三十八章
第三十八章 赤い毛
オビアの夫は言った。
「がっしりとしていて大きくてとても神秘的で、サワサワと音を鳴らし……」
両手をあげて恍惚とした表情を浮かべるオビアの夫に対して、青い肌の生き物は「そんな物は沢山あるでしょう。名前をお聞かせいただきたい。名前を」と言った。
オビアの夫はすっと両手をさげて、無表情で言った。
「真の名は知りません。かつての仲間が『奇跡の水』だと呼んでいたので。『奇跡を生み出すもの』と呼んでいました」
青い生き物はわざとらしく小さな咳を漏らした。
「それでは探しようがありませんね。諦められた方がよろしい」
がっくりとオビアの夫は方だけでなく背中まで曲げて落ち込んだ。ルーネベリはそんなオビアの夫を見て、少し前の出来事を思い出し考えた。ーーそう、あれは黒豹と出会った後の話だ。
ルーネベリは鉱石の花を追いかけて街中を走りまわった。もしシュミレットの話どおりであれば、ルーネベリはオビアの夫から毛髪を貰う方法を見たのか、あるいは知っているのではないかと考えていたのだが。オビアの夫が欲している「奇跡の水」に纏わる出来事など本当にあったのだろうかと改めて記憶を遡っていた。
とりあえずはとりわけ記憶に残った出来事をだけを思い出してみた。一つ目は「柵の向こう」だ。どこかの街の一角で大勢の生き物が集まっていたが、彼らが何を見ていたのかはルーネベリには見えなかった。恐らくはこれは違うかもしれない。大きいならば、ルーネベリにも見えていたのではないかと思うからだ。
二つ目は良い香りのした女性たちが沢山集まっていた街の一角だ。そこで確かに「ミミス」という言葉を聞いた。何度も聞いたのでとても印象に残っていた。まさか、それが「奇跡の水」と関連があるのだろうかと思い、ルーネベリはオビアの夫に言った。
「あの、『ミミス』という言葉はご存知ですか?」
オビアの夫が答える前に、正面に座っていた青い肌の生き物は小さく笑った。
「それは私の名前です。なぜご存じなのでしょう?」
「えっ?でも……、あぁ、いえ、女性たちが話をしていたのを聞いたので」
青い生き物ミミスは嬉しそうに誇らしそうに大きく頷いた。
「私も有名になったものですな。私は肌を美しくし、保つことを仕事にしています。この青い肌は私の地肌ではなく、長年研究を重ねてようやくたどり着いた究極の秘薬。老化と外部からの刺激から永久に保護するのです。どうでしょう、シミもたるみの一つないでしょう」
ミミスは青い腕を見せてきたが、ルーネベリはちっとも良さがわからなかったので適当に頷いた。
「あぁ、なるほど。だから、女性たちは……」
ルーネベリが話しかけたところ、オビアの夫がミミスの腕に手を伸ばして美しいと称する肌を触っていた。オビアの夫はミミスに「これはお高いのですか?」と聞いていた。妻の為に買おうとしているのだろうか。ルーネベリは口を閉じて、また考え出した。
ミミスが目の前にいる生き物ならば、奇跡の水とはまったくの無関係だ。最後に思い出すのは煤のような生き物が植物のような生き物を丸呑みしていた光景だ。あんな共謀な煤が入った水が奇跡の水になるとは到底思えない。いや、むしろ、ありえないと思えるからこそ奇跡となるのだろうか……。ルーネベリはそんな考えは馬鹿げていると思いながら赤い髪を掻いた。
クワンがカーンと交代してカウンター席に座った。オビアの妻は七杯目の酒を飲んでいるところだった。夫の姿が見えない苛立ちを抑え込むように喉に酒を流し込んでいた。
クワンは少し天井を見上げて、話けても無言でも無駄なら何をすればいいのかを考えた。そして、考えた挙句、真正面を向いて突然独り言を話し出した。内容は主にクワンが信仰する混色翼人のリゼルについてだった。クワンが大好きな話題だ。いかにリゼルが素晴らしいのか大袈裟に褒め称えていたのだが、オビアの妻は聞いたこともない人物の名前であることと、なにより隣に座った男が独り言をベラベラと話していることに対して見るからに気味悪がっていた。
