四十八章
第四十八章 黒い通路
シュミレットが「何処かな?」と聞くと、助手のルーネベリは黒い髪の女性の方を向いて言った。
「彼女が向かうはずだった場所です」
「なるほどね」とシュミレットがあっさりと頷いたので、ルーネベリは半ば驚いた。
「理由は聞かないんですか?」
「聞かなくとも、君は話してくれるでしょう」
「えぇ……まぁ、そうですけどね」
シュミレットは頷いて、ルーネベリに話をつづけさせた。
「俺たちは思い違いをしていたんですよ。食事を運んでいたあの黒い髪の女性が、庭にいた三人の女性のうちの一人にぶつかりドレスを汚し、叱られていた。そこへ、騒ぎを聞きつけた身分の高い三人の人物がやってきた。そこからすべての話が始まっているのだと思っていました。ただ、実際に『必要な通過点』への道筋はふくよかな女性がお茶会の会場から外へ出たことではじまっていたんですよ」
シュミレットは籠の上の太った女性を見た。
「彼女がお茶会を出た時点でということなのかな?」
「はい。俺たちが茶会に向かいそこで何をしなければならないのか、既に茶会に参加したリカ・ネディさんから教えてもらったと言いましたよね」
「そうだね」とシュミレット。ルーネベリは言った。
「具体的に何を言われたのかは本人たちもよくわかっていなかったそうですが、『一人だけ選べ』と言われたそうです。ただ、ネディさんたちが一人選んでも違うと否定されるだけで、誰も選べなかった。理由は『リン』が何かを知らないからだと思っていました。ですが、それは俺たちも同じですよね。彼らと神の庭で出会いましたが、女神の親衛隊という事以外は知らず、彼らの正体は知りません」
何度も頷きながらシュミレットは身体を揺らした。
「つまり、君は僕らがお茶会に参加すると、リカ・ネディと同じように『リン』に関わる誰かを選ぶように促されると言いたいのだね」
「そうです。恐らく、お茶会にいる人々は俺たちが『リン』に関わる人物を知っていると思い込んでいるからこそ、選べと言うのではないかと」
「興味深いね。何も知らない僕らが茶会に出向いたところで、答えはでなかった」
ルーネベリは言った。
「途方に暮れるだけになっていたでしょうね」
シュミレットはこっくり頷いた。
「だからこそ、君の考えでは、僕らがお茶会に出向いて誰かを選ぶ必要はないということだね」
「はい。俺達には選べないでしょうし、はじめから選ぶ必要もなかったんです。庭で騒ぎが起きた時、お茶会の会場を出た人物こそが『選ばれた人物』だからです。お茶会に残った人々はネディさんたちがお茶会から逃げた後も、選ばれるのをお茶会の会場で待っています。ところが、ふくよかな女性は選ばれるのを待たずに外にでました。ふくよかな女性がいない間に、ネディさんやオルシエさんとはまた別の『選ぶ人間』が現れる可能性もあるにもかかわらず、庭で起こった問題の方を優先しました。それもこれも、彼女が選ばれた人物だったからです」
「なるほどね。なぜ選ばれた人物が彼女だとわかったのかな?」
ルーネベリは太った女性の方を向いて言った。
「あの女性の行動からそう思ったんです。身分が高い人物であれば、まず下の者に様子を見に行かせるのではないでしょうか。しかし、あの女性本人が騒ぎの起こった現場へ向かい、人任せにはせず、その場でそれぞれの話を聞いて公平に人を裁こうとしていました。あの女性が現れたことによって、救われた女性たちが大勢います。権力を持ちながらも公平さがある。ですから、扇を投げた己惚れた男も裁くことができたんですよ」
「君の話によると、ネディたちが太った彼女に告げ口をして扇を投げた無謀な彼の悪事が明るみになったのだったね。彼女に裁かせるーーね。確かに、重要な役割を果たしているのかもしれないね。だた、彼女と黒髪の彼女の行先がどう関係しているのかな?」
「説明しますね。庭で騒ぎが起きた原因は、黒髪の女性は友人の為に食事を運んでいたということにあるんですよ。女性は己惚れた男を見事に裁いたのですが、同時に友人を思う気持ちを汲んで、黒髪の女性の友人に食事を用意すると言っていたんです。確か、病気だとかで……」
