六十章 アジトの移転
第六十章 アジトの移転
色付きのヤルカたちの背にしがみつくように跨り、ケンネル一向は走りだした。
ヤルカにしがみついて乗るのは心地がいいとはいえなかった。はじめに乗っていたときは、シュミレットのことで気があまりにも動転していたのでよく覚えていなかったが、ヤルカという生き物は人が乗るべき生き物ではないようだった。
揺れるどころではない。ヤルカが大きく跳ねて着地するたびに全身で衝撃を受けて内臓が口から飛び出てしまいそうな強烈な不快感に襲われた。けれど、不思議と乗り物酔いのような状態にはならなかった。やはり、身体が奇力体だからなのだろうか……。衝撃を受けた瞬間はとんでもない苦しさを感じるが、次の一瞬には元通り何も感じなくなっているのだ。普通の身体ではありえないことだ。
奇力体は確かに素晴らしいものかもしれない。傷を負っても元通りになり、少々危険な真似をしたところで身体に問題は生じないだろう。しかし、それが正常なのかというと、ルーネベリはとてもそうとは思えなかった。自然の摂理にはきちんとした目的と理由が存在している。
例えば、人の身体能力は常に最大限使われているかというと、そういうわけではない。むしろ、身体を形作る細胞の崩壊を防ぐために最大限使わないように脳が管理して守っているというべきだろう。つまり、どれほど潜在的な能力が高かろうとも最大限その力を使うことで身体の崩壊のみならず、生命活動自体が維持できなくなるのだ。
これに対して例外を、ルーネベリは十三世界では存在しないと知っていた。シュミレットと同じ「遠来者」と呼ばれる、治癒の世界で出会ったフェザクシア・ミドールこと、ザッコの死因も同じだ。ミドールの血統がなぜあれほどまでの力を有していたのかはわからないが、信じられないほどの能力を身体が有していたとしても、身体という小さな器が持ち堪えられなければ生命の崩壊がはじまる。ザッコの場合は彼自身の能力によるものか、遺体こそ原形をとどめたまま残ったが、肝心の生命活動そのものが失われてしまった……。
大きすぎる力を用いた代償だ。
身体という器こそが力の制限を成しているならば、それは膨大な奇力という力をある一定以上は使えないようにしているということだ。それほど奇力に制限が必要な理由があるのだ。もしかすれば、神々というのはそれらの制限下にない者たちのことを指すのかもしれない。いずれにせよ、理を変えるほどの力は世界全体に対して何らかの異常を引き起こすのではないだろうか。そして、ザッコはすべてを承知のうえで、命を引き換えに異常を解消すべく整え守ったのではないだろうか。だが、それにしては……と途中で考えるのをやめ、ルーネベリは辛い思い出に再び蓋をした。ザッコの行いは勇敢な行いだったが、数年経った今も彼がいなくなったことをまだ悲しむことをやめられなかった。ザッコがルーネベリに好奇心一杯の目で質問をする姿が忘れられない。他の道があったのではないかとさえ、考えてしまう……。
ルーネベリは違う事を考えようと、顔を左に向けると隣を走る緑の髪のシルが目に入った。シルはあのピンク色の毛のヤルカに跨っていた。シルたち下の世界の人々はヴィソロゴダンという神にも等しい存在に支配されている。
ふと、この世界では、どういう原理で傷が治されていたのだろうかと疑問に思った。赤い砂時計がひっくり返ることで人々の命は助かるという。十三世界における奇術の類なのだろうか、だが、特別何かが起こった気配はなかった。それはまるで……。
「あれ?」と思わずルーネベリは声を出していた。
「どうしました?」とこちらに気づいたシルが言った。シルはヤルカの背にしがみつきながら息を切らしていた。
ルーネベリは「いや」と答えたが、今ちらっと脳裏に浮かんだ考えがこれまで考えた仮定をことごとく打ち消そうとしていた。まさか、そんなことがあるのだろうかとルーネベリが考えながら、シルの方を向いていると、シルの走る向こう側に岩壁が見えてきた。そして、ルーネベリがさらに顔をあげてその上を見た。