これは駄目だと今度はカンブレアスとグヒムの二人で行くことにした。パシャルとアラ、シーナには誰も声を掛けなかった。誰も当てしていないのだ。パシャルはルーネベリの方を振り様子をちらっとだけ確認した。
カンブレアスがクワンの服の首元を後ろに引いて、強引に下がらせた。クワンが席を立って去っていくと、カンブレアスとグヒムがオビアの妻を挟むように両隣のカウンター席に座った。二人は互いにカウンターに腕を置き、明らかにオビアの妻を口説こうとする姿勢を取っていた。
褐色の肌の黒髪の美男子と、赤い短髪の良い男だ。シャウは二人より容姿がよかったが、この二人の挑発的な態度には色気があった。
オビアの妻はカンブレアスとグヒムを楽しむように見ていたが、口元を笑わせて言った。
「さっきからなんだい。あんたたち、私を口説いて騙そうっていう腹かい?口を開くんじゃないよ。見せかけだけで、お頭のない空っぽの連中の言葉なんざ聞きたくないね」
なんとも失礼な言い方だったので、グヒムがドンッとカウンターテーブルを叩いて怒ってしまった。カンブレアスは怒りをこらえ思いとどまろうとしたのだが、オビアの妻がフンと嘲笑ったので思わず席を立ち、言った。
「何を勘違いしている。誰がお前のようなばけ……」
後方でパシャルたちと様子を見ていたアラがカウンター席まで歩いて、オビアの妻とカンブレアスの間にすっと身体を割り込ませた。そして、声を低めて言った。
「お嬢さん、連れが失礼しました。悪い連中ではないのです。許してやってください」
オビアの妻は突然現れ、「お嬢さん」呼ばわりしたアラを見てぽっと頬を染め、口をぽっかりとあけた。アラは無言で立ち去れとカンブレアスを後ろに押しのけ、オビアの妻に言った。
「隣に座ってもよろしいですか?お嬢さん」
二度もお嬢さんと呼ばれたオビアの妻は顔を真っ赤にさせて「えぇ」としおらしい声で頷いた。オビアの妻の大きな体が途端に身体が縮んでいった。アラを意識しているようだ。それを見たカンブレアスとグヒムは信じられないという顔をしながら、パシャルたちの元へ戻って行った。五人の良い男たちをまったく相手にしなかったというのに、女性のアラが二度話しかけただけでころっと態度を変えさせてしまった。五人は一体何が悪かったのはまったくわからなかった。
オビアの妻はアラの方をちらっと見て言った。
「あんた……、やだわ、私は口が悪くて」
口元を少女のように隠したオビアの妻にアラは優しく微笑んだ。
「気にしないでください。お一人で飲んでいるところ邪魔をしましたね」
「いいのよ。あんた……、あなたみたいな人は大歓迎よ。『お嬢さん』なんて呼ばれたのはじめてよ。皆、私を化け物と呼ぶから。嬉しいわ」
「皆、目が悪いのです。あなたのような美しい人を見たら、お嬢さんと呼びたくなります」
オビアの妻の姿がまた変わった。最初に見た筋肉の逞しい腕がみるみるほっそりとして綺麗な細い腕となり、全体的に小柄になっていった。オビアの妻は恥ずかしそうに微笑んだ。
「美しい人だなんて、主人と同じことを言うのね」
アラの目の前に店主が酒を置いた。アラはその酒には口をつけず、オビアの妻の前に移動させて「この店で一番の酒です。お詫びに奢らせてください」と言った。オビアの妻は大層喜んで受け取ると、アラにも奢ってあげると店主に新たな酒を頼んだ。
オビアの妻がアラに夢中になっている間に、奥のテーブル席ではミミスがオビアの夫に言った。
「私だけを名乗るのも虚しい。ご主人のお名前を伺ってもよろしいですかな?」
「もちろんです、ミミスさん。私はクインルです」
「クインル。あぁ、運命の女神のですね?」
ルーネベリはつい大きな声で言った。
「運命の女神?」
奥のテーブル席から大きな声が聞こえたのでオビアの妻は席を立ち上がろうとしたが、アラがそっとオビアの妻に手を重ねた。
「奥様、まだ行かないで。もう少しだけいいでしょう」
「そうね、もう少しだけなら話をしてもいいわ」
オビアの妻は見つめてくるアラを見て、素直に席に戻った。
ミミスは言った。
「運命の女神は大きな庭で獅子を育ていると聞きましたよ。元々は別の女神が育てていたそうですが、大きくなりすぎて庭に入らなくなったという話です」
