五十三章 真実と偽り
第五十三章 真実と偽り
突如聞こえた焦っているかのような女性の声に中庭にいた人々は皆戸惑っていた。何を渡せばいいのかわからず、皆は顔を見合わせた。しかし、そんな中、冷静な者が一人だけいた。地上にいた賢者シュミレットだ。シュミレットは助手であるルーネベリの「境」こそが隠されていないものだという考えが正しいのかどうかはわからなかったが、とりあえずは地面に落ちている棒に巻かれた「境」を拾いあげたのだが。シュミレットのその行動を空から見ていた二つ目玉が瞬きをしてから、心の中に語りかけてきた。
《この庭の民が脚を縛りつづけてきたプラチナの紐を、はやく!》
紐を持っている人々ははっとして懐やポケットに入れていたプラチナの紐を取りだした。手の平に置くと、しなるその紐を空から見下ろす目玉が見つけると涙を浮かべた。
《それを繋げれば一本に。さぁ、はやく!私の元へ。私の可愛い子たちよ、助けてちょうだい》
空からあの胴体が膨れ足の短い捻くれた顔の生き物がピョンピョンと空中を駆け下りて、一匹、二匹、三匹、四匹……と次々と下りてきた。
プラチナの紐を持った人々は隣同士で紐と紐をくっつけようと近づけると、紐が一本に繋がっていくという不思議な光景を目の当たりにし、あちこちで驚いた声を漏らしていた。ちょうど五本の紐で一本の長い紐なるようだった。完成した紐は捻くれた生き物が口に銜えて、再び空に向って空中を駆け上がっていった。まるで空気を踏むことができる高機能靴を履いているかのようだった。
五本で一本の長い紐ができるが、中庭にいる人々の持つ紐だけでは到底数が足りないということに気づいた人々は誰に指示されたわけでもなく自主的に城内やお茶会の会場へ走り、まだ紐で足を縛っている人々から紐を集め、身分から解放されたのだと伝え中庭に来るように呼び掛けた。人々はどうしてかはわからなかったが、胸の内がわくわくしてとまらなかった。今まで知らなかった何かが起る、そんな期待を生まれてはじめて抱いていた。
二本足で地面の上を立ち、駆けて、大きな声を出しながら人々に「紐を繋げてくれ」、「こっちはもうない」、「ありがとう」、「頼む」などと叫び合い、その行動すべてに活気がみなぎっていた。
バッナスホートが梯子から降りた後、梯子を地上に戻し。ルーネベリたちは屋根から降りて、揉みくちゃにされているシュミレットの元へ駆け寄った。シュミレットは短い間に人で埋め尽くされた中庭でげんなりとしていた。
中庭にはさらに大勢の人々が集まり、金のドレスを着たエフネラもメルナスも人々の中に溶け込み、いつ来たのか、ハノにドレスを汚された金髪の女性たち三人や貴婦人たちの姿も見かけたが、混雑のあまりすぐに姿を見失ってしまった。顔をいちいち確認しなければ誰が誰なのかがさえもうわからない状況となっていた。その為、茶会からお付きの者たちを無理やり奪われて怒りながらやってきた高い身分の人々は中庭にすら入ることが出来ず、回廊で憤慨するしかなかった。
平の庭にあるすべての紐ではなかったが、中庭にいた人々が集めせっせと繋げた紐を捻くれた生き物が空へと運び二つの目玉の向こう側に何度も消えた後、女性の声が落ち着きを取り戻したかのようにゆったりとした口調に変えて語り掛けてきた。
《この時を迎える日をずっと昔から知っていました。けれど、あまりにも恐ろしく、あまりにも長く、取り乱してしまいました。ごめんなさい。そして、ありがとう。私はようやく役目に戻れます》
空にあった二つの目玉と顔が一瞬で消え去った。あの捻くれた生き物たちの姿もなくなり。地上に落ちていたはずの「境」を巻き付けた棒などからも「境」のみが消え去った。
空にはくっきりと満天の星空が見えかと思うと、目玉のあった場所にピンクと黄色の光を放つものが現れ、光の中心から女性の姿が徐々に表れた。ピンク色は消え、眩い黄色い光を放つ女性はプラチナの豊かな長い髪をなびかせ、とても薄く向こう側が透けて見える不思議なドレスを身に纏っていた。――そう、それはまるで星空のドレスを着ているかのようで、神の庭でリンたちが着ていたものよりもずっと上等なものを着ていた。女性は空から降りて屋根へと舞い降りた。
人々はその姿を見て声が出ず、ただ恍惚と眺めていた。
