ここでキスをしよう。あるいは、唾を吐こう
夜景は、きらきらしていた。
ほんとうに、きらきらしていた。
街じゅうの灯りが、遠くで宝石みたいに光っていた。
風は冷たかった。
女の髪が、風でふわっと揺れた。
男は、それを見ていた。
かわいい、と思った。
女も、男の横顔を見ていた。
夜景の光が、男の鼻筋に少しだけ当たっていた。
かっこいい、と思った。
二人は付き合っていた。
映画を見た。
ご飯を食べた。
駅まで歩いた。
それから、少し遠回りして、夜景の見える場所まで来た。
手は、まだつないでいなかった。
キスも、まだしていなかった。
男にとっても初めてだった。
女にとっても初めてだった。
だから、その夜には、ものすごく大事な感じがあった。
今しかない、という感じがあった。
男の胸は、さっきからずっとドキドキしていた。
ドキドキしすぎて、胸の中に小さい太鼓があるみたいだった。
女もドキドキしていた。
二人の心臓は、夜景よりも忙しかった。
女の肩が、男の肩に触れそうだった。
男は、何かしなければと思った。
何かしなければ、この夜がただきれいなだけで終わってしまう気がした。
男は、ポケットの中のタバコに触れた。
「吸うの」
女が言った。
その声は静かだった。
「吸う、という述語を、現時点の僕に帰属させることの妥当性については、まだ検討の余地がある」
男は言った。
女は、男を見た。
「箱に触れた時点で、あなたはすでに喫煙という言語ゲームの内部に位置づけられています」
「触れることと行為することを同一視するのは、行為論的にはかなり粗雑だと思う」
「粗雑なのは、あなたの行為論ではなく、あなたの口腔内に残存する予定のタールです」
「まだ残存していない」
「残存可能性が成立しています」
「可能性だけで主体を拘束するのは、予防的権力の拡張では?」
「私の唇は国家装置ではありません」
「でも、かなり強い統治権を行使している」
「統治ではなく、接触条件の事前提示です」
男は少し黙った。
女も少し黙った。
夜景は、何も分からないみたいに光っていた。
男は、女の唇を見ないようにした。
見ないようにしたら、余計に見えた。
女も、男の口元を見ないようにした。
見ないようにしたら、余計に気になった。
「一本だけだよ」
男は言った。
「一本、という数量単位によって、質的変化を不可視化しないでください」
「数量と質の問題にする?」
「します。初めての接吻の直前における一本は、単なる一本ではありません」
「それは、僕が夜景における喫煙を擁護する際に用いようとした論理と構造的に同型だ」
「同型ですが、倫理的な向きが逆です」
「向き」
「あなたの一本は、あなたの身体から外部へ向かう。私の拒否は、外部から私の身体への侵入を防ぐ」
「侵入という語は、かなり強い」
「煙草臭い口が近づく場合、強い語を用いる正当性があります」
女の髪が、また風で揺れた。
男は、やっぱりかわいいと思った。
女は、男の指を見ていた。
ポケットの中で、タバコの箱に触れている指だった。
少し長くて、きれいな指だった。
かっこいい、と思った。
「そもそも喫煙を、嗜好品の摂取という個人的快楽の水準に閉じ込めるのは、かなり貧しい理解だと思う」
男は言った。
「それは、火を身体内に媒介し、煙として世界へ返却する、身体と外界とのあいだの古い交通形式でもある」
「返却しないでください」
女は言った。
「世界へ?」
「私へ」
「君は世界ではない」
「今夜のあなたの認識においては、かなり世界に近い位置を占めているはずです」
「認識論の話にする?」
「あなたが先に交換形式などと言い出したんです」
女は、夜景を見たまま続けた。
「そもそも、あなたが言う世界は抽象的すぎます。いまここで問題になっている世界は、夜景一般でも、都市空間一般でも、人類史一般でもありません」
「では何?」
「私の顔の前です」
男は黙った。
「あなたの煙は、世界に拡散する前に、まず私の顔の前を通過します。私はその通過を許可していません」
「それは、かなり限定された世界概念だ」
「恋愛における世界は、だいたい限定されています」
男は答えられなかった。
実際、女のいる場所が、世界の中心みたいに見えていた。
世界の中心、という言い方は恥ずかしかった。
でも、本当にそうだった。
