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「師匠…。いつ、望に渡したらいいのでしょうか…」
「なんだ、昨日の春本か?確かに、なかなか興味深いものであったな」
「ち、違いますっ!水墨画の方ですっ!」
「レオナは、今朝すぐに渡してたみたいだけどな」
「そ、そうなのですか…。エスカさんや、ナナヤさんはどうなんでしょうか…」
「さあな。でも、ナナヤは今渡してるみたいだぞ」
「えっ、本当ですか?」
「見てみろよ」
ちょうど向こう側で昼ごはんを食べていた望に、ナナヤが近付いてきて。
そして、昨日の包みを渡している。
「うぅ…。先を越されてしまいました…」
「別に競争じゃないんだから…」
「あんまりモタモタしていると、何のお祝いか分かりませんし…」
「いや、いつまで延ばす気なんだよ…」
「やはり、今すぐ渡すべきでしょうか?」
「やめておけ。猿真似みたいになるのは嫌だろう。ここは、密かに厠へ呼び出し、個室のひとつへ押し倒して口付けをしながら…」
「お前は、秋華にいったい何をさせる気なんだよ…」
「いい、いいですよぉ!望ちゃんも、最初は拒むんですけど、次第に受け入れるようになって、二人で静かに濃厚な口付けを…」
「お前もどこから出てくるんだ、フィルィ…」
「百合の甘美な匂いに誘われてやってきました」
「ほぅ。お前、イケるクチだな?」
「もしかして、テスカトルさんも…」
「同性愛は、文学分野でも興味深い広がりをみせている。百合にせよ、薔薇にせよ、なかなか面白いものが揃っているな」
「じゃあ、今度、ぼくのお気に入りを紹介しますね」
「そうだな。ありがとう。それで、百合小説の作家といえば、あれだな。水木泰三とかいうのが有名なんじゃないか?」
「水木泰三さんですかぁ。あの方の書く百合は、最も美しいと言われています。描写は結構細かいのに、やらしさが全然ないというか。ちょうど、昨日の秋華ちゃんの春本のような」
「それなのに、水着着たいぞうか…」
「なんだ、それは?」
「水木泰三を分解して読むと、それぞれ、水着と着たいぞうになるだろ」
「あぁ、なるほどな。面白いやつだ」
「昔からよく言われているんですよ。こんなに繊細な小説を書く人間の筆名が、こんなに露骨でいいのかと」
「ふぅん」
「でも、実は、水木泰三さんは、夫婦でひとつの筆名を使ってるんですよ」
「そうか」
「あ、あれ?驚きませんか?」
「筆名が男の名で、実際は女というのはよくあることだし、ひとつの筆名で二人というのもあるのかと思った程度だからな」
「わざとそういうことをして、読者たちの驚く顔を見たいというやつも多い。何を隠そう、おれもその一人だ」
「だろうと思ったよ。お前は性格悪いしな」
「ふふふ」
「ぼ、ぼくは、水木泰三さんの百合小説が大好きで、特に軌跡の奇跡という続き物小説が好きで、毎巻欠かさず読んでいるのですが…」
「軌跡の奇跡か。女身二人の旅の中で…というやつか?」
「はい!あれは、実は、実際にある街や街道を舞台にしてるんですよ!二人が泊まった宿も、実在しているもので!」
「ほぅ、そうだったのか。詳しいんだな」
「当たり前です!それに、ぼく、水木泰三さん夫婦と、文通させていただいてるんですよ!その中で、その秘密も教えていただいて!」
「えっ!ほ、本当ですか?」
「なんでお前が反応するんだよ…」
「えっ、い、いえ…」
秋華は、ついうっかり声を出してしまったといった風に俯いて。
もしかして、こいつも、もう百合の世界へ足を踏み入れているということか?
…まあ、止めはしないけど、なんとなく複雑だな。
「やはり、秋華。ああいう春本を買うということは…」
「ち、違いますっ。姉さまのお部屋の本棚を見ていたら、その本があって…」
「やっぱり、千秋の影響か…」
「ね、姉さまは何も悪くないんですっ!」
「そりゃそうだろうよ。あいつは自分の趣味で集めてたんだろうし」
「姉さまが読んでる本がどんなものなのか、興味がありまして…。一冊、また一冊と借りて読んでいる間に、その本に行き当たりまして…」
「いいんだよ、秋華ちゃん。隠さなくたって。好きなことは好きって言っていいんだよ」
「ふむ。それらしく聞こえるが、お前は仲間を増やしたいだけだろう」
「あれ?バレてました?」
「まったく…。でも、秋華。確かに、こいつみたいに堂々と開けっ広げにするようなことでもないけど、恥ずかしがることでもない」
「別に、開けっ広げになんかしてませんよぉ…。紅葉さんなら、ちゃんと理解してくれると思ってるからこそ…」
「こんなやつでも、お前のその趣味趣向に関する先輩だ。聞きたいことがあるなら聞けばいいし、共有出来ることがあるなら共有すればいい。なかなか千秋には話し難いこともあるだろうしな。同志なら、話しやすいだろ?」
「あの、えっと…」
「分かるよ、秋華ちゃん。ぼくも、最初は病気なんじゃないかって思ったもん」
「えっ、病気ですか…?」
「お前はとりあえず黙ってろ」
「うっ…。ぼくを頼らせておいて、酷いです…」
「とにかくだ。自分のやりたいことを、内に押し込めるな。仲間の間でだけでも開放的になることで、見えてくる道もある。話す相手が見つからなかったら、オレか千秋に話すんだ。オレに話し難いことを千秋に、千秋に話し難いことをオレに。オレも千秋も、お前の全てを受け入れてやるから」
「………」
「分かったな?」
「はい…」
「ぼくを頼ってくれてもいいんですよ」
「お前は蒼空の旅団員なのだろう?フラフラと彷徨う、おれたちのような旅烏では、なかなか難しいだろう」
「そ、そうでした…」
「まあ、手紙でもなんでも、今なら、そういうやつらと繋がる術もある。難しく考える必要はない。お前の思うように、お前自身を解放していくんだ」
「…分かりました。やってみますっ」
「ああ」
「ふふふ。秋華は、やはりその目だな」
「あっ、えっと…」
私もそう思う。
秋華は、いつまでも内側に閉じ籠っているようなやつじゃない。
外へと向かっていって。
本当の意味で、自分を解き放つことの出来る人間だと。
…私はそう思う。