「病気?」
「こういうことです。ネディさんたちが茶会から出た女性と出会っていなければ己惚れた男の悪事が明るみにはならず、男が裁かれることもなかった。ふくよか女性はドレスを汚された女性たち三人を叱るだけで済み、お茶会に戻っていたでしょうね」
「けれど、彼は裁かれ、お茶会に戻る道すがら、籠が傾いたことによってたまたま扇が彼の足元に落ちた。彼は扇を掴んで彼女に襲い掛かろうとした」
「そうです。もし、必要な通過点がお茶会の会場であれば、何事もなく辿り着いていたはずですが。現に今、扇を投げつけられ動揺した女性が落ち着くまで足止めを食らっています。向かうべき場所はお茶会ではなかったからです。これはお茶会が向かうべき場所ではない二つ目の理由ですね」
「まだつづきはあるのだろうね。君の考えを最後まで聞こうかな」
「ありがとうございます。俺はお茶会が向かうべき場所でないなら、どこへ向かうべきかと考えたんです。そうして、あることに気づいたんです」
「何かな?」
「このままお茶会に向かった場合、己惚れた男は恐らくお茶会には参加できないでしょう。扇で襲おうとした男を傍に置くとは思えませんし。襲わなかったとしても、罰した男をお茶会に参加はさせなかったでしょう。そうなると、あの男を裁いた本当の目的がわからなくなるわけですよ」
シュミレットは少し顔を上げた。
「確かにそうだね。彼を裁くにしろ、今でなければならないというわけではなかった。彼を裁いたことには意味があったと君は見ているのだね」
「はい」
「でもね、それがどうして、黒い髪の女性の向かっていた場所と繋がるのかな。まだわからないね」
「強引な考えですが、こう考えたんです。お茶会を出たふくよかな女性とあの己惚れた男をまだ引き離してはならないのではないかと」
「引き離してはならない?――ご夫人は襲われたのだよ。傍に置かせるのは、あまりにも不憫ではないかな」
「わかっています。とても非情なことを言っていますが。あの男にはまだ余罪があるのではないでしょうか。そして、男を裁くことができるのはあの女性だけです。ただ、向かえる場所といえば、黒髪の女性が食事を運ぼうとしていた行き先ぐらいで……。飛躍しすぎですか?」
「多少はそうだね。ただね、僕らが出会った中で彼を裁くことができる唯一の人物は彼女だけだということ。黒髪の女性の友人は病気だったということを、それらになんからの余罪があると加えると、関連がまったくないとは思えなくなってきたね」
「すみません、今回は俺自身もまったくの想定外だったので考えが纏まらなくて……。俺の言いたいことは伝わったでしょうか?」
シュミレットはクスリと笑った。
「強引な解釈は多々あったけれど、僕はそれでも上出来だと思うけれどね。僕は何も見聞きをしていないからね、君が気づかなければこのままお茶会に向かっていただろうと思うよ。時間を無駄にしたかもしれない」
「いいえ、俺の考えが外れていれば、そっちのほうが時間の無駄になるかもしれません」
「兎にも角にも、一度行ってみるべきだと僕は思うよ。君の考えが外れていればお茶会に今度こそ向かえばいいのだからね」
「今日はお優しいですね」
「褒めていると思うことにするよ」
シュミレットはまたクスリと笑った。
それからルーネベリはさっそく黒髪の美女に話をしに行った。黒髪の美女が向かうはずだった場所へ向かうためだ。黒髪の美女はルーネベリから話を聞くと、「とても寂れた場所です。お客様方や身分の高い方々が向かうような場所ではございません」と言い断られたのだが、ルーネベリがどうしてもと懇願すると、黒髪の美女がすぐに折れてくれた。客人の頼みを断るのも忍びないと思ってくれたのかもしれない。
ルーネベリは黒髪の美女にお礼を言った後、太った女性に話に行った。ルーネベリが太った女性にお茶会ではなく、黒髪の美女の友人の元に行きたいと言うと、太った女性は「お見舞いですわね」と答えた。太った女性はやはり病のことを忘れてはいなかった。
太った女性自身、身の危険を感じた後だったので、顔には出していないが、気が沈んでいて華やかなお茶会で悠長に楽しむ気分ではなかった。だからこそ、ルーネベリの話にすぐに頷いてくれた。
