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三日も経っていたからか、噂が充分に広まっていて、ある程度は好奇の目で見られたが、反応自体はかなり薄いものだった。
まあ、取り越し苦労だったのかもしれない。
それでも、興味津々の桜や桐華に質問攻めにされたりしたが、それは予想の範囲内だ。
それに、澪がいつになく上機嫌だったのは、私としても嬉しい。
「…えっ、そうなのですか?」
「うん…。実は、そうなんだけど…」
「そうだったのですか。でも、嬉しいですっ。エスカさんとは、気が合うみたいですねっ」
「そうだね」
「それで、エスカさんは、どのお話が好きなのですか?私は、雨月と会ってから初めて雨の降らなかった日、藤也が雨月をずっと待ってる話が好きなんですが」
「あ、いいね。あの話は、私も好きだよ。最後の、今日は雨が降っていた…っていうのが、なんか心に来るようなかんじがして」
「はい。なんだか不思議なんですよね。いつもは憎まれ口を叩いたり、喧嘩したりすることもあるのに、晴れの日だけは、藤也も素直になれるっていうのが」
「それ、降雨霊人日誌の話でしょ?」
「あ、翡翠さんもご存知でしたか」
「まあね」
「降雨霊人日誌って、そういえば、翡翠が休み時間に読んでてさ、俺にも薦めてくるんだけど。そんなに面白い本なの?」
「読まないなんて勿体ないですよっ。是非とも読んでくださいっ」
「えぇ…。そんなに面白いんだ…」
「そうだよ。ツカサはなんで読まないんだよ」
「だって、恋愛小説だろ?あんまり、そういうのは苦手でさ…」
「そんなこと言って、鷹光団しか読んでないじゃん。鷹光団も面白いけど、世界は幅広く知っておかないと」
「そう言われるとあれだけどさ…。でも、ナナヤとかに見つかったら、なんて言われるか…」
「人の目なんて気にしちゃダメですよっ」
「そうだよ。春本以外ならさ」
「春本って、お前な…」
「あはは。まあ、今度読んでみなって。前に、ナナヤにも見られたことあるけど、その話で盛り上がったし」
「えっ、ナナヤさんも読んでらっしゃるのですかっ?」
「らしいよ。人気なんだねー」
「そうなのですかぁ。では、今度、みなさんで話しましょうよ。鷹光団も合わせてっ!ねっ、エスカさんっ」
「えっ、う、うん…。そうだね…」
「…まだ、翡翠たちが話に入ってくると、緊張するみたいだな」
「だが、昨日よりも、幾分マシになっているようだ」
「そうなのか?」
「ああ」
まあ、リューナがそう言うのなら、そうなのかもしれない。
共通の話題を見つけられて、少し心を開けたんだろうか。
確かに、切っ掛けとしては優秀だろうしな。
…しかし、部屋に入ろうとしたら、エスカと秋華が降雨霊人日誌の話を始めたからって、いつまでこんな盗み聞きをしていないといけないんだろうか。
リューナも知っているということを明かして、好きなときに読んだり話したり出来るようにしてやるのがいいと思うんだけど…。
とりあえず、話に一段落ついたみたいだから、部屋に入っていく。
「あっ、師匠っ!お帰りなさいっ!」
「ただいま。何の話をしてたんだ?」
「はい。エスカさんも、降雨霊人日誌が好きだということで、その話を…あっ!」
「あ、秋華ちゃん…」
「す、すみません…。う、嬉しくて、つい…」
「あはは、早速かぁ。口が軽いんだね、秋華は」
「わ、笑い事じゃありませんよ、翡翠さんっ」
「いいじゃん。好きな本くらい、好きに読めばいいんだよ。さっきも秋華が言ってたけどさ」
「そうだな。それに、エスカ。お前がリューナに隠れて何か読んでるというのは、もうリューナには知れていたことだ」
「そ、そうなのですか…?」
「すまないな、エスカ…。隠れて覗くような真似をして…」
