六十六章 異線の岬
第六十六章 異線の岬
プラチナの鞘に収まった美しい真実の剣を見下ろして、ルーネベリは思わず呟いた。
「どうして、ここに……」
ルーネベリは驚きを隠せなかった。確か、真実の女神がこの剣をしばらくルーネベリの手元にあると言っていた気がしたが、まさかこんな形で再び手にしているとは思わなかったのだ。
ヒテンと名乗った男はうっとりとルーネベリの持つ真実の剣を眺めて言った。
「珍しいものかな?とても綺麗だ。君の宝物かな」
ルーネベリは困惑しながらも頷いた。
「いや、俺の物ではないがーー。珍しいといえば、そうかもしれない。これは真実の剣と言って……」
「つるぎ?名前も綺麗だな、とても良く似合っている」
「えっ?」とルーネベリが言ったところ、シュミレットが横から言った。
「ところで、ヒテンと言ったね」
ヒテンは頷いた。シュミレットは言った。
「君はここが『異線の岬』と言っていたけれど、この世界の名前がそうなのかな。それとも、地名かな?」
ヒテンは笑った。
「ここが異線の岬。僕らの世界はユソドっていうんだ。面白いな。本当にここへはじめて来たみたいだ。僕の住んでいる町はこの近くだけど、僕はこれから仕事があるから……」
「仕事?」とルーネベリ、ヒテンは頷いた。
「ユソドの世界にとって、とても大事な仕事なんだ。僕の住んでいる町まで連れて行ってあげたいけど、もう時間がないんだ。僕の仕事が終わるまで一緒にいてくれるなら、終わってから連れて行ってあげるよ」
ルーネベリとシュミレットは顔を見合わせ、ルーネベリが近くで様子を伺っていたアラやシャウ、リカ・ネディにオルシエ、バッナスホートの方を見ると、皆はよくわからないのか首を傾げていた。
ここがどこで何をしてもいいのかわからないのはルーネベリもシュミレットも同じだ。このまま途方にくれるよりかは、ヒテンについていったほうがいいのだろう。
ルーネベリはヒテンに言った。
「それじゃあ、仕事が終わるまで待たせてもらっても?」
「もちろん。でも、君たち寒くないかな?辺りが暗くなると、とても寒くなるんだ」
ヒテンは抱えている毛布をルーネベリとシュミレットに見せた。
シュミレットは言った。
「その点に関しては、心配は不要だと思うね。今の僕らは凍えたところで死ぬことはないだろうからね」
ヒテンは笑った。
「面白いね。死なない身体なんて当たり前のことじゃないか」
「へっ?」
ルーネベリは間抜けな声を出したところで、ヒテンはルーネベリたちの背後を指差した。
「僕の仕事場はもう少し向こうへ行ったところなんだ。一緒に行こう」
小さな身体のヒテンはルーネベリとシュミレットの間を通り過ぎて、アラたちに笑顔で挨拶しながら気持ちよく指差した先へと歩いて行った。その後に真実の剣を背負ったルーネベリやシュミレットもつづいて歩きだしたので、アラたちも不思議そうにしながら歩きはじめた。
ヒテンは時折後ろを振り返りながら言った。
「今日の僕は幸運かもしれない。はじめて見る『つるぎ』というものを見ることができたし、君たちにも出会えた。僕は、仕事中はいつも一人だから退屈していたんだ。――あっ、退屈だからって仕事をさぼったりはしていないよ。少しずつ頑張っているんだ。もしかしたら、頑張っているご褒美に君たちに会わせてくれたのかもしれないーー」
それからヒテンはべらべらと独り言のようにしばらく話をつづけ、何の変哲もない真っ白い地面の上を歩いていたと思えば、進めば進む程足場が少しずつぼんやりとだが境界が見えて狭くなっていることに気づいた。
異線の岬というだけあって、尖がった場所を歩いているのだろう。
