四十四章
第四十四章 庭での騒動
――パンッと大きな音を立てて誰かがぶたれたような物音が生垣の向こう聞えた。それから、ドサッと誰かが倒れたような物音もするので、これはまずいのではないかと思ったアラとルーネベリは生垣が途切れるところまで急いで移動し、生垣に身を隠してそっと向こう側の様子を見てみた。
生垣の向こう側には小さな花のない緑に溢れた庭があり、庭の中央を白い舗装された道が城とは真逆の方向つづいていた。その道の向こうには壁があり、門もあるところをみると、他の場所へつづいているようだ。問題は道に隔たれた庭の右手で起こっていた。
黒髪で淡い赤のドレスを着た女性が叩かれたのだろう左頬を手で押さえて一人地面に座り込んでおり、その周りを金髪で鮮やかな青いドレスで着飾った女性と、茶髪でオレンジ色のドレスを纏った女性、そして、赤毛で紫のドレスを着た女性が取り囲んでいた。
金髪の女性は髪を上品に整えた後姿しか見えなかったので、はじめはなぜ怒っているのかわからなかったのだが、女性が苛々としながら木製の質素な扇を持って顔を半分隠しながらこちら側に身体を傾けたのでその原因が一目でわかった。
金髪の女性の綺麗な青いドレスのスカートの前方部分が汚れていたからだ。地面を見てみると、なるほど、銀の盆や皿が数枚、そして、皿の上に乗っていただろう食べ物の残骸が見るも無残な状態で散らばっていた。きっと黒髪の女性が運んでいた料理だったのだろう。
ルーネベリは地面で座り込んでいる女性に見覚えがあったので、すぐに誰だったのかを思い出した。彼女は回廊を走ってまで部屋まで食事を届けてくれたあの黒髪の美女だ。どうやら彼女は不味い状況に陥っているようだ。助けたほうがいいのではないかとアラに言おうとルーネベリが口を開いたところ、庭の方で金髪の女性が先に口を開いて言った。
「あなた、等級はおいくつなのかしら?」
「等級」という聞きなれない言葉を聞いて、ルーネベリは口を閉じた。黒髪の美女は震えながら小さな声で言った。
「……上人等級一でございます。お召し物を汚してしまい、誠に誠に申し訳ございませんでした」
涙をぼろぼろこぼしながら黒髪の美女は謝っているというのに、金髪の女性の方はせせら笑って言った。
「まぁ、まぁなんてこと!上人の等級一ですって」
傍にいた茶髪と赤毛の女性たちが木製の扇で顔を隠しながらクスクスと笑った。
金髪の女性は頭を少し仰け反り、言った。
「私たちは最上人等級三ですのよ。等級が卑しいと、格上に対してこんな粗相ができてしまうのね。卑しいというのは悲しいわね」
なんとも感じが悪い言い方をする女性だ。女性たちはまたクスクスと笑った。
隣で荒く息を吐いたアラが腰にぶら下げた短剣の柄を掴んでいたので、ルーネベリはぎょっとした。女性たちに向かって投げつけるもりなのだろうかと思ったからだ。意地悪をされている黒髪の美女を助けたい気持ちは痛いほどわかっているが、だからといって短剣を投げれば別の問題が生じる。ルーネベリは慌てて、落ち着いてくれと思いながらアラの鞘に置く手を両手で力一杯掴んで押さえ込むと、アラに睨まれた。
黒髪の美女は地面に平伏した。
「申し訳ございません。先日、中人より格上げしたばかりの若輩者でございます。誠に誠にお許しくださいませ」
黒髪の美女がここまで謝っているというのに、金髪の美女は鼻で笑って、とんでもないことを言いだした。
「私はあなたよりも格上だから許すこともできますわ。ただし、あなたがここでドレスを脱いで下着姿のまま私の隣を歩いてくださるならね」
他二人の女性たちは平然と笑っている。何が面白いのか、まるでわからない冗談を聞いているようだった。
アラがやはり我慢できないと、押さえつけてくるルーネベリの両手を振り払おうとしたが、ルーネベリも必死で押さえた。
黒髪の美女は地面から顔をあげて、「そんな」という顔をしたのだが。金髪の女性は言った。
「私はこんな汚れたドレスを着たまま人前を歩かなければならないのよ。笑い者にされるのは嫌よ」
「でしたら、私のドレスを交換するというのは……」
「嫌よ!そんな安物のドレスは着られないわ。あなたが裸同然の恰好をして注目を浴びればすむ話よ」