「い、いえ…。もとはと言えば、エスカがリュナムクさまに隠し事をしようというのが、そもそもの間違いだったのです…」
「従者だからといって、私を捨てることはないのだよ、エスカ」
「隠し事なんて、誰にだってあることだもんね」
「そうそう。ツカサの場合、あんなこととか、こんなこととか」
「俺の秘密を漏らしたら、翡翠の秘密も暴露してやるからな」
「僕は、知られて恥ずかしい秘密なんてないから」
「ふぅん。じゃあ、この前、夜中に裏の森に行って何をしてたか、ここで言おうか」
「えっ、み、見てたのかよ!」
「知られて恥ずかしい秘密なんてないんだろ?」
「ある!あるから!」
「まったく、お前らは…。今はエスカの話をしてるんだろ」
「そういえば…」
「そ、そうだそうだ」
「お前も囃し立てるな」
「うっ…」
でも、翡翠が夜中の森に紛れてしていた恥ずかしいことっていうのは気になる。
ツカサが、なんでそんなのを目撃出来たのかも気になるけど。
…まあ、知られたくない秘密なんだったら、深く詮索しないでおこう。
「それは置いといてだ、エスカ。翡翠の言う通りだ。好きな本くらい、好きなときに読めばいいのだぞ。私に気兼ねすることなどない」
「し、しかし…」
「…人間らしい恋を求めるのは、何も悪いことではない。お前は、私の従者である前に、一人の女の子なのだからな」
「………」
「すまないと思っている。私の勝手で、お前に力を分け与え、人間としての人生を奪い…」
「い、いえ、リュナムクさま!エスカは、リュナムクさまの従者として、こうしてここにいられることを、とても幸せに思います。降雨霊人日誌のような恋をしたいと思ったことがあるのは事実ですが…私は、今のこの生に満足しております」
「エスカ…」
「でもさ、勿体ないよね。俺は、リュナムクの声はぼんやりとしか聞こえないから、正確なことは分からないけどさ」
「そうそう。リュナムクさんの従者として生きるか、普通の女の子として生きるか、どっちかしか選べないってわけじゃないんだし」
「えっ…?」
「リュナムクにとっては複雑かもしれないけど、エスカが外に出て誰かを好きになったって、それはそれでいいんだと思うよ」
「し、しかし、それは…」
「エスカ。お前がそれを望むのであれば、私はお前の望みを叶えてやろうと思っていたのだ。あの住処からここまでの旅を通して、そして、ここでの生活を通して。…暗い洞窟から出て、のびのびと暮らしてみようとは思わないか。私には、お前は、洞窟の暗がりよりも、陽光の下が似合うように思えるのだ」
「あの、リュナムクさま…。その…」
「答えを出し難いことだとは思う。それに、お前はまだ病み上がりだ。今は治療に専念しなさい。いい機会だと思って言っただけのことだから、今すぐにとは言わない。ゆっくりでいいから、考えてみてくれないか」
「はい…」
少しズルいとも思った。
リューナに言われて、エスカは考えないわけにはいかないから。
それまで続けてきた生活に戻るのか、その生活を捨てて新しい生活を始めるのか。
エスカは、それを選択しなければならなくなった。
「まあ、難しい話なんて、また今度考えればいいんだよ」
「そうだね。もうそろそろナナヤも帰ってくる頃だし、降雨霊人日誌の話に戻ろうよ」
「そ、そうですねっ。それがいいと思いますっ。ねっ、エスカさんっ」
「う、うん…」
「もうリュナムクに知れちゃったわけだし」
「好きなときに話せるよね」
「うっ…。私のせいですね…」
「ううん。秋華ちゃんのお陰、だよ」
「エ、エスカさん…」
まったく、ツカサと翡翠の二人は、重い流れを断ち切る達人だと思う。
エスカはまだ少し暗い表情をしていたけど、幾分かは気が紛れたようだった。
…まあ、リューナの言う通り、ゆっくりと考えて。
考えないといけないことは、いろいろと多いだろうけど、エスカは、エスカ自身が納得出来るような答えを出せばいいから。