四十三章
第四十三章 境の向こう側
二つの皿が空になり、酒瓶が空になってもまだルーネベリとアラは話をつづけていた。話せば話すほど古くからの友と接しているかのように次々と切りなく話題が浮かんでくるのだ。互いに楽しくてしかたがなかった。ルーネベリの飲み友達に話題が移ったころ、ルーネベリはふと思い言った。
「ところで奇術は試したのか?友人の何人かが奇術師に頼って性別や容姿を変えたと言っていたんだ。数年前に若返りもできるとも聞いたな」
アラは言った。
「私たちには無駄だそうだ。剛の世界に時術師が大勢集まっている場所があるだろう」
「ガラスでできた空間移動室のことか?」
「そこへ尋ねに行ったことがある。時術師は通話機というもので私の問いかけに答えてくれた」
ルーネベリは頷いた。
「奇術師に直接聞いたんだな。それで、なんて言っていたんだ?」「剛の世界の者に奇術式を使って容姿を変えても、自然と元に戻ると言われた。私たちの血は他の世界の人間とは違うそうだ」
「あぁ、プロト遺伝子か。なるほど、奇術が効かないというのはそういうことでもあるのか。治癒を促進させることはできても、身体を奇術で変化させて持続させることはできないのか」
「何だ?」
「あぁ、すまない。こっちの話だ。とにかく、俺たちの遺伝子には翼人と同じ遺伝子が剛の世界の人間には組み込まれているんだ。だから、俺たちの身体は大きく丈夫なんだ」
「翼人か……。どんな人々なのだろうか」
アラの呟きを聞いてルーネベリは言った。
「クワンがここにいたらリゼルの話がはじまっていただろうな」
ルーネベリとアラが笑っていると、扉の外から大きな物音が聞こえた。二人は扉の方を見ると、すぐに音は止んだ。だが、誰かがいるような微かな気配を感じた。感覚だけでなんの根拠もなかったが、アラは大剣を掴んで「ここにいろ」と小さな声でルーネベリに言った後、扉の方へ足音を立てずに小走りしていった。流石、武道家だ。身のこなしが軽い。ルーネベリは爪先立ちになってのんびり歩かなければ足音を消すのにも苦労した。
ルーネベリがのろのろと歩いている間にアラは扉の前にぴったりと張り付くように立って、外の物音を聞きながら取っ手を掴んで思いっきり扉を開いた。
扉の外には、ルーネベリが運び入れたワゴンと同じものが置かれており、その傍には高さ五十センチ程の両腕が長く頭の大きな小柄な生き物がーーいや、よくよく見れば真っ黒なベールと頭部にぴったりと張り付いた帽子で顔を隠した「人らしき小さな者」たちがワゴンを六人で取り囲んで、ワゴンの戸を開こうとしているところだった。六人はアラと、そして、そのずっと背後を歩いていたルーネベリを見るなり飛びあがり、服の下の、その体のどこから生えているのかわからない足で素早く回廊を駆け出した。アラはすぐさま走るのに邪魔になるので大剣を背に抱え、得体のしれない六人を追いかけだした。ルーネベリも慌ててアラの後ろを追いかけた。
六人の小さな者たちの足は非常に速かった。足を世話しなく動かして素早く駆けていくので、アラも懸命に走らなければ見失ってしまいそうだった。ルーネベリはアラの部屋から出て数十秒も経たないうちに息があがったため徐々に先を行く六人どころかアラとの距離すら随分と離れてしまった。ルーネベリもアラたちと同様に身体が丈夫とはいえ、鍛えているわけではないので体力差が嫌でもでてしまっていた。
アラは狙いを定めた獣のように六人を追いかけていると、六人は突然回廊の途中で身体を捻って床に転がり回廊の先へ姿を消した。
アラは立ち止まりまったく誰の姿もいない回廊を見て最初こそ驚きはしたが、目の前が嫌に波打っているかのように空間が歪んで見えたので、平の庭の城に辿り着く間に何度か遭遇したあの見えない透明なシート状「境」がカーテンのように目の前にぶら下がっているのだと直感的にわかった。そして、六人の小さな者たちはその下を転がって通り抜けたのだ。この「境」は地面までの長さはないのだろう。なぜ、城内にこんなものがあるのだろうか……。
アラは背負っていた大剣を抜き、しゃがみ込んで薄いシートの端を大剣で探ろうとした。後ろからやっと追いついたルーネベリはアラが大剣を持って何かをしている様子を見て言った。
