六十一章 理解者
第六十一章 理解者
ヤルカが入り口を塞ぐ岩を爪で押すと、すぐに岩は崩れ落ち、入り口の向こう側から風が吹き抜け、明かりが一つ筋奥から指し込んでいた。この裏口は中へとつづいているのは間違いないだろう。
人々は皆身を捩りながら入り口の中へと入ったが、色付きのヤルカたちは入り口が狭すぎて入ることはできなかった。仕方なくその場に残していくことなった。ヤルカたちは寂しそうに、入り口の中へと消えていく主人たちを見つめていた。
入り口はとても狭かったが、いざその中に入ってみると思った以上に広く。背の高いルーネベリたちが中腰になれば歩いて行けるほど十分な広さがあった。まるでその通路は人のためにのみ作られたようだった。
通路を歩いて緩やかな傾斜をのぼっていくと、柵が見えてきた。通路を塞いでいるのは簡易な柵だけのようだった。一番先頭を歩いていたケンネルがその柵を奥へ押すと、柵は向こう側へと倒れていった。鍵すらかけていないようだ。不用心としかいいようがなかった。出口からぞろぞろと人々がでてきても、黒いヤルカはまだ気づいていないようだった。
ルーネベリたちが出てきた場所は、見覚えのある橙色の絨毯の敷き詰められた廊下だった。積み上げられた茶色い石の壁、等間隔に周囲を照らす赤い炎。どれもこれも下の庭を訪れはじめて目にした光景だった。
ただ、さほど長く傾斜をのぼってきたわけではない。せいぜい辿り着いても一階ほどだろうとルーネベリは思っていた。
ところが、おかしなことが起こった。
細身の剣を握りしめたケンネルが言ったのだ。
「真実の女神様が解放される。一時でも長く、ヴィソロゴダンを引きとめる。私が囮になる。私の役目だ。皆、協力してくれ」
「もちろんだ」とエートが頷いた。
「なっ、なんだって……?」とルーネベリは驚いた。周囲を見てみると、三十人ほどいたケンネルの仲間たちの姿はなくなっていた。その場にいるのはケンネルとエート、ルーネベリとアラ、シャウ、バッナスホート、リカ・ネディとオルシエだけだった。
さらに驚いたことに、アラたちも一瞬で三十人もいた人々がいなくなったというのにまるで不思議にすら思っている様子もないのだ。むしろ、ケンネルに協力するつもりだといわんばかりに、剣の鞘に手を置いて準備までしていた。
ルーネベリは混乱した。明らかに不自然なことが起こったというのに、ルーネベリ以外はまるで気が付いていないのだ。
ケンネルが目を閉じて覚悟を決めてから、廊下の奥へと一目散に走りだした。その後をエートと、アラたち皆が追いかけていく。ルーネベリも急いで追いかけたが、ルーネベリ自身何がなんだかもうわからなくなっていた。
廊下の行き着く先に扉が見えてきた。ケンネルが勢いよく扉を蹴り開けると、ヴィソロゴダンが立っていた。ヴィソロゴダンがこちらを振り返ると同時にケンネルが剣を振りあげて立ち向かっていった。ヴィソロゴダンはケンネルの剣を鋭い右手の爪ではじいた。エートは部屋を見渡して何かを探していた。
バッナスホートが名剣ヴァラオスを抜いて、ケンネルの援護ではなく、バッナスホートがヴィソロゴダンを仕留めるべく剣先を向けた。ヴィソロゴダンは空いている左手の爪で衝撃の重い名剣ヴァラオスを折ろうと振り下ろしたが、バッナスホートは間一髪のところでかわして、ヴィソロゴダンの親指の爪を斬り落とした。圧倒的にケンネルよりもバッナスホートのほうが剣の腕は上だった。ヴィソロゴダンの右手の爪に押されていたケンネルを、オルシエとアラが援護した。シャウはヴィソロゴダンの隙を見て背後から剣で斬りつけようと試みるが、ヴィソロゴダンは巨体を俊敏に動かして避けていた。リカ・ネディはバッナスホートが斬り落とした爪を、ヴィソロゴダンに投げつけたが、難なくかわされていた。
ヴィソロゴダン一匹に対して、七人が次から次へと攻撃を繰り返したが、ヴィソロゴダンは最初に親指の爪を斬り落とされてからは傷一つ負っていなかった。
