七十一章 言葉を交わした数
第七十一章 言葉を交わした数
「戻るか」とルーネベリが言い、ヒテンが「そうしよう」と言い終えた瞬間、突然、世界が一瞬にして暗くなった。
「ーーえっ?」
ルーネベリどころか、ヒテンすらまさかと思い振り返ると、地平線に生まれた染みは既にライナトの世界を映し出していた。ライナト側にいるヒリスディアもリスデアもこちらを驚いた顔をして振り返ったところだったようだった。前回から数分も経っていなかった。
どうしてまだ時間があると思ったのだろうか。世界と世界が重なる間隔をいくら計算したとしても、それは予測でしか過ぎないのだ。まだ次があると思い、まだ大丈夫だと脳裏の片隅にある考えを先延ばしにしていただけに過ぎなかったのだ。
「あぁ、もう時間がないんだな……」
ついルーネベリがそう呟いた時、ヒテンは呆然としたまま毛布もノートもその場に投げ捨てて異線の岬の端まで歩き、ライナトの映像が見える方へ崖から落ちていった。
「ーーヒテン!」
ルーネベリが腕を伸ばして叫んだ。
ライナトではヒリスディアが叫んでいたが、その声はユソドには届かなかった。
ルーネベリは急いで崖の下を覗き込むと、崖の下にある平らな白い地面の上にヒテンが倒れているのが見えた。コロモロロトの民は不死身ではないと言ったニキルの言葉を思い出した。
「ヒテン、ヒテン、大丈夫か?」
何度か呼びかけているうちに微かに倒れたヒテンが動いてる様子が見てとれた。必死に上半身を動かしているが、立ち上がる気配はない。手足が折れたのかもしれない。ルーネベリが時間がないと言ったせいでショックを受けたせいなのだろうか、とんでもない無茶をする。
「悪かった。ちょっと待っていろ、すぐにそこに行くからな」
ルーネベリは異線の崖の周囲を見渡してどこか下へおりられる場所はないかと探したが、高台から突として飛び出た形の岬だ。そもそも降りられるのだろうかは疑問だった。
ルーネベリは真実の剣を地面に置き、リュックも置いて中を開いた。タオルと予備のシャツ、真鍮製の酒瓶に保存食用の缶、手帳とペン、煙草の箱、紐でぐるぐる巻きにした革の道具入れ、三つの瓶しかない。シャツを裂いてタオルと結んでロープにすることはできるだろうが、短すぎる。その上、紐括り付けられそうな場所もない。どうすればいいだろうかとルーネベリが必死に考えていると、女性の声が聞こえてきた。
《ヒテンは、ヒテンは無事ですか?》
振り返ると、ヒリスディアが泣きながら笛を吹いていた。ヒリスディアの隣ではリスデアが真っ青な顔をしてこちらを見ていた。それも仕方がない。目の前でヒテンが崖下へ落ちて姿を消したのだ。ルーネベリでさえ動揺していたが、今はヒテンの元へ行く術を考えなければらない。
ルーネベリは赤い髪を掻きあげた。
《教えてください。彼は、無事ですか?》
ヒリスディアの問いかけに答えてあげたかったが、ルーネベリにはヒテンのノートを使うことはできない。ルーネベリは首を横に振って見せることしかできなかった。
ヒリスディアは笛を下ろして、涙を流しながら口元を手で覆った。
ルーネベリは赤い髪を撫であげながら崖の下を見下ろして、どうすればあそこへ行けるだろうかと考えていると、ふと地面に置いた真実の剣が目に入った。
「本来の用途でなくとも、使えるだろうか……。例え失敗しても、俺は生身じゃない。奇力体だ。怪我をしたところですぐに治るだろう……。頼む、俺を助けてほしい」
ルーネベリはリュックの中から革の道具入れを取り出して、小型ナイフを抜き取り、地面に置いた。革の道具入れをリュックにしまい、次に真実の剣から鞘を抜き取り、無理やり鞘をリュックに詰め込むと飛び出た鞘の出るリュックを背負い、右で真実の剣を握り、左で小型ナイフを掴んだまま異線の岬の方へと行った。
ルーネベリは岬の端まで来ると、後ろを向いて、しゃがみ込んで地面に手をつくと、ナイフと剣を地面にまた置いてからゆっくりと足を崖にかけようとした。僅かな足場を見つけまで、ほとんど腕の力のみで身体を支えていたので腕が震えていた。ルーネベリはどこか凹みがあるか片足で探した後、小型ナイフを手に取って少し下に突き刺した。安易な考えだが、急いでいたので剣とナイフを交互に壁に突き刺して崖を降りることにしたのだ。小型ナイフを掴んだまま、崖の上に置いている真実の剣を掴んで小型ナイフより下へ勢いよく突き刺した。
《ヒテン、ヒテン、ヒテン。無事ですか?どこにいるのですか。あなたの姿が見えないわ……》