「何をしているんだ、追いかけないのか?」
「待て、ルーネベリ。この先は通り抜けない方が良い」
「えっ?」
「目には見えていないが、目の前に透明の何かがある。小人たちはこの下のわずかな隙間から転がってくぐっていった。身体の大きい私たちは捲りでもしなければ通り抜けられない」
ルーネベリは目の前を凝視した。確かにアラが大剣で宙を軽く押すたびにたびに空間がゆらゆら揺れていて気持ちが悪かった。
ルーネベリは「平の庭の人々のいう、『境』があるんだな」と頷き、遠くに見える誰もいない廊下の先や背後や周囲を見まわして言った。
「そういえば、この『境』を通り抜けた後に平の庭の人々がやってきたな。この境を突き抜けるたびに俺たちは何かされているのかもしれないな。よくはわからないが……」
アラは剣を持ったまま言った。
「私はあの『境』というものを通りたびに、平の庭の人々に見られているのではないかと思った」
「監視されているということか?」
「城に誘導され、椅子に座らされた。私は男たちに囲まれても嬉しくともなんともなかったが、他の皆は違うようだった。まるで甘い蜜で惑わせ夢中にさせたがっているようだった」
「甘い蜜か。考えてみれば、それもおおいにありうるな。最初から俺たちの好みをほとんど知っているかのようだった。先生は大好きな本に囲まれて、バッナスホートは剣や美女や酒だったな。シャウは美人に囲まれて騒がれていた。俺にいたっては、美味い酒を用意してくれたーー考えてみると、アラだけが欲しいものを用意できなかったんじゃないか?なぜだろう」
アラは「私の外見を見て判断したのだろうな」と言い、立ち上がった。
「外見か、なるほどな。客が男なら女をあてがい、女なら男をあてがえばいい。後は欲しがるだろうものを適当に言えば、いずれどれかに当たる」
「私が欲しいものはここにはなかった。だから、当たらなかっただけだ。――ルーネベリ、あの小人たちを見失っているが。どうする?」
「あぁ」
「進つもりがないなら、部屋で待っているか?」
「いや、もちろん俺も一緒に行く。悪いな、つい気になって……」
アラは頷いた。剣をくるくるとまわして身体が大きいルーネベリもアラも中腰になって通れるほどの高さまで「境」を剣に巻きつけた。それからアラはルーネベリを先に通してから、剣を向こう側に言ったルーネベリに預け、後からアラ自身が通り抜けた。
剣に巻きつけた「境」を丁寧にほどきながら、最後は床近くまで落とした。やはり、「境」は床までは伸びていなかった目、地面まで身を屈めて腕を伸ばせば十分大剣を引き寄せることができた。
アラが大剣を背中に収め、さぁ二人で回廊の先を歩こうとしたとき、そそくさと誰かが左隣を駆け抜けて行った。振り返ると、誰もいなかったので、恐らくは「境」の隙間から向こう側へ転がり抜けて行ったのだろう……。
さっき通り過ぎたのは、あの全身を黒で纏った小さな者たちだ。それから、数歩も進まないうちに、回廊のつきあたりから左奥へ伸びる廊下へ小さな者たちが物を持って走っている姿が次々に目に飛び込んできた。なんと、「境」を避けただけで、ルーネベリとアラ以外は誰もいないと思っていた回廊には沢山の小さな者たちがいたのだ。
小さな者たちのほうは、ルーネベリたちに姿を見られているとは気づいていない様子で、なにやら先を急いで走っているようだ。「あの『境』は、俺たちの目くらましでもあったのか……」とルーネベリは内心呟いた。
アラが何か言おうと口を開いたので、ルーネベリが片手をあげて遮り言った。
「その件に関して話をするのはやめておこう。『喧嘩』はしたくない」
アラは少し黙ったが、ルーネベリとアラはそもそも喧嘩など端からしていないので、ルーネベリなりに何か意図があるのではないかと察して、アラはルーネベリに合わせてわざとらしく頷いた。
「……そうだな。『仲直り』するためにも、少し散歩をするか。気が紛れるだろう」
ルーネベリは少し身体を揺らした。
「それがいいな。散歩しながら城を見てまわろう」
