一章 大きな助手と、小さな大賢者
「誰かによって繋がれた過去を生きる現在、誰にも語られない未来を歩む。
時がこの身を刻みつづけるほど、なにかを望むこの貪欲さは、いつしか、恥じらうことを忘れさせてしまうだろう。けれど、『なぜ、どうして』と自問するたびに救われている。気づかなかった方がよかったこともあるだろうが、気づいてしまったことで、何かが色を変える。些細なことだ。
だが、その些細なことは過去を紡ぐ一本の糸となり、未来をゆく誰かの背を押すこともある。……その時、やっと、やっと生きていてよかったと思えれば、それだけでいいじゃないか」
ルドルフ・ライ・ハーフィズ
第一章 大きな助手と、小さな大賢者
古に創られた神秘なる闇。その暗く測り知れぬ闇に浮ぶのは光り輝く白と黒、二つの球体だった。住むまう獣、住まう人々は自ら王者なる翼をその背に持ち、沈んだ闇を自由気ままに行き交い、すべての闇を思うままに堪能した。
彼らは生まれながらにしてすでに紛れもない闇の支配者だった。翼の持たぬ者たちを蔑み、力あるものだけを愛した。何者にも覆されることのない無情の独裁者だった。白黒二つの球体が見下ろすずっと先、運命付けられた軌道に浮ぶ十三の球体に生まれた者たちはただ彼らを賞賛し、敬愛しつづけた。力なき者たちは高貴な彼らの名の元に屈するしか生きる術がなかったのだ。翼はすべての上に立つ限りない力を示し、その自由さは彼らこそが闇の統治者だと皆に知らしめていた。
しかし、そんな翼を有する彼らも、けして手にすることができない力ある球体が存在した。
「灼熱の銀の球体」
白球体と黒球体、両者を分かち制するかのように、その中心に位置する、大きく神々しい闇に始まりをもたらしたとされる球体だ。
その謎に包まれた灼熱の球体の内部では、いつも絶えず戦争が繰り返された。白翼と黒翼の戦いだ。翼の人々は力もその翼の役割さえ同等で、すべてに置いて等しかったが、ほんの些細な身なりの違いでそれぞれを嫌い合い。互いの戦いの果て、この球体を手にいれるに相応しい勝者こそが闇の王なのだと信じ、いがみ、憎しみ、軽蔑し合い。灼熱の銀の球体は彼らが剣交える度に自らを激しく燃やしつづけた。
だが、力なき十三の球体、それらの親和の元で人知れず育った者。翼の人々にとって忌まわしい黒白の混色翼を持った異端児リゼルの覚醒により、その終わりのない戦いが凍結されることとなった。闇の中で最も歪で、最も完成された彼女が、鋼剣をただ一度訪れた銀の球体の地に突き刺しただけ、たちまち剣を手に争う翼の人々は銅のように固まり、銀の球体は自らが燃えることをやめた。球体は沈静と白い霧に包まれ、力あるものが誰も受け入れなかった混色翼のリゼルが銀の球体を圧制したのだ。そして、それはまた、闇をも制した瞬間だった。闇は霧とともにリゼルの放った強い力で満たされ、翼の人々は皆、桁はずれた力に対抗すらできず、闇の支配者の地位から落とされた。
闇ははじめて翼の人々を拒み、闇の真の統治者に混色翼のリゼルを選んだのだ。長い翼人の支配の時を終え、リゼルこそ十三の球体が真に敬うべき相手となったが、その後のリゼルを知る者は誰一人としていなかった。混色翼のリゼルの行方は、かつては燃え滾り、霧によって深い眠りについた銀の球体と共に謎と化したのだった。そう、リゼルの残した贈り物と共に、永久の謎として過去に葬られたのだ。
そうして、それから五千年もの歳月経ち、闇の征服者は相変わらず混色翼のリゼルのまま、この物語ははじまりを迎える。
闇の円形軌道の中心に位置する球体「第三世界」から四つ目の外円、数えて十二番目に位置する球体。その世界は、水に恵まれた世界だった。球の全体の十分の六を水が覆い、闇で最も水に溢れ、人々は水と共に生きた。皆は、その世界を第十四の水の世界と呼んだ。
なにもかもが青に染まった、美しい第十四の世界。けれど、そんな美しい世界の時が止まってしまったのは、いつからだろうか……。人も物も動き、食べる事も眠る事もできる。風も吹き雨も降り、時には雪も降っている。以前とはなにも変りはしないが、時間という存在だけは動くことがなかった。何一つ老化することもなく、その代償になにも生まれはしない。まるで異空間に取り残されたかのように。皆はいつからか、この世界は「針がまるで止まってしまった」と口々に言うようになった。
ここにはじめから居た者やここに来た者は、二度とこの世界から出る事も戻る事もできない。この世界に存在する科学者は言う。