「誰の身にも不幸は突然訪れるものですわ。皆でお見舞いして励ましてあげましょう」
小さい者たちがせっせと籠を六十度左へ方向転換させ、アラとオルシエが何事かとルーネベリに話を聞きに来た。ルーネベリは二人に簡単な説明をしたのだが二人はよくわからないと顔を顰めていたが、ルーネベリの考えに従ってくれると言ってくれたので、皆で黒髪の美女の知人の元へ向かうこととなった。
先導するために黒髪の美女が先頭を歩くことになったのだが、ルーネベリとシュミレットは彼女の隣まで歩いて後ろにつづく一行を誘導した。一行は庭を横切り、行き止まりの生垣まで進んだ。ここから先をどう進むのだろうかとルーネベリが思っていると、黒髪の美女は生垣を引き戸のように横へ引っ張ったのだ。彼女一人が通る分であれば三・四十センチぐらい開けば身体を横して通ることができるはずだが、籠や大勢の人間が通るとなると一メートル以上は開かなければならない。相当重いのだろう、黒髪の美女はふぅふぅと息を荒くして生垣を引っ張っていた。最初呆然と見ていたルーネベリは慌てて黒髪の美女を手伝い、生垣を横へ引っ張り開いた。開けた生垣の向こう側は通路になっていた。庭の舗装された道とは違い、砂の道がつづいていた。左右の壁は背の高い生垣で、それ以外は何もないただの道だ。向かう場所が寂れた場所というのは本当のことかもしれないとその時、ルーネベリは思った。
なんとか籠はその砂の道へ進むことはできたが、籠よりも一回りだけ大きい通路だったので、籠を運ぶ小さな者たちは何度も砂の道を取り囲む壁に身体をぶつけていた。後ろの方で痛がる声が聞こえるたびに振り返ると、「大変でしょう。わたくしだけでも籠からおりますわ」と籠に乗った太った女性が言い出すたび、小さな者たち全員で首を横に振った。カサカサと小さな者たちの顔を覆う黒いベールが揺れた。太った女性はとても小さな者たちを気にかけていたのだが、籠に乗っているバッナスホートは平然な顔をしており、リカ・ネディは気まずそうにしながらも、ルーネベリと目が合うとニヤニヤとしだした。
ドレスを汚された金髪の女性を含む三人や、小さい者二人に拘束されている白い衣の美男子は砂の道を歩くたびに靴の中に砂が入るので嫌そうな顔をしていたが、貴婦人はピンと背筋を伸ばして気丈に振る舞っていた。彼女も歩きなれない道でさぞ思うところはあっただろうが、不満などけして表にださなかった。
結局、太った女性もそのお付きの者、バッナスホート、リカ・ネディを籠に乗せたまま、一行は砂の道を右へ曲がり、しばし歩くとさらに右へと曲がり直進しながら小さな扉へと辿り着いた。この扉はとても軽い木製の扉だったようで、黒髪の美女が軽く押しただけで開いた。
扉の向こう側も砂の道が広がり、左右は閉鎖的な灰色の壁に隔てられていた。この通路の先にはまた同じような扉がある。一行は無言のまま、真っすぐ進み。扉まで辿り着くと、また黒髪の美女が扉を開いた。扉が開かれた途端、ルーネベリは息を飲んだ。
先ほどの通路は壁が灰色ということで少し暗い印象があったが、今度の通路はもっと暗いというよりも真っ黒だった。左右の壁も地面も黒い塗料で塗りつぶされているようだった。あまりにも黒いので、奥に扉があるのも見えなかった。これにはルーネベリだけでなく、金髪の女性たちや白い衣の美男子や貴婦人、籠に乗った太った女性も恐怖の色を顔に浮かべていた。こういった場所を見たことがないどころか、あることさえ知らなかったようだ。
黒髪の美女が歩きだしたので一行も後をつづいたが、金髪の女性たちは身体を震わせ。あの貴婦人さえ不安そうに手を胸元で組んでいた。地面が砂ではなく、軽い金属のようなものだったので、歩くたびにカンカンと鳴った。
これから一体どこへ連れていかれるのだろうと皆が怖がっていると、次の扉に着く直前で黒髪の美女は立ち止まり、左側の壁を指さした。
「ここが入り口です」