ルーネベリのアラを押さえる手が少し緩んだ。なんて人間なのだろうと思ったからだ。――神の庭で女神に仕えるリンからレソフィアについて話を聞いたとき、身分がすべての世界だと確かに思ったが。高の庭では多種多様な生物がおり、身分自体が重要であるように全く思えなかった。だが、この平の庭に来てはじめて身分が重要視されているところを見ると、あの黒髪の美女は明らかな身分差別を受けていることになる。
しかし、助けるためとはいえ、アラが短剣を投げて女性に怪我をさせるのは不味いことこの上ないので、他の方法で黒髪の美女を助ける方法はないかとルーネベリは考えたが、短時間で女性が納得するような良い方法は思いつかなかった。まずルーネベリは男であって、女性の気持ちなどわかるはずがなかった。アラに聞こうかと思ったが、アラはどちらかというルーネベリと同じ考えだろう。この態度から、服を汚されたぐらいたいしたことがないと思っているはずだ。参考にはならないのだろう。やはりここは引き返して、シュミレットに助けを求めるべきだろうか。シュミレットなら魔術式と似た力で服を一瞬で元に戻せるだろう。ただ、本を読んでいる最中にここまで連れてこられるだろうか……。
あれこれと考えていると、どこからか音楽が聞こえてきた。
笛のような優雅な音色が聞こえてくる。見てみると、奥にある門が開いてそこから薄い緑の衣を着て顔を隠したあの小さな者たちが二列になってのんびりとこちらへ歩いてきた。それほど多い行列ではなかったが、薄い緑の衣を着た小さな者たちは手に銀製の大きな扇を持っていたり、銀食器を持っていたり、綺麗な布を持っている。何の為にそれらを運んでいるのだろうかと思っていると、どうやらその行列というのは、前方と後方それそれ六人ずつおり、真ん中に要人らしき人を守るように歩いているようだった。その要人というのは貴婦人といわんばかりに潔癖なほど身なりが整った上品な女性だった。行列からさっと抜けて、すらりとしたその姿を現すと、黒髪の美女は立ち上がってすぐさま道の端に立ち。金髪の女性も、赤毛の女性も茶髪の女性も、黒髪の美女より前に並んで頭を垂れた。
その貴婦人には赤い唇の右下にほくろがあり、薄い金髪を後ろで纏めて銀の髪飾りを盛るように飾り、深緑のドレスを纏っていた。
「何事ですこと?騒がしいから来てみれば……」
冷たい印象だが非常に綺麗な声が言った。
「この向こう側では貴賓様方をお出迎えになる前のお茶会をなさっておりますのよ。お通知は受け取ったでしょう」
貴婦人はさっと女性たちに目配らせして、金髪の女性のドレスに目がとまった。
「そのドレスはいかがされたのかしら。まさかその姿で貴賓様方に会われたのではあるまいでしょうね。もう口を開いてよろしいわ。事情を聞かせてちょうだい」
金髪の女性が汚れたドレスの裾を持ち上げて丁寧にお辞儀した。それから、黒髪の美女に対するような横柄な態度ではなく、とても丁寧な口調で言った。
「わたくしども三人は最上人等級三でございます。後ろにおりますのが、上人等級一の者でございます。この上人等級一なる者が城から運んできた料理でわたくしのドレスを汚したのでございます。そのため、きつく叱っている際中でございました。お耳を穢したこと、何卒、ご容赦くださいませ」
赤髪と茶髪の女性は腰をくねっと曲げるようにお辞儀した。謝罪しているのかもしれない。
貴婦人は片手をさっとあげた。
「最上人等級三の者たち、口を閉じなさい。上人等級一、口を開くことを許すから、説明なさい。なぜ城から料理を運んできたのかしら。格上の方々のご依頼かしら」
黒髪の美女は少し震えながら言った。
「口を開くことお許しいただき、ありがとうございます。格上の皆様からのご依頼ではございません。城の料理が冷めて貴賓様方にお出しできなくなったお料理を勿体なく思い、頂いて参り、床に伏せた友の元へ運ぶ途中の事でございました。その折、運悪く、格上の方様にぶつかってしまい、お召し物を汚してしまいました。誠に誠に申し訳ございません」
深々と頭を下げた黒髪の美女に対して、貴婦人は「そう」と短く答えて酷い言葉は投げかけなかった。