つまりは、「世界そのもの自体の時が止まってしまい、外の世界と同調できない」、「外の世界はずっと時間を刻んでいる。時の止まったままの身体では外の変化についていけない」のだと。
誰一人この世界から出る事ができず、人々は水の球体に閉じ込められてしまった。最初は誰も信じる者がなかった。普段と変らない日々に何一つ疑う事もなかった。だが、少しずつその変調は人々に不安をもたらした。この世界から出られないと知った者の数々の異常な行動、子がいつまでたっても産まれない妊婦。冷静な者は仕事もせずに遊びほうけ、絶望した者は自らの命を絶とうとした。しかし、それすら叶わない。新しい時が刻まれない為、心臓は血流を促し脳は活動しては眠るが、どんな事故があっても傷は生まれない。その連鎖は止まらない。ただ、身体は栄養を欲するだけ。いくら貧弱だろうが、食べ物を口にしなくとも時の止まった世界では生きていける。なぜなら、身体は時を刻んでいないのだから。
人々はただ、世界の針が進んでくれることを祈るほかなかった。
「それにしてもまぁ、奇妙な現象もあるものだな」
男は片手に持った、写された文字と記号で埋め尽くされた資料から目をはなした。煙草をふかしながら立派なソファに踏ん反り返っている姿はどこかのボスのようだが。あくまでもこの男は助手にしか過ぎなかった。ただ図体の分だけ余分に態度がでかいのだ。
彼の名はルーネベリ・L・パブロ。三十を過ぎたばかりの格体の良い二百十センチはとうに超える大男で、巨大な足に厳ついブーツを履き、黒いパンツをベルトでしっかり締め、くしゃくしゃのシャツの上に年季の入った革ジャケットを着込んでいる。顔は態度通り傲慢そうで、彼の目つきは悪者だといわんばかりに光っていた。
いや、この男の厳つさはそれだけではない。もっとも皆が恐れるのはこの男の鋭い燃えるような真っ赤な瞳と、そのあちこちに小奇麗にはねた爆発した様な髪型。まさに猛獣といった方が相応しい。その野性的な彼の印象が魅力的だと、どこの世界の女性にも人気があった。一般的な男からしたら理解できない域だったが、一番肝心な事は、このルーネベリという男が学者の端くれでもあるということだった。ヘビースモーカーで酒豪、女遊び大好き人間。と、お世辞にも秀才とは無縁に思える男だが、第七「理」の世界ではとても評判で、助手にしおくにはもったいないと言われつづけているほどだとか。
「そうですか?なんだか面白そうじゃないですか」
気の抜けたような返事を返したのは、ルーネベリが輝かしい未来と自分の地位を捨ててまで尊敬する、この男こそが第三世界の三大賢者の一人、ザーク・シュミットだった。
第五魔術世界大学主席卒、そしてまた、同時期に第七数理科世界大学を主席卒。若干十五歳にして科学・化学・数学・魔法力学の四つの博士号を同時取得。稀にみる魔術の鬼才で、かなりの知識人。けれども、彼の才能はこれだけではとどまらなかった。星読み、気候読み、未来読みと鬼才ならではの趣味を併せ持っていた。が、彼の趣味は奥が深く、そして、数があまりにも多いため、誰も彼についていける人はいないと言われている。助手のルーネベリこそ、普段は気にはしていないが、時々その趣味の範囲の広さに驚く事もあるそうな。本人はいたって、読書家だからたまたま知っていただけと、わりと控えめな人柄なのだから、ますます「鬼才さ」を感じられずにはいられなかった。
見た目は特殊な人種の所為か、実年齢とは不相応な十四、十五歳ぐらいの貧弱そうな少年にしか見えないが、ストレートの黒髪と黄金の瞳を持ち、左目に五粒の紫のアミュレット付き片眼鏡を着けた素顔は、なんとも神秘的な気分にさせるというのに、大賢者故に嫌でも有名人とされる所為か、常に帽子やフードをかぶっている。とにかく地味なのだ。そのため、シュミレットの情報は希少価値のでるほど少ない。ルーネベリとは真逆の存在であった。
一部を除いて、まるで完璧に等しい大賢者シュミレット。そんな彼にもひどく苦手な事があった。それは、生まれ故郷である第三世界の女王が毎度開く大舞踏会。シュミレットは確かに、鬼才で大賢者と第三から全ての世界から誉れが高いが、浮世はあまり好まない人間だった。だから、本当なら助手など必要としない彼がなぜルーネベリと助手として迎えたのかというと――。かなり情のない理由だが、シュミレットの代わりに大舞踏会に出席させる為だった。
