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「ここは空間が歪んでいるから、水平距離で言えば、見た目のだいたい半分しかない計算になる。だから、お前から少々離れても大丈夫なんだ」
「ふぅん…。まあ、さっさと独立してほしいものだな。この鱗にも慣れたけど」
「それは…どうなるか分からない…。まだ、充分には力が戻っていないのだ…」
「そうかよ」
そうなると、カイトが最初に言っていたことも気になるな。
エスカがいなくなった他にも原因があるとかいう。
…あれから何の報告も動きもないけど、何かやってるんだろうか。
私にはさっぱりだから、完全にカイト任せなのが情けないけど。
「紅葉さんは、もう本は見つけましたか?」
「ああ。でも、レオナと被ってて、代わりに渡してくれるらしいから、オレはそれでいい」
「そうなんですか。ちなみに、何の本だったんですか?」
「気象学の本だ」
「望ちゃん、お天気に興味があるんですか?」
「その質問は二回目だな」
「えっ?そ、そうでしたか?すみません…」
「いや、秋華に続いて二回目という意味だ」
「あっ、そうなのですか?」
「ああ。望が気象に興味があるかどうかは分からないけど、オレは面白いと思うからな。レオナは急な思い付きだとさ」
「そうなんですか。でも、確かに、お天気も面白そうですよね」
「お前は何を考えてたんだ?」
「私は、オススメの小説を持って行こうかと。リュナムクさまに、昔読んでいただいた本の原典版がありましたので」
「ふぅん。なんて本なんだ?」
「虫愛づる姫君です。あと、これには、私の好きな話がいろいろと集まっていて。恋路ゆかしき大将とか…」
「虫愛づる姫君って、堤中納言物語じゃないか…。古文は小説と言えるのか?だいたい、なんで、そんな古文の読み聞かせを…」
「何がエスカの興味を引くかは分からないだろう。何にでも興味を持つ子だったから、そういう古文にも興味を持つかと思ってな」
「読むのは難しいですけど、昔の人はこんなことを考えてたんだって思いを馳せてみると、すごく面白いですから」
「まあ、それはそうだな。でも、望に古語が読めるかな…」
「だから、これが選ばれたときには、昔、リュナムクさまに戴いた古語辞典も、望ちゃんにあげようと思ってたんです」
「文学の素晴らしさは、ひとつずつ受け継いでいくものだからな。それに、あのテスカトルが編纂した辞典だ。どの辞典よりも拘り抜いてある」
「…だろうな」
「まあ、テスカトルの古語辞典は人気があるらしいからな。初版本は貴重だぞ」
「改訂された最新版じゃないのか…」
「改訂しなくてもいいように、一言一句間違いのないように書いたらしい。それが本当かどうかは分からないが、間違いの指摘に対して、高額の賞金も掛けられてあるらしいからな」
「それで?」
「今まで一度も、支払われたことはないそうだ」
「ふぅん。おれが書いたんだ、そのくらい当たり前だろう…とか言いそうだけどな」
「言うだろうな」
「言葉は移り変わっていくものだと、前書きに書いてあって、辞典も各時代毎に何冊もあるんですよ。それぞれの作品が何時代のもので、どの辞典を使えばいいかを書いてある本も、それだけで分厚い一冊になってますし」
「へぇ…」
「あいつはとにかくマメだ。やるなら徹底的にやって、完璧に仕上げる。まあ、実際からは想像も付かないが」
「そうだな…」
「とにかく、私はこの本にします。紅葉さん、会計のところに行きましょう」
「ああ」
まあ、これに決まらなくても、買ってやってもいいかもしれないな。
面白い話だし、古文に興味を持ってくれるなら、それはそれで喜ばしいことだ。
「あ、あれ?もう会計です…。端っこの方だったのに…」
「客が迷わぬよう、術が施してあるのだな。会計に行きたい、出口に行きたい、という思いに反応して、道程が短くなるようになっている」
「そ、そうなのですか…。驚きました…」
「あっ、エスカだ。決まった?」