オビアの夫クインルは頷いた。
「それは大昔の話です。女神様の庭にいた頃、訪ねてきたのが妻のアーチェルムでした。アーチェルムは暗い世界の底の底で生まれてからというもの孤独でした。世界の底の底から這い出て女神様に運命を変えてくださるように懇願しました。お優しい女神様はアーチェルムを庭に置いてくださいました。でも、仲間はアーチェルムを好ましく思わず、女神様がお留守の間に醜いと嫌がらせをして庭から追い出そうとしました。アーチェルムは泣いていました。私は彼女を慰めて、彼女の真の姿に恋をしました。庭にいたどのものたちよりも美しかった。私は女神様にお願いしてアーチェルムと番になりました」
「オビアですな。歳や見たままの姿に惑わされるものは多い。真の姿こそ愛すべきものです。良い話を聞きました」
ミミスがルーネベリは手をあげた。
「話を遮って申し訳ないんですが、オビアや獅子って何ですか?」
ルーネベリの方を見たミミスは少し意外そうな顔をしたが、親切にも答えてくれた。
「古い言葉は聞きなれないでしょうな。オビアは異種のことを指すのですよ」
ルーネベリは言った。
「それじゃあ、オビアの番は『異種の番』となるんですか?」
「『異種の番』。意味はそうなりますが、聞いていると変な響きですな。獅子は四本足で歩く毛の多い生き物です。牙もあって邪神を狩ることもある」
「邪神?」
ルーネベリはなぜか赤毛の美女といた禍々しい生き物を思い出した。邪神という名がぴったりな気がしたからだ。
クインルは嬉しそうにルーネベリに近づいて言った。
「私は赤い髪です。あなたと同じです」
「あぁ、そのようですね」と、ルーネベリはクインルを見ながら、擬態という言葉をふと思い出した。どうも混乱するが、クインルの本来の姿は獅子だそうだ。獅子というものをルーネベリは見たことも聞いたこともないが、四本足で歩くらしい。では、四本足で動くのであれば、足もそれなりに速いのだろう。足が速い理由は逃げる場合か、獲物を追いかける場合が多いが……。様々なことに囚われて思い込んでいたが、黒豹はヒントを既に与えてくれていたようだ。
「そうか……」
ルーネベリはリュックを開いてもう一度、鉱石の花を取り出した。この花は奇跡の水とは無関係だが、これを転がすことに意味があるようだ。ルーネベリは鉱石の花を握りしめて、クインルを見た。鉱石の花を一つ駄目にしてしまったが、これで二つ目になる。残りは一つしか残っていない。後でシュミレットに怒られるかもしれないが、恐らくルーネベリの考えは間違っていないだろう。
鉱石の花をルーネベリはクインルに見えるように持ち上げ、軽く投げて掌に着地させた。クインルの目の色が変わった。先ほどまでは印象にさえ残っていなかった暗い目の色が赤い宝石のような綺麗な瞳となって、鉱石の花を追いかけていた。あぁ、やはりそうかとルーネベリは思った。クインルは本能まま無意識に鉱石の花を目で追いかけている。その証拠に、ルーネベリが鉱石の花を軽く上に投げると、クインルの目が顔ごと上に向いて、鉱石の花が掌に落ちると顔が下を向いた。
ルーネベリは覚悟を決めるように深く息を吐いた。
何回か掌の上で鉱石の花を遊ぶように軽く投げた後、ルーネベリは通路の方へ鉱石の花を投げた。その瞬間、クインルは目をかっと見開いてルーネベリの真上に飛びあがった。ミミスは驚きながら飛びあがったクインルを見上げた。クインルは人間の姿から赤い毛だらけの獣の姿となって通路へと落ちていく鉱石の花に飛びつこうとした。ルーネベリは急いで手を伸ばして獣の足の部分にある赤い毛を掴もうとしたが、滑らかな毛はルーネベリの指の間をすり抜けていった。
「くっ!」
クインルが鉱石の花に鋭い牙で噛みつこうとすると、鉱石の花は床にぶつかると転がった。クインルは鉱石の花の動きに合わせて身を捩った。すると、ふわっと赤い毛が一本抜け落ちて宙に舞い上がった。獣になったクインルは毛が抜け落ちたことなどまったく気にせずに、転がった鉱石の花を追いかけた。ルーネベリは椅子から身を乗り出して、宙に舞った毛を掴んで通路に転げ落ちた。少々痛かったが、目当ての赤い毛を手に握りしめて蹲った。