初めてルーネベルに助手にしてもらいたいと申し出があったのは、ルーネベルが二十二歳、シュミレットが三百六十歳の頃だった。その頃はすでに、ルーネベルは第七の世界で話題を集める人物だった。なのに、シュミレットはルーネベルを相手にもしなかった。彼にとっては、ルーネベルも小うるさい子供にしか見えなかったのだ。だが、ある日、再三訪れた第七世界でルーネベルが大勢の淑女に囲まれている姿を目にして、これはいけるのではないかと考えたシュミレット。結局は、世間に出たくないが為にルーネベルを助手にしただけで、彼自身ルーネベルの才能にはまったく目もくれていなかったのだが、実際に彼を助手にしてみると別に悪くもなかった。
むしろ、いつの間にか必要な物を運んできてくれる。どうしてだろうか、シュミレットが必要とする物がルーネベルにはわかるような、以心伝心のような事がしょっちゅう起こり、いちいち言わなくてもルーネベルは見た目によらずきちんと物事をこなしてくれる。五年経った今でも、それは相変わらずだった。
「あなたはね、なんでいつもそうやって、なんでもかんでも面白そうだといって簡単に引き受けてしまうかな」と、ぼやいたルーネベリ。「あれ、悪いですか?」
シュミレットは面白がるように言った。
「いいや、悪くはないですけども……」
ルーネベルは不満そうに眉間に皺を寄せて、資料をじっと眺める。厳つい顔をした彼には、今回依頼された件がいつもよりも変った物にしか見えないのだろう。ゆっくりとティーカップを置いたシュミレットは美しく装飾された椅子を引いて、部屋の隅にあるコート掛けへと足を向けた。ふと、ルーネベリはその様子に気がつき、目線をシュミレットの背中へ向けた。
「どこかへお出かけになるんですか?」
「頼んでいた物を取りにちょっとね」
何気ない仕草でシュミレットは黒いマントを着込みフードまでかぶった。そして、少しずれた片眼鏡を元に戻し、鞄を肩からぶら下げる。そのいつもの仕草を見て、ルーネベルは慌てて煙草の火を消し、テーブルに資料をほうり投げ立ちあがった。
「そんなこと、俺が行きますから。あなたは資料の方をしっかり読んでください」
困った顔がなんとも似合わないルーネベリ。こんな大男をこんな顔にさせるのは、将来彼を尻にひく女性かシュミレットぐらいだろう。そんな情けない顔の彼に、シュミレットは少し笑いを含ませて言った。
「あれ、あまり乗り気じゃなかったじゃないですか。いいんですよ?今回はお留守番でも」
ルーネベリはため息をついた。
「……あなたね、俺は仮にもせずともあなたの助手なんですから。お供しますよ」
確かにルーネベルはたった一人の助手であるが、特別彼の選択の自由まで奪ったつもりはなかった。どこまでもシュミレットに忠実で――、シュミレットはクスッとひと笑いして言った。
「なんだか、君が従者に思えてくるよ」
「従者!」ショックが隠せないというまた、不似合いな顔をしたルーネベリ。まったく、百面相もできるのではないかとシュミレットは思ったが、からかうのはこれぐらいにして、早く行かなければならない。なにしろ、事は急を要していた。
「冗談だよ。それより今回の件、本当は君を連れて行くのに僕は気が進まないのだよ」
「どういう事ですか?」
「君は資料を読んで、大方理解はしたんだね?」
「まぁ、大体は……。って、あなたはもう読んだのですか?」
「もちろん。君が読み終える二十分も前にね」
シュミレットは大の読書家で、早読みなどお手軽な事だと五年も傍にいたのに忘れていた。百ページなんて彼にとってはことの三分もあれば理解するに値する十分な時間だった。さすが、大賢者様だと思い知らされる。
「そうですよね。でも、なぜです?」
「うん、そうだね。君は確かに、力もあって見た目も怖いけれど今回の件はどうも魔術が関係していると僕は思うのだよ」
「魔術ですか……」
ルーネベリは大男だが、別に魔術師の家系生まれでもない。まして、シュミレットの様な特殊な人種でもない。だから、魔術など使えるはずもなく、知識すら塵に等しい。なんせ、あれは数学の公式の応用と化学の公式の応用を掛け混ぜた以上に、なんとも難しいものなのだ。第七世界生まれの人間には決して理解できない分野だった。
「そう、魔術。でもね、君がいれば有利な点もあるんだよ」
「有利な点ですか?」
魔術に関してルーネベリが有利になる事があるなど、意外な事だった。ごく稀に魔術に関する依頼が来たら、いつもルーネベリは別件の資料集めをさせられるばかりだった。要は、初心者は危険だからだ。だが、今回は違うのだろうかと、ルーネベリは少し期待を込めてシュミレットを見た。