とぼとぼと部屋の中に入ったルーネベリは呆然としていた。一体、これは何なのだろうかとルーネベリは思った。
不自然な出来事が突発的に起こっている。そのうえ、同じようなことを繰り返しているようで、そうではないようにも思える。どうしてか、理解できず、とにかく不安でたまらなかった。どうしてと問う事さえ躊躇するほど、不安で恐ろしかった。なにが恐ろしいのかすらわからず。何をどうすればいいのかさえもわからない、どうすればいいというのだろうか……。
エートが何かに気づいてルーネベリの前を横切って、部屋の右側にある壁を押した。壁だと思っていた場所に扉が隠されていたようだ。壁と同化していた扉が開き、エートが中に入って行った。ルーネベリは無意識にエートの後を追っていた。
ヴィソロゴダンのいた部屋の隣に、部屋があった。二つの高い背凭れのある赤い椅子が二つ向き合っていた。部屋に入ってすぐ奥の椅子に座る青年と目が合った。薄い水色がかった銀髪の、綺麗な黒色の肌の青年だった。青年は自身の椅子に立てかけていた剣を握り、言葉を発する前に襲い掛かってきたエートの剣を防いだ。
「マトラン!」とエートの叫びで、その黒い肌の青年がケンネルたちの話にでてきたマトランその人だということがわかった。マトランはちらりとルーネベリの姿を見て、そして、微笑んだ。
「ぼくの理解者がようやくやってきた。――エートくん、ぼくは彼と話がしたい。山のように話したいことがある。剣を鞘に収めて立ち去ってくれないか」
「マトラン!ここで引き下がるわけがないだろう。あと少しだ。あと少しで……」
「真実の女神様はもう解放されている」
マトランの言葉にルーネベリは「えっ」と声を漏らした。エートは首を横に振った。
「まだだ!解放はされていない。ヴィソロゴダンがいる限りーー」
マトランは息を吐いて、言った。
「エートくんは大昔から変わっていない。ケンネルと同じで、真面目で融通が効かない。何を言っても無駄なんだね」
ルーネベリはマトランをじっと見ていた。
なぜだろうか、今まで出会った人物のなかでも、マトランは特別何かが違うように思えた。ルーネベリの疑問を知っているのかもしれない。恐らくはマトラン自身、ルーネベリに何かを伝えようとしている。だが、この状況ではエートが邪魔をしていることになる。 ……マトランは敵ではないのだろうか。
手前の椅子から華奢な小さな手がすっと出てきた。その指はマトランが先ほどまで座っていた椅子を指差した。
「ルーネベリ、席に座ってはどうかな。そこに立ち塞がっていても、巻き込まれるだけだと思うよ」
聞きなれた声にルーネベリは嬉しさが込み上げてきた。
「先生!」
エートとマトランが剣を打ち合っている音を聞きながら、ルーネベリは手前の椅子の正面にまわり込んだ。
黒髪と紫のアミュレット付きの金縁の片眼鏡が印象的な、線が細く神経質そうな顔した少年が悠長にカップに口をつけていた。間違いなく、シュミレットだ。
「無事だったんですね……」
ルーネベリはほっとして、正面を向いたまま崩れるように座席に座り込んだ。真実の剣を背負っていることを忘れていたので、背中をぶつけてしまったが、ルーネベリは気にもせずに剣を膝に乗せた。
シュミレットは言った。
「間一髪のところでね。マトランに助けられたのだよ」
「マトラン……。何がなんだかさっぱりわかりませんが、先生が無事だったのなら、感謝しなければなりませんね。お礼をしたほうがーー」
「僕がお礼のつもりで、僕らの世界について話したから十分だそうだよ。マトランは僕らの世界を面白がっていたよ」
「そうですか……」
ルーネベリは深く溜息をついた。シュミレットはカップをおろして、黄金の瞳をルーネベリに向けた。
「君は遅かったね」
「色々あったんですよ。俺は、……はぁ」
ルーネベリは赤い髪を撫であげた。