ヒリスディアの悲痛な声を聞きながら、ルーネベリは懸命に真実の剣の柄を掴んで身体を下へ移動させ、足先が辛うじて引っかかる程度の足場に気を取られ、片方でルーネベリの身体を支えていた小型ナイフが傾いていることにルーネベリは気づかず。小型ナイフがパキンと折れた瞬間、思わず真実の剣から手を離してしまった。
「しまった!」と思ったときには、ルーネベリはまた落下していたのだ。背中から落ちたルーネベリは目を閉じた。下は白い地面だ。岬から地面までの距離はどれくらいかはわからないが、安全な着地は不可能なことはわかっていた。いくら奇力体でも地面に身体を打ち付けることでとんでもない衝撃が全身を駆け巡る激痛は避けられないだろう。覚悟を決めたが、それでも恐怖するしかなかった。
全身に風を感じながらルーネベリはせめてと思い両腕で頭を庇いながらそのまま勢いよく地面に身体を打ち付けた。
「ーーうはっ」
激しい衝撃を全身に受けて、ピリピリと身体を地面に打ち付けた箇所から全身がひび割れるように痛みが走り、次にどうしようもない吐き気と身が内側から焼け爛れるような痛みに喘いだ。生身の身体であればヒテンのように重症か死んでいたかもしれないとわかるほど、かつて感じたことのないほどの激痛だ。骨は幾つも折れ、内臓も傷ついたかもしれない。
《ヒテン、どこにいるの?》
ヒリスディアの声が妙に遠く聞こえた。あといつまで向こう側と重なり通じているのだろうか。いつ、コロモロロトはユソドを去るのかもわからない。とにかく、時間はないのだ。
生理現象で涙を流しながらルーネベリはよろよろと立ちあがろうとした。
奇力体というのは本当に不思議なものだ。ルーネベリの意思関係なく、以前の身体の状態に戻そうとする力が働き、みるみるルーネベリの身体を修復して傷を痛みと共に消し去っていった。だが、もうこのような痛みを二度と感じたくないとルーネベリは思いながら、近くに倒れているヒテンの元へ駆け寄った。崖に突き刺したはずの真実の剣が近くに落ちていたが、それどころじゃなかった。
「ヒテン、意識はあるか?」
地面に膝をつき、ヒテンを抱えたルーネベリ。ヒテンの両腕はあらぬ方向へ向き、片足は片方捻れていた。
ヒテンはかろうじて片目を半開きした。意識はあるようだった。
ルーネベリは言った。
「大丈夫ではなさそうだな。話せるか?」
ヒテンは大きく肩を揺らして息をした。
「はぁ……、ルーネベリ……」
「あぁ、よかった。いきなり崖から落ちたから驚いた。俺の言ったことに動揺したんだろう?すまなかった。お前を動揺させるために言ったわけじゃないんだ。まさか、あんなに早く来るとは思わなくてーーいや、どちらにしろ、お前の気持ちを考えずに言ってしまったことには変わらないな。悪かった」
「はぁ……、はぁ……」
ヒテンは肺を傷つけたのだろうか、いや、そもそもヒテンたちに肺があるのかさえわからないが、とても苦しそうだった。
ルーネベリは言った。
「コロモロロトの元へ連れて行けば、助かるか?だが、そうすれば、きっともうヒリスディアとは……。いや、もうあと何回か会えるかもしれない。俺にはまるで予想はつかないが……」
ルーネベリには何と言えばいいのかわからなかった。何を言ったところで気休めにしかすぎないのだ。
ヒテンはか細く言った。
「ルーネベリ……」
「何だ、どうした?」
「僕を……、はぁ……。彼女の元へ、ヒリスディアの元へ連れて行ってほしい」
「えっ?こんな身体で……」
ヒテンはルーネベリの腕を掴みたかったが、両腕が折れて動かせなかった。ただ、半開きの目から涙を流した。
「はぁ……身体より、心が苦しい……」
「ヒテン」
「平気だと、思っていたんだ……、はぁ……」
「平気?」
「別れの時を迎えても、笑って別れられると思っていた……はぁ。でも、こんなに早くに、はぁ……もう会えないと思うと、急に頭が真っ白になって……はぁ、彼女の元へ行かなきゃって……」
「ヒテン、お前……」
「周りが見えなくなって、落ちるつもりなんてなかった……はぁ。彼女との距離がもっと……はぁはぁ、もっと遠くなってしまった……」
苦痛に顔を歪めながらも、唾を飲み込みながらも、ヒテンは小さな声で叫んでいた。
ルーネベリはヒテンの気持ちがわかる気がした。
ヒテンはヒリスディアの為に気持ちを伝えないたまま別れを決意していたのだろうが。それは彼女のことを本当に想っているからこそ、彼女の幸せを願っていたからだろう。しかし、ヒリスディアは幸せなのだろうか。愛していないどころか、これから先も愛することもないだろう対のいる世界でヒリスディアが生きていくのだ。短い二十年しかない命を……。それだけでもヒテンにとっては悔しいことではないだろうか。ヒテンならヒリスディアと共に幸せになれるかもしれない。何の確証もないが、その未来を夢見たことぐらいあっただろう。