一度、シュミレットが魔術を使った所を見た事があるが、あれは想像を絶するものだった。眩い光の輪が力となって物力的な衝撃へと化する。ルーネベリがシュミレットの助手を志願した理由はその件があったからだった。大賢者とは飾り名ではないという事、それをはじめてこの目で目撃したからだ。だからこそ、ルーネベリが触れる事ができない分野に自分が一体何ができるのか、久しぶりに胸が期待で膨らんだ。すると、シュミレットはマントにできた無数の皺を伸ばしながら口早に言った。
「えぇ。それはね、あの世界に入ってすぐに情報収集することだよ」
「情報収集?」拍子抜けする言葉しか言わないこの大賢者に、ルーネベリはがっくりさせられた。いつもとやることがたいしてかわらないというのは、期待はずれもいいところ。やはり、大賢者様はお優しくはなかった。
「そうさ。君はどこの世界の淑女にも、モテますからね」と、意気揚々に言った。情報収集など毎度ながら、やっている事だ。確かにルーネベリはもてる事はもてる。それも、嫌味なほどに……。
「まぁ、お役に立つのですしたら、なんでもしますよ」
ルーネベリはそう言ってまた溜息をもらした。今回もまた結局の所、自分のできる範囲内に納まるしかない。あえて喜ぶべき事なのは、連れていってもらえるという事だ。それだけで十分かも知れないと思い返す。
「君ね、情報収集ほど大事なことはないのだよ?」
シュミレットは言い聞かすように言った。
「えぇ、わかっていますよ」
「いいや、わかっていないね。いいかい?何事に種があるんだ。種がないものには芽はでない。だから、魔術にも必ず種があるんだ」
「種ですか?」
「そうだよ。でもね、魔術を使う者にとっては盲点になる事が多いのだよ。まして、今回の件は世界全体の問題だからね」
シュミレットは部屋の扉を開き、足早に階段を駆け下り外へ出た。ルーネベリは机の上に散らかした資料を丸め、煙草箱や小さく平べったい楕円状の魔道具ライター、真鍮製の酒瓶を一緒にリュックの中に詰め込んで急いで後を追った。
彼らはいつもこうだ。シュミレットが進めば、ルーネベリはそれを追いかける。いわゆる、シュミレットはかなりのマイペースだった。ルーネベリにくらべたら何倍も小さな身体付きをしているくせに、やたら足は速い。だから、今日もまたルーネベリは走って追いつくしかなかった。シュミレットは見た目と違い、まったく甘さを知らず、食えない男だったが、この男に悩みを相談して解決しなかった事は何一つない。シュミレットは正真正銘の、本物の大賢者様だった。
< 登場人物 >
ザーク・シュミレット …… 三大賢者の一人 魔術師
ルーネベリ・ルーザン・パブロ …… 賢者の助手 学者
アニドル=ラスキン …… 第五「魔」世界の副管理者
ガーネ・J・アルト …… 第五世界の少女
ミース=ラフェル・J・アルト …… 魔術師見習い ガーネの従兄
ルイーネ・J・アルト …… ガーネとミースの叔母 魔術学校の教師
桂林 …… 第十四「水」世界の管理者 盲目の女帝
秀栄 …… 副管理者 執政
紫水 …… 桂林の弟君 次期皇帝
天音 …… 紫水の恋人 円城の娘
円城 …… 第十四世界一の大富豪
玉翠 …… 副管理者秀栄に仕える軍師
瑠菜 …… 桂林の侍女
明美 …… 桂林の侍女
阿万 …… 第十四世界の神「水竜」を崇める最高僧
四坊 …… 少年僧
恂結 …… 鱗採取を名物にしている宿屋の主人
朋蓮 …… 軍師玉翠の亡き父
ラン・ビシェフ …… 科学者
ハミル・デラ・カートン …… 旅の魔術師
シャルベリー・E・ダルフォット…… 旅の魔術師
デルナ・コーベン …… 「操り師」の異名を持つ魔術師
セルナエル・J・アルト …… 竜の目を持つ魔術師
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長年読んでくださっている方々、はじめて読んでくださっている方々へ。
沢山ある物語の中で、この物語へ辿り着いてくださった事を感謝しています。
この物語はこれまで書いた物語の中ではとても古く、そして、新しくもあるというどこまでも不思議な物語です。沢山の構想のため、わかりずらい部分もあるかもしれませんが。
まだまだ続いてくこの物語を気に入ってくだされば幸いです。
2020/8/11