ルーネベリは女性の髪を見た瞬間、ガテの書に記されていたという「隠されたものを知るには隠れたものと隠されていないものを同時に得なければならない」の意味がようやくわかった。隠されていないものはプラチナの髪で、隠されていたのはこの女性だ。恐らくは、残酷にも女性の命ともいうべき髪を抜かれていたのだろう……。
光を放つ女性は言った。
《運命によって導かれた者たちよ、彼らこそこの世界の救世主です。皆の前へ。称賛の言葉をおおいに受けるべき者たちです》
一体、誰の話をしているのだろうと思いきや、ルーネベリやシュミレット、アラ、シャウ、バッナスホート、リカ・ネディ、オルシエの身体が一瞬にして屋根の上に移動していた。
せっかく降りた屋根の上にいたことや、人々が見上げている様を見て「えっ、えっ?」と慌てふためくルーネベリ。ところが、賢者シュミレットは平然と女性に向って言った。
「称賛は結構です。それよりも、質問があります。あなたは女神レソフィアですか?」
「ちょっと、先生」とあまりにも不躾だとルーネベリが混乱しながら言うと、女性は横に首を振った。
《私は真実の女神オトーリアです。過去と未来を見通す力を持ち、
予言者たちを導く者。私は女神レソフィアによって囚われ長く存在そのものを消されていました。しかし、存在そのものを消されても、私の身体と意識はありつづけました。私はこのレソフィアという世界に囚われたまま、この世界をずっと見てきました。ですから、この世界で起こったすべての出来事を知っています。私を助けてくださったあなた方の問いかけにはすべて答えましょう。私は真実の女神です。真実のみを語りましょう》
シュミレットは頷いた。
「僕はガテの書を読みました。しかし、ガテの書は伝奇でしかありません。この世界で起こったすべての出来事をご存じなら、僕らにこの庭で起こった真実を話してください」
ルーネベリが隣から口を挟んだ。
「あと、女神様が仰った『あいつ』とは、誰のことを指しているのかについでに教えてもらえたらと……」
真実の女神オトーリアは微笑んだ。
《わかりました。このレソフィアで起こったすべての出来事は無関係ではありません。すべてのはじまりは、ガテの書と同じです。
――遥か遠い昔、女神になったばかりのレソフィアは『平の庭』と呼ばれる以前の『白宮殿庭』を作り、多くの女神たちを庭に招きました。私は招待された女神の一人でした。あなた方が『境』と呼ぶそれは、私の衣と同じ女神にとっては最上級の織物です。数千万年に一度『奇跡の神』が織りあげる特別な贈り物です。私は古い神々の代表として女神レソフィアに贈るために『白宮殿庭』へ織物を持ち込みました》
女神は悲し気に首を横に振った。
《『境』などという邪魔なものではなく、女神レソフィアを飾る美しい衣になるはずでした。しかし、運命が変わってしまったのです》
ルーネベリが言った。
「どうして変わってしまったのですか?」
《『白宮殿庭』には名もない女神たちも招かれていたのです。名と役目を持たない女神たちははじめに立派な庭を作ることを望まれます。
庭は生命の拠り所です。女神レソフィアは見事その役目を果たし、多くの女神たちの祝福を受け褒め称えられていました。そうして、立派な庭を作ることが適わなかった女神サタインは女神レソフィアに嫉妬し、偽りの贈り物を『白宮殿庭』へ持ち込みました。それは、ヤルカの王であったヴィソロゴダンでした》
「ヤルカ?」
覚えのある言葉にルーネベリが反応したが、シュミレットはただ女神に「話をつづけてください」とだけ言った。
《私は真実の女神です。ヤルカの王ヴィソロゴダンが悪知恵の働く醜悪な獣だと一目見てわかりました。その昔、ヴィソロゴダンは神の怒りを買い庭から追放されました。行き場を失ったヴィソロゴダンは女神サタインに拾われたのですが、ヴィソロゴダンこそが女神サタインが立派な庭を作れないように阻んでいたのです。
強欲なヴィソロゴダンをレソフィアへ受け入れれば新しく美しレソフィアの世界を壊すことになると、女神レソフィアに私は忠告しました。けれど、その忠告を聞き入れるほど女神レソフィアは成熟してはいませんでした。女神サタインは忠告した私に気を害し、女神レソフィアに偽りを吹き込みました。私の贈り物を粗末なものだとし、真実の女神である私が女神レソフィアを滅そうとしていると告げたのです。女神レソフィアは女神サタインとヴィソロゴダンと共に私を押さえつけ、私の力の源である髪を抜き『白宮殿庭』の空に縛り付けました。あの時のことを思い返すと、とても胸が痛みます。酷い仕打ちでした。女神たちは私のされた仕打ちに恐れ、庭を去っていきました。残された私は女神レソフィアによって贈り物である織物で身体を隠され、私の存在をレソフィアから消したのです。力を失った私は制御できずに、ただ身体だけが大きくなりました。それからというもの気が遠くなるほどの歳月を途方に暮れながら過ごしてきたのです。私を見つけることができたのは、物言わぬ私の可愛い子たちだけです。