ルーネベリが左側の壁を見てみると真っ黒でよく見えなかったが、ところどころ隙間があり、そこから光が漏れているのが見えた。どうやらそこに扉があるようだ。黒髪の美女が押すと、急に黒い壁から明るい場所に開けたのでルーネベリもシュミレットも目が眩んだ。目を擦りながら開いた扉の向こうを見ると、向こうの通路は汚れた灰色の石畳になっており、通路の両端には灰色のくたびれた二階建ての建物が建っている。どれも同じ作りのものばかりだ。その建物の前に人々がズボンしか履いていない半裸の男たちが気だるそうに座り込んでいた。
「おい!」と随分と後ろからバッナスホートに声をかけられたので、黒髪の美女もシュミレットも扉を通って中に入った。ししかし、この扉、先ほどまで通ってきたものよりもずっと小さく。ルーネベリは中腰してなんとか中に入れたが、籠では通れないだろう。そのことを振り返って伝えると、「わかった」というリカ・ネディの返事が返ってきた。
一行がぞろぞろと扉を通り抜け、中に入ったが、金髪の女性たちは鼻を押さえ、白い衣の美男子は頬を膨らませて息を止めていた。微かにこの道には異臭が漂っていた。ルーネベリやシュミレットが我慢できないほどではなかったが、ゴミが落ちているわけでもないのにこの異臭はおかしい。何か道に撒いているのかもしれない。
貴婦人はハンカチを取り出し口元にそっと上品に添えていた。しかし、その後からやってきた太った女性は特別何かをするわけでもなく、きょろきょろと周囲を見渡して言った。
「知りませんでしたわ。平の庭にはこんな場所もあったのね!」
興味津々に扉のないぽっかり空いた建物の入り口を遠くからのぞき込もうとしていた。やはり、この女性は只者ではないなとルーネベリは思った。
大勢の人々が急にやってきたというのに、道端で座り込んだ半裸の男たちは無関心だった。酒でも飲んでいるのかと彼らの周りを見ても瓶一つ見当たらず、皆ぼんやりと遠くを眺めていた。
彼らをまじまじと観察しているルーネベリに黒髪の美女が気づいて、そっとルーネベリの耳元で言った。
「病なのです」
「病?」とルーネベリ、黒髪の美女は頷いた。
「よく頑張って働いた人々は皆、ああいう風になってしまいます。私の母もそうでした。身分が上がる前でしたから……」
「それは……。お気の毒に」
「慰めのお言葉、感謝いたします」
ルーネベリは言った。
「それではーーご友人の病も同じですか?」
黒髪の美女は首を横に振った。
「あの子は……。私が説明するよりも、ご覧になればおわかりになると思います。家はもう少し先です」
少し切なそうに黒髪の美女は微笑み、石畳の道を歩き出した。
ルーネベリたちがぞろぞろと後につづいた。三十歩ほど歩いたところで、普段は籠に乗り滅多に歩かない太った女性だけが息があがり、ゆっくり歩いて後で追いつくから先に行ってくれるように言われた。だが、太った女性を残してはいけないので、太った女性のペースに合わせて皆のろのろと歩くことになった。数十歩歩いただけで太った女性は息があがるので、一向に進む気配がしなかったが。それでもなんとか我慢をして通りの角まで辿り着いた。黒髪の美女が言うにはその角を右に曲がり、二つ目の角をまた右に曲がり通りに入って左側、手前から奥に向かい三番目に友人宅はあるというので、まだ先だ。溜息交じりにまたのろのろと一行は進んだ。
言われたとおりに石畳の道の角を右折し、一つ目の右に伸びる通りを通り過ぎて二つ目の通りに差し掛かったところで右に曲がった。
そこまで辿り着くのに十分以上は経過していただろう。その間、太った女性を背負って進もうかとルーネベリは考えた程だが、背負えなかった時のことを考えると諦めた。苛立ちながらやっと目的地である左手に家が見えてきた。どの家も同じ灰色のくたびれた二階建ての建物だ。窓はあるが、ガラス窓ではなく、ぽっかり空いているだけで。中は暗くてよく見えなかった。人が住んでいるようにすら思えなかった。
黒髪の美女はシュミレットとルーネベリに一度頭を下げてから、通りの左側、手前から奥へ三番目の家へと小走りして入っていった。
ルーネベリたち一行は家の前で立ち止まった。すると、「姉さん、会いに来たわ」と家の奥から黒髪の美女が呼びかけている声が聞こえてきた。