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「あ、えじちょーさん」
「待たせたな」
「セカムの手解きはどうだった、リカル。なかなか達筆だっただろう」
「あ、テスカトルもいる」
「おれはついでか…」
「テスカトルさま。私は、誰かに何かを教えられる立場にはありません」
「お習字の先生は、セカムの字を真似するのは、ちゃんと綺麗に字が書けるようになってからって言ってたよ」
「なるほど。あの師範にそう言わせるとなると、確かに達筆のようだな」
「恐縮でございます」
「こいつの書く字は、いちいち書き直しが必要なくらいだからな。本を書くときもそうだから、よく編集に文句を言われる」
「…申し訳ありません」
人間の姿からもとの狼の姿に戻ったセカムは、さらに目付きが悪くなり、大和ほどではないけど、普通の狼と比べても、一回りか二回りほど大きい。
ただ、毛並みは、テスカトルに劣らないくらい、丁寧に手入れしてあるようだった。
…従者として当然だとか言いそうだけど。
「ねぇ、えじちょーさん。お姉ちゃん、来るの?」
「…そうだったな。その話だった」
「帰ってきてるの?」
「それは、お前自身の目で確かめることだ」
「どこにいるの?」
「じきに来る。心の準備でもして待っていてやってくれ」
「ん…」
テスカのことを告げると、リカルには明らかに落ち着きがなくなって。
ジッと座ってはいるが、周りを見回したり、手を握ったり開いたりしている。
…実は、屋根縁からこっそりとテスカが覗いているんだけど、気付いていないようだ。
テスカも、心の準備をしているんだろうか。
テスカが帰ってきてると言ってしまった以上…それに、さっき捕まえたとき、リカルに会うと宣言した以上、会わないわけにはいかない。
セカムがのっそりと歩いていって、屋根縁のテスカが見えないように、リカルの横に座る。
時間稼ぎ、といったところだろうか。
チラリとテスカの方を見て、小さく頷いていた。
「セカム…。お姉ちゃん、来るのかな…」
「大丈夫ですよ、リカル。テスカさまは、常に貴女の傍にいらっしゃったはずですから」
「うーん…。どうしよう…」
「すぐにいらっしゃいます。待っていてあげてください」
「うん…」
「…すっかり仲良しじゃないか」
「ああ。妬ましいな」
「お前な…」
「ははは、冗談だ。しかし、エスカに術を覚え込ませるとは考えたな、リューナ。分析もそうだが、おれの感知と反撃を跳ね除け、探知で人探しまでするとはな」
「エスカには、私も目を見張るような才能があったのだ。それに、妖術を学びたいと、私は何も言ってないのに、そう頼んできたのでな」
「ふぅん。おれも、セカムに何かやらせてみようか」
「お前が教えなくとも、あいつは自分で学び、実践しているだろう」
「何っ!聞いてないし、見てないぞ、おれは!」
「見てないって、昼だって周囲と音を隔離してたじゃないか」
「あれは、おれが教えた術だ。あいつが執筆に集中出来るようにな」
「ふぅん…」
「他にもいろいろと覚えてるようだぞ」
「離音が、おれの教えた最初で最後の術なのに…。洗いざらい吐かせてやる」
「ずっと一緒にいてて気付かなかった方が、オレには不思議だけどな」
「うっ…。それを言われるとだな…」
と、そんな会話をしているうちに、テスカの心は決まったらしい。
音もなく部屋に入ってきて、セカムの陰に隠れながら、リカルに近付いていく。
…いや、本当に陰に隠れているのか、たまたまそうなったのかは分からないけど。
「リカル」
「……!」
「ただいま」
「お姉ちゃん!」
「ごめんな、待たせてしまって」
「お姉ちゃん、お帰りなさい…!」
「…うん」
会う瞬間は、意外に呆気ないものだった。
まあ、それはそんなものなのかもしれない。
大切なのは、それまでと、それからなんだろう。
…セカムが戻ってきたところで、私たちは退場することにする。
姉妹二人の時間だ。
部屋の外で待機してたツカサと翡翠も引っ張っていって、夕飯を食べに広間へ向かう。
部屋に戻ると、クアが隅の方に座っていて。
私を見ると、何か不機嫌そうな顔をする。
…ツカサと翡翠はまだ戻ってないのか。
「…ワゥ」
「そうか。帰ったか」
「………」
「ふむ。ははは、そのガラの悪い目付き、セカムにそっくりだな」
「………」
「セルタはどうしたんだ」
「…ワゥ」
「そうか」
「あっ、狼だ」
「ホントだ。クアだ」
「………」
「なんだ、お前ら。オレたちより先に出たのに」
「テスカとリカルを送ってきたんだよ。夜道は危ないし」
「ふぅん…。テスカがいれば、問題はないと思うけどな…」
「そうかな」
「まあ、なんでもいい。早く布団を敷かないと、みんな戻ってくるぞ」
「あ、そうだね」
「まあ、姉さんたちは屋根縁にでもいてよ」
「そうさせてもらおうか」
クアとテスカトルを連れて、屋根縁に出る。
リューナはたぶん、勝手についてきてるだろう。
…屋根縁には心地いい風が吹いていて、風呂で火照った身体を冷やすにはちょうどよかった。
「…ところで、伝承になるってのは、どんな気分なんだ?」
「ん?おれたちの話をしてるのか?」
「他に、伝承になってるようなやつはいないと思うけど。まあ、翡翠は置いといて…」
「私にとっては、あんまり気分のいいものではないな。私はやりたいことをやっていただけだし、話を盛られていることも多いからな」
「おれは気にしない。そういう伝承っていうのは、おれたちの伝記じゃなくて、おれたちのやったことをもととした作り話だからな。そんなものに一喜一憂したところで仕方ない」
「僕は、二人の伝承は好きですよ」
「翡翠。まずはこっちだろ」
「憧れのリュナムクさんとテスカトルさんが二人とも揃ってるのに、やっぱり布団を敷いてる場合なんかじゃないよ」
「いや、知らないし…。みんなが帰ってきたときに、寝る準備が出来てなかったら困るだろ」
「大丈夫大丈夫」
「それくらいやってこいよ、お前…」
「えぇ…。せっかくの機会なのに…」
「リュナムクは紅葉から離れられないし、おれだって逃げも隠れもしない。やるべきことがあるなら、先にやってこい」
「うぅ…。テスカトルさんがそう言うなら…」
「ははは、若いな。おれも若いが」
「ふん。何年生きているんだ、お前は。翡翠の年齢に十を掛けても、遥かに足りないだろう」
「肝要なのは、実際の年齢や、見た目や身体の衰えではなく、心の若さだ。まあ、おれは、見た目も身体も全く衰えていないがな」
「はぁ…。そういうことにしておこう…」
「ふふふ」
「とにかく、お前は布団を敷いてくるといい。またあとで、ゆっくりと語らおう」
「そうだな、二代目降龍川よ」
「は、はいっ!…あれ?僕のこと、知ってるんですか?」
「お前とは初対面だ。まあ、それもまた話そう」
「……?」
翡翠は二代目か。
それなら、前に聞いた話とも一致するな。
初代がどんなやつだったのかは、私も興味がある。
翡翠が、どういう経緯で二代目になったのかも。
…でも、とりあえず、それはあとだ。
名残惜しそうに、布団を敷きに戻る翡翠を見送って。
しばらく、クアと一緒に、ぼんやりと月でも眺めることにする。