「ナナヤ。はい、決まりましたよ」
「そっかそっか」
「秋華ちゃんは、まだ来てませんか?」
「そうだねぇ。遅いね」
「迷っちゃったのでしょうか…」
「ちっこいからね、秋華は」
「そ、それは、関係あるのでしょうか…」
「…紅葉」
「分かってる」
「あ、どこに行くの?」
「ちょっと、秋華を探してくる」
「そっか。じゃあ、途中で秋華が来ちゃいけないし、私たちはここで待ってよっか」
「そうですね。それがいいと思います」
「ああ。行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
会計横の通路に入っていく。
そして、三つ目の本棚の陰に、何冊かの本を抱えて秋華が立っていた。
「あっ、師匠っ」
「どうしたんだ?」
「あの、えっと…」
「まあ、春本を抱えては、あいつらの前には行けないか」
「あっ…」
隠すように、真ん中に挟んであった本を取り出してみる。
刀剣の扱い方、か。
中を開いてみると、最初は普通の指南書らしい文章や図解が書いてあったが、中程から、秋華と同じくらいの可愛らしい女の子の絵が描かれていた。
そして、最後の方は、また指南書に戻っている。
割と分厚い本の、だいたい六割ほどが、春本要素だろうか。
なんとも斬新な刀剣の扱い方だな。
…秋華を見ると、火が出てるのかと思うくらい、顔を真っ赤にしていた。
「ふむ、上手く偽装してあるのだな。外見からは、それとは全く分からない」
「あ、あの…」
「まあ、これはオレがあとで会計しておこう。自分の本はどれだ?」
「あの、これです…」
秋華が差し出してきた本は、北の拳法の指南書と、生き残り術について書いてある本だった。
中身は至極真っ当で、パラパラと見た限りでは、こちらは春本ではないようだ。
…しかし、生き残り術なんて、野生生活でも始めるんだろうか。
まあ、こういうのは、知っておいて損はないけど。
「分かった。じゃあ、これは任せろ。お前はそれを持っていけ」
「は、はい、ありがとうございます…」
「オレは、ついでにもう少し見て回ってると言え。自分の欲しい本も、渡しておいたと。ナナヤが冷やかしても無視しろ」
「はい、分かりました…」
「三人で、ゆっくり決めてこい」
「は、はいっ」
丁寧にお辞儀をして、秋華は会計の方へ走っていった。
秋華が選んだのは、水墨画の書き方の本だったようだ。
…ナナヤは宇宙の本だったから、全く別々の三つが集まることになるな。
どれも、三人が望のことを想いながら選んだんだから、三つとも買ってもいいんだけど。
まあ、それはまたあとで提案してみよう。
「どこに行くのだ?」
「さっき、秋華にいいと思った本を見つけてな」
「何だ?まさか、春本ではないだろうな」
「さあな」
「春本が増えていたら、秋華も驚くぞ…」
「まあ、そのときは、望にでも渡すように言うよ」
「まったく…」
何にでも興味を持つというのは大切なことだ。
余計なお世話かもしれないが、春本を買う機会なんて、そうそうないからな。
…しかし、この刀剣の扱い方は、可愛らしい女の子ばかりが描いてあるけど、まさか、秋華も女が好きなんだろうか。
まあ、千秋は自分を男だと思っているから微妙なところだけど、姉妹だからな。
なんとも言えないところが怖いというか、なんというか。
でも、それはそれで秋華の個性だからな。
百合でもなんでも、秋華は秋華だ。
「しかし、それは本当に春本なのか?」
「ああ。それは、オレも思った」
これには春本らしい濃厚なやらしさはなく、どちらかと言えば綺麗な裸体だ。
もちろん、春本だから実用的な要素を含んでいるが、それでも、飽くまで少女の可憐さや美しさを損なわないように描かれている。
純粋に少女の裸体画集として売れると思えるくらいだった。
これを選ぶあたりが、秋華らしいな。
…私も、さっき見に行ったとき、趣旨はもちろん違うが、同じく綺麗だと思える春本があったから、それを買ってやろうと思う。
気に入ってくれるといいんだけど。