わざとらしくルーネベリも頷いてみせた。――二人の言いたいことはこういうことだ。小さな者たちが見えない振りをしながら城内を探ろうということだ。ルーネベリとアラは酒を飲み交わして、すっかり意気投合していたので細かいことを説明せずとも簡単なことなら互いが何を言いたいのかあらまし伝わっていたのだ。ルーネベリはなんだか嬉しくなった。
アラは言った。
「どの方向へ行く?」
「とりあえず真っすぐつきあたりまで行った後、左へ行こう」
「わかった」
二人が回廊の先へ歩き出したとき、大きな本を抱えた小さな者たちの大群が一列になって左奥の回廊の方から押し寄せてきた。
彼らはルーネベリたちの向かっているつきあたりを曲がってこちらへ向かってくるつもりなのだろう。恐らくはそれらの本たちはシュミレットの為に運ばれているのだとルーネベリにはわかった。本はどれも埃をかぶっており、足の速い小さな者たちが歩くたびに空中に埃が舞っていた。その上、不可思議な小さな者たちの顔と頭部を覆う帽子が揺れるたびに風で後方へ舞っていたはずの埃が押し戻されて前方へ移動し、空中に舞いながら埃が小さな者たちともにこちらへ迫っていた。
小さな者たちに気づかない振りをするもりだというのに、あの埃の中に突入すれば嫌でも咳き込むだろう。そもそも、ルーネベリたちはどこまで見えていない振りをすればいいのかもわからないので、下手に反応など見せない方が良いに決まっている。
ルーネベリはどうしようかと慌てて考えだしたのだが、アラが突然、ルーネベリの腕を掴んで庭の方へ引っ張った。
「ルーネベリ、庭に出よう。庭を散策したい」
「えっ?」
「早く!」
強引にアラに腕を引っ張られたルーネベリは、いくらなんでも不自然すぎるだろうと思いながらも半ば引きずられるような形で回廊から中庭の方へ出て、青く茂った苔を踏みつけずかずかと中庭の中心にある丸く大きな岩の方へ近づいた。
そうしている間に、後ろの方では埃を撒き散らす小さな者たちの大群が一列になって廊下を疾走していた。ルーネベリは小さな者たちの姿をよく見ようと後ろを振り返ろうとしたが、アラがルーネベリの首に腕をまわして阻止した。
「余所見をするな」
アラは「気づかれるから見るな」と言っているのだ。ルーネベリは大人しくアラの腕の中で頷いて見せたので、アラは早々にルーネベリを開放して、庭の中心に置かれたあの奇妙な生きた石像の前まで歩いた。
石像の前でとまると、二人はまじまじと極端に短い二本の足や、胴体が異様に膨らんだその生き物を見た。胴体の中には捻くれた表情の顔がある。やはり二つの黒い目だけをぱちぱちと動かしていた。そして、アラとルーネベリに目線を向けていた。やはり何かの生き物のようなのだろう。
アラはこの生き物に対しても見えていない振りをしたほうがいいのかと思ったのか、生き物からさっと顔を反らして先ほどまでいた回廊の反対側へと堂々と胸を張って歩いて行った。ルーネベリの方は生き物の方を凝視していたのだが、生き物方が頬をぽっと染めて恥ずかしそうに目線を反らした。捻くれた顔をしているものだからてっきり性格も捻くれているのかと思ったのだが……、なかなか可愛らしい反応を見せる生き物ではないだろうか。ルーネベリは興味深そうに生き物に近づこうと足を一歩前へ踏み出した。
「何をしている?早く来ないか」
気づけばもう反対側の回廊まで辿り着いていたアラがルーネベリにそう言った。ルーネベリは生き物から顔をあげ、渋々頷いた。
「あぁ……。わかった。すぐに行く」
最後にせめてもう一度、捻くれた顔をした生き物の顔を拝んでから行こうかと思い、ルーネベリが生き物の方を見ると、大きな岩しかなく、そこにいた生き物が丸々いなくなっていた。数秒足らずの出来事だ。とても驚いたルーネベリは中庭を見まわしたのだが、あの生き物が去っていく姿すら見つけられなかった。
「ルーネベリ」とアラが呼ぶので、とても残念だがもう行かなければならない。あれは何だったのだろうか……。なんとも不思議な生き物だった。できることなら、もう少し観察してみたい、飼ってみないと思うような生き物だった。ルーネベリは小さなため息をついて、アラの待つ回廊の方へ歩いて行った。