ただ、足場の下の方には海や湖らしきものは一切なく、白い地面とよく似た白い景色が見えているだけだった。よくよく足元を見ていなければ境界を気づかずに踏み外してしまいそうだった。しかし、ヒテンにとっては慣れた道なのだろう。足元をまったく見ずに真っすぐ歩いていた。
ルーネベリはひやひやしながら足元を見て歩いていたので、ヒテンの話は途中から聞こえていなかった。歩けば歩くほど並んで歩くルーネベリとシュミレットの距離が近くになり、二人で歩く道幅が狭くなっていくので、ルーネベリの巨体が小柄なシュミレットに身体が当たって突き落とさないかがルーネベリは心配でならなかった。ところが、ルーネベリが思ったほど岬は狭くなることはなかった。ルーネベリの他にアラやバッナスホートの四人が並んでも十分なほどの広さがあったので、ルーネベリはほっとした。
ヒテンは岬の先で立ちどまると、ルーネベリたちの方を振り返った。
「――だから、こうして僕は異線の岬へ通っているんだ。わかったかな?」
途中から話を聞いていなかったルーネベリはヒテンに相槌を求められて、戸惑いながら頷いた。
隣にいたシュミレットは話を聞いていたのか、「なるほどね」とだけ短く答えていた。ルーネベリが後でシュミレットに話を聞こうと考えていると、ヒテンは冊子を地面に置いてから毛布を広げて自身の背中にかけて背を丸めて座り込んだ。
「座って、座って。立っていると立ち眩みがするから」
ルーネベリは言った。
「立ち眩み?」
「そうなんだ。ここはとても美しく素晴らしい場所だけど、辺りがくらくなって立っていると感覚が狂ってしまう場所でもあるんだ。酔ってしまう人もいるから、座っていた方がいい」
「そうなのか……、わかった」
ルーネベリとシュミレットがその場に座り込むと、リカ・ネディやオルシエ、バッナスホートたちも地面に座り込んだ。
アラとシャウはやや距離を置いて座っていた。明らかに互いに避けている様子だった。二人の間に何が起こったのかをルーネベリはだいたいわかっていはいたので、二人を見て一度それぞれと話をしたほうがいいのではないかと思っていた。様々な問題が起きて二人のことを忘れていたというわけではないが、後回しにはしてきたのは確かだ。今すぐにどうこうできるとはルーネベリ自身も考えてはいなかったが、せめて話ぐらいは聞きことはできるだろうと思ったのだ。
「もうそろそろ辺りが暗くなる、お楽しみだ!」
そう言うと、ヒテンは座ったまま、尻をもぞもぞと動かして身体を岬の向こう側へと向けた。
そういえば、ユソドというこの世界に来てから空と呼べるべきものはあっただろうかと見上げてみると、やはり空というより白い雲のようなぼんやりとしたものが世界を包んでいるだけで光はどこにも見えなかったところが、それにもかかわらず、辺りは明るい。言葉を考えても、明るい曇りとしかルーネベリには思い浮かばは明るい。言葉を考えても、明るい曇りとしかルーネベリには思い浮かば夜――というものなのだろうか……。
ヒテンは慌てて毛布をかぶり楽し気に鼻歌をうたっていた。空気がひんやりと冷たくなっていくのをルーネベリたちも感じていた。気温が急に下がっているようだ。
なぜヒテンがそれほどまでに楽しそうなのかはまったくわからなかったが、とても待ち遠しくてたまらない様子だった。
ルーネベリが話を聞こうと口を開いた途端、ヒテンが叫んだ。
「あっ!時間だ」
ヒテンは、冊子を開いて真っ白なページを開くと、地平線へと向けた。一体何をしているのだろうかと思えば、ヒテンの見ている地平線にまた染みのようなものが浮きあがり空間が七色に歪みはじめた。そして、その七色に歪むそれは巨大な拡大鏡のように大きくなり途中でその姿をとどめていた。