ヤルカの王ヴィソロゴダンは私の監視役として、『白宮殿庭』にとどまることになりました。女神サタインは女神レソフィアに『白宮殿庭』の上に庭を作るように告げました。縛られた私の姿を上から見下ろすためにです。女神レソフィアは女神サタインと共に過ごすほどに彼女の嘘に毒されていきました。女神レソフィアはサタインに告げられるがままに高の庭を作りました。けれど、彼女は私への後ろめたさがまだ残っていたのでしょう。高い山のような高台の中に隠すように街を作りました。女神サタインは次第に思い通りにならない女神レソフィアに怒り、レソフィアを去りました。高の庭の旅人たちの囁きでは、女神サタインはそのあと偽りの女神となり、正義の女神によって罪を裁かれました。彼女への恨みはもうありません》
いきなりリンリンッと鈴の音が鳴った。見ると、真実の女神の掌で赤い半透明な小さな鈴が三つぐるぐるとまわりながら浮いていた。
《高の庭の中で孤独になった女神レソフィアの元に旅人がやってきました。ガテの書にある「謝罪の鈴」の真の名は「知らせの鈴」です。これは元々私のもので、ある女神に長く貸していたのです。旅人は私を探すよう女神たちに頼まれて「知らせの鈴」を持っていました。行方がわからない私が近くにいれば鳴ると教えられ、旅人は親を失った異種の子供三人に鈴をつけてレソフィアをくまなく歩かせました。けれど、鈴は鳴ることはありませんでした。私はレソフィアの世界では消された存在でした。存在を消された以上、身体が見つからない限りは存在しないのです。鈴は存在しない者の居場所を知らせることはできません。私の可愛い子たちもヴィソロゴダンを恐れて何もできませんでした。
旅人が私を探させているとは知らず、女神レソフィアは三人の中で最も美しい子供を傍に置きたがり、引き取りました。旅人は時がくれば去らなければならない者たちです。いつか私を探し出せるようにと、鈴と異種の子供たち二人を残してレソフィアを去っていきました。
異種の二人の子供は、『白宮殿庭』でヤルカの王ヴィソロゴダンと出会いました。ヤルカの王ヴィソロゴダンはその頃、仲間もなく一人っきりでした。子供たちのうち一人はヴィソロゴダンにまんまと騙されて、彼の下僕にされてしまいました。異種の子供のもう一人は下僕にされた友を救うべく、女神レソフィアに助けを求めました。女神レソフィアは扉を開いて別の世界から善き人を招こうとしました。しかし、女神レソフィアは扉の理を知りませんでした。沢山の扉を開いたものの、閉じることが出来なくなりました。扉を通る迷い人たちが現われはじめました。そのうち、女神レソフィアはヤルカの王ヴィソロゴダンの故郷である世界の扉までも開いてしまいました。ヤルカの王ヴィソロゴダンは女神レソフィアを称え、ヤルカの仲間とレソフィアへ扉を通って迷い込んできた人々をレソフィアに受け入れたいと頼みました。女神レソフィアは『白宮殿庭』の下に『下の庭』を作り、ヴィソロゴダンにレソフィアにおいて不老不死を与え、神に準ずる者として『白宮殿庭』と下の庭を統べる王にしました。平の庭の人々が身分によって苦しむことになったのは、ヴィソロゴダンの支配のために作られた身分なのです》
ルーネベリか軽く片手をあげた。
「すみません。それじゃあ、ヤルカ飼いというのは――」
《もう一人の異種の子供の子孫です。ヴィソロゴダンによって支配された『白宮殿庭』には迷い人たちが加わり、平の庭と呼ばれるようになり賑やかになっていきました。ヴィソロゴダンは人々を支配する為に階級を設けました。異種の子供は平の庭と下の庭を統べる王となったヴィソロゴダンに立ち向かうために、ヴィソロゴダンに罪人にされた迷い人たちを救い、ヤルカを捕まえ飼い使役したのです。――旅人がリンと呼ばれている異種の子供を連れて来るたびに、子供が入れ替わっているのはあなた方も知っていますね。その子供の入れ替わりを促していたのもヴィロソゴダンです。ヴィソロゴダンは時々入れ替わった子供を下の庭へ連れ去るのです。そして、ヤルカ飼いたちと戦わせているのです。かつての友同士の子孫たちが争っているのです》
