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「セカムさん、ここが分からないのですが…」
「知りたい未知数を何かの文字に置いて、式を立てていって計算してください。ひとつの未知数につき、ひとつの式が立てられれば、その未知数を求めることが出来ます」
「あっ、そうなんですか。うーん、連立方程式って難しいんですね…」
「連立方程式は、算数から数学へ踏み込む第一歩です。諦めずに頑張りましょう」
「は、はいっ」
「ちょっと、エスカ。そっちは数学の講義やろ。分からんことあったら、うちに聞きぃな」
「あっ、す、すみません…。セカムさんの方が近くにいらっしゃったので、つい…」
「もう…。もっとあっち行け、セカム!」
「承知いたしました」
「なんだ、嫉妬か?」
「ちゃうし!」
「ほら、狼が出てるぞ、レオナ」
「知らんし!」
そう言いながらも、獣化した部分をちゃんと戻して、手を挙げてる子供のところへ急ぐ。
というか、凛だな、あれは。
本当に理解出来てるんだろうか。
怪しいものだけど。
…まあ、自分で言い出したこととはいえ、エスカが他の誰かと仲良くしてるのには、ちょっと抵抗があるというか、やっぱり嫉妬してるんじゃないだろうか。
「分数の分母を大きくしていくと、分数の値自体はどんどんと小さくなっていく。零へ近付いていく。分母を零を下回らない値の中で小さくしていくと、分数の値自体はどんどんと大きくなっていく。これを、座標軸平面に書き起こすとこうなる」
そう言いながら、銀次は黒板に反比例の図を描いていく。
縦の軸の零と、横の軸の零に、それぞれ近付いていくんだけど、どこまで行ってもくっついたり交わったりしない。
なんとも不思議な図だ。
「これは、どちらも軸にはくっつかないが、無限という場所ではどちらも零だ。でも、どこに無限があるのかは分からない。有限の値をいくら大きくしても、有限でしかない」
「では、どうして無限などというものの存在を、数学者たちは把握出来るのでしょうか」
「どこにあるのかは分からないけど、確かに存在しているものというのは、たくさんある。負の数の平方根だとか、今の無限だとか。存在しているからこそ認知が出来、俺たちにも使うことが出来る。まあ、空気みたいなものなんだろうな。触れも掴みも出来ないけど、ここにあるから、俺たちは呼吸が出来る」
「しかし、ないならないなりに、空気を必要としない細菌等も発見されています」
「んー…。それは分からないけど…」
「お前、ツッコミが厳しすぎるんだよ」
「しかし、紅葉さま。気になるものは気になります」
「はぁ…。まったく…」
「ごめんな。そういうところは、俺の専門じゃないんだ…。俺の師匠なら、上手いこと言ってくれると思うんだけど…」
「いえ。講義の邪魔をして申し訳ありませんでした」
「うーん…。紅葉、何かないかな?」
「なんでオレなんだよ…」
「な、頼むよ。なんか気持ち悪くて、講義に集中出来そうにないから」
「まったく…。オレだって、そんなにいい考えがあるわけじゃないんだけどな…」
目立たないように端っこに座ったつもりだったのに、今は数学の講義を受けに来た全員に注目されてしまっている。
仕方ない…。
何を話そうかな…。
「…観測されたから、それはそこに存在するという論がある」
「どういうことでしょうか」
「何者かによって、空気がここにあると観測されたから、ここに空気がある。誰かが必要としたから、ここに空気があるんだ。その誰かは、オレたち自身だな」
「ふむ」
「探し物をしているとき、いくら探しても見つからないとなって諦めかけた瞬間に、実は机の上に置いてあったというようなことがあるだろ」
「あぁ、確かに。そんなことあるな」
「私は、同じ場所に置いておくことにしています」
「ふとした瞬間に見つけたり、いつも同じ場所に置いてあるというのは、そこにそれがあってほしいという願いが、観測の力となって、そこにそれを存在させてるということだ。空気も、オレたちが、オレたちの周りにあってほしいと願うから、ここにある」
「…つまり、なんだ?」
「ここに存在しているから認識出来るのではなく、認識しているからここに存在しているということでしょうか」
「そうだな」
「うーん…。逆の理論か?」
「観測論だ。いや、オレがそう呼んでるだけなんだけど。無限大も虚数も、数学が必要としたから、そこに存在し始めた。世界が求め続ける限り、存在しないものはないということだ」
「なんか壮大だな」
「この世界の全ては、必要とされるから存在している…。昔読んだ本に、世界が次第に消えていくという本を読むというものがありました」
「本を読む…本?」
「はい。その消えゆく世界は、確かに端の方から消えていってるんだけども、その消えている場所を見ようとしても上手く見ることが出来ない。それこそ、空気を目で見ることが出来ないように。…今の紅葉さまの話を聞いて、なるほど、あれが観測の力の消失だったのかと納得が出来ました。観測の力が失われた世界は、存在を失うということ。あるいは、観測の力自身も、存在の一部なのではないか。失われた世界は、どこまでも透明であるという、その観測を最期に消えてしまいます。その中で、主人公はプカプカと浮いていて、そして、本の後ろに残された白紙の部分で、再び世界を観測し始めます。世界は形を取り戻し、色を取り戻し、また動き始めました。そこで、数枚の余白を残し、物語は終わります」
「なんだか難しそうな話だな…」
「上下二段で、現実と本の世界が文字の色分けで表現されていて面白かったですよ。また是非、お読みになってみてください」
「なんて名前なんだ?」
「果てしない物語、です」
「そっか」
「紅葉さま、ありがとうございました。長年の謎が、ここに来て解かれようとは」
「そんな大層なことをしたつもりはないけどな…」
「偉業とは、そういうものです」
いや、偉業はさすがに言い過ぎだと思う。
まあ、素直に高評価を得られたことを喜ぶか。
…それから、銀次に講義を続けるように合図を送ると、思い出したように頷いて。
本当に、無限大やら何やらというのは、私たちには理解し難いものだな。