そして、その七色の鏡のような向こう側に徐々に映像が映し出されてきた。
映像には緑の壁のようなものが見え、その映像は撮影でもしているのかのように下から上へと移動していった。
とてつもなく高い壁は建物を埋め尽くした何らかの小さな植物の葉でできた壁だった。その壁は高く長くつづいて、途中でぽっかりと植物を窓のように切り開いた空間が見えてきた。そして、その空間に一人の美女が立っていた。
その美女は薄い紫色の長い髪を後ろに結いあげて、飴細工のような金の枠の細く繊細な飾りを額につけていた。金の刺繍の施された豊かな胸元をわずかにのぞかせるゆったりとした白いドレスを着ており、その美女にとても似合っていた。美女の瞳は髪よりも濃い紫色で、唇は化粧を施していないのだろうにほのかに赤みを帯びていた。耳には耳飾りにクリスタルのような星の形によく似た透明な石をつけていた。
思わずルーネベリはドキリとした。
彼女は射貫くような凛々しい視線をこちらに向けていた。容姿の可憐さとは一転、意志の強そうな視線に心を鷲掴みにされたようで心が落ち着かなかった。
その美女はこちらを見て、誰かを見つけた途端に頬を染めて恥ずかしそうなはにかんだ。そして、細く華奢な手を柔らかく振った。可愛らしい、その一言だった。
彼女に手を振り返したのは白い息を吐いて震えているヒテンだった。ヒテンの背後にいるルーネベリたちもわかるほど、ヒテンは大きく手を振っていた。
二人は顔見知りのようだ。なんと羨ましいことだろうか……。
ヒテンは冊子を両手で持ちあげて彼女の方に向けた。何が書かれているのかわからないが、美女は手を下して頷ていた。
ルーネベリはヒテンに後ろから言った。
「なんと書いたんだ?」
白い息を吐きながらヒテンは後ろを振り向かずに言った。
「ヒリスディアに君たちのことを説明したんだ」
「ヒリスディア?」
「彼女の名前だよ」
ルーネベリは言った。
「どうやって彼女の名前を……」
ヒテンは彼女の方を指差して「ほら」と言った。
ヒリスディアは彼女の腰元から笛を取りだして吹きはじめた。しかし、こちらには一切の音は聞こえていないというのに体の内側から声が聞こえてきた。
《はじめまして、私はヒリスディア・エナリー。ヒテンのお友達ですね》
「――えっ?」
ルーネベリが思わず声を漏らすと、ヒテンは顔だけ後ろへ振り返って言った。
「彼女、凄いよね。ヒリスディアに何か言いたいことがあれば僕が代筆するよ」
「代筆?」
「これに書くんだ」
ヒテンは開いた冊子をちらりと見せた。そこには何も書かれてはおらず真っ白なままだ。
ルーネベリは言った。
「どうやって書くんだ?ペンも何も持っていないのに……」
ヒテンは人差し指をルーネベリに見せて言った。
「この指で書くんだ」
ヒテンの人差し指は何も書かれていない冊子をただ一直線に横に滑らせただけだった。ところが、映像の向こう側にいる美女ヒリスディアは笛を吹くのをやめて不思議と頷いていた。
どういう理屈だというのだろうか……。
ルーネベリは言った。
「何と書いたんだ?」
「『はじめまして』と彼らは言っていると書いたんだ」
「えっ、文字はどこにもーー」
「もじ?」
「あぁ、文字がなければ伝わらないだろう……」
ヒテンは目をぱちくりとさせた。
「もじってはじめて聞く言葉だ。君たち色んな事を知ってそうだね。あとで色々と教えて欲しい。僕は仕事しないと」
「仕事?どんな仕事をしているんだ」
「ヒリスディアの世界と僕らの世界がどれくらい近づいているのか確認する仕事だよ」
「どれくらい近づいているのかーー、近づいているのか?」