反対側の回廊に辿り着いて、アラとルーネベリの二人は城内を歩きまわろうと思ったのだが、回廊を歩きだした端から小さな者たちの大群にまた遭遇した。今度の小さな者たちの大群は本ではなく衣類を運んでいた。ピンクや黄色、緑、白や黒や紺に、キラキラ光沢のある服までを綺麗に折り畳んで運んでいる。誰に運んでいるのだろうと思ったのだが、すぐにシャウの為ではないかとルーネベリもアラも思った。シュミレットが人前でマントを脱いで服を着替えようとはしないだろう。バッナスホートの方もこれといって衣服にこだわりがあるとは思えなかった。そうなると、若くて顔のいいシャウが美女たちに乞われて服を着替えようとしていると考えた方が一番しっくりくるのだ。
とにかく、小さな者たちの集団は埃まで運んではいなかったので、アラもルーネベリも自然を装って回廊を真っすぐに歩いていた。足の速い小人たちはルーネベリやアラの左隣をさっさと駆けて通り過ぎて行った。大群の最後がやっといなくなったと思った。しかし、それはあまりにも甘い考えだった。別の小さな者たちの大群が正面からまた姿を現した。そのうえ、今度は右手の回廊からも小さな者たちが空き瓶を運んでこちらへ向かってくる。一体、何人小さな者たちがいるのだろうかと思うほどの数だ。
アラはルーネベリの腰を軽く叩き、小走りするように促した。
二人は右手の回廊から走ってくる小さな者たちよりも一足早く、回廊を抜けて正面の入り口から城の奥へと入った。ちょうどシュミレットたちがいるだろう部屋の反対側に出たのだ。きっとそこには別の広い部屋があるのだろうと思えば、回廊にいた数の比ではないほどの、部屋一杯の小さな者たちがうようよと部屋の中で服やら食事やら本やらを持ったまま順番を待っているかのように待機していた。
アラは思わず声を出しそうにだったので、口元を抑え、ルーネベリの腕を掴んでそのまま左手にある扉の方へ身体を傾けて、部屋を出てしまった。
その扉というのは、城の出口の一つだとは二人はまったく知らず、白い短い通路がただつづいていたのでその通路に沿って歩いた。すると、しばらくすると、先の方に青い生垣があった。これは十三世界にもそっくりなものがあるので見慣れていたので安心した。また、生垣の周りには誰の姿も見えなかったので、アラは口元から手を離し、隣を歩くルーネベリからも手を離し、二人は一息をついた。きっとこの辺りには何もないのかもしれないが、
正面に見える生垣を見ながら右に曲がることにした。生垣の左側には白い壁しかなかったからだ。
しばらく歩いてからアラは言った。
「驚いた。あんなにいるとは思わなかった」
生垣を沿って真っすぐ歩きながらルーネベリは頷いた。
「あの小さい人たちが俺たちに色々なものを運んで届けてくれていたんだな。でも、なんで俺たちには見えないようにしているんだろうか」
アラは首を傾げた。
「あの者たちは顔を隠していた。姿を見られたくなかったからじゃないのか?」
「あぁ……。でも、本当にそうなんだろうか。さっきは思わず追いかけたが、今思い出してみると、部屋の前にワゴンが置いてあっただろう?」
「そうだったか?」と、アラ。ルーネベリは頷いた。
「俺が運んできたワゴンと同じものがあった。もしかしたら、親切に食べ物のおかわりを運んできてくれたんじゃないだろうか。そこへいきなり扉を開いて、俺たちに驚いて逃げただけなんじゃないだろうか……」
アラは何も言わなかった。一瞬のことであまり覚えていなかったこともあっただろうが、アラはルーネベリのように細かなことまではあまり気にしないので、何を言えばいいのかわからなかったのだ。
ルーネベリの方はいつものようにそのまま考えに耽ってしまい。二人はそのまま黙り込み、生垣に沿ってひたすら歩いていた。もうしばらく歩いていると、生垣が途切れる場所が見えてきた。よく見ると、そこから左手の方へ抜ける道があるようだった。
アラがそのことを思考中のルーネベリに教えようと、ルーネベリの顔を見るなり、生垣の向こう側から若い女性の神経質な叫び声が聞こえてきた。
「あなた!わたくしによくも恥をかかせてくれましたわね」
<リクエスト募集しております!>
2019年11月15日(金)~12月20日(金)の間、記念小説のリクエストを募集しております。
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