三十四章
第三十四章 高の庭
一体、何の話だといわんばかりに皆が目を開くと、左右天地どこを見ても建物がおかしな方向から生えるように建っており。天井も床も全く同じように見えていて上か下かもわからないので右も左もわからなかった。建物の数々を一体どこから見ているのかさえもわからない。方向感覚が狂うでたらめな場所に辿り着いていた。
布製のヘルビウスに乗ったままの十二人は混乱したまま顔を見合わせていると、十一人と紫色の塊の重みに押しつぶされた屋根なのか床なのかはよくわからないが、とにかくずどんと足場が壊れて街のある一角に落ちた。
ヘルビウスに乗ったまま落ちた十二人の目の前にはわっと豪勢な街が広がっていた。生憎、その街に入ると、天と地の方向は正しくわかるようにはなったが……。ど派手な赤や黄色・白の炎が空を浮遊し、炎からは火が噴出して周囲を明るく照らしていた。赤レンガや白壁あるいは反射する透明の壁や、ゴゴゴと音を鳴らして這って移動する建物などでつくられた建物が並び。突然、何の前触れもなく建物がすっと消えていってしまったかと思うと、どこからともなくふにゃふにゃとした黄ばんだ柔らかい建物が空いた場所に触手のように一部を侵入させて徐々にその場所を乗っ取って行った。
普通の街ではなかった。おかしいのは建物だけではない。異常なほど見たことがない生物で溢れかえっていた。足とも服ともわからないぬるぬるしたゼリー状の緑色の下半身をふにゃとした肌色の上半身が引っ張っりながら行き交う生き物の中をせっせと歩いていた。生き物なのかわからない灰色の空気のようなものが他の生き物の真上に漂っていたり。黒い毛むくじゃらの赤い目が横に六つもある生き物が十匹も陽気に歌をうたいながら歩いている。かと思えば、十三世界でも見かけるようなごく平凡な茶髪の人間が何事もないように歩いていた。
銀でできた体をガリガリ鳴らせて歩いている生物や、円盤のような浮遊体に乗っている小さな白い豆のような形をした生き物までいた。ドロドロのピンク色の液体のような生き物は前に進むたびにべちゃッとはじけ散って、散った先からまた元の姿に戻り、またべちゃっとはじけ散って歩いているーーといったような奇妙なことをしている生き物もいた。その他にもありとあらゆる姿をした生き物がわんさか歩いていた。夢でも見ているのかと思うほどだった。
なぜルーネベリたちがそれが街であるのだとわかったかというと、建物からそれぞれお看板が突き出ていたからだ。この辺りは恐らくそのほとんどが飲み屋のようで、ルーネベリたちにもわかる文字で「酒呑み処」や「立ち飲み屋」、「景色が変わる酒屋」とでかでかと書かれていた。
大勢行き交う奇妙な生き物の流れの中、びゅんびゅんと飛び回る七色の羽をはばたかせた小人がいた。身体をぴちぴちになるほど蛍光黄色の布を巻き付けている。どうやらこの小人が先ほどのおかした大声の主だったようだ。その小さな体に反して大きな声で叫んでいた。
《ポカイの呻き声はいかがかな~?安眠に最適、不眠症も眠れる~》
大きな声だというのに、行き交う生物たちは特に振り返りもせずに黙々と歩いていた。興味がないようだ。ところが、どこからともなく小人の元へまっすぐに向かってくる者が現れた。長い赤髪の美女だ。ルーネベリたちよりも幾分落ち着いた紅色の髪が美しい顔立ちによく似合っていた。スタイルも良く、細い腰のラインは見事なものだった。残念なことに女性は片目を伏せており、左目は隠すように後ろ髪と同じぐらい長い前髪を垂らしていた。青いドレスの両肩には白く長い袖のような飾りを身に着けていた。美女は小人に向かって言った。
「貰おう」
小人はにっこり笑うと言った。
「何をお持ちで?」
美女は小人にそう言われると、左目を隠していた前髪を持ち上げた。すると、左目にあるはずの眼球はなく、真っ暗闇から黒い禍々しい生き物が飛び出てきた。禍々しい生き物には点のような窪んだ眼が二つと線で描いたような口があった。どうなっているのかは不明だが、美女とその禍々しい生き物は一心同体となって動いているようだった。禍々しい生き物は低く醜い声で小人に言った。