二人を隔てるのは大きな「世界」という境がなければ、二人にも機会はあったはずだ。いや、そもそもその境を超えてはならないという理由はどこにあるのだろうか。ヒテンもヒリスディアも互いに恐れていただけではないのだろうか。その境目を超えた時、どうなるのかをーー。
ルーネベリはヒテンを抱き抱えた。
「わかった。俺が連れて行ってやる。ーーヒテン、距離を感じているのはお前だけじゃないと俺は思う。聞きたくないだろうが、シャウが言った通りだ。誰かのため、何かのためと、色々と考えすぎるな。考えたところで伝わっていなければ、永遠と距離を埋めることはできない。永遠に分かり合えないないんだ……。お前はまだ間に合う。俺が向こうへ連れていってやるから、後はヒテン、お前自身で何をすべきかを決めるんだ」
ルーネベリは平らにつづく白い大地をヒリスディアのいる方へ、ライナトの映像の見える方へと走った。
ライナトの世界では、ヒリスディアが泣きながら緑の窓から身を乗り出してユソドの世界の映像を見てヒテンの姿を探していた。いつ二つの世界を映すものが消えるのか、このまま永遠の別れになってしまうのではないかとヒリスディアは恐ろしくてたまらなかったのだった。
必死になって探すヒリスディアの後ろ姿を見ながらリスデアが言った。
「そんなに、取り乱すほどあの醜い男が大事か?」
ヒリスディアは振り返らずに言った。
「えぇ、大事です。とても」
「私よりもか?」
この問いにはヒリスディアは答えなかった。いや、どう思っているかなど本心などけして言ってはならないとヒリスディアは随分と昔から思っていた。心に封をして従うしかないと。
リスデアはヒリスディアが返事のしないことが答えだと察し、言った。
「いつも澄ました顔しか見たことしかなかった。そんなにあの男を想っているのか……。答えなくとも、その姿を見ればわかる。想っているのだな。あぁ、私はなんと……」
ヒリスディアは何も言わなかった。だからだろうか、リスデアはまるでヒリスディアが全て肯定しているようにしか思えなかった。
「何か邪魔をしているのは、まるで私の方のような。私はちっともヒリスディアの気持ちがわからない。どうしてそこまで対として許された存在でもない相手に必死になるのかさえわからない。私が愛が何かを知らないせいなのか。あの男が何かをヒリスディアに教えたからなのだろうか。どちらだろう……。私にとってはどちらでも同じことか……」
ヒリスディアはリスデアの言葉を聞いても何も思えなかった。リスデアが何を言おうと、何をしようと、なにもヒリスディアの心には響いてはこなかった。いつも心にあるのは対の存在であるリスデアではなく、ヒテンへの気持ちだけだった。ずっと対という、近いようで遠くて関わりの薄い存在はただそこにあって、永遠に分かり合えない存在としかヒリスディアには見えていなかった。
けれど、ヒテンはヒリスディアにとって出会った時から特別な人だった。ヒテンが笑うと、ヒリスディアも嬉しくなり。ヒテンが落ち込むと、ヒリスディアも心を痛めた。短い時間に語り合う時間が愛おしくて、次会えたときには何を話そうかと考えて眠れない夜も過ごした。
ヒテンが目の前から姿を消した瞬間、ヒリスディアの心を半分うしなかったような気持ちになった。ヒリスディアの方からは見えていないが、かつてヒテンは岬の先に座っていると言っていたことをヒリスディアは覚えていたのだ。ヒテンはどうして岬から落ちてしまったのだ。生きているのだろうか、無事なのだろうか。生きていても怪我をしてるに違いない。向こう側へ行って、ヒテンの側に行きたい。心からヒリスディアはそう願った。
リスデアは言った。
「そんなに行きたいなら、向こうへ行ったらどうだ?」
泣きながらヒリスディアがはじめてリスデアを振り返った。
「美しいヒリスディアのそんな姿を見るのは私でも辛い。私のことはもう気にするな。私ではなく、別の男のことを想って泣くような者と対でいつづけるのは、こちらから願い下げだ。きっと皆に嘲られるだろうが、私は気にしない。私はリスデアだ。対がいなくとも、エナリーの民として立派に生きてゆける」
そう言って腕を組んでリスデアは精一杯強がって見せた。ヒリスディアは驚きながら涙を拭った。