男は、ポケットの中の箱を握った。
いつもの硬さだった。
タバコは、男に時間の区切りをくれた。
一本吸えば、何かが始まる。
一本吸えば、何かが終わる。
一本吸えば、少しだけ自分の場所ができる。
今夜も、そうしたかった。
それから、キスがしたかった。
「君は、僕の喫煙を身体性の水準に過剰に引き戻している」
男は言った。
「あなたは、自分の身体性を抽象概念によって過剰に希釈しています」
女は言った。
「希釈しなければ、身体は身体のまま残る」
「残ってはいけないのですか」
「いけないというより、困る」
男は言った。
「身体が身体のままそこにあると、僕は、そこへどの程度近づいてよいのか分からなくなる」
男はそこまで言って、少し黙った。
女も黙った。
いまのは、少し本当だった。
夜景が、急に近くなったような気がした。
女の白い息が、夜にふわっと消えた。
男は、それを見ていた。
きれいだった。
煙草の煙でさえ、きっときれいに見える夜だった。
だから、男は吸いたかった。
でも、キスもしたかった。
男は困っていた。
女も困っていた。
女もキスしたかった。
なんだか、正しいことを言えば言うほど、遠ざかる気がした。
沈黙が、少し長くなった。
男は、女の息の音を聞いていた。
女も、男の息の音を聞いていた。
「この沈黙は」
男は言った。
「合意形成の失敗として理解すべきなのか、それとも合意以前の猶予として理解すべきなのか」
女は、少しだけ男を見た。
「沈黙を、ただちに手続き上の空白として処理しないでください」
「でも、沈黙は解釈を要求する」
「要求しているのは沈黙ではありません。あなたです」
「僕が?」
「ええ。あなたは沈黙に意味を与えるふりをして、私の反応を測定しようとしている」
「測定という語は、かなり冷たい」
「では観測」
「もっと冷たい」
「では、待っている」
男は黙った。
女も黙った。
夜景は、急かすようにきらきらしていた。
女の手が、手すりの上で少し動いた。
男の手の近くに来た。
「その手の移動は」
男は言った。
「接触可能性の提示として理解してよいのか」
「よくありません」
女は言った。
「では、偶然?」
「偶然と断定するには、私の意志が関与しすぎています」
「意志」
「しかし、意志と呼ぶには、まだ自分で引き受ける準備が不足しています」
「それは、ほとんど手だけが先に来ている状態だ」
「そうです」
女は言った。
「私の手が、私より先に来ています」
男は、女の手を見た。
小さかった。
指先が、少しだけ赤かった。
寒いからかもしれなかった。
ドキドキしているからかもしれなかった。
どちらでも、かわいかった。
「接触許可の明示的取得は」
そこまで言いかけて、男はやめた。
女は、すぐに気づいた。
「いま、手をつなぐことを何かしらの手続きにしようとしましたね」
「しようとした」
「やめてください」
「分かった」
男はうなずいた。
分かった、だけでいいことが、この世にはあるらしかった。
男の指が、ほんの少し動いた。
女の指も、ほんの少し動いた。
「口という器官には、設計思想上の深刻な混乱があると思う」
男は言った。
「いま、その水準まで抽象化する必要がありますか」
女は言った。
「ある。言語、摂食、呼吸、喫煙、接吻、咳、嘔吐、唾。これらが同一の開口部に割り当てられていることは、機能分化の観点から見て、かなり乱暴だ」
「人体を、近代官僚制の部局配置みたいに扱わないでください」
「でも、少なくとも接吻と唾液の対外的排出は別の窓口であってほしかった」
「窓口という比喩を用いるなら、あなたはいま、喫煙課と接吻課を同じ受付番号で処理しようとしています」
「僕は処理しようとしていない。混乱しているだけだ」
「混乱を概念化することで、責任の所在を曖昧にしないでください」
男は、少し黙った。
女は続けた。
「あなたの言う『口の多義性』は、たしかに器官論としては興味深いです。しかし、いま問題になっているのは、人間一般の開口部ではありません」
「では何」
「あなたの口です」
男は、女を見た。
女も、男を見ていた。
夜景よりも、ずっと近かった。
「そして、私の口です」
女は言った。
「その二つが近づくかどうかです」
「近づく、という語もかなり多義的だと思う」
「多義性に逃げないでください」
