552
「えぇ、ロセさん、帰っちゃったんだ」
「何か不都合でもあったか?」
「不都合はないけど、お別れくらいは言っておきたかったかな」
「あいつは、別れを言うのが一番嫌いだからな」
「あぁ、なんか、そんなかんじがするね」
「いつでもそうだ。誰にも言わないで、夜逃げするみたいに帰っていったこともあった」
「えぇ、ホントに?」
「ああ」
「よっぽど嫌いなんだね…」
「そうだな」
「まあ、たまにいるよね、そういう人。別れを言うのが怖いっていうか」
「オレは、あいつ以外に知らないけど」
「いるんだよ、たまに」
「そうか」
「言葉には、魔法のような不思議な力が宿る。うっかり別れを言ってしまうと、本当に二度と会えなくなることもあるからな」
「あ、テスカトル」
「言霊か?」
「ああ、そうだ」
「言葉の思想家も、言霊を信じるのか」
「言葉の思想家だからこそ、言葉の力を信じるのだよ」
「まあ、そうか」
テスカトルは、私たちの桶の横に座ると、大きな欠伸をして。
少し後ろに、いつもの仏頂面でセカムも控えている。
「たとえば、北の国には、言葉の神というのがいる」
「クシュか」
「なんか、くしゃみみたいだね」
「お前の知り合いか?」
「会ったことはないが」
「えぇー、言葉の思想家のくせに?」
「くせにとはなんだ、くせにとは。それに、会ったことはないが、よく文通はしている。この前も、美しい詩を貰ったところだ」
「美しい詩?どんなの?」
「秘密だ。しかし、言葉の神として、あいつも言葉をよく研究している」
「ふぅん。言葉の神さまなんだしねぇ」
「まあ、それは置いといてだ。クシュの使う術は、クシュ独自のもので、言葉の力を利用するものだ。おれは勝手に言術と呼んでいるが、術式、妖術、呪術、法術のどれにも繋がる術なんだ。クシュは秘術としてほとんど語らず、詳細は謎に包まれたままだが、おれは、全ての術の基となった術なんじゃないかと思っている」
「へぇ…。あ、でも、術式だって、元素術とか陰陽術を使うには、何か文言が必要だしね」
「風華は術式が使えるのか?」
「えっ?まあ、使えるよ。響とかも使えたと思うけど」
「ふむ…。またいろいろと話を聞きたいものだな」
「いいよ。それで、言術の話だけど」
「あぁ、そうだな。本物の言術を実際に見たことはないが、言葉がそのまま力になるんだ。たとえば、荒れ地を前にして耕やせと言えば、たちまち土が耕されたり」
「えぇ…。あ、でも、私は上手く使えないけど、土の術式で地面を隆起させて壁を作ったりってのはあるよね」
「そうだな。そういうものだ。とにかく、言葉に力を乗せ、現実にする術だそうだ」
「ふぅん…。でも、秘密にしては結構詳しいね」
「教えてもらったからな」
「えぇ…。秘密なのに…」
「ほとんど、語られていないと言っただろう。長い付き合いの中で、おれは信用に足ると判断してくれたそうだ。言術について、おれが信用するやつになら、ある程度までは話してもよいとも言われている。秘密にしすぎて、言術自体が途絶えてしまっても困るしな。それに、原理や扱い方を理解したところで、おれには小さな火を灯す程度で精一杯だった。それだけ難しい術だということだよ」
「そうなんだ…」
「まあ、そういった術を使わずとも、おれたちの言葉にも力は宿り、それが発揮されることも多い。別れを言うのを避けてるというのは、意識的にしろ、無意識的にしろ、そういう言葉の力を恐れているからかもしれないな」
「そうなのかな」
「さあな。おれはそいつじゃないから」
「そうだね」
ロセが何かを恐れる姿というのが想像出来ないな。
特に、言葉のように、実体があるわけでもないものを恐れる姿は。
…あいつは、何を恐れるんだろうか。
今後のためにも、是非とも知っておきたい。
「あっ、テスカトルさま。それに、セカムさんも」
「む、エスカ。その服はどうしたのだ?」
「リュナムクさま。これは、桜ちゃんが作ってくれたんですよ」
「ふむ…。桜?」
「そういうやつがいるんだよ。最近は、ちょっと引き籠ってばっかりだけど」
