十二章
第十二章 一人の科学者
やがて、黒から無色透明に変化した液体は、それ以上の変化をみせなくなった。小瓶を手に取ったルーネベリは言った。
「塩の砂の中には、ニルリムとケルトイルムという物質が含まれているんです」
「なんだ、そりゃ」
主人は小瓶を見つめ言った。
「ケルトイムは吸収性のある物質。そして、ニルリムは灼力の原石なので、増加作用がありますが。塩には沈静効果があるので大きな爆発などは起こりません。つまりは、ニルリムとケルトイルムと塩、この三つの物質の化学反応によって半永久的に発火性のある物質になるのですが。その他に、この塩の石には魔力を蓄積する作用もあるんです」
「なんのことやら、さっぱりわからんが。灼力っていったら、あの恐ろしい……」
「大丈夫ですよ。原石といっても、含まれる量は超微量ですから。心配はいりません。それに、ケルトイムは発見されてまだ間もないですが。我々の身体に危害を加えるような物質ではありません」
ぽかんと口をあけて首を傾げた主人に、ルーネベリは言葉を呑み込んだ。ガーネの時といい、つい言い過ぎてしまったかもしれないと。ルーネベリは苦笑いして、小瓶を鞄にしまい。陸の壁から離れた光の届かない闇の方へと数歩、足を進めた。
「しかし、片側しか見なければ、あちら側が滝だとわかりませんね。あんなに高いところから、落ちてきているのに、水しぶき一つこちらに飛んでこない」
「柱と陸地には、ずいぶんと距離があるのさ。誰かは竜の道がまだここにまで続いていると言っているらしいが。こんな不気味な所まで来る連中はまずいないだろう」
「あの大量の水は、一体どこへ?」と、ルーネベリ。主人は火のついた塩の皿を闇の方へと向けた。「もっと向こうまで行けば、湖がある。滝の水はそこに溜まり。湖に溜まった水はそのまま地下へ滲み落ちて、柱のてっぺんまで汲みあげられているらしいが」
「あっちまで行くなよ」
主人は突然、大きな声で叫んだ。
「何かあるんですか?」ルーネベリは言った。
「この世界に二十年も居座っている変人が言うには、湖に溜まった水はなんとかっていう物質の濃度が濃すぎて、他所から来た人間には毒なんだとさ」
「変人?」と、ルーネベリ。主人は籠に皿を置いて言った。
「ラン・ビシェフ。変わりもんだが、言っていることは、どうも本当らしくてな。信じないわけにもいかん」
「その人物は何者ですか?」
「科学者を名乗っている変わり者さ。この世界で、はじめに時が止まったと騒いだのも奴だ」
ルーネベリは主人の言葉にひどく驚いた。この世界に科学者がいるとは知らなかったのだ。報告書には、外の世界から見た第十四世界の現状しか書かれてはいなかったせいだろう。
「その方はどこにいらっしゃるのですか?」
ルーネベリは籠に走り寄り、主人に迫る勢いで言った。「ぜひ、お話を伺いたいんですが!」
大男に見下ろされ、主人は少したじろいたが、魅入るような、ルーネベリの真剣な眼差しに、主人は負けたといわんばかりに笑いだした。
「ビシェフに会わせろだと?おかしな奴だな。あいつに何の話があるっていうんだ」
「まぁ、いいだろう」と主人は頷き、口笛を吹くと、皿を持って籠を降りた。
「あんたはついている。ちょうど、この近くにビシェフは住んでいるんだ」
「この近くに?」
「だから、変わり者だと言っただろう」嬉しそうに笑った主人は、「ほら、行くぞ」と壁に沿って歩き出した。壁に手をつきながら進む、何もない足元だけを照らす火の光。歩きながらルーネベリは主人に、ラン・ビシェフは本当にここに住んでいるかのかと聞いた。
「あぁ、そうだ。俺も人が住んでいるとは思わなかったんだが」
思い出し笑いをして、主人は言った。
「ちょうど客がな、籠から物を落としたと言ってきたときだ。俺は生まれてはじめてここまで降りてきたんだ。そしたらな、ビシェフがカンカンになって、籠から降りてきた俺に怒鳴ってきてな」
「はぁ。それで何と?」
「もうちょっとのところで、槌が頭に刺さって死んでいたとさ」