「復活の秘薬だ。たった一滴だが、手に入れるのに苦労した」
美女はもう片方の手で腰にぶら下げた鞄から銀縁の綺麗な鏡を取り出し、小人に見せた。とびきりの物を持ってきたと禍々しい生き物は言ったが、小人は首を横に振った。
「枯れきったものは困るね」
「枯れた?そんなわけが……」
禍々しい生き物は美女が差し出していた鏡を見つめ、鏡の中へとズッと入って行った。小人は呆れたように首を横に振ったままだ。
しばらくして禍々しい生き物が鏡からでてくると、水晶でつくられた小瓶を持っており、蓋を開けて逆さまにした。小人が言った通り、本当に中身は枯れているようで何も出てこなかった。
「ちくしょう!」と、禍々しい生き物は悪態をついた。美女は禍々しい生き物に優しく「落ち込まないで。また次があるわ」と言ったが、禍々しい生き物はどうしてもポカイの呻き声とやらが欲しかったようで小人に言った。
「それが欲しくて、欲しくて無茶したんだよ。まけてくれないか?」
小人は首を横に振った。
「駄目だよ」
禍々しい生き物とは思えないほど鳴き声で言った。
「他に交換できるものがねぇんだ。頼むよ」
「あるじゃないか。その鏡となら交換しよう」
小人が指さしたのは美女が持っている鏡だった。
「こんなものでいいのか?俺の世界には山ほどある代物だぜ」と禍々しい生き物は言ったが、小人は頷いた。
「復活の秘薬よりも、ずっと貴重なものだよ。はい、ポカイの呻き声が入った壺だよ」
小人は何も持っていなかった掌に一センチほどの白い壺をだした。魔術だろうか。禍々しい生き物は「おぉ」と呻き声をあげて泣きながら壺を受け取ると、美女が鏡を小人に手渡した。どうやら交渉は成立したようだ。小人は鏡を手に入れると、すーっと美女と禍々しい生き物から離れていった。そして、また大きな声で言った。
《メトリアスの鏡はいかがかな~?広々空間に収納は最適、持ち運びもできる~》
美女と禍々しい生き物は用が済んだのだろう、身を翻してまた生き物の行き交う流れに溶け込んでどこかへ行ってしまった。
「面白れぇ街だなぁ」とパシャルが言った。
ルーネベリは大きく頷いた。
「本当に面白い街だな。ぜひあの沢山ある居酒屋のどこかに入ってみたいな。名酒があるかもしれない」
「おっ、いいねぇ。ルーネベリ、いける口だなぁ!」
パシャルとルーネベリの話を聞いて、カンブレアスやグヒムとシャウも居酒屋に立ち寄る案に賛同した。アラは少々呆れていたが、カーンもクワンもシーナも皆が行くならばついて行くといった姿勢だった。バッナスホートにいたっては行きたいと思ってはいたが格好をつけて黙り込んでいた。マントの生地でできたヘルビウスから下りたシュミレットは咳払いした。
「その前に、あの鏡とやらが欲しいものだね」
「えっ、メトリアスの鏡ですか?」
ルーネベリはヘルビウスからおりながら聞くと、シュミレットは言った。
「本を収納するのに便利だとは思わないかな。君たちが酒屋に行く時間をつくる代わりに、あの鏡を手に入れてほしいね」
「あなたね、また無茶なことを……」
パシャルはシュミレットにこそっと言った。
「そういや、先生さんよぉ。十三世界に戻ったら俺たちと組まないかぁ?金や宝石を増やせば金持ちになるなぁ」
シュミレットはクスリと笑った。
「君は知らないようだから教えてあげるけれど、十三世界では魔術師が魔道具製造以外で物資を増やして販売することは極刑に値する罪でね。関わった人間もその対象なのだよ。命が惜しいならそういった事には関わらない方がいいと僕は思うのだけれどもね」
パシャルは極刑と聞いて気持ちが変わったのだろう。
「そうだなぁ、まっとうに生きようぉ」と言った。シュミレットはクスリ笑いした。
皆がヘルビウスから下りた後、シュミレットとシーナはマント製の大きなヘルビウスを一センチほど小さくしてからそれぞれ、鉱石の花を取り出したポケットにしまい込んだ。ポケットに入れていた鉱石の花の方はいざという時のために力を回復させておくために鉱石の花を半分に割って中の液体を飲み込んだ。鉱石を割った破片は何かに使えるかもしれないと二人は思い、シュミレットはそのままヘルビウスと同じ大きさの丸い塊にし、シーナは小さな花に変えてポケットに戻した。残りの鉱石の花は十九個となった。
