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テスカトルは、もうしばらく哲学の講義を聞くと言っていたけど。
私は少しうろついた末に、エスカとフィルィを観察することにした。
気付かれないように、後ろに座って。
「フィルィさんは計算がお得意なのですね」
「うーん、旅団の経理の計算とかもやらないとだし。でも、算数も四則計算くらいだけだよ、ちゃんと出来るのは」
「それでもすごいです。私は、足し算引き算でも間違ってばかりなのに…」
「慣れだよ、慣れ。一気にやろうとしても上手くいかないし、地道にやっていくしかないよ」
「慣れですか…」
「この連立方程式だってそうだよ。結局、この問題はこういう解き方、あれはこう、それはどうって、慣れて覚えていけばいいんだよ」
「へぇ…」
エスカは、全然進んでいない自分の答案を見て、ため息をつく。
まあ、誰だって、最初は不慣れなのは当たり前だ。
フィルィは数をこなしているから計算が上手く、エスカは始めたばかりだから上手くいかない。
そういうものだろう。
「そういえば、昨日は何の本を読んでらしたんですか?」
「えっ?あぁ…あれだよ、ほら、日ノ本名景だよ」
「それは分かってるんですが、結局、どんな本か分からなかったので…」
「…エスカちゃんは、女の子に興味ある?」
「えっ?どういう意味ですか?」
「女の子同士が愛し合う世界に興味ある?」
「えっ、えぇっ!女の子同士で、ですか?」
「シッ。声が大きいよ」
「す、すみません…」
「百合って知らないかな。秋華ちゃんも、いい線いってるんだけど」
「ゆ、百合ですか…。そういえば、前に読んだ本に…」
「読んだ?何を?」
「軌跡の奇跡という…。有名で評判がいい本だと聞いたので…」
「読んだんだ、あれ」
「で、でも、なんだか恥ずかしくなってきて、一巻しか読めてないんです…」
「あぁ、ダメだよ、勿体ない!百合小説の最高傑作だから、ちゃんとしっかり読まないと!」
「…お前の娘が、どんどん百合に汚染されていってるぞ」
「む…。しかし、エスカが興味を持ったのなら仕方がないだろう…。行く末を見守る他は…」
「そうだな」
まあ、セカムのことが気になると言うのなら、まだ大丈夫だろ。
趣味の一環として、そういうものに興味を持つのは、別に悪いことではない…と思う。
それこそリューナの言う通り、エスカが興味を持ったのなら、それはそれで仕方ないことだ。
「とにかく、百合は抜きにしても、あの小説はすごくいい小説だから。絶対に読んだ方がいいよ。百合入門としても最適だし」
「は、はぁ…」
「仲間を増やすのに必死だな、フィルィ」
「わっ、い、紅葉さん!い、いつの間に…」
「さっきからずっと聞いてたけど。無理矢理布教するんじゃないぞ、まったく…」
「うっ…。無理矢理じゃないですけど…」
「リュナムクさま…。あ、あの、すみません…」
「よいよい。お前が興味を持ったのなら、私はそれでいい」
「うぅ…」
エスカとフィルィは、二人で顔を赤くして俯いてしまった。
趣味が悪いかもしれないけど、こういう反応を見るのは結構楽しい。
…だから、声を掛けたというわけでもないんだけど。
「ちょい、姉ちゃん。二人の邪魔したらんといたってーな」
「ん?あぁ、そうだな」
「…それで、なんの話をしとったん?」
「なんでもいいだろ。暇だからって油を売るな」
「ええやん、別に。みんな優秀やし、うちがおらんでも大丈夫やって」
「曲がりなりにも講師だろ、お前…」
「だってぇ。うちかてキャピキャピ女子の内緒話したいもん」
「井戸端会議じゃないんだから…」
「なぁ、なんの話しとったん?」
「百合の話だよ」
「フィルィさん…」
「百合?オニユリとか?」
「レオナちゃんにも、今度、百合の本、貸してあげるね」
「えぇー。うち、花のことはあんまり分からんねんけど…」
「花のことじゃないよ」
「えぇ?でも、百合ゆうたら花やろ?他のユリがあるん?」
「あぁ眩しい。その純粋さが眩しいよ、レオナちゃん」
「…なんやバカにされた気分やな」
「そういう意味じゃないよ。ただ、花の百合の話ではないってことは確かだから」
「そうなん?」
「そうだよ」
「じゃあ、どんな百合の話?」
「ちょっと耳貸して」
「えっ?」
レオナが首を傾げながらも耳を近付けると、何か重大な秘密を喋るかのように、フィルィはそっと耳打ちをする。
エスカと二人で話していた、百合というものの全容が明らかになるにつれて、レオナの獣化が進んでいって。
話が終わると、急に気付いたように、もとの姿に戻った。
「ふむ、カムイ族だったか」
「そうだな」
「…という百合なんですよ」
「そ、そんな百合があったんか…。世界はまだまだ広いなぁ…」
「ね?興味ある?」
「えっ!興味…?」
「貸してあげるよ、小説。下町の図書館にもあると思うし」
「そ、そんな、うちには、銀次ゆう彼氏がおんのに…」
「彼氏とか関係ないよ。それに、銀次くんも気に入るんじゃないかな」
「そ、そんなん…」
「無理矢理布教するなって言っただろ」
「布教じゃないですって…」
「と、とにかく、ここでその話すんの禁止!問題解き、問題!」
「もともと、お前が興味津々だったんだろ…」
「そんな話してるって知らんかったもん!あかんあかん、刺激が強すぎる!」
「レオナちゃん、興味があったら、またぼくに言ってね。いろいろ教えてあげるから」
「アホか!」
レオナは慌てて席を立つと、逃げるように、手を挙げた子のところへ走っていった。
まったく、こいつに掛かると、伝染病みたいに広がっていくな…。
最初は恥じらいもあったような気がするけど、どこからこんなことになったんだろうか。
「エスカちゃん。秋華ちゃんに、日ノ本名景と、刀剣の扱い方を借りるといいよ」
「えっ?」
「まだやるのか」
「ウソウソ!冗談ですって!」
「まったく…」
「………」
とにかく、子供たちは、あんまりこいつに近付けないようにしよう。
何を吹き込まれるか分かったものじゃないからな…。