「どうして、リスデア様は私に向こうへ行けて仰るのですか?逃げた私の友人たちを馬鹿だと仰ったではないですか」
「あぁ、今でも馬鹿だと思っている。ヒリスディアのことも馬鹿だと思っている。全てを捨てるなど、馬鹿げている。私の考えは端から変わっていない」
「……私が行けば、リスデア様も皆から同じように思われるのですよ」
「かまうものか!私は自ら対を送り出した大馬鹿者になるのはわかっている。わかっていて、そう言っているんだ」
「どうしてですか、リスデア様。どうしてそんなお優しいことを仰るのですか?」
「私はもともと優しい人間だ。理由があればその理由に対して深く考えることもできる人間だ。私は何の事情も知らず、ヒリスディアについて何も知らなかった。反対に、ヒリスディアは私のことを何も知らないのだ。現に、私が何を好むかすら知らないだろう。互いに何も知らず、ただ対として同じ服を着ていただけだ。私たちは互いに、何も教えてもらっていなかったのだ」
「その言葉は……」
リスデアは咳払いした。
「あの赤い髪の男の言った言葉だ。意味が違えど、悔しいぐらい私の心に妙に突き刺さった。そして、赤い髪の男の話を聞いて、私は一瞬新しい世界を感じた。私たちの知る世界は私たちエナリーの民が作った伝統の文化だ。エナリーの文化を心から誇ってはいるし、守るべきものだと思う。ただ、あの赤い髪の男の話を聞いて、少し、いつもと違うことを考えた……。もし、私たちが何の許しを得ることもなく、どこへでも好きな場所へ行き、好きなことをし、好きな者と結ばれたのなら、私は幸せなのだろうかと考えたが、私は想像力が乏しかったのだろうな。何の姿も思い浮かばなかった。私はエナリーの民として生きる姿しか思い浮かばなかった。あの赤い髪の男が言ったように、私はエナリーの民の文化以外のものを全く知らない。知らないから何も思い浮かばないのだろう。
ところが、ヒリスディアはあの男と出会って、新しい世界を知ったのだろう?私が知ることがない世界を、ヒリスディアが見ていたなら、何も知らない私にどう理解しろという。ヒリスディアは私に教えもしなかっただろう。説得しようとも試みなかっただろう」
「リスデア様……」
「私があの男たちに警戒したのは当然だろう。余所者を、別の世界の者を前にして私の方が優位だと見せつけるのは必要なことだった。初めから下手に出れば、エナリーの民が下に見られて何をされるかわからないからだ。しかし、何も教えず、ヒリスディアは私を一方的に悪者のような邪魔者のような立場にしていた。私はそこまで分からず屋でもない」
「私は、そのようなつもりは……」
泣いたせいで頬が赤みを帯び、疲れ果てた顔をしていたが、それでもヒリスディアは美しかった。
リスデアはため息をついてヒリスディアの隣に立って言った。
「どんなつもりであれ、ヒリスディアは話さないことで私のことを勝手に決めつけたのだ。寂しいのは、最後まで理解しあえなかったことだ」
ヒリスディアはリスデアの横顔を見上げた。
「リスデア様……。私は……、リスデア様と理解し合える日は永遠に来ないのだと思っていました。仰るように勝手に決めつけていたのです。私のこともリスデア様は理解してくださらないと。分かり合えないのなら、いっそのこと互いに胸の内はしまっておくほうがずっと幸せなのだと」
「それは私も悪かったと思っている。私は安易にヒリスディアが口下手だと思っていたのだ」
「口下手?」
「私の前ではいつもあまり話さないからだ。これほどまでに今まで話したこともなかっただろう?」
「はい、そうでしたね。私たちは会えば二言三言しか言葉を交わしたことがありません」
「そんな数少ない会話で互いを理解することなどできるわけもなかった」
リスデアは泣きやんだヒリスディアの頬に手を伸ばして、軽く触れた。
「私が初めから心を開いて語りかけていたら違っていたと思うか?」
ヒリスディアは首を横に振った。
「いいえ。私も、リスデア様も互いに惹かれることなどなかったと思います」
「あぁ、私もそう思う。私はヒリスディアを美しいとは思うが、愛らしいとは思わない。そんな風に思う者より、ヒリスディアを愛らしいと思う者と共にいる方がいいだろう。ここはライナトだ。でも、向こう側は違う世界だ。今までのようにヒリスディアは生きていかなくてもいい。ヒリスディアはあの男といると、幸せなのだろう?」
ヒリスディアは赤いドレスを握りしめて、「はい」と頷いだ。リスデアは微笑んだ。
「それなら、手を貸そう。向こうへ行くといい」