主人は言った。「俺は、まさかここに人が住んでいるとは知らなかったんだと言ったんだが、ビシェフがいつまでも怒るもんでな。お詫びに宿で料理をご馳走するといったら、奴は時々ここまで降りてきて話し相手にさえなってくれればいいんだと言ったんだ」
主人は笑った。
「ビシェフはただ、友人が欲しかったんだろう。ここは人の気もないからな。それからだ、俺たちは年に数回話をするようになったのは」
「それでは、その方とはご友人なのですね」と、ルーネベリ。主人は頷いた。
「ビシェフはいい奴だよ。俺には科学なんてものはわからないが、嫌な顔せず色々と教えてくれる。その代わりに、俺はビシェフに料理ってものを教えてやったんだ」
毎日、研究ばかりでろくなものも食べてなかったから食料も運んでいるんだ、と言った主人は、「ほら、もう着いた」と、前方を砂の石で照らした。ルーネベリが主人の横から覗くと、ぽっと光る灯りの中、ほったて小屋から煙がのぼっていた。主人は「朝飯でもご馳走になろう」と、小屋まで歩き。今にも壊れそうな扉を叩き開いた。
「ビシェフ、いるか?」
主人が足を踏み入れた床が軋んだ。台所の、塩の砂を詰めた陶器の壷から発せられる炎で、串刺しにした厚切り肉を焼いていた男が、のんびりと振り返った。眼鏡をかけた、がりがりにやせ細った顔は驚く素振りもみせず、こちらを見て「恂結じゃないか。こんな朝早くにどうしたんだ?」と寝ぼけ眼で言った。
振り返った拍子に、汚れきった白衣の端が壷に触れ、火が衣も移り燃えだした。
「おいおい、燃えている!」
「えっ?」
「水だ、水!」
主人はそう叫ぶなり、ビシェフの衣を無理やり脱がせて水桶に投げ込んだ。煙をあげて火の消えた白衣。焼け焦げた臭いが部屋中に広がった。「俺がいなきゃ、危うく火事になるところだった」と、ため息をついた主人は、テーブルの脇にある椅子に座り込んだ。思いかげない出来事に驚いたのか、ビシェフは胸を撫でおろし。
「まったくだ」と主人に相槌を打つと、主人の後から小屋に入ってきたルーネベリに目を向けた。
「客か?」
「いいや、お前に会いたいとさ。だから、連れてきたんだ」と主人。「そうか」と頷いたビシェフは、押しつぶれた灰色の髪を撫で、書斎の方へ歩いて行った。主人はルーネベリに椅子に座るように言い、台所に置いてあった空のポットに、勝手に水を注いで火にかけた。隣の壷では、串焼きにされた肉がこんがりと焼きあがり、いい匂いを漂わせながら嫌な臭いを掻き消そうとしていた。
食欲を掻き立てる串焼きを前に、何かが落ちてはぶつかる雑音が聞こえてきた。なんだろうと二人が書斎を振り返ると、ビシェフが書斎机の上に山積みになった本を、床で散々する本の中へと投げていた。文字の書かれた本や紙を見ては、投げ捨ていたのだ。
「どうしたんだ。飯を食わないのか?」
主人はビシェフにそう言い、ルーネベリを見て首を傾げた。ビシェフは手に持っていた紙をすべて投げ終わると、机の引き出しの中にあったメモの束を引っ張りだして捲りだした。
「……ここのところずっと考え事をしていたんだが、ようやく、その謎が解けたようだ」
「新しい発見でもしたのか?」と主人。ビシェフは「これは違う。これでもない」とメモの束を投げては、机の中を荒らしながら何かを探していた。ビシェフは言った。
「一年ほど前だ。朝の散歩にでかけた私は――日課の散歩だ。すぐそこの壁にそって、毎朝一周するんだが。歩いていると、上から何かがゆっくりと落ちてきた。私は、恂結の客が落とした物に違いないと、それが落ちてくるのを待っていた。だが、なかなか落ちてはこない」
ビシェフは一人頷いた。
「それもそのはずだ。その紙は誰かが糸を付け、上から垂らして降ろしていた。意図的に落としたものだった。私はようやく私の手元にまで落ちてきたメモを読んで、ますます不可解に思った。私の記憶によると、メモの内容はこうだ」
ルーネベリはその言葉を聞いて、メモの差出人が誰かすぐにわかった。ルイーネだ。ルイーネ・J・アルト。彼女に違いない。でも、わざわざ、どうして、ラン・ビシェフにメモを……?