「えっ?」
《こうして多くの者たちの運命を狂わせたのです。女神レソフィアは裁きを受け、レソフィアを追われ二度と戻ることが許されませんでした。けれど、彼女は長い歳月を経てようやく私への誤解が解けたのでしょう。彼女は運命の女神として偶然と偶然を引き寄せ、現在、私を開放させました。女神レソフィアの元をいずれは訪れ、彼女には十分に謝罪をしてもらいます。しかし、私は真実の女神としてこのレソフィアに真実をもたらさなければならないのです》
真実の女神オトーリアは鈴をすっと消すと、両手をぐっと合わせてから左右に少しずつ離した。すると、オトーリアの掌からプラチナの美しい長剣が現われた。その剣は剣先から柄まですべてがプラチナで、鏡のように周囲が映り込んでいた。
《真実の剣にして、別名『神殺しの剣』です。女神レソフィアが恐れ、ヴィソロゴダンも女神サタインに手を貸したのはこの剣を私が所有しているからです。――ヴィソロゴダンは私が力を取り戻し解放されたことを既に知っています。私の解放を阻止すべく平の庭へ現れなかったのは、私の解放の時を知る者がいたのです。彼はかつての予言者の子にして英雄の子、世界を渡った迷い人の子孫です。下の庭で生まれ育ったその者は勇敢にヴィソロゴダンと戦っています。しかし、彼はこのままでは負けてしまうでしょう。
偽りで穢した理を正し、運命の狂いを整えるにはヴィソロゴダンをこの真実の剣によって罰しなければなりません。この世界の救世主たちよ、この剣を手に下の世界へと向かってはくれませんか?この世界を救ってくれたのであれば、私からの最大の敬意の贈り物として、この真実の剣はあなた方の旅の終着点まで共に在りつづけ、あなた方を助けることでしょう。真実の剣はどの世界においても、真実を前に斬れないものは何一つとして存在しません。けれど、同時に真実のないものは何一つとして斬れないのです。けして忘れてはなりません》
真実の剣を目にしてごくりと喉を鳴らしたのは武道家たちだった。真実の女神のいう「真実を前にして」という前提がよくわからなかったが、斬れないものが何一つ存在しないという剣は誰もが見たことがなかった。やはり女神の所有物というだけあって特別な剣に違いない。そんな名誉ある女神の剣を手にしてみたいと思わない武道家たちがいるだろうか……。名剣ヴァラオスを手にしていたが、それ以上の剣を目の前にしてバッナスホートはにやついていた。十三世界においての武道の覇者であるバッナスホートがその剣を手にしないという理由が思いつかなかったからだ。ところが、真実の剣を眺めて何を思ったのか シュミレットはクスリと笑った。
「真実の女神様、その剣は面倒な代物のようですね」
真実の女神オトーリアは意味ありげに微笑んだ。
《真実の剣をあなたに授けます》
そう突然、女神が言い放ったのはーーなんと、武道家でも剣士でもない学者のルーネベリだった。
「へっ?」と間抜けな声を漏らしたルーネベリに、バッナスホートとシャウが殺気に満ちた目を向け、リカ・ネディとオルシエ、アラは意外だと言った風にルーネベリを見ていた。ルーネベリは言った。
「一体、どうして、俺なんですか?剣が扱える、もっと相応しい人がいると思うんですが。俺は剣をろくに振ることさえできませんよ」
《あなたこそこの剣に相応しいのです。肉体にこそ恵まれていますが、この中で最も非力なあなただからこそ真実に相応しい》
「どういうことですか……?」
シュミレットが小声でぼそっと「面倒な剣のようだからね」と言ったのが聞こえたが、ルーネベリには疑問しか残らなかった。真実の女神オトーリアはルーネベリの前に剣を近づけてきたので、ルーネベリは仕方がなく受け取れるように掌を向けた。真実の剣は光りながらルーネベリの両手に収まると、プラチナの鞘に納められ、プラチナの紐が現われた。女神のせめてもの計らいだろうが、ルーネベリは嬉しくもなんともなかった。
《あなたがこの旅を終える時、剣は手を離れ消え去るでしょう。しかし、あなたが得たものはいずれあなたを助ける糧となるでしょう》
「それは……?」
《下の庭への扉は私が開きましょう。レソフィアでは下の庭への扉は神か、それに準ずる者しか開くことはできません。扉を通れば、もうここへは戻ることはできません。皆に別れを告げるのです》