アラはそこでやっと鞘に掴んだ手の力を抜いたので、ルーネベリはアラから手を離した。
貴婦人は冷静に黒髪の美女を見て言った。
「事情はわかりました。しかし、給仕中にすることではないはずよ。お友達はお気の毒ですけど、そういった事は給仕の時間が終わってからに今後はなさい。今回は見逃してあげますわ」
金髪の女性がぴくっと肩を動かした。納得がいかなかったようだ。だが、口は一切開こうとしなかった。
貴婦人は再び金髪の女性に向かって言った。
「もう一度口を開いてよろしいわ。あなた方はここで何をなさっていたの?最上人とはいえ、等級三であれば城でのお勤めがあるはずでしょう。ここにいた理由を教えてちょうだい」
金髪の女性は顔を上げて、急に真っ青になった。そんなことを聞かれるとはまるで思ってもいなかったようだ。黒髪の美女以外の三人の女性たちがこの庭にいた理由を簡単には話せない様子で、ぶるぶると震えていた。何か答えなければ不味いと思ったのだろうが、口を開いては閉じたりを繰り返していた。
そこへ、今度は太鼓の音が聞えてきて、門から白い衣を着た小さな者たちが姿を現した。また別の人物を間に挟んで、行列がやってきたようだ。その行列を見た途端、貴婦人は慌てて金髪の女性より前に立ち頭を下げた。きっと、貴婦人より格上の人物がやってきたのだろう。薄い緑の衣の小さな者たちは通行の邪魔にならないよう庭の隅まで走って行き、地面に平伏した。
行列は貴婦人のものより人数が多く、前方十人後方十人二列に並んでゆっくり歩いてきた。そして、行列から姿を現したのは白い服をゆったりと着込んだ稀に見るほど中性的で顔の綺麗な美男子だった。
美男子は目の前に頭を下げて立っている女性たちを見て、ニタニタと笑っていた。恐らく、この男は己の美しさを熟知しているのだろう。
「皆、顔をあげてごらんよ。私の顔を見たくないのか?」
女性たちは格上相手だったため、急いで顔を上げて美男子の顔を見た。等級三の女性たちはわざとらしくうっとりとした顔をしたが、黒髪の美女は怯えており。貴婦人にいたっては、緊張しているのか、顔が強張っていた。あくまでも格上相手だと思っているからだろう。美しい顔をした男は女性たちが思い通りに動いたので、満足した様子だった。その場で両腕を広げてくるっとまわってみせた。
「どう思う?この召し物は。お茶会の為に用意させた。――あぁ、話していい。感想が聞きたい」
なんとも自由奔放な男だ。貴婦人は「最上人等級五でございます」と言うと、顔を横に振って言い直せた。
「失礼しました。お美しいですね。よくお似合いだと思います」
ほとんどお世辞に近い言葉だったのにかかわらず、美男子は嬉しそうに笑った。
「やはりそう思うか?私はなにを着ても美しい。もっと上の衣も似合うと思うが。なかなか着る機会がない。私はこれほど美しいのに……」
この男は一体何をしに来たのだろうとルーネベリは遠目にそう思っていたら、隣にいたアラも同じことを思ったようで渋い顔をしていた。男は確かに自画自賛してもいいほど美しいが、異性として魅力的かというと、女性たちの態度を見ているとそうでもないようだ。誰の表情もぎこちなかった。
美男子はすっと手を前に差し出すと、白い衣を着て顔を隠した小さい者がさっと大きな白い縁の手鏡を渡した。美男子は鏡を受け取ると、自身の顔を見た。
「私はこれほど美しいのに……」とまだぼやいている。
貴婦人は「はい」と答えるしかなかった。そんな状態でしばらく無言がつづいたのちに、美男子はふと気紛れに鏡から顔を反らして言った。
「どうして衣が汚れているものがいる?」
ようやく金髪の女性のドレスのことを聞いたので、貴婦人は丁寧に経緯を教えた。すると、美男子は鏡をぽいっと地面に投げ捨てた。もちろん、小さい者たちがすぐに拾い回収したのだが、割れなかったのが不思議だ。
美男子は芝居がかったような口調で言った。
「なんという運命だろう!私にはここまで出向き、かの者を救わなければならないという使命があったのだな」
身体をくねくねと動かし、両足で器用なステップを踏んで金髪の女性の前まで近づくと手を差しだした。