「あはは、そうだね。まあ、裁縫の講義には欠かさず出てるよ。寺子屋の」
「そうか」
「えへへ、セカムさん、見てください。可愛いと思いませんか?」
「可愛らしいとは思いますが、私なんかよりも、リュナムクさまに、もっとよくご覧になっていただいた方がよろしいのでは」
「えっ、あ、えっと…。すみません…」
「まったく、女心の分からんやつだな、お前は」
「申し訳ありません」
「いいか?綺麗に着飾ったのを、好きな男に一番先に見てもらいたいと思うのは当然だろう」
「では、リュナムクさまではないのですか?」
「バカか、お前は」
「……?」
「あ、あの、テスカトルさま…。私は別に、そういうのじゃないですから…」
「エスカ。そんなことを言っていては、いい男を射止めることは出来ないぞ。まあ、こいつがいい男かどうかは微妙なところだが」
「テ、テスカトルさま…」
「さあ、将来の誰かのためにも、まずはこいつで練習してみろ」
「れ、練習なんて、そんな…」
「テスカトル。エスカをあまりからかってやらないでくれないか」
「おれはいつでも真剣だ。だいたい、こんなところで躓いていては、嫁に行くことなど、未来永劫叶わんぞ」
「お、お嫁さんなんて…。私は…」
「何を言ってるんだ。せっかく、薄暗い洞窟から出て、対人恐怖症も克服しかけて、まさしくこれからだというのに」
「テスカトルさま。少し性急すぎるのではないでしょうか。エスカも戸惑っています。それに、私を相手に練習するならするで、私にも相応の準備が必要です」
「人生は全て一発勝負だ。やれ心の準備だの、大安吉日だのと言っていては、あらゆるものが、手の平から溢れ落ちていくぞ」
「今は勝負のときではないでしょう。準備出来ることはしておいた方が、一発勝負であっても、成功する確率が上がります。誰かと結婚するなどというのは、人生最大の勝負だとも言えます。事を急がず、じっくりと準備を進めた方がいいでしょう」
「だから、お前はバカだと言うのだ」
「……?理解が不能です」
「まったく…」
エスカは、顔を赤くしながらジッと俯いて、二人のやり取りを聞いていた。
まあ、セカムもセカムなのかもしれないけど、それ以上に、テスカトルもどうかと思う。
何をそんなに拘っているのかは知らないけど、今は確かに、セカムの言う通り、エスカにもいろいろと準備が必要なときなのかもしれない。
「エスカって、セカムのことが好きなんだ?」
「さあな。ただ、少なからず意識してるってのは、間違いなさそうだけどな」
「確かに」
「セカムを好いているのであれば、私としても安心出来るのだがな」
「えぇ、娘に彼氏が出来たとき、父親は複雑な気持ちになるって聞くけど」
「セカムならば、エスカを任せられる。そういう意味では安心出来るし、付き合うなら付き合う、結婚するなら結婚するで、それでいいと思っている」
「ふぅん。そんなものなのかな」
「そんなものなんだろうよ」
まあ、セカムとは立ち位置や年頃も似ているし、対人恐怖症克服への記念すべき第一歩として、リューナ以外で初めてまともに言葉を交わした男だからな。
好きとまではいかないにしても、意識してしまうのは無理もないのかもしれない。
「セカム。女心というのはだな…」
「エスカ。顔が赤いですよ。風邪でも引いたのですか?」
「い、いえ…」
「そうですか。しかし、万が一ということもあります。あとで、医務室に行きましょう」
「だ、大丈夫です…」
「セカム!聞いているのか?」
「聞いていません」
「お前の今後のためを思って言ってるんだ!もう一度、最初から説明してやるから、しっかり聞いておけよ!女心というのはだな…」
「ご無理はなさらないようにしてください」
「は、はい…。ありがとうございます…」
「セカム!」
「あぁ、すみません。テスカトルさまの話には興味がないもので」
なかなか肝が据わっているというか、我が道突き進むというか…。
こうなると、もはや、敬語を使っているのも皮肉に聞こえてくるな…。
でも、この二人はこれで上手くやってるんだから、なんとも不思議なかんじもする。