三十一章
第三十一章 女神の腕輪
女神は分厚い唇の合間からふぅと息を吹いた。その息というのはちょっとしたそよ風のようで、神殿の出口の方へすっと抜けていった。
女神は言った。
《娘生まれて十の歳月を経て神宿りとしてここより遥か下層の下の庭より神の庭へ昇った。我娘であり、神である。五つ眼が開くとき我蘇りてさらに高みへ昇るが、我らは一つとはならず、娘は五つ眼を開くことを頑なに拒んでおる。娘悔いがあり、下の庭におるヤルカ飼いの青年の元へ行かんと逃げておるが願い叶わず。娘が五つ眼を開かなければ、我蘇ることもまた叶わず。次なる神は生まれん。次なる神生まれぬのならば神宿りはやむなく生を奪われ、娘と我は共に消えゆく定めとなる。我、時を渡る女剣士に娘の悔いを晴らすことのできる者を招きたいと請うた》
シュミレットはこっくりと頷いた。
「そして、やってきたのが僕ら十人というわけだね。なるほどね、詳細はわからないけれど、女神様も娘も望んでいることができずに困り果てている状態なのだね。……しかし、魂というのは何でしょう?」
シュミレットがそういうと、女神は息を吸い、また吹いて言った。
《我の招きに応えし十人よ、十六の球の巡る世界では魂を『奇力』と呼ぶという。肉体を離れ『奇力』のみ姿で娘は逃げておる》
「奇力のみで動いている?」
女神の言葉にマーシアの息子カンブレアスは驚いたが、ルーネベリは水の世界での出来事を思い出した。ちょうど五年前の話だ。水の世界の時が止まった時、ルーネベリたちは「傍観者」という少年僧によって奇力のみで動いていた。女神の話は可能な話なのだ。しかし、一つ疑問があった。
ルーネベリは女神に言った。
「ちょっといいですか。俺は奇力体同士なら、何もしなくても互いが見えているんだと思っていましたが、さっきカンブレアスさんたちと会う前まで、俺たちは互いの姿が見えていませんでした。つまり、いくら奇力体であったとしても、奇力を扱えなければ、俺たちには娘さんは見えないんじゃありませんか?現に、見えるのであれば、もうすでに見えていてもおかしくありませんよね」
女神は鈴が転がったかのように愛らしく笑った。
《我の招きに応えし十人よ、三つ眼を開けば、さすれば娘が視える》
「眼?」
声を出したのはグヒムだった。すかさず、隣にいたカンブレアスが首を垂れて女神に問いた。
「女神様、どうやって三つ眼を開くのです?」
バッナスホートは不敬にも舌打ちにして「俺は武道家だ。奇術師の真似事などできん」と言うと、パシャルが「奇術師だってぇ?」と嫌そうに言った。
シュミレットが片手をあげて、話を遮った。
「話がまるで見えなくなるのでね、僕の質問にだけ答えていただきたい」
《よかろう》
女神はもう一度息を吹いた。すると、そよ風にのって薄い青いベールようなものが神殿の外から長くながくのびて中へとなびいては消えた。
女神に聞きたいことが山ほどあるカンブレアスが口をはさもうとしたが、シュミレットは咳払いしてさっさと話しはじめた。
「魂が奇力であるのなら、僕の助手が言うように奇力を扱えなければ僕らには娘が見えないということなるね。その点は技術のない僕らにどうすべきだと言うのですか?」
《我の力を貸そう》
神殿の天井から降ってきた小さな紫色の珠でつくられた腕輪が床に転がった。パシャルやクワン、グヒムはそれぞれ一つずつ腕輪を拾ったが、シャウは二つ腕輪を拾ってアラに渡そうとした。だが、カーンが横からシャウの持っていた腕輪を一つ掠め取ったので、アラはほっとした面持ちで近くに落ちていた腕輪を拾った。
ルーネベリはシュミレットの分と二つ拾うと、シュミレットに腕輪を手渡ししながら言った。
「先生、これは?」
紫色の腕輪をじっくり観察しながらシュミレットは言った。
「僕のアミュレットに似ているような気もするね。魔術師にとって魔道具のようなものかもしれない。ところで、君、奇力についての知識はあるかな?僕は、奇術は専門外でね。治癒の世界からメリア・キアーズを呼び寄せたいぐらいだよ」