「えっ?」
ルーネベリは心底驚いた。岩壁に窓のようにぽっかりとあいた大きなガラスのない窓がいくつもあった。見覚えがあるものだと思ったが、そのぽっかりとあいた窓から黒っぽい何かが見えた。じっと目を凝らせば、その黒っぽい何かは微かに動いている。ぱっとその黒い何かが振り返った。角のある黒いヤルカだった。向こうはこちらに気づいていないようだが、見覚えのあるあの場所はヴィソロゴダンの住処ではないのだろうかとルーネベリは思った。確か、あの辺りから飛び降りたのだ。シュミレットがヴィソロゴダンに襲わそうになっていた光景を目の当たりにしたのでよく覚えていた。
「シル!」とルーネベリが叫ぼうとして危うく舌を噛みそうになった。ヤルカにしがみついての会話はいくら奇力体で無事だとしても、舌を噛めば相当痛むだろう。話は後にすることにした。
結局、ケンネルの一向はその崖に沿ってぐるりと走り抜けて、別の場所へ向かうのかと思えば、また同じ場所を走っていた。二周目だった。ルーネベリはヤルカの上で二回目に目にするヴィソロゴダンの住処のガラスのない窓枠を見上げて呆然としていた。アジトを移転するはずが、なぜ同じ場所をぐるぐるとまわっているのだろうかと思いながら、ガラスのない窓から二匹の黒いヤルカの背中が小さく見えていた。流石に二度も同じ場所を走っている人々がいれば、向こうも気づくだろうに、まるで気配を感じている様子もなかった。
「どうなっているんだ……」とルーネベリは思わず呟いていた。
三周もヴィソロゴダンの住処の周りを走って、ようやくケンネル一向が辿り着いたのはーー最初にアジトがあった場所と同じところだった。どうしてルーネベリが、そこが同じ場所だとわかったのかは、まったく同じ周囲の景色と走り抜けたルートを考えれば容易なことだ。
ただ、アジトを移転する前に、亡くなった人々を埋葬したはずなのだが……。埋葬した痕跡らしきものは何もなく、アジトがあった跡も何もない更地だった。
ケンネルは体調が悪かったはずなのだが、嘘のように顔色が良くなって皆の前に二本の足でしっかりと立っていた。そして、声を張りあげて言った。
「新しいアジトはここにしよう。皆、テントを各々張ってくれ。先に終わった者は手伝いにまわってくれ」
ルーネベリはヤルカから降り、腑に落ちない顔をしたまま赤い髪を掻いた。
ケンネルのこともそうだが、心なしかさっきよりも人が増えている気がした。色付きのヤルカも増えて、じゃれ合っているヤルカもいた。人々は賑やかにテントをどこに張ろうかと話しながら散らばって行った。
ルーネベリの傍にヤルから降りたアラが近づいてきた。
「ルーネベリ、やっと着いたな」
「アラ……」
アラは戸惑っているルーネベリを見て言った。
「どうした、ここはアジトとして不服か?私は平地で見晴らしもよく、最適な場所だと思うが」
「いいや、心配というよりも……。アラ、何か思わないか?」
「何か?」
ルーネベリは地面を指差した。
「この場所に見覚えはないか?」
「見覚え?私はないが……。ルーネベリはあるのか?」
「あぁ。さっきまでアジトがあった場所だ。アジトを移転するといいながら、同じ場所に戻ってきている」
アラは笑った。
「ふざけているのか?そんなわけがないだろう。あれほどの長い距離を走ったら同じ場所など辿り着くわけがない」
「あぁ、走ったな。同じ場所をぐるぐると」
「……ルーネベリ。疲れているのか?」
「えっ?」
「道中、私は周囲の景色を見ていたが、同じ場所など走っていない」
「走っていない?」
アラは頷いた。
「小さな丘や、川が流れていた。あれらは一度通れば目印になるだろう」
ルーネベリは口元を抑えた。
どうしてアラが見ていた景色とルーネベリの見た景色が違うのだろうかと考え、不意に背中に強烈な気配を感じて、首だけ後ろに向けると、ルーネベリが背負っていたプラチナの剣が鞘ごと白く光っていた。
「この剣……」とルーネベリが呟くと、アラが真実の剣を見て言った。