居酒屋に立ち寄るためにメトリアスの鏡を手に入れる事となったが、どうやってあの鏡を手に入れようかと皆は相談し合った。
ルーネベリは言った。
「恐らく、あの小さい人間が持っているものと同じ価値があり交換できるものを俺たちが持っていれば手に入れられるんじゃないかと思うんだが……」
アラは言った。
「私たちは剣しか持っていないが?」
パシャルとカーンがバッナスホートの腰に携えている鞘に収まっている剣を見た。名剣ヴォラオス。この剣であれば、あの鏡と同じような価値があるのではないかと二人は思ったのだが。バッナスホートは二人の目から剣を守ろうとでもするかのように腰を斜めにずらした。
「他を当たれ」
声を低くして短く言い放った言葉には重みがあった。剛の世界の覇者はけして名剣を手放すつもりがないと言っているのだ。ルーネベリも無理やり他人から何かを奪うつもりもなかったので、他になにかないだろうかと生き物のが行き交う道の方をぼんやりと眺めていると、金色に輝いている男がすっと表れて生き物の行き交う道の中を歩いていた。
「あっ、あれは……」
奇妙な生き物のなかにいてさえ一際目立つ金色の長いローブのような不思議な服を着ており、金色の髪も長かった。
「ちょっとここで待っていてくれ、すぐに戻る」
思わず身体が勝手に動いて、男を追いかけていた。
「えっ、ルーネベリ!」と叫んだパシャルの声を後ろに聞きながら、行き交う生き物の流れの中へ入って金色に輝く髪を持つ男の後ろ姿を追いかけた。
幸い男はあまり足が速くなかったため、すぐに追いついて肩を掴んだのだが。振り返った男は水色の目をした若い男だった。アザームでベネムと名乗っていた男ではないのかと思ったのだが、よくよく見れば金色の髪とローブ以外は似ても似つかない別人だった。しかし、たとえ別人でもいいのでその正体が知りたくて口を開こうとしたのだが、喉に詰め物を入れられたかのように声がでなかった。その別人は首を傾げた後、何事もなかったかのように再び歩きだして去って行ってしまった。
少々茫然としていたルーネベリははっとして周囲を見渡したが、気づいた時には生き物の行き交う道の真ん中に立っており、元いた場所へ戻る手掛かりが全くないことに気づいた。いつもならば目印となるものを見つけておくのだが、衝動的に追いかけてしまったのでうっかりしていた。これは困ったことをしでかしてしまったと思ったルーネベリは生き物の行き交う道から外れようとしたのだが、後ろからやってきた足が八つもある白い毛の薄い生き物の群れに遭遇してしまい、飲み屋街らしき場所から別の場所へと流されてしまった。その後、また別の水のような生き物の群れに遭遇して、ルーネベリがどうにか生き物の行き交う道から外れると、飲食街とはまるで無関係の静かな場所へ行きついてしまっていた。
その街では生き物の数は圧倒的に少なく。あちこちにある店はどこも閑散としていた。何の街だろうかと、ガラス張りの店へルーネベリが近づいてみると、店の中を見ると、空き瓶が沢山並んでいた。中には黒い渦とその中に点々と輝くとても小さな星のようなものが浮いていた。瓶の中に閉じ込めた小さな闇世界のようだ。それらは本物なのかはわからないが、一際大きな瓶の中で緋色のとても美しい小さな球体が黒い渦の中に浮かんでいるのを見かけた。その瓶の隣には双子のように二つの小さな土色の球体がくっついたり離れたりしながら浮いていた。どれも不思議だが美しい。是非、一本欲しいなと思い顔をあげると、ぬぼっとした青白い生き物が赤い叩きを振っていた。店内にいるはずなのにもかかわらず、その叩きはルーネベリの頭に当たった。痛みを感じて飛び退くと、尚も青白い生き物は叩きを振っている。どうやら追い払われているようだ。とても残念だが、手に入れることはできないようだ。