ルーネベリは苦笑った。
「ここにいるのが頼りない俺で申し訳ないですが、治癒の世界で管理者のズゥーユさんに無意識の領域について聞いたことがあります。ちょっとまってください。忘れないように書いておいてはずです」
ルーネベリはリュックから手帳を取り出している間、パシャルやカンブレアスたちが女神にその腕が一体何なのか話を聞く前にさっさと腕輪をはめていた。
シュミレットは掌に置いた腕輪を興味深そうに眺めた。
ルーネベリは取り手帳を開いてページを捲った。
「ーーあっ、これです」
シュミレットがルーネベリの手帳を覗き込むと、二つの目のような図が黄色棒で繋がっているなんとも奇妙な絵が描かれていた。図式の下にはルーネベリの細かい文字がびっしりと書かれていた。多少どころではない。暇な時間をつくっては少しずつ調べていたに違いないとシュミレットは思った。
ルーネベリは細かい文字を読みあげた。
「精神と奇力の機能についてですが……。無意識の領域には、最上層・上層・下層・最下層とあるそうです。濃い緑で塗った最上層は精神と密接に関係があり、人が睡眠時に夢などを見る領域だそうです。黄く塗った上層は他人と繋がる領域だそうで、夢便りや奇術での連絡手段に用いられているのだとか。薄いピンクで塗った下層は混沌とした領域で、十三世界における管理者の奇力を感じる事ができる領域。灰色に塗った最下層は生死をわかつ領域であり、奇術師ですら意識を保つのは困難だそうです。青く塗った記憶は、その名の通り生まれてからの記憶が蓄積されているそうです。最後に黒く塗った内なる眼というのは、奇力の核だそうで、万物の生命力の源だそうです。詳しく調べてみましたが、一体何なのかは不明。わかっていることはこれぐらいでしょうか」
「なるほどね、ありがとう」とシュミレット。ルーネベリの手帳に描かれた図を見ながらなにかを考えているのかしばらく黙り込んだ。珍しく礼を言われるところを見ると、奇力に関する知識が役に立ったようだ。
ルーネベリとシュミレットが話し込んでいるのを見てパシャルが近づいてきた。すっかり腕輪を腕に嵌めたパシャルが何か口を開こうとしたのが見えたルーネベリは慌てて手を横に振り、黙り込んでいる賢者に目を向けた。パシャルは口を開いたままシュミレットの顔を見て、黙ったまま頷いた。シュミレットが少し難しそうな顔をしていたからだ。
女神がふぅと息を吹いた。
シュミレットは近づいてきたパシャルを一目見てから、言った。
「さっきリンたちがレソフィラは神の庭・高の庭・平の庭・下の庭の四層で世界ができていると言っていたね。無意識の領域にも最上層・上層・下層・最下層という四層があるようだから、もしかしたら、レソフィアは奇力と関連のある世界なのかもしれないね。そうなると、少々こじつけかもしれないけれど、女神様の言っている五つ眼というのは僕らの世界でいう『内なる眼』かもしれないね」
「順番からいうと記憶ではないんですか?」
「僕もそう思ったけれどね、誰かに会いたがっているという事自体が娘の記憶だとすると。心残りが晴れれば記憶は消えるのか薄まるのかはわからないけれど、娘自身が納得できたときにのみ五つ眼が開くということになると思うのだよ。やはりこじつけだと思うかな?僕自身、少し混乱しているよ」
「あぁ、いいえ。確かにそうなるのではないと思います。正直、奇力は俺もよくわかりません」
シュミレットはクスリと笑った。
「君もメリア・キアーズを呼び寄せたいだろう?」
「そうですね、ぜひ」
ルーネベリは小さく笑ったが、近くにいたパシャルは二人の会話がよくわからず呆けた顔をして立っていた。
ルーネベリは腕輪をつけたパシャルの腕を指さした。
「先生の考えが正しければ、あの腕輪を嵌めて三つ眼を開けば無意識の下層の領域を見ることができるということになりますね」