鉱石の花はカウンター席の方へ移動しており、通路の途中で集まっていたパシャルたちの隙間へと転がっていった。「転がる花を追いかければ、仲間の元に戻れる」と言った黒豹のとおり、鉱石は追いかけているクインルの仲間である妻アーチェルムの元へ向かって転がっていた。
鉱石の花を追いかけたクインルが背を向けていたカーンやカンブレアスたちに体当たりするように突っ込んでいったのは言うまでもない。
ミミスは席を立って、「大丈夫ですか?」とテーブル席の隣で座りこんだルーネベリに言った。ルーネベリはやっと思いで掴んだクインルの毛を握りしめたまま立ち上がった。
「大丈夫です。急用を思い出したので、では、これで」
早口でそう言い、ぱっと正面を向くと、クインルに倒されて床に転んだカーンとカンブレアスを見ていたパシャルがルーネベリの方を向いていた。ルーネベリは毛を握りしめた拳を軽く振った。パシャルは頷いて、カウンター席にいるアラの方へと走った。クインルはちょうど奥の角に転がった鉱石の花を追いかけており、後ろが騒がしいと振り返ったアーチェルムは夫が獣の姿になって石ころを追いかけていることに気づいて顔を真っ赤にさせていた。
アーチェルムがよそ見をしている間にパシャルはアラの元へ行き、何やら耳元で話をした。アラはパシャルの話を聞くと、顔を顰めて、パシャルの肩に手を置くと店を飛び出していった。その様子を見たカンブレアスがルーネベリの方を振り返ると、もう奥のテーブル席にはおらず、ルーネベリは奥の通路を迂回しながらすでに手口の方へ向かって走っていた。オビアの夫の毛を手に入れたのだと確信したカンブレアスは立っていたグヒムに「追いかけろ」と言った。しかし、先に走って行ったのはシャウだった。シャウは急いでカウンター席の隣を通って出口へと向かった。ルーネベリは出口に向かって走ってくるシャウに捕まるかと思い急いで外へ出ようとしたのだが、シャウはルーネベリになど見ておらず、真っすぐ店の外へ出て行った。ルーネベリは驚いたが、シャウはアラを追いかけて行ったのだ。
グヒムは遅れてルーネベリを追いかけようとしたのだが、カウンター席の隣を通り抜けようとしたとき、アーチェルムの様子が変貌したので身動きがとれなかった。ルーネベリはその隙に店の外へ出て行った。
一時は小柄になっていたアーチェルムは鉱石の花を追いかけて近づいてきた夫の身体を優しく抱きしめて、みるみる身体が巨大化していった。花柄の長いスカートのようなものはアーチェルムの発するなんとも嫌な体臭で、黒く焦げ燃え尽きてしまった。人の姿だったアーチェルムは灰色の毒々しい肌をした巨大な化け物になっていった。身体の半分以上が大きな口が占めており、歯は鋼のように頑丈で針のように尖がっていた。目玉は赤く血走っていた。アーチェルムは怒っていた。
カウンター席で店主に支払いをしていたシュミレットは最後の支払いを済ませると、素早く店を出て行った。
クインルはアーチェルムの胸の中で「クゥン」と大人しい声を漏らしたが、アーチェルムは聞いていなかった。アーチェルムは鋭利な爪で夫が追いかけていた鉱石の花を掴み上げると、中身もろとも粉々に砕き壊してしまった。
「一体誰が、私の夫にこんな悪戯をしたんだい!」
地響きがするほど大きな声が店中にこだました。店にいた客たちやパシャルやカーン、グヒム、カンブレアス、シーナ、クワンは両耳を抑えたが、脳裏にまで響いてきた。皆立っていることも座っていることもできずに、床に崩れ落ちた。けれど、その中でも店主だけは平然と立っており、カウンター内から外へ出てアーチェルムの前に立ち塞がって言った。
「他種へ苦情はわいに直接に言ってくれ。善処する」
皆があの後どうなったのかは、ルーネベリは知ることはなかった。店を出た後、ルーネベリは必死にクインルの毛を握りしめたまま、メトリアスの鏡を持っている等価交換する小人イームルを探しに酒屋街を走りまわった。