五十章
第五十章 プラチナの紐
ルーネベリは言った。
「先生、この病に心当たりでもあるんですか?」
シュミレットはルーネベリの方を向いてクスリと笑った。
「君、僕が治癒の世界で治療を受けていた時のことを覚えているかな?」
「えぇ、覚えていますよ。三年ほど前でしたよね。確か、右肩をお怪我されたのに、怪我が右腕に移されてーー」
シュミレットは咳払いした。
「その後の話だね。そういえば、あの場に君はいなかったのだから知らなくてもしょうがないね。僕は君が言う怪我を移されたせいで腕に血の塊ができて、魔力の通り道を圧迫していたのだけれどね。僕が無理に魔力を使ったために魔力の通り道が破裂したのだよ」
「えっ、そんなことがあったんですか。大丈夫だったんですか?」
「大丈夫とは言い難いほど辛かったね。それよりも、僕が言いたかったのはーー」シュミレットはスエナの方を見た。
「彼女の顔にある痣は魔力の通り道が破裂した後の僕の腕とよく似ているのだよ。それにねーー」
シュミレットはマントの下の鞄から鉱石の花を取り出してさらに言った。
「彼女が投げられたというのは鉱石の花だと思うのだけれどね、どうだろう?見覚えはないかな」
スエナは鉱石の花をぱっと見ただけではよくわからなかったのか、腕を伸ばして「よく見せてください」と言った。シュミレットはスエナに鉱石の花を手渡した。
スエナは鉱石の花をまじまじと見てから言った。
「形がこれほど綺麗ではなかった気がします。でも、これと同じものだと思います」
シュミレットはスエナに鉱石の花を返してもらうと、大事そうに鞄に戻した。ルーネベリは言った。
「先生、ではやはり鉱石の花の中身は魔力に似た何かだということですね。先生の痣ができた時はどうやって治されたんですか?」
「ズゥーユに治してもらったのだよ」
「ズゥーユさんですか?奇術師でなけれ治らないってことですか」
「十三世界ではそうだろうね。ただ、ここレソフィアという世界では勝手が違うということを忘れていないかな」
ルーネベリは神の庭でシュミレットがマグマでできたヘルビウスを作り出したことを思い出した。術式も用いず、想像だけで作りだしたと言っていた。
ルーネベリはシュミレットに言った。
「なるほど、そうですか。本来はリン、俺がシーナと名付けた女性をここに連れてくるはずだったんですね」
「そうだろうね。けれど、リンの代わりができる僕がいるから彼女がいなくても問題はないのだよ」
「そのようですね。どうか、よろしくお願いします。俺にできることはありますか?」とルーネベリ。シュミレットは言った。
「何か器になるものが欲しいね」
シュミレットのその言葉を聞いてマハの妹ハノが部屋中を見渡して何か器になるようなものはないかと探したが、それらしきものがこの部屋にないということを思い出して「器を取ってきます」と部屋から出て行った。
妹が説明も何もしなかったので、姉のマハが事情を説明してくれた。どうやらスエナの両親は既に亡くなり、スエナがメルナスの屋敷に移ってからはこの家は長い間、空き家だったそうだ。スエナの姿が見えなくなってから、石のベッド以外の家財は近所の人々が無断で持ち帰ってしまい、スエナが家に戻った時には家の中には何も残ってはいなかったそうだ。今は両親と暮らすハノの家から物を借りて暮らしているそうだ。皆余裕のある暮らしをしているわけではなかったので、姉のマハがスエナの為に栄養のある食べ物を城から分けて貰えないか妹のハノと頼んだということまで話してくれた。
色々と話を聞いてルーネベリはこの姉妹は心が優しいのだとつくづく思った。きっと良いご両親のもとで育ったのだろう。身分、身分とこの平の庭に来てから散々聞かされたが、身分などなくとも人は助け合えれば十分に暮らしていけるのだ。一学者であるからそう思うのかもしれないが、身分などろくでもないものがなぜ必要なのだろうか……。
ハノが木彫りの器を持って部屋の中に入り込んできた。息があがりながらも、シュミレットに「お待たせしました」と丁寧に器を差し出した。しかし、シュミレットは受け取らず、ハノにスエナの傍に置いて欲しいと頼んだ。