「よし、おいで。私の衣を着させて、私の傍においてあげよう」
金髪の美女はそれを見初められたのだと思ったのだろう、恥ずかしそうに声を出さずに俯いたが、次に美男子に言った言葉に氷ついた。
「あぁ、勘違いはしてはならないと肝に銘じなさい。美しい私の住まいには美しい娘が七十人ほど控えているが、そなたも含め誰も妻にはしない。ただただ、私が会いたいと思えば会うだけだ。そなたの容姿は……まぁ、あまり好ましくないが、運命には逆らわないだけだ。贅沢をしたくば実家を頼りなさい。私に仕えられることを光栄に思いなさい」
美男子は金髪の女性にさらに手を差しだし、手を置けと無言で強いた。
ルーネベリは愕然とした。いくらなんでもあんまりではないだろうかと思ったからだ。確かに金髪の女性は良い人間とはけしていえず、自業自得な部分もあったかもしれない。けれど、あの男が来なければ、金髪の女性が貴婦人に叱責され、黒髪の美女は守られて問題は解決に向かっていただろうと思うと、話は違ってくるものだ。悲惨な未来しかないのではないかという話を聞いてしまうと途端に金髪の女性が憐れに思ってしまう。
恐らく格上の人間の要求を拒むことは許されないだろう。金髪の女性はまた蒼ざめた顔で震えながら少しずつ美男子の掌に手を近づけようとしていた。
隣にいるアラの方も、すっきりしない顔をしていた。こういったやり方は違うのではないかとルーネベリもアラを見て頷いていた。
こういう時はやはり、ルーネベリたちが出ていて口出ししてもいいのではないかとアラに耳打ちしたところ、アラも同意見だった。二人で生垣から出て行こうと決まった時に、また音楽が聞こえてきた。
今度の音楽は五人が奏でるとても派手な音楽だった。美男子は途端に腕を引っ込めて目をきょろきょろと動かして貴婦人の前に並んだ。白い衣の小さき者たちは緑の衣の者たちの前まで走って行き、地面に平伏した。
音楽の後に門から金色の立派な衣を着た小さな者が姿を現した。その者は大きな赤い旗を掲げており、旗には金色の糸で八つ線が横に並んでいた。それをちらりと美男子が見ると、その場に膝をついて半分ほど座り込んだ。
美男子よりもさらに格上の者がやってきたようだ。その証拠といわんばかりに金色の衣を着た小さい者たちの数が違っていた。先頭には旗を持った者、その後ろには旗を収めるのであろう筒を持った者。その後ろには二列で六人、その後ろには参列で十五人。その十五人の後ろには金の籠に担がれた太った女性が座っており。女性の座る座席の三段ほど下に、二人ほど座っている者と移動しながらせっせと給仕する男性たちの姿が複数あった。もちろん、太った女性の後ろにも参列に並んだ十五人ほど小さき者たちがおり、その後ろには二列に並んだ六人と二人がいる。ざっと数えると五十人以上はいるのではないかと思った。
太った女性が乗った籠が美男子たちの前まで運ばれ、ゆっくりと籠が地面に下され、担いでいた小さい者たちは籠の後方にまわった。
太った女性は足元に置いていた金の豪勢な扇を取り、「オホホ」と笑いながら三段下から男に差しだされた金の器に山盛りになった白い菓子のようなものを太った左手を伸ばして掴むと扇で隠した口元までもっていき、むしゃむしゃと頬張った。
また変わった人がきたものだ。太った女性は菓子を何度か頬張ると目下に半分ほど座っている美男子や貴婦人、金髪や茶髪や赤毛の女性、そして、黒髪の美女を見見まわした。それから、明るくのんびりした口調で言った。
「ねぇ、あなた、お茶会を開くといったわよね」
誰に言ったのだろうかと思ったのだが、美男子が冷や汗をその綺麗な顔中に誰が見てもわかるほど酷く流しているのですぐにわかった。太った女性は怒っているようにはまったく見えなかったが、やはり怒っているのだろう。
「お茶会に参加もしないで、娘さんたちを誑かしているなんて許せないわ。この方が教えてくださらなかったら、過ちを犯していたところですわ」
ルーネベリたちの方からはよく顔が見えなかった籠に座っていた片方の者が立ちあがって籠から下りてきた。アラはその人物を見て言った。
「あいつは……」