だったんですか?」
《妾は鏡の中を通れば何処へも行ケる》
「それは聞きましたが……。あれ、世界と世界の間に鏡なんてあったのか?」
《姿を映すものすべて鏡トなる》
「姿を映す…ライナト側が見えていたあれも鏡になるのか……」
《姿を映すものがあれば、妾は通れる。妾が通る場所は何処も、妾を受ケ入れる》
なるほどとルーネベリは頷いた。どういった原理なのかは定かではないが、とにかく鏡のように姿が映る場所へどこへでも行くことができるのだろう。鏡の中であればどこへでも行けるというのはなんとも奇妙ではあるが、そんな通路のようなものがあれば世界を渡るよりも鏡を通った方が安全なのではないとさえ思ってしまうが。そもそも、そんなことができるのは女王メトリアスだけかも知れない。
ヒテンの上に横たわったヒリスディアがずれ落ち、ヒリスディアの左手が開いて握りしめていたクリスタルのような星の形の耳飾りが床に落ちた。