ビシェフはまもなく見つけた一枚のメモを、「これは間違いなく、君宛だね」と、ルーネベリを差し出した。ルーネベリは深く頷いた。「えぇ、きっとそうでしょう。彼女は俺がここに来ることがわかっていたようですね。それに、俺がトランクを解体することも」
「彼女?どうやら君には、このメモの差し出し人に察しがついているようだ」
「考えられる人物は一人しかません。ですが、なぜこのメモをあなたに託したんでしょう?」
肉を串から外して、皿に盛りながら話に耳を傾ける主人。ビシェフは、三つ目の椅子に腰掛け、ルーネベリを見てかすかに微笑んだ。
「世界の大事に駆けつけるのは、時術師か賢者ぐらいだろう。だが、時の石が止まっているとするなら、おのずと誰が来るのかは予想できる」
「一体、誰だ?」主人が言った。「――賢者しかいない。しかし、賢者はわざわざこんな所まで降りてくることはないだろう。魔術に長けた者ならば、何があっても周囲など気もとめない。気にする者がいるとするならば、何らかの危険を察した常識のある者。それも用心深く、観察熱心な人物だ」
「君はかの有名な賢者の助手、ルーネベリ・パブロ博士だね?」
ビシェフは確固たる自信を持ってそう言った。ルーネベリはほんの少し名乗るべきか迷ったが、眼鏡をかけ直したビシェフを見て、「あなたには隠す必要がなさそうですね」と打ち明けた。
ビシェフは片手をあげた。
「そう。私は野次馬でもなければ追っかけでもない。知ったからといって、署名も求めはしない」
ルーネベリは首を横に振った。「そういうつもりではないんですが。説明する手間を省いていただけです」
「いやいや、賢明な判断だ」
「どういうことだ?」
主人は「今、町で話題になっている賢者の……助手?」と首を捻った。ビシェフは頷いた。「どうも、そうらしい」
「ほんの数年前に、久しぶりに理の世界の旧友と連絡を取ったんだが、非常に優秀な学者を賢者に取られたと怒っていた」
「助手に志願したのは俺なのですが。学者仲間には、なかなか理解してもらえないものです」と、ルーネベリ。ビシェフは唸った。
「学者の君が、魔術師に志願?」
「えぇ」
「実に興味深いが、確かにありえないことだ。優秀な君の頭脳を、魔術師が理解できるとも思えない」
「先生はとても変わった方なので。その分は理解があるかと」
ルーネベリの言葉にビシェフは笑い、「なるほど。変人の私が言うものなんだが、偏見はよくないか」と言った。
「まぁ、なんにせよ。私は君を学者としてでなく、個人的にも歓迎している。何か質問があればなんでも答えよう」
「それでは、お聞きしますが。なぜ時が止まったとわかったんですか?」
隣で、主人が皿に盛った肉に食らいついた。
「水竜の動きだ」
「水竜の?」
「あぁ、そうだとも。知っているとおり。十二個の球体は第三世界を中心に自転、公転しているが、銀の球体から注がれる光は一定だ。だから、一年を通して気温差はさほどないわけだ。一年中同じ
気候だ。
ただ、一日のうち、朝と夜には大きな温度差がある。寒さと暖かさという大きな差がね。この温度差は、我々に生活リズムを与えてくれる。ある一定の寒さを感じると眠り、逆に、ある一定の暖かさを感じると目を覚ます。というように、単純だが、非常に大事なリズムだ」
ビシェフは机の上にあった空のコップに手を伸ばした。
「我々と竜の違いは、温度差には影響されない独自の生活リズムを持っているということだ。竜は我々には感じることのできない、何かを感じ取り、生活しているようなんだ。詳しいことは、今研究中だが。竜の行動は一年を通してほぼ同じことを繰り返している」