「俺は先生がヴィソロゴダンに襲われているところを目撃して、ずっと気が気じゃありませんでした。どうして平気な顔をして飲み物なんか悠長に飲んでいるんですか」
シュミレットは言った。
「これでも驚いてはいたのだよ。僕もね、まさか僕の力が途中で解けてヴィソロゴダンが襲い掛かってくるなんて思いもよらなかったよ。腰が抜けてしまったよ」
ルーネベリは眉間に皺を寄せた。
「先生がそれほど驚いていたとは思えませんし。普通は、驚くよりも怖かったと思うものではないんですか」
「怖い……ね。君は僕に怯えて震えていて欲しかったのかな」
「いえ、そういうことじゃなく……」
「魔術師にとっては命を狙われることなどさほど珍しくはないからね。僕らの世界とは勝手が違うと忘れて、油断した僕も悪いのだよ。それにしてもだよ、これまでも命の危機はあったというのに、今更君がそこまで心配してくれるとは思わなかったよ」
「心配ぐらいしますよ。俺を何だと思っているんですか」
ルーネベリはまた溜息をついた。シュミレットはクスリと笑った。
「君らしいといえば君らしいね」
「なんだか、貶されている気がするんですが……」
「それこそ被害妄想というものだよ。ところでね、君は真実の剣の扱い方がわかったのかな」
ルーネベリは顔を両手で覆った。
「その話は今、一番触れてほしくありませんでした」
シュミレットは頷いた。
「まだなのだね」
「えぇ、そうですよ。訳がわからなくてますます混乱しているところです。先生はわかったんですか?」
「まったくわからないね。でもね、マトランから聞いた話はとても興味深い話なのだよ。君は聞くべきだね」
「マトランから話を?」
ルーネベリはエートと剣を交えて戦っているマトランの様子を見た。マトランは向かってくるエートの剣を叩きつけてばかりで攻撃している素振りはまるでなかった。ケンネルたちは敵だというが、敵なのだろうか……。
シュミレットは言った。
「彼は忙しいようだから僕から話すべきだろうね。――結論から言っておくけれど、マトランは君をずっと待っていたそうだよ」
「えっ?」
ルーネベリはシュミレットを見た。シュミレットは頷いた。
「驚くところかな。彼が君を待っていてもおかしくはない話じゃないか。彼はヴィソロゴダンに騙されてヴィソロゴダンの下僕にされてしまったのだから。真実の剣を持つ君がヴィソロゴダンを裁けば、彼は解放される。マトランが君を待っていてもおかしくはないはずだよ」
「あぁ、まぁ、そうですね……確かに。そういえば、さっき俺のことを『理解者』だと言っていましたし。俺に話したいこともあるのだとかーー」
「何か腑に落ちないようだね」
「そうなんですよ。ずっと、おかしいんですよ」
「おかしい?」
「どう説明していいのか、わからないので。先に先生がマトランから聞いた話を聞かせてもらえませんか。後で考えを整理します」
シュミレットは頷いて、カップにもう一口だけ口をつけた。椅子に向き合って座るシュミレットとルーネベリの隣で、エートとケンネルが剣をぶつけ合っていた。ルーネベリはまたちらりと見て、どうしておかしいと思う状況になっているのだろうかとぼんやり思いつつ、シュミレットの方を向き直した。
シュミレットは話をはじめた。
「――よく肥えた土地に毒を撒き散らす者がいた」
「へっ?」とルーネベリが間抜けた声を出すと、シュミレットがクスリと笑い言った。
「最後まで聞いてくれるかな。マトランの話はとても物語じみているのだよ。少し気に入ったので覚えたのだよ」
「……はぁ、わかりました」
シュミレットははじめからやり直した。
「よく肥えた土地に毒を撒き散らす者がいた。それが、ヴィソロゴダンを生んだ神だった」
「ヴィソロゴダンを生んだ神?」
「つづけてもいいかな?」
「あっ、すみません。つづけてください」
シュミレットは咳払いしてから言った。