渋々、店から離れて少し外れた場所に見えた幾つか石のテーブルの置かれた広場に逃れた。ルーネベリがふぅと息を吐いて、その石のテーブルの傍にあった石に腰掛けようとしたら、石から石の手がぬっと伸びてきてルーネベリのお尻を押しのけた。ルーネベリは地面に転げた。
「おれは家具じゃねぇじゃども。ちゃんと見て座ど。椅子は隣だざ」
カンカンに怒った石は飛び跳ねて生き物の行き交う道へと去って行った。ルーネベリはもう何がなんだかわからなくなって途方に暮れながら、石が教えてくれた椅子となる石のほうに腰掛けた。はやくシュミレットたちの元へ戻らなければならないのだが、なんだか疲れてしまったなと思ってしまった。そういえば、天秤の剣がはじまってから腰掛けてのんびりする時間はなかった。目新しい世界への好奇心は高まるが、こうころころと変わってしまうとやはり疲れてしまうものだ。少し休憩してから、どうやってシュミレットたちの元へ戻るのか考えようとルーネベリが思っていると。
どこからともなく颯爽と現れた四足歩行する黒い生き物が広場へゆったりと歩いてきた。黒い毛を彩る黄金の目をしたその生き物は二つある耳をピンと立てて、長い尾をふわふわと上下に揺らしていた。見たことがない生き物だったが、それが「豹」だとなぜかわかった。その黒い豹は、ルーネベリが座る椅子の隣にある石のテーブルの上に飛び乗って、長い前足を伸ばして寛ぎだした。
黒い豹は黄金の瞳をすっと閉じた。
石の椅子に座りながらぼんやりとしていたルーネベリはふとこんなことを思った。あの黒い豹に道を聞いたら教えてくれるだろうか。豹は話すことができるのだろうか……なんて事をルーネベリは考えていると、ふらっと黄緑色の髪をした青年が広間にやってきた。
まだ若いというのに白い杖を片手でついて、襟をかっちりと閉めた白い洒落た服を纏い、色白で耳がつんと尖っていた。目は髪と同じ黄緑色をしていた。些か中性的にも見えるその容姿は爽やかで、青年が歩くたびに良い香りが漂い匂った。しかし、黒豹の鼻はぴくりとも動かなかった。青年は黒い豹のすぐ傍に立ちどまり、杖を持った手を擦り合わせて言った。
「狩人さん。探しましたよ」
黒い豹は目を閉じたまま無反応だった。だが、青年は苦笑いながら言った。
「あなたたちが来ているってことはあれでしょう?あれがもうすぐ来るんでしょう。私、どうしてもあれを見てみたいんですよ。あれが来たら教えてくれませんか。対価ならちゃんと支払います。金ならどうですか。金ならどこへ行っても高く売れるはずです」
青年は白い服の内ポケットから大きな金塊を取り出して掌にのせた。
「全部差し上げます。私の全財産です。これを渡しますから、どうかあれを私に見せてください」
なんのことを言っているのかルーネベリはさっぱりわからなかったが、狩人というの名前には心当たりがある。ルーシェという狩人だ。あの女剣士も何かを狩っていると言っていた。――突然、豹がむくっと立ちあがって鋭い牙をむき出しにして吠えた。
《狩人に金など無価値だ。死にたくなければ去れ》
もう一度けたたましく黒豹が吠えると、青年は恐れおののきながら広間から走り逃げて行った。あまりにも慌てて逃げたため、金塊を地面に放り投げて行ってしまった。
黒豹は呆れたように笑い、再びその場に座り込んだ。ルーネベリは驚いていつの間にか椅子から立ちあがっていた。
黒豹は金色の目をルーネベリに向けて言った。
《騒がしくしたな、客人》
「あぁ、いや……」
ゆっくり座りなおしたルーネベリは豹の吠えた声に驚いて動揺していたので、格別豹が喋ったことには驚かなかった。
黒い豹は言った。
《ああいう輩には腹が立つ。獲物の餌に成り下がるだけだというに。ほいほい近づいて破滅していく》
ルーネベリはごくりと息を飲み、言った。
「あの……」
《聞きたいことは全部わかっている。俺たち狩人の目と耳は繋がっている。娘を連れて下の庭へ向かっているようで安心している》
「えぇ、そうなんですが、実は俺は仲間と逸れてしまって……」
《仲間と逸れたことは幸運だったな》
「えっ?」
《俺とここで出会ったのは正解だ。メトリアスの鏡は俺と会わなければ手に入らない》