ルーネベリは頷いた。ビシェフは空のコップを主人に押し付け、言った。
「水竜の産卵期は、年に二度。時期は、世界時間がまったく同一になる二日。ちょうど、桂林様と紫水様の誕生日がその日に当たる。
毎年、水竜は卵を産み、三ヶ月ほどで卵から孵り。四ヶ月半では、子供を連れて水竜は世界中を飛びまわるようになる。五ヶ月には、子供は巣立ち。六ヵ月後にはまた新しい卵を産む。しかし、一年ほど前から、そんな光景を見ることがなくなった。それどころか、ほとんど水竜の姿をみかけなくなってしまった」
空のコップに、主人は文句を言いながら白乳色の水を注いだ。
「昨日、一匹見かけましたが。確かに、水竜の姿はあまり見かけませんでした」
「そうだろう、そうだろう」
ビシェフは礼も言わず、コップを机に叩き置いた。
「水竜は巣からあまり出てこなくなり。今、どういった状態なのか、一切わからなくなってしまった。巣に様子を見に行きたいところだが、水竜は特殊でね。巣は、時の置き場に通じる所にあって、管理者の同行なくしては立ち入れない」
ルーネベリは言った。
「巣に行ったことがないのに、なぜ、産卵日をご存知なんですか?それに、時の置き場のある場所も知っているようですね」
「それは……」と、ビシェフは口元に油をべっとりとつけた恂結を見て、咳払いした。そして、そっとルーネベリの米かめに顔を近づけ、耳打ちした。「ここだけの話。私は都一の富豪、円城と交流があってね。彼は、私の研究の後援者とでもいっておこう」
「はぁ、そうなのですか」
「そうだ。彼の令嬢は、紫水様の婚約者らしく。研究のために、色々と協力してもらっている」
「それでは、すべてご令嬢から話を伺ったのですか?」
「そう。――いや、すべてではない」
ビシェフは首を横に振りながら、潜めた声を元通りにして言った。「一つだけ、情報を買った」
「どんな情報ですか?」
ラン・ビシェフはコップを掴んで、一気に飲み込み。コップを置くと、右左へと目を泳がせ、ルーネベリの質問に答える素振りはみせなかった。ルーネベリは言った。「質問を変えます。誰から買ったんですか?」
返事を渋っていたビシェフは、「セロナエルという魔術師だ」と言った。「セロナエル?」
「若い頃、知人の紹介で知り合った魔術師だった」
「それはデルナ・コーベンではないんですか?」
「いや、いや。違う。名前と家族名との間にJの頭文字がついたはず」
ルーネベリは顎を撫で、「J?」と聞き返した。
「セロナエル・J……。そこまでは思い出せるんだが」思い出そうとビシェフは、グラスを傾けて、ガラスの底に写る、つぶれた自分の顔をじっと見つめた。
「Jなら、聞き覚えがあるな」
食事を終え。椅子の背にもたれゲップした主人が、腹を撫でながら言った。「俺の所には、魔術師がよく来るが。Jを持つのはケトラ・J・ウォンドと、あんたが訪ねてきたルイーネ・J・アルトぐらいだった」
「ウォンドと、アルト?」
「その二人のどちらかだったりしてな」と、主人は暢気にそう言った。すると、ビシェフは両手を叩いて、「そうだ、そうだ」と叫んだ。
二月になって申し上げるのも苦しすぎますが
今年もよろしくお願いします。
あと、ブログなんか載せときます
http://89luxxx.blog39.fc2.com/
更新情報しか載ってませんが、
苦し紛れのなんとやら……