「そのようだね。混沌とした領域が見えるということは何を指しているのかは僕にはまったく見当もつかない。果たして、腕輪を全員が嵌めるべきなのか悩むところだね」
パシャルはぱっと自身の腕に嵌めた腕輪を見て言った。
「腕輪をつけちゃまずかったのかぁ?」
ルーネベリは言った。
「議論の余地はあるかもしれませんが……彼らは何を見ているんでしょう?」
ふとルーネベリがアラやカーンの方を向くと、カンブレアスの後方に立っていたグヒムとバッナスホートが神殿の出口の方を見ていた。二人は遠くを見ているのか目を細めて首を少し屈めていた。
グヒムが後ろを向いていることに気づいたシャウが何気なく出口の方を見てみると、一度びくりと肩を揺らして驚いた後、グヒムと同じように目を細めた。
それを見てパシャルは首を傾げて、三人の方へ歩いて行った。ルーネベリたちと同じように、三人で話をしていたアラとカーン、クワンが歩いてくるパシャルを目で追い、三人はそこでようやくギヒムとバッナスホートとシャウが背を向けて出口の方を向ていることに気づいた。三人の会話がとまり、皆がパシャルを見ていた。
パシャルがバッナスホートに言った。
「どうしたぁ?」
バッナスホートは凄んだ顔をして短く言った。
「遠くに何かがいる」
「何かぁ?」
パシャルはシャウと同じように神殿の出口の方を何気なく見てみた。すると、やはりシャウト同じように一度驚いた後、目を凝らしていた。何かがいるというバッナスホートの言葉は本当のようだ。興味を持ったアラやカーン、クワン、カンブレアスも出口がよく見える場所へ移動して何がいるのか目視しようとしていた。
シュミレットはルーネベリに言った。
「きっと娘だろうね」
「えっ、娘って逃げているんじゃなかったですか?」
女神がふぅと息を吹いた。シュミレットはそれを見上げて出口をの方を向いた。
「なるほどね」とシュミレット、わけがわからないルーネベリは「どういうことですか?」と聞こうとしたところ、シュミレットは女神に向かって言った。
「女神様が娘を神殿の近くまで呼び寄せているのでしょう」
《娘は肉体を離れても、我と、肉体と繋がっておる》
「そんなことをしなくとも、娘に僕らが彼女が行きたい場所へ連れていくと説明すれば良いのではないのです?」
《神宿りの娘の魂は感覚を持たぬ儚いもの。音が聞こえぬ。口も利けぬ。我が語りかけようとも我の想い娘には通じぬ。我は娘、娘は我ゆえ、かつての娘の想いのみ我の中にある》
シュミレットは困ったように小さなため息をついた。
ルーネベリは言った。
「……と、なると、言葉を用いずに娘を下の庭という場所へ連れていき、尚且つ、ヤ、ヤルカ飼いでしたかね。その青年を見つけなければならないってことですね……」
《過酷な道のりゆえ、我の腕輪を奪われぬよう。我の授けたものは神物。嵌めた我の腕輪を奪われようものならば、レソフィアからはじき飛ばされよう》
「えぇ!」とルーネベリ。
シュミレットは言った。
「腕輪は一度嵌めたら二度と外さない方がいいということだね。けれど、女神様、腕輪を嵌めないという選択肢はないのでしょうか?」
《我が腕輪を嵌めずに神の庭を下るのならば、無の世界へと落ちる》
「お、落ちたらどうなるんですか。俺たちはきっと奇力体ですし、俺たちの肉体へ戻れますよね……?」
ルーネベリはごくりと息を飲んだ。
《無の世界へ落ちる者は元ある姿には戻れぬ。神宿りの娘は知っておるゆえに、下の庭へ行くという願いが叶わぬ》
「そ、それじゃ……落ちたら……」
《跡形もなく消え失せるであろう》
恐怖さえ感じる話を聞いてルーネベリだけでなくシュミレットでさえ背筋が凍る思いだった。もしかしたら、これまでの世界の中で最も危険な世界へ来てしまったのではないだろうか。ルーネベリもシュミレットも思わず言葉が出てこなかった。
神殿の出口の方を向いていた皆はこちらの話を聞いていなかったようで、遠くに見える娘らしき人物の話を呑気にしていた。