「その剣は何だ?美しい剣だな。ぜひ、手に取って私によく見せて欲しい。珍しい剣のようだ」
「へっ?」
ルーネベリは間抜けた声を出してアラから飛び退いてしまった。
「ルーネベリ?」とアラが驚いた顔をしたが、ルーネベリはもっと驚いていた。アラは間違いなく、ルーネベリが真実の剣を真実の女神から授かったところを目撃しているのだ。
一体、何が起こったというのだろうか……。
ルーネベリはとりあえず息を整えて冷静さを取り戻してから、不思議そうにルーネベリを見るアラに質問をすることにした。
「アラ、これから俺たちが何をするのか覚えているか?」
「無論だ。これからヴィソロゴダンを討ちに行くのだろう。マトランという者の対処を含め、ケンネルたちと相談すると聞いた」
「そうだな、そうなんだが……。あぁ、あと、もう一つ聞きたい」
「何だ?」とアラ。ルーネベリは言った。
「何か変わったと思うところはないか?」
アラは周囲を見まわした。
「思い当たるところはないが。オルシエともう少しアジトの守りを固めた方がいいと話していた。アジトを取り囲むように防御壁を作るのもいいのではないかとケンネルに話してみようと思っている」
「なるほど、そうか……」
ルーネベリは額に手をあてた。おかしいと感じているのはルーネベリだけなのだろうか。
ルーネベリはその後、オルシエとリカ・ネディ、シャウ、バッナスホート、そして、ケンネルとエートとシルと、近くを通りかかったご老人にまで声をかけて幾つか質問をしてみたのだが。皆、口を揃えて同じような事を言った。新しいアジトはまったくの見知らぬ新しい土地であること。ヴィソロゴダンの住処の近くを三度も走っていない。新しいアジトに人は増えていないーー等、ルーネベリが疑問に思ったことすべて同じ答えが返ってきた。
そして、ルーネベリが質問をして返事が返って来るたびに、真実の剣が毎回強烈な光を発して光っていた。ところが誰一人として剣が光っていることに気づいていない様子だった。
これはどういうことなのか、ルーネベリが真実の剣を手にして一人で考えに耽っていると、いつの間にかアジト内でのテントを張る作業が終わっており。エートがルーネベリを呼びに来た。
「話し合いをしますが、そろそろいいですか?」と言われ。ルーネベリは真実の剣を抱えたままエートの後をついて行った。
ケンネルのテントで行われた話し合いは、ルーネベリの予想に反して十分もかからない短いものだった。アジトを移る前は、ケンネルは非常にヴィソロゴダンの僕だというマトランに対して警戒している様子だったというのに、アジトを移ってからはまるで人が変わったようにケンネルは強気になっていた。
そうして、十分もかかわらない話し合いで、ヴィソロゴダンを討つ手立ては決まったのだが。ほとんど話し合いというよりも、ケンネルの力押しの計画を聞かされたに過ぎなかった。
その計画というのはとても粗雑なものだった。
まず、ヴィソロゴダンの住処へ通じる裏口があるそうで、その裏口を通って住処の上層へ向かう。その間、ヴィソロゴダンの部下たちをアジトの人々が足止めをし、ケンネルとエートと、真実の女神の使者であるルーネベリたちがその先へと進み。マトランと対峙した際にはケンネルとエートがマトランを足止めし、ヴィソロゴダンの元へはルーネベリたちのみ向かい、ヴィソロゴダンを裁くというものだった。
まるで戦闘員にはなりえないルーネベリは黙って話を聞いていたが、アラたちはその粗雑な計画がわかりやすくていいと受け入れた。そういったことから、十分も経たずに話し合いは終わり。その場で皆は解散し。アジトではヴィソロゴダンの住処へ取り込む人々の選別がはじまっていた。とても手際がよかったが、ルーネベリの抱く違和感は未だ拭え切れなかった。
ルーネベリは真実の剣を抱えたままぼんやりと焚火の近くに座った。そこへ、シルがやってきた。
「大丈夫ですか?」と優しく声を掛けられ、ルーネベリは「わからない」と曖昧な返事を返した。すると、シルはルーネベリの隣に座るなり言った。