「逃げてはいない。語の輪郭を確認している」
「輪郭を確認しているあいだに、輪郭以外のものが全部遠ざかっています」
男は、また黙った。
女の顔が、さっきより近くにあった。
男は、自分の息が女に届くかもしれないと思った。
そのことに気づいて、急に息の仕方が分からなくなった。
「呼吸が不自然です」
女が言った。
「見ていたの?」
「見えてしまいました」
「呼吸まで見える?」
「この距離では、呼吸はもはや純粋な内部過程ではありません」
「かなり厳しい」
「あなたの息が、私の顔の近くに来るなら、それは私にとって環境です」
「また世界の話?」
「もっと狭いです」
「では何」
「私の頬の前です」
男は、息を止めた。
女は少し目を伏せた。
「止めなくていいです」
「でも、環境になるんだろ」
「環境であることと、存在してはいけないことは違います」
「難しい」
「私も難しいです」
女は言った。
男は、その言葉をすぐには受け取れなかった。
難しい、という言葉が、妙にやわらかく聞こえた。
男は、言葉を探した。
女は、先に言った。
「いま、かなり根源的な話をしています」
「僕もそう思う」
「違います。あなたの根源は、器官の機能分化です」
女は、男を見た。
「私の根源は、あなたとキスできるかどうかです」
男は、言葉を失った。
女も、自分で言ってから少し顔を赤くした。
かわいかった。
ほんとうに、かわいかった。
男は、今すぐ何か言わなければと思った。
でも、何を言えばいいのか分からなかった。
「それは接吻可能性の開示として理解してよいのか」
と言いそうになった。
言わなくてよかった。
そのくらいは、男にも分かった。
女は、男が何か言いそうになったのを見た。
「いま、何か言語化しようとしましたね」
「した」
「しないでください」
「なぜ」
「また遠くなるから」
男は黙った。
女も黙った。
二人のあいだに、夜風が通った。
女の手が、手すりの上でまた少し動いた。
男の手の近くに来た。
ほとんど触れそうだった。
女は、男の顔を見た。
かっこいい、と思った。
タバコが吸いたくて困っているところも、ちょっとかわいいと思った。
「仮に、あなたが吸わないという選択をした場合」
女は言った。
「その不作為は、少なくとも外形的には、私が提示した接触条件を受容したものとして解釈されうる」
「解釈されうる、なんだ」
男は言った。
「ええ。断定は避けます」
「どうして」
「断定すると、私の側にある期待の構造が、あまりに露骨に可視化されるからです」
街の灯りが、女の瞳の中で小さく揺れていた。
「えっと、期待しているの?」
男は聞いた。
女は黙った。
風が吹いた。
女の髪が、頬にかかった。
すごくかわいかった。
「その問いは」
女は言った。
「かなり暴力的です」
「暴力的?」
「ええ。あなたは、私が慎重に仮定法と可能性の領域に留めていたものを、突然、直接法の平面へ引きずり出そうとしている」
「直接法」
「期待というものは、表明された瞬間に、期待ではなく要求に近づきます。そして要求は、しばしば関係の非対称性を生みます」
「僕は、そんなつもりじゃ」
「分かっています」
女は言った。
「でも、分かっていることと、言語行為として何が起きたかは別です」
男は黙った。
女も少し黙った。
夜景は、きらきらしていた。
「私はいま」
女は続けた。
「あなたにキスを要求したくない。けれど、あなたがタバコを吸わないことによって、その可能性が閉じられずに残ることは、かなり重要だと思っています」
男は、女を見た。
「それを、期待と言うんじゃないの」
女は少しだけ目を伏せた。
「だから、そういう語彙の暴力をやめてください」
「ごめん」
男は言った。
そんな簡単な言葉が、いちばんちゃんとしていた。
女は少し驚いた顔をした。
男も少し驚いていた。
夜景は、あいかわらずきれいだった。
きれいすぎて、少しばかみたいだった。
男は、ポケットから手を出した。
タバコの箱は出さなかった。
空の手だった。
女は、その手を見て、一歩だけ近づいた。
その一歩について、二人は何も定義しなかった。
街の灯りが、女の瞳の中で揺れていた。
男は息を止めてしまっていた。
「息していい?」
「してください」
女の顔が近づいた。
夜景が、呆れたように瞬きをした。