女神は怯えきったルーネベリとシュミレット身体を優しく大きな両手で包み込むように添えた。
《恐れるな。我らの願いを叶えるべくして招いた者を我は見放すことはせぬ。そなたらのいずれかの物を一つ我が神殿置いて行け。一度ならば、身代わりとすることができよう》
女神が労りに満ちた眼差しで二人を見下ろしていた。だが、女神が助けてくれるというのは一度きりだ。
こちらは十人もいる。下の庭へ行くには三つの庭を下りなければならない。ルーネベリもシュミレットも素直に喜べるわけがなかった。
実際に消滅するかもしれない死地へ赴かなければならないのだ。なんという不運だろう。どうにかしてこのレソフィアという世界から逃げ去る手段はないだろうかとルーネベリは考えた。赤い髪を掻きあげて散々考えた。しかし、どうやってレソフィアという世界へ辿り着いたのかわからないので、どうやって別の世界へ行けばいいのかすらわからない。ルーネベリは混乱の中にいた。
一方の賢者シュミレットの方も様々のことを考えていた。天秤の剣に過去二度参加したが、これほどまで過酷な世界に辿り着いたのは賢者とて初めの経験だった。ルーネベリと同じようにこの世界から逃げたすことも考えたが、どうもうまくいきそうにないと早々に結論付け、レソフィアという世界についてわかったことを最初からひとつひとつ思い出していくうちに、はっとあることを思い出した。
下を向いて小さく微笑んだシュミレットは女神に向かって、先ほどの怯えた様子から一転して明るい声で言った。
「女神様のお考えはわかりました。助けていただけるのなら、助けてもらいます。ただし、その一回はいつ利用するかは僕が決めます」
「先生?」
ルーネベリはシュミレットの言葉を不思議に思った。女神の助けを利用すると言ったからだ。
女神は愛らしい笑顔をシュミレットへ向けた。
《我の真意を推し量る才、褒めたたえよう》
「感謝します」
《我はここで娘の帰りを待つ。行くがよい》
シュミレットは軽く頭を下げた後、マントの下の鞄から小さな茶色い箱を取り出して床に置いた。それから身を翻し、マントを大袈裟気に払って神殿の出口の方へ歩いて行った。ルーネベリは慌てて追いかけ、他の皆もシュミレットが神殿から出ようとしているのを見て、何が何なのかわからぬまま後を追いかけた。
ルーネベリは早歩きで扉をくぐったシュミレットに追いつき、言った。
「どうしたんですか、先生?何か考えでも……」
「もちろん、僕が何も考えずに無責任なことを言ったとでもいうのかな」
「いいえ、そういうわけありませんが。そんなに急に元気を取り戻されたら俺だって驚きますよ」
「僕は落ち込んでなどいなかったよ。君はとても怯えていたけれどね」
早歩きをしながら皮肉を言われのはいつ以来だろうとルーネベリは思った。シュミレットは歩きながら女神から貰った腕輪を細い腕に嵌めていた。ルーネベリも無の世界へ落ちたら消滅するという話を思い出してぞっとしながら腕輪を太い腕に嵌めた。
「あんな話聞かされたら誰でも怖がると思いますよ」
「確かにそうだね。だけれどね、僕らは何も失望することはなかったのだよ」
「どういうことですか?」
「君も僕も、ここにきて肝心なことを忘れていたことに気づいたのだよ」
「肝心なことですか?」
神殿を出てしばらく歩いた後、シュミレットは立ちどまり、遠くに見える薄い青いベールを纏ったぼんやりと透けた少女のシルエットを見つめた。
「そうだよ、僕らが何者だったのか。もう少しのところで忘れるところだった」
シュミレットの隣で立ちどまったルーネベリは首を傾げた。
「俺たちが何者かですか?」
シュミレットはルーネベリの方を見上げて言った。
「そう、それがなによりもこの世界では重要だったのだよ」
「あの、説明してもらえませんか……」
「僕は魔術師賢者、学者である君は僕の助手。難しく考えなくとも、僕らは僕らでいるだけで、それだけでよかったのだよ」