「ーーヴィソロゴダンを生んだ神は無名の神だった。偉大な神より庭を賜りその庭で生命を育むことを望まれた。無名の神は偉大な神の行いを愛だと思い込んだ。無名の神は偉大な神から愛を受けるために、生命を生みつづけた。ところが、偉大な神は無名の神を遠ざけた。偉大な神は役目を与えただけであって、生命に対するに等しい愛は与えていなかった。無名の神は怒り狂った。偉大な神への愛は憎悪へと変わり。無名の神は生みだした命を虐げはじめた。罵り支配することでしか無名の神は己を保てず、神の病んだ心がヴィソロゴダンのような容姿と中身のちぐはぐな生命を生みだした。ヴィソロゴダンは無名の神に愛を求めた。けれど、無名の神はヴィソロゴダンの清らかな心を砕き楽しんだ。
あるとき、ヴィソロゴダンは無名の神に問うた。『なぜ、愛してくれないのですか』と、問われた神はヴィソロゴダンを庭から追放した。そして、無名の神は偉大な神の元へ行き、同じ問いをした。偉大な神は答えるどころか、無名の神のことを覚えていなかった。無名の神は偉大な神を飲み込み、我物にしようとした。そして、神々の理を知る真実の女神は、裁きを下すため無名の神を真実の剣によって打ち滅ぼした」
「真実の女神……」
「君の持っている真実の剣は正真正銘、神殺しの剣のようだね」
ルーネベリは剣を見下ろした。
「あぁ……そのようですね。あぁ、だから、真実の女神はヴィソロゴダンを裁けないんですね。いや、裁けないというよりもーー」
シュミレットが言った。
「真実の女神はヴィソロゴダンを裁きたくなかったのだろうね」
「――でも、そのことと俺が授けられた理由は無関係のはずです」
「そう無関係なのかな?君は何かが腑に落ちないといっていたけれど、すべてにおいて考えすぎていないかな」
「考えすぎている?」
ふと、ルーネベリが顔をあげると、シュミレットと目が合った。シュミレットは首を傾げたが、ルーネベリは心の中でもやっと何かがひっかかった。
「先生、さっき言っていましたよね。『魔術師にとっては命を狙われることなどさほど珍しくない』と。なぜ、そう思うんですか?」
「それはだねーー」
「いや、ちょっと待ってください。あれ?今、何かーー、繋がりそうでーー」
ルーネベリは立ちあがった。ルーネベリが立ちあがったせいで膝に置いていた真実の剣が床に転がった。「あっ」と声を漏らして真実の剣を見下ろしたルーネベリは首を傾げた。
「考えすぎている?俺はただ、正しい答えを知ろうとして……」
シュミレットは無言でルーネベリを見ていた。ルーネベリの考えがシュミレットにわかるわけではなかったが、何らかの考えに行き着こうとしていることだけはわかっていた。こういった状況にある人の邪魔をするというのは野暮な事だ。
ルーネベリはレソフィアに来てからのこれまでの出来事を断片的に思い出して、何度か独り言を言った後、「そうか!」と大声をだした。
エートとマトランは驚いて剣を振る手がとまったほどだった。
呆然とルーネベリを見た二人と、シュミレット。ルーネベリは床に転がった真実の剣を拾いあげた。
シュミレットは言った。
「何がわかったのかな?」
ルーネベリは椅子に座るなり、興奮した様子で言った。
「俺は間違えていたんですよ」
「何をかな?」
「考える方向性です!俺はいつも物事の構造は何か、正しいことは何かという方向性を基準に物事を考えているんです。でも、先生はさっき言いましたよね。『魔術師にとっては命を狙われることなどさほど珍しくない』と」
「そうだね」
ルーネベリは人差し指を振った。
「でも、俺からすれば、命を狙われることはおかしい、となるんですよ」
「君の言いたいことがよくわからないね」
「そうですよね。なんといえばいいのか……。理由があるにせよ、何の非もない者の命が狙われることはおかしい。でも、先生の身にはそのおかしな出来事が起こっている。ですよね?」
「そうなるね」
「おかしいと思う出来事が実際に起こっているのに、正しいことばかりを探しても、結局何も変わらない時もありますよね」