「私も私自身が大丈夫なのか、わかりません。戦いの前ってとっても変な気分になります。緊張しているのか、怖いのか。どっちもなのか、よくわからないんです」
ルーネベリは小さく溜息をついた。
「俺の場合は少し違うことに対してなんだが……。まぁ、気分だけは同じかもしれないな」
シルはふふと笑った。
「お揃いですね。あー、はやく戦い終わらないかな。戦いが終わったらあのピンクの子と離れられるのに」
「離れられる?」
シルは言った。
「私、ヤルカが嫌いなんです。臭いし、とっても怖いし。戦う時必要だから一緒にいるだけなんです」
ルーネベリは一瞬言葉を失った。以前、ヤルカについて話した時はシルはヤルカを「好きな子」だと言い、ヤルカについて熱弁していたはずだ。聞き間違えだろうかと確認してみたが、シルはやはりヤルカが嫌いだと言った。
「私、ヤルカ飼いなんてやめてエートさんのお嫁さんになりたいんです。あっ、このことは秘密ですよ。まだ想いは伝えていないんです」
悪気もなく恥ずかしそうに首を傾げたシル、ルーネベリはシルが心変わりをしたようにはまるで見えなかった。むしろ、目の前にいる人物は、焚火の前で話したシルとはまったくの別人なのではないかと思った。
隣に座るシルはエートに夢中のようで、エートのどこが好きなのかを熱弁しはじめた。ルーネベリはシルのあまりの変わりように耐え切れなくなり、途中で「悪いが、少し考えたいことがあるんだ」と立ちあがり、その場を去り。そのままルーネベリは真実の剣を背負い、一人でアジトの外へと出た。
ルーネベリの思ったことはすべて間違いではない。今ではそう確信していた。しかし、このことを誰かに伝えたところで、誰も信じないだろう。皆、目の前にあることしか信じていないからだ。それはきっとルーネベリも同じだろうが、少なくともルーネベリは一連の変化に気づいている。それもこれも、ルーネベリが背負っている真実の剣によるものだろうとルーネベリは考えていた。
恐らくは真実ではない情報をルーネベリが耳にしたとき、剣が光っているのだ。剣は歪められた事実から、ルーネベリを守っている。真実の剣にこのような力があるとは知らなかった。ただ、それを知っても尚、なぜルーネベリがこの剣を持つに相応しいのかがわからない。皆、同じような事を信じているというのに、たった一人が真実を知っていたところで何ができるというのだろう。
ルーネベリは大きな岩に腰かけ、一人項垂れた。どうしようもなく孤独だった。
ヴィソロゴダンの住処へ向かう精鋭が決まり、再びエートにルーネベリは呼び戻された。アジトからヴィソロゴダンの住処へはさほど距離は離れていない。いつでもヴィソロゴダンは部下を率いて襲いにこられるだろうに、それをしていない。
ケンネルたちはいつでもヴィソロゴダンの住処へ乗り込むことができるというのに、わざわざ裏口からこっそりと乗り込もうとしている。
とても近い距離の、とても小さく狭い範囲の中でのやり取りだ。
ルーネベリにはだんだん滑稽に思えてきた。だが、皆が盲信しているなかで異を唱えたところで、ルーネベリは良い案もないのだ。戦えるわけでもなく、ただ真実の剣を持っているだけだ。
ケンネルたちの指示に従い、ルーネベリは黄色い毛のヤルカに跨り、ケンネルが選んだ三十人の人々と共に、アラたちと共に、ヴィソロゴダンの住処へと向かった時には、ルーネベリの心中は辛さで押しつぶされそうになっていた。色々と考えた挙句、なぜこんな場所にいるのだろうとなど考えてはルーネベリは溜息を深くつくばかりだった。
一行はヴィソロゴダンの住処の、あのガラスのない大きな窓枠のある方とは反対側の岩壁に辿り着いた。どうみてもなんの変哲のない場所なのだが、人々がヤルカから降りると、色付きのヤルカたち岩壁が地面にちょうど接する場所を掘りはじめた。
ヤルカたちが鋭い爪を器用に使い地面を掘っていくと、銀色の分厚い縁どられた通気口のような造形物が見えてきた。ヤルカたちがすっかり掘り終わると、その造形物の入り口はごろごろとした小さな岩で閉じられていた。