「そうなんだ。僕の世界ユソドと彼女の世界ライナトはルーゼルずつ近づいていてエーラトずつ離れるんだ。二つの世界は隣り合って、時々こうして一部分が重なる時が来るんだ。異線の岬はユソドの端だから、こうしてよく見えるんだ」
「ルーゼル?エーラト?」
ヒテンは笑った。
「君たちもはじめて聞く言葉があるんだね。また説明してあげるよ。――先に、ヒリスディアにどれくらい時間が経過しているのか聞いておかないと。彼女の世界と僕らの世界は経過している時が違うそうなんだ」
ヒテンはそういうと、また彼女の方を向いて冊子を彼女の方にむけた。後ろから覗き込んでみると、冊子を向けた反対側に指を滑らせていた。二人は時折恥ずかしそうに笑いながら、なんらかの会話をしているようだった。美女ヒリスティアとヒテンは時折頷きながら、二人は互いの掌を見せ合っていた。なんらの感情表現なのかもしれない。
二人のその不思議な会話はしばらくつづいた。
おおよそ二十分か三十分だろうか……。突如、見えていた映像が地平線上でぷつりと消え去った。
「あっ」とルーネベリが言うと、空を覆っていた暗闇が晴れて辺りは明るくなっていった。
ヒテンは毛布を肩からおろして立ちあがった。そして、小さく呟いた。
「間隔が狭くなっている……。ニキルに伝えないと……」
振り返ったヒテンはルーネベリたちの顔を見まわした。ルーネベリは言った。
「どうしたんだ?いきなり、見ていたものが見えなくなったが……」
ヒテンは毛布を折りたたみながら苦笑った。
「いつもの事なんだ。さぁ、仕事は終わったから僕の町へ行こう」
「えっ、もう終わったのか?まだそれほど時間は経っていないが……」
「時間?あぁ、ユソドにいると時間の感覚が違うようだね。ヒリスディアの、彼女の世界では七時間ほど経っているそうだよ」
「七時間も?さっき言っていた時間の経過が違うという話か」
「そうそう。時間の経過に違いがあるせいか、僕の世界からはくっきりと彼女の世界が見えているけど、ヒリスディアの世界からはこちらはぼんやりとしか見えていないって言っていたよ。……だから、彼女は僕の顔をよく見えていないんだと思うんだ」
俯いたヒテンはルーネベリたちに来た道を引き返そうと言いだした。
平然さを装ってはいたが、少し沈んだヒテンの様子を見ながらルーネベリにはすぐにわかった。ヒテンはあの美女ヒリスディアに恋心を抱いているようだ。だが、当のヒテンは彼自身の容姿に自信がないようだった。
わからなくもない気持ちだった。ヒリスディアはルーネベリでさえ目が眩みそうなほどの美女だ。淑女にもてるルーネベリでさえあの意志の強そうな美女を口説き落とすのならば玉砕を覚悟しなければならないだろう。彼女はそう簡単になびくような女性ではないだろう。
容姿に自信のないヒテンからすると、ヒリスディアは高嶺の花といったところだろうか。
ただ、実際にヒテンの容姿が見えているなど関係なく、ヒリスディアの方もヒテンに対して好意を持っているのは明らかなのではないだろうか。あのような美女に想われて羨ましいことこの上ないことだが、果たしてそうなのだろうか……。
二人は互いを想い合っているようだが、そもそも二人は同じ世界にはいないのだ。不思議な話だ。まったく別の世界にいる二人が想い合っているかもしれないのだ。
ルーネベリは考えるほどロマンチックだと思うが、その一方で、二人が結ばれることはあるのだろうかと疑問を抱いた。二人はあの二つの世界が重なる一時しかその姿を見ることができず、互いに言葉を交わすこともできないのだ。それは切ないとしか言いようがないのではないだろうか。
ルーネベリたちは来た道を引き返し、異線の岬からどんどん遠ざかって行った。ヒテンは何度か後ろを振り返っていた。