ハノは何も聞かず、そっと器を石のベッドに置いた。シュミレットはお礼を言ってからスエナの傍まで歩き、スエナの顔から少し離れたところから手を向けた。それから目を閉じてぶつぶつと何やら小声で呟きだした。何を言っているのだろうとルーネベリが近づいて聞いてみると、「水が外へ流れ出る」と言っていた。きっとイメージしているのだろう。この世界では、想像をすれば何でも作り出せるという事なのだろうか……。
突然、ボコボコッとスエナの顔から音が鳴った。部屋の中にいた皆が動揺した。顔からそんな奇妙な音が鳴ることなどほとんどない。大きな赤紫色の痣はなんら変化もなく、音だけが鳴っているうえに、その音は沸騰しているかのようにどんどん酷くなった。夫のメルナスは心配のあまりか美しい顔が著しく崩れていたが、おかまいなしだった。
顔が鳴っているスエナ本人も恐怖の為に震えはじめた。
急に音が消えた。シュミレットはくいっと手を引いた。それはまるで何か細いものを引っ張っているかのような仕草だったのだが、次の瞬間、シュミレットが何を引っ張っているのかその場にいる皆が目にした。赤い糸状のものだ。きらっと光りながらスエナの痣の一つから飛び出てきた。きっと液体状では外に出せなかったのだろう。出てきた糸はオビアの夫から抜き取った毛に少し似ているような気がした。
糸を引っ張り出すたびに赤い痣は薄くなっていった。シュミレットは一つの痣から長い一本の糸を引き出すと木の器に入れ、残りの痣も丁寧に一本ずつ糸を引いて抜き取っていった。
器の中が糸で一杯になった頃、ようやく作業が終わった。スエナの顔はうっすらと赤みを帯びた痣が点在していたが、すっかり元の顔が見られるようになっていた。メルナスは大喜びしてスエナに抱き着いた。スエナは笑顔でメルナスを抱きしめ返している。
なんだろうか、ただの夫婦の痴話喧嘩が周囲の人々を巻き込んだ大きな騒動に発展しただけだったようだ。太った女性エフネラは石のベッドの端に座りながら呆れながらも、ほっとしたような顔をしていた。
シュミレットは赤くきらっと光る糸の山を小さな一つの球にまで小さくして指先で摘まんだ。そして、ひっそりとマントの下の鞄に入れた。何に使うつもりなのかはわからないが、皮膚に痣ができるほどの代物だ。ここに置いておかないほうがいいにきまっているので、ルーネベリは何も言わなかった。
スエナの顔がすっかりよくなったので、これで万事解決だーーと言いたいところだが、ここから先がどうすればいいのかわからなくなってしまった。ルーネベリは何かしなければならないとは思ったのだが、もう何も思い浮かばず、やはり茶会が必要な通過点だったのかもしれないと考えていると……。
エフネラがぽつりと言った。
「身分のせいで人生を振りまわされるのはおかしいわ」
「えっ?」と思わず知人に聞き返すかのように口に出して言ってしまったのはマハとハノの姉妹だった。姉妹は血相変えて口を両手で塞いだが、エフネラはまったく気にせずに言った。
「スエナは身分の低さを気して夫の傍にいる自信を失ったのでしょう。メルナスは身分の高さを気にして、妻にも誰にも愛してもらえないと思い込んでいたのでしょう。二人が身分を気にせずにいられたら、問題は何も起こらなかったはずよ。身分は本当に必要なのかしら……。
身分などなくてもわたくしたち皆が助け合って暮らせば、幸せに生きてゆけるのではないかしら。きっと簡単な事じゃないでしょうけれど、皆が欲ばならなければできると思うの」
「本心からそう仰っていらっしゃるのですか?」と、どこからともなく突然聞いたこともない女性の声が聞こえてきた。誰が話したのかと、ルーネベリもマハ姉妹も部屋中を見まわしたが、この部屋に誰かが入ってきた様子はなかった。
エフネラは頷いて言った。
「本心ですわ。わたくし、今回とても大切な経験をしましたわ。わたくしは数少ない高い身分を持つ両親の元に生まれ、何不自由なく暮らしてきましたの。沢山の人々に愛され沢山の豊かさを得たことに心から感謝をして、長い間この平の庭のためにわたくしに出来ることを何かしたいとは思っておりましたのよ。両親は何もしなくていいと仰ったわ。それでも、わたくしはずっと何かしたいと思っておりましたの。ようやく、わたくしが何をしたらいいのかがわかりましたわ。この平の庭の人々を身分という束縛から解放させることですわ」
「あなたがそのような立派なことを仰る人物に育ってくれて私は嬉しいです」
「立派なことではありませんわ。もっと早くにここへ訪ねてくるべきだったわ。ここで暮らす人々の生活を知っていれば――あら、待って、わたくし誰と話している?」
エフネラが部屋を見まわした。
「私です。エフネラ様」
声が発せられても誰も声の主を見つけられなかった理由がすぐにわかった。
金色のベールで顔を隠したエフネラのお付きの小さな者が金の衣の下からプラチナの紐を抜き取った瞬間、声がはっきりと聞こえてきたからだ。不思議なプラチナの紐が声を隠していたようだ。紐を引き取った後、お付きの者はすっとその場に立ちあがった。いや、立ちあがったというより、急に背が高くなったのだ。小人のようだと思い込んでいたが、実際の背の高さはシュミレットより少し高いほどだった。
マハとハノ姉妹とスエナ以外の皆は驚いて声が出なかった。
エフネラのお付きの者はベール越しに言った。
「ここは私たちの住区です。私は下々の者の掟には背いてはおりません。どうか自由に口を開いても罰しないでください」
エフネラはベッドから立ちあがった。ちょうどお付きの者とエフネラは同じ背の高さだった。エフネラは言った。
「罰したりしないわ。――あなた、話せたのね」
「はい、話せます。エフネラ様とずっとこうしてお話がしとうございました」
お付きの者がベールをあげると、エフネラと瓜二つの顔がそこにはあった。エフネラの金のドレスや金の扇の印象が強く髪の色まではよく見ていなかったが、エフネラは茶色い艶のある髪をしているのだが、お付きの者の髪はほとんど灰色だった。そのうえ、エフネラよりもやや疲れた様子で老け込んでいた。
エフネラは驚愕のあまり口元を押さえて震えだした。
「あなた、わたくしの姉妹なの……?」
「いいえ。私は従妹です」
「従妹?わたくしの従妹はメーアだけよ。もう随分前にメーアはリンに選ばれて神の庭へ向かったわ……」
「いいえ、メーアが私です。リンがリンとして選ばれるのは当然です」
エフネラは戸惑った。お付きの者の言っていることが理解できなかったのだ。ルーネベリが言った。
「どういうことですか?よければ詳しく話してもらえませんか」
エフネラの従妹のメーアだと名乗るお付きの者はルーネベリにお辞儀してから言った。
「この平の庭では高い地位にある人々が、外からやってくるお客様方のような方々によってリンに選ばれ女神様の庭へ招かれると信じているのです」
ルーネベリは頷いた。
「確か、お茶会でーー」
「はい。お客様方を城でもてなした後、お茶会に招いてリンを選んでもらうのです。それは平の庭の古い習慣です。……何の意味もないのです」
「意味がないってどうしてなの?」とエフネラが言ったところ、お付き者はエフネラに近づいた。思わずエフネラはびくついたが、お付きの者が優しくふくよかなエフネラの身体を抱擁すると、エフネラは落ち着いた。いくら顔が似ていても従妹だということはすぐには信じられないのだろうが、お付きの者として普段から彼女を知っていたからだ。
お付きの者ははっきりと言った。
「私はあなたの従妹のメーアです。ずっと言いたかった。
赤ん坊の頃、私はリンの赤ん坊とすり替えられ、私は身分の低い養父母の元で育ちました。養父母はとてもまじめに働く人でしたから、病になるのも早かったのです。この住区に入った時、路上で座りこむ人々をご覧になられたはずです。心も身体も疲れ果てた人々はあのような空虚な病に侵されてしまいます。私の養母は我を失う前、私が将来そのような姿になることを憐れみ、私の出生の秘密について教えてくれたのです。私は実の両親が住むという屋敷に会いに行きました。私は実の両親に歓迎されると思っていました……」
エフネラはお付きの者のやせ細った薄い背に手を置いた。
「歓迎してくれなかったのね」
「……はい。両親の傍らには私とすり替えられた少女がいました。髪は白くはなく、茶色で、赤いリボンを髪につけていました。上等な服を着て、実の両親の手を握っていました。私は実の両親に話しかけようとして、後ろから叩き倒されました。屋敷に仕える者たちの仕業です。一言も話せず、実の両親と少女の前で私は鞭に幾度となく打たれ気絶しました。気絶から目覚めた時、私は実の両親の屋敷ではなく、あなたの屋敷の貯蔵庫にいました。私が気絶した後、屋敷の外に放り投げられていたところを偶然通りがかったあなたの屋敷の使用人が見つけ私を助けてくれたのです。
顔がエフネラ様と似ていたことが幸運でした。私はその方のおかげでエフネラ様という従妹がいることを知りました。私は厨房で働いてエフネラ様のお付きの者になれるように一生懸命頑張りました。実の両親には拒絶されましたが、従妹のあなたなら私のことを受け入れてくれると、ほんの少しでも期待してしまったのです」
エフネラの金色のドレスの肩に冷たい何かが落ちた。
お付きのメーアは謝り、ドレスが汚れてしまったと慌てて離れようとしたが、エフネラはぎゅっと腰に腕をまわして離さなかった。
「あなたがわたくしの傍にはじめて来た頃のことは、ごめんなさい、あまり覚えていないの。あなたたちっていつも同じようなベールを付けているから顔がわからないでしょう。――でも、あなたが他の人と違うっていう事はいつからかわかるようになっていたのよ。あなたって、わたくしが泣いたり怯えたりしたらいつもこうして抱きしめてくれていましたわね。何も話さなかったけれど、わたくし、あなたが傍にいてくれてずっと幸せでしたのよ。あなたが私の本当の従妹だというなら、わたくしは信じますわ」
エフネラは少しメーアから身体を離して顔を見ながら言った。
「だけど、あなたの話だと、あなたと別の人間がすり替えられたという話になるわよね。あなたとすり替えられた子供は誰の子供なの?」
メーアは言いづらそうに目線を反らしたが、エフネラの目を再び見て、覚悟を決めたかのように言った。
「わかりません。旅人が連れてくるのです」
「旅人?」
「エフネラ様はご存じありませんが、平の庭はいたるところに薄いベールで仕切られているのです。エフネラ様方地位の高い方々はそのベールを通り抜けることはないのですが、外から来たお客様方はベールを一度は必ず通るのです。ベールは通りに抜ける人によって違う音が鳴ります。その音は私たちの住区にしか響いてきません。
お客様方が通られたときは身分が中人以上の方々にお声がけします。旅人が通られたときはお子さんの生まれたばかりの最上等級の方にお声がけする決まりです。そうして、旅人の存在を知るのはごく僅かな方々にするのが下々の者たちの掟の一つです」
「なるほど、あの膜のようなものはそのためのものだったんですね!」とルーネベリが横から口を挟んでから、「邪魔をしてすみません、つづけてください」と言った。
お付きの者メーアは頭を下げてから言った。
「旅人がこの平の庭へやってくるとき、赤ん坊を一人連れてくるのです。旅人が連れてきた子供は必ず将来リンになります。最上等級の方々は彼ら自身の子供を等級の低い者たちに育てさせ、旅人が連れてきたリンを我が子として育てます。何も知らない人々は血族にリンがでたとなれば、名誉だと言い盛大にお祝いします」
「その話だけは信じられないわ。どうしてそんな酷いことができるのかしら」
エフネラは口元を覆い、眉をひそめていた。マハとハノ姉妹は俯き、スエナはメルナスに胸の中で空ろな目をしていた。この三人はこの話を知っていたのだ。メルナスは叫んだ。
「リンは私たちとはまったく関係がないと言うのか!」
メーアはメルナスにお辞儀してから言った。
「リンはこの平の庭の者ではありません」
エフネラは頭を押さえ、メーアにもたれかかった。
「頭が痛いわ。いつからそんな非道な事が行われてきたのかしら」
メーアは首を横に振ったが、黙って話を聞いていたシュミレットが嬉しそうに言った。
「そのことについてなら少